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12部分:第十二章
第十二章
「だから今みたいな流れだと本人が意識しなくても」
「打たれる」
「それで完全に終わりなんだよ、ホームランは怖い」
だから王は恐れられるのだ。そのホームランの威力で。この年ベーブ=ルースの記録を抜いていた。それだけのホームランを打ってきているのは伊達ではないのだ。
「けれど足立は」
「どっちかっていうと逃げ球かな」
「少なくとも山田よりはずっとな」
これもいい方向に働いていたのだ。
「打たれないな」
「一発のホームランでもうそれで終わりだからね」
「今はな。足立だけだからな」
「足立だけ。阪急はやっぱり辛いんだ」
「それでもだ」
本田はまた言ってみせる。
「今はそれでも試合が進むにつれわからなくなるぞ」
「試合がだね」
「ああ。足立の好投はそれだけに留まらない」
「他のナインにも」
「絶対にな。伝わる」
一人投げ続ける足立だけを見ての言葉ではなかった。彼は今グラウンド全体を見ていた。阪急ナインも。見ればそれまで完全に負けていた彼等の顔が少しずつ変わろうとしていた。彼はそれを見て頷くのだった。
「よし、もうすぐだ」
「もうすぐ?」
「ああ、もうすぐだ」
また小坂に対して告げた。
「もうすぐだ、それは」
「誰かの顔が変わったんだね」
「全員の顔が変わった」
彼ははっきりと言った。
「これで。試合が動くぞ」
こう言ったその時だった。阪急の攻撃だった。バッターボックスに立つのは森本潔。阪急の中では目立たない選手だ。その彼がバッターボックスに立っていた。
マウンドにいるのは巨人の助っ人ライト。短気なことでも知られているが実力は確かな男だ。この日彼も何とか踏ん張って投げ続けていた。
「ライト踏ん張れ!」
「打たれるなよ!」
観客席から多くのファン達が叫ぶ。彼等は足立の好投に苛立ちを感じその分だけ彼にすがっていたのだ。彼の決め球であるスクリューが今の巨人のカードだった。
しかしそのカードがなくなった。森本のバットが一閃しそれによりボールは高々と舞い上がった。そうして。遂に試合の均衡が決したのだった。
「馬鹿な・・・・・・」
「ここで・・・・・・」
「やったぞ!」
グラウンドの殆どを占める巨人ファン達が絶望し僅かにいるだけの阪急ファン達が歓喜に沸き返る。その中にいるのは本田もだった。
「打った、森本が売ったぞ!」
「また意外な人が打ったね」
「ああ」
小坂のその言葉に満面の笑顔で頷く。
「これも足立の好投のおかげだ」
「皆に伝わったからだね」
「ああ」
また小坂の言葉に頷いてみせる。
「誰かが打つとは思っていたけれどな」
「そして打った」
「この一撃は大きい」
本田はそれを確信していた。
「阪急にとってな」
「凄い出迎えだね」
見ればベースに阪急の選手達が総出でいた。その彼等が集まって森本を待っていたのだ。
森本のホームインを並んで出迎える。森本がホームを踏んだその時ナインとファンの声が後楽園を包んだ。
「これで勝てる!」
「優勝だ!」
「そうだ!日本一だ!」
やはり本田も叫んでいた。
「これで決まる。後は足立が投げきるだけだ」
「足立がだね」
「そうだ。もうすぐだ」
期待に震える顔になっている。その顔での言葉だった。
「阪急の日本一だ。もうすぐ」
「優勝するんだね」
「ああ」
グラウンドから目を離さない。離せなくなっている。
「試合も終盤だしな」
「ああ、そういえばそうだね」
本田の言葉にふと気付いてスコアボードを見ると。もう七回だった。試合はもうすぐ終わりになとうとしていたのだ。
「これで。終わりだよ」
「遂にだね」
「長かったな。いや」
本田はすぐに自分の言葉を訂正した。
「短かったな。あっという間だった」
「この一年が?」
「いや、一年じゃない」
こうも言う。
「一年どころじゃない。昭和四十二年からだから」
「十年だね」
「そうか、十年になるのか」
これまでのことを振り返り感慨に耽る。
「あの時から。いや、それも違うか」
「それでも違うの?」
「あの時からだよ。ほら」
もう完全に懐かしむ顔になっていた。何時になく優しい。
「長嶋が活躍していて杉浦がシリーズで四連投四連勝して」
「もう凄い昔に思えるけれど」
「ああ。十八年だ」
一口に十八年と言っても。かなりの歳月だった。そのかなりの歳月の間二人は見続けていたのだ。今本田はそのことも思っていたのだ。
「長かったよな」
「十八年間ずっと野球を見ていたよね」
「女房いるだろ」
「うん」
不意に本田は自分の妻のことを話に出してきた。
「あいつな」
「奥さんがどうかしたの?」
「御前も言われなかったか?野球ばかりだって」
「言われたよ」
見れば本田の顔も綻んでいた。
「野球ばかり考えてるってね」
「そんなつもりないんだがな」
「それでも言われるよね」
「ああ。けれどそうかもな」
今はそれも肯定するのだった。あの激しさを消して。
「確かに俺は野球だらけだよ」
「それは僕も同じだよ」
声が温かいものになっている。秋も深いというのにその声はまるで春の様に温かいものになっていた。
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