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天使の箱庭

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シーン1 

 
前書き
高速バスが異常なほど側壁に近づいた。
運転手はうとうとっとしかけ、慌てて急ブレーキをかける。
寝静まっていた座席がにかわに騒ぎだす。
連続する衝突音。側壁に何度も擦るバス。
「きゃーー!!」あちこちから悲鳴があがる。
運転手が必死にハンドルを切るが、バスは完全にコントロールを失い、
もはやどうすることもできない。
バスの先頭が壁に鋭角に突っ込んだ次の瞬間、バスは壁にはまり、
前輪は足場を失ったが、そのまましばらくバランスを保っていたかに見えた。
が、やがて天秤が振り切れたように、そのまま下へとゆっくり転落し始めた。
何度も回転を繰り返し、乗客を乗せたまま、長い車体が暗い谷間へ吸い込まれて行った。
       
午後七時台のバラエティ番組が盛り上がりを見せる中、ニュース速報のテロップが流れる。

『午後7時30分頃、東名高速道路下り線、清水ジャンクション付近で、高速バスが転落し、
 多数の負傷者が出ている模様。』

テロップは二度流れたが、画面では相変わらず芸人たちがバカ騒ぎをして、
会場をどっと沸かせていた。 
 

 
急ぎ足で歩きながら紙コップを口にくわえ、島田春香がコートの袖に腕を通す。
後方からコート姿の中年の男が追いつき、並んで歩く。

 男「島田、リフレッシュ休暇はどうだった。」

春香「あら、おはようございます。」

春香はカップを手で持ち直し、笑顔で挨拶する。

春香「お蔭様でゆっくりできました。」

 男「姉さんには会えたのか。」

春香「はい。でも顔をあわせれば恋人はできたのかって、もううるさくて。
   見合い写真まで用意して待ち構えてるんですよ。いやんなっちゃう。」

 男「なんだ島田、お前、好きな男もいないのか?」

春香「仕事が恋人ですから… なんちゃって。焦って結婚して後悔するのもイヤ        
   ですし、それに、やっと仕事が面白くなってきたところなんです。
   そう簡単にキャリアは捨てられませんよ。」

 男「結婚したって、仕事を続けるって選択もあるんじゃないのか。
   フリーライターになるとか。」

春香「ずいぶん簡単そうに言ってくれますねぇ。」

二人は四角いモニュメントを右に曲がり、高層ビルの敷地に入った。
春香はカラになった紙コップをくしゃっとすると、ゴミかごへぽいっと投げ入れた。

 男「お前ほどの文章力とガッツがあればやってけるさ。」

春香「そうでしょうか。」

 男「本気で考えてみたらどうだ。」

春香「でも、私には相当ハードルが高そうで…。」

男「お前は人の力を借りたがらないからなぁ。
  しかし、仕事で築いた人脈は、お前の立派な財産じゃないか。
  それを利用しないでどうする。その気なら俺だって応援してやるぞ。               それより、お前、仕事以外に何か楽しみはないのか。趣味とか…。」

自動ドアをくぐり、広いロビーに入ると、話し声にエコーがかかる。

春香「趣味ですかぁ。まぁ、家に籠って録りだめたドラマ見るくらいでしょうかねぇ。」

 男「それじゃあ、だめだ。もっと、仲間と出会える場所を作らんとなぁ。          
   よく言うだろ。人生楽しむには3つの居場所を作れって。」 

春香「3つの居場所って?」

 男「仕事と家庭と道楽さ。この3つにバランスよくエネルギーを分散すると、        
   精神的にも安定して、人生に充実感を得られるというんだな。」

春香「仕事以外でくたびれたくないんですけどぉ…。」

二人はエレベーター前にできた行列の最後尾に並んぶ。

 男「思い切って外に出るんだ。仲間のできる道楽を見つけりゃ、
   自然と価値観の近い異性にも出会えるしな。一挙両得、うまくすりゃ、
   3つの居場所がいっぺんに揃うじゃないか。」                          
春香「そうですけど。私と同年代の独身男がわ~んさか集まるような、ミラクルサークルって
   ありますかねぇ?」

エレベーターのドアがあくと、行列がぞろぞろと飲み込まれていく。

 男「ふふ。お前、自分の30年後を真剣に考えてみたことあるか。」

春香「30年後ねぇ…。それを考えるとちょっと怖いですけど。
   黒づくめのくたびれたおばちゃんが目の前に立ってたりしたら…。」

ふと隣の中年女性と目が合う。見ると、自分そっくりな黒ずくめの格好をしているではないか。
春香、思わず悲鳴を上げそうになって俯いた。
女性は春香と話していた男に意味深に笑いかけ、ドアがあくと軽く会釈して降りていった。

「こっちに来てたのか…。」とつぶやく男。

春香「お知り合いですか?」

 男「うん? うん、まあな。」

春香「ひょっとして昔の恋人とか?」

 男「ふん、そんなんじゃないよ。」  

春香「ええ? 怪しいなぁ…。」

 男「そんなことより、お前にぴったりの恋人を紹介してやろう。」

春香「やっと仕事の話ですか。」

二人は次の階で降りると、長い廊下をコツコツと並んで歩き出す。

 男「ほら、この間の高速バス転落事故。」

春香「ああ、あの事故…。ちょうど私が休暇から戻ってくる日でした。
   酷い事故でしたね。犠牲者も多くて。」

 男「事故原因についてはおいおいわかってくるだろうが、乗客の精神的な          
   ダメージも気になるところだ。                           
   お前、以前PTSDの記事を書いてたよな。」

春香「ええ。震災後の心的外傷ストレス障害について、数年間取材したことがあります。
   心理療法のセミナーに参加してPTSDの治療についても詳しく勉強しました。」

 男「今回もその角度からこの事故を追ってみちゃどうかと思ってな。」

春香が立ち止まり、男と向き合う。

春香「ええ、是非やらせてください。でも、事故からまだ間もないですし、
   乗客への取材はまだ難しいのでは…。」

 男「乗客は今グループセラピーを受けているそうだ。
   病院の知り合いにアポはとってあるんだ。とりあえず行ってみてくれないか?」

春香「わかりました。」

得意分野とあって、春香はやる気満々にそう答え、颯爽と歩き出した。         
 
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