鎮守府の床屋
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前編
4.初戦
今日俺は、床屋としての一大決戦に挑む。
「ハサミ、よーし……カミソリ、よーし……コーム、よーし……」
自分のワゴンに並べられた商売道具のコンディションを点検する。昨夜の内に一本一本、俺は入念に道具の手入れをしておいた。おかげでコンディションは万全。今のおれのハサミならどのような髪でも思う様にカットできるし、今の俺のカミソリなら、たとえそれが中空から漂ってきた産毛であっても、またたく間に真っ二つに切断出来るほどの切れ味を誇る。コームを通せば、いかなる寝ぐせをもたちどころに整えることが出来、ブラシを使えばどのような毛の流れでも瞬時に揃えることが出来るであろう。
「ブラシ、よーし……鏡……よーし……いやダメだ。ここに落書きが残っている」
散髪台の鏡の汚れを確認し、その右隅に落書きが残っているのを見つけ、俺はその落書きをキレイに拭きとるべく、ワゴンから布巾を取る。これはあれだ。昨日の閉店間際にあの妖怪アホ毛女が……
――ここに球磨がアーティスティックなイラストを描いてやるクマ
とか言いながら自身の息で鏡をハァーっと曇らせて、人差し指で描いてた落書きの痕だ。これが何のイラストなのかさっぱりわからないが、人の顔からアホ毛が伸びてるその様子から、自画像のつもりなのかもしれない。
「よくわかったねぇハル。私には毛が生えたりんごにしか見えなかったよ?」
「確かにそう見えなくもないけどな……でもあのアホ毛ならやりかねん」
「ふーん……ま、どっちでもいいけどね〜……」
待ってるお客さん用のソファに寝転がり、同じく待ってるお客さんの暇つぶし用に置いてある少年漫画を読みながら、北上が恐ろしく興味なさげな言い方でそう答えていた。言っとくけどお前、営業妨害みたいなもんだからな? そのマンガはお客さんのために置いてあるんだからな?
「ぇえ〜いいじゃん別に〜」
「良くないに決まってるだろうがぁ!!」
「じゃあお客さんになるからさー。私がこれ読み終わった頃にシャンプーしてよ」
「今すぐやってやるからすぐ帰れ」
「最後まで読み終わるまで待ってよー」
「お前が読んでるの『う○○と○ら』のまだ3巻じゃねーか! 30巻分も待ってられるか!!」
まさか待ってる間の暇つぶしのマンガを読むための客が出来るとは思ってなかった俺を尻目に、北上はソファの全面を占領してマンガを冷めた目で読みあさっていた。その傍らには、20冊の単行本がすでに確保されていた。
……昨日の話だ。この鎮守府にバーバーちょもらんまをオープンさせ、俺が艦娘たちの非常識さに振り回され続けて2ヶ月ほど経ったのだが……毎度のごとくこいつらと飯を食い、風呂に入って自分の部屋に戻る時、球磨がポツリと呟いた。
「クマもそろそろ髪を切りたいクマ〜……」
この鎮守府でバーバーちょもらんまを開店させた当時から、『球磨のアホ毛を成敗すること』を悲願としていた俺の耳が、球磨のこのつぶやきを聞き漏らすはずがない。
「切るのか?! ついにアホ毛を切るのか?! 切るんだな?!」
「い、いや? まだアホ毛を切るとは……」
「よっしゃ任せろ!! お前のアホ毛は俺が切ってやる!!」
「ど、どっちにしろ床屋はバーバーちょもらんましかないクマ」
確かにそうだ。この鎮守府に所属する人間であれば、髪を切るところは俺のバーバーちょもらんま以外にはありえない。ということは、この妖怪アホ毛女は俺の店に散髪に来るわけだ……俺にそのアホ毛の引導を渡されるとも知らずに……。
「クックックッ……切れるぞ……ついにその忌々しいアホ毛が切れるぞ……クックックッ……ヌハハハハハハハ!!!」
「おおっ」
「は、ハルがはじけたクマ……」
球磨たちと別れた後、俺は来たるべく翌日の球磨との決戦に備え、自身の道具のコンディションをチェックし、最高の状態にメンテナンスを施した。投げられたせっけんが突き刺さるほどの硬度を誇るあのアホ毛のことだ。ひょっとすると生半可なハサミや道具では切れないなんてこともあるかもしれんからな。相手は球磨だ。万全の状態で望まねばならない。おれは長い時間をかけ、自身の道具を隅々まで手入れしていった。
そして今日……昨晩から高ぶる俺の精神テンションは今、床屋になって初出勤する前の、あの時の興奮に似た高揚感で満ち溢れている。この鎮守府に来て二ヶ月……この瞬間のために、ひょっとすると俺はこの地にバーバーちょもらんまを開いたのかも知れない……
「待たせたクマッ!!」
初めてのデートを前に、期待と緊張が入り交じる複雑な心理状態で高鳴る胸を抑えきれない少女のような感覚で、俺が店を開いて数時間……ついにヤツが来た。ヤツは高らかに来店を宣言すると、俺に向かって不敵な笑みを浮かべながら入り口で仁王立ちをしている。
「来たな……妖怪アホ毛女ぁああ!!!」
「クックックッ……この球磨のアホ毛がハルごときに切れるかどうか見ものだクマッ!!」
やってやる……やってやるさ! そのために俺はこの地にバーバーちょもらんまを……いやじい様の後を継いで床屋になったと言っても、過言ではないのだからッ!!
「いやぁそれは大げさでしょ」
高ぶる俺の精神テンションに、冷め切ったツッコミを入れて水を差そうとしてくる妖怪マンガ女・北上を尻目に、俺と球磨は互いに近付き、視線を相手から逸らすことなく、ジッと相手を見据え、戦いの始まりを宣言した。
「いらっしゃいませ……今日は、どのように……?!」
「……任せるクマ……球磨の髪を……ハルのセンスで整えるクマッ!!」
「かしこまりましたッ……!」
「まぁ……いいけどさー」
球磨を厳かに散髪台に案内し、椅子に座らせる。座らせた後、シートを首に巻き、俺はキャリーのついた椅子に座って、球磨のアホ毛を観察した。
「見れば見るほど、切りたくなってくるアホ毛だ……」
アホ毛は、これから自身が球磨から切断されるという己の運命にまだ気付いてないのだろう……いつものようにピコピコと元気よく動き、その異様な存在感をこれでもかとアピールしている……
「……お客様」
「クマ?」
「このアホ毛……切ってもよろしいな?」
「あくまで客の同意を得た上で仕事しようというその心意気……クックックッ……あっぱれだクマ」
「お褒めいただき光栄だ」
「……任せるクマ……さあ、切ってみるがいいクマッ!!」
球磨の同意を得た俺は、おもむろにアホ毛に霧吹きを向け、ひたすらに水を吹きかけた。強靭に直立したアホ毛に水分が浸透し、今までは、乾燥したもふもふとした手触りを視覚から訴えていたアホ毛がしっとりと濡れ、切られる準備が整ったことを告げる。
「では……切らせていただこうッ!!」
水分を含み、それでもまだそびえ立つアホ毛の根本に、俺はハサミを当てて……
――さくっ
ついにアホ毛を切断した。その瞬間俺の脳裏に浮かんだのは、ついに悲願を達成した喜びではなく、達成してしまった悲しみだった。
「やった……! ついに……ついに妖怪アホ毛女のアホ毛を……ついに……」
胸に去来する虚無感と共に俺の脳裏に浮かび上がったのは、今球磨の足元に落ちたアホ毛との初めての出会い……俺の腹に拳を捩じ込んで来た女の頭上でピコピコと動き、俺が投げたせっけんをその身に受け止め……憎きアホ毛女の頭上で、いつも俺をあざ笑うようにピコピコと動いていたアホ毛。おれはついに成敗した。この憎きアホ毛を成敗したのだ……それなのに……俺の胸に押し寄せるこの虚無感は一体何だ……この地に店を構えて約二ヶ月……こいつを切ることだけを……ただそれだけを恋焦がれるように待ちわびて……
「ハルー」
俺がアホ毛切断の儀式を終えたことで無駄に大げさな達成感を感じて陶酔していたら、読んでるマンガから目をそらさずに北上が声をかけてきた。邪魔をするなよ北上。
「なんだよ。邪魔するなよ今おれは仕事をやり終えた達成感に酔ってるんだから」
「いやー、それはいいんだけどさ」
「?」
「球磨姉の頭、見てみなよ」
「? 頭、球磨の?」
「うん」
「……」
そうだ。俺は切られたアホ毛の方にばかり気が向いて、肝心の球磨の頭に……アホ毛跡にまったく気が向いてなかった。確認しなければ。確実に仕事を遂行するためには、確認をしなければならない。
「……」
「……?! ま、まさかこんなッ?!!」
「クックックッ……!!」
信じられないことだが……アホ毛は再生していた。さっき俺が切ったその根本から……新たなアホ毛が悠然と伸び、そびえ立ち、存在を誇示していた。
「馬鹿なそんなッ! 俺は切った……切ったはずだ!! それなのになぜだッ?!」
俺は再度アホ毛の根本にハサミを押し付け、その根本からアホ毛を切断した。今度は確実だ。切断したアホ毛が、一本目のアホ毛と同じく球磨の足元にぽとりと落ちていったことを俺は確認した。確実だ。今度は確実に切ったはずだ。
「甘いクマ……球磨のアホ毛は永遠に不滅だクマ……!」
その直後、おれは信じられない光景を見た。アホ毛が無くなった球磨の、そのもふもふとした後ろ髪から、ひと束の髪の塊がぐぐっと持ちあがり……
「たとえ何人に何度切られようと……その度に第二第三のアホ毛が生まれ、その存在を誇示するために天高くそびえ立つクマ!」
その束がピコンと立ち上がって、新たなアホ毛として球磨の頭上に君臨した。
「バカなぁああ!! そんなことがあってたまるかぁあああ!!」
「ムハハハハハ!! ハルごときに根絶されるほど球磨のアホ毛ではヤワではないクマッ!!」
俺は何度も……何度も球磨のアホ毛を切った。ハサミがダメならカミソリを使った……何度も生まれ変わるというのならコームで寝かせ、ブラシで研いた……立ち上がる後ろ髪を抑制するため、ワックスや整髪料を使った……コシを失くすためにストレートパーマをかけた……思いつくありとあらゆる手段を講じて、この妖怪アホ毛女のアホ毛の根絶を試みた。
「甘いクマッ!! 縮毛矯正如きでクマのアホ毛は滅びぬクマぁあああ!!」
しかしその度にアホ毛は立ち上がり、そして俺の努力をあざ笑うかのように天空に向かってそびえ立った。
俺は……心が折れた。
「バカなっ……床屋が……髪のプロである床屋が……アホ毛に負けるだとッ……?!」
「まぁ、善戦したクマね。ただし、負けは負けクマッ!!」
「そんなバカな……俺の……俺の床屋としてのプライドがッ……!!」
「まぁ……ハルも腕が悪いわけじゃないと思うよ。ただ相手が悪かったってだけで」
「クックックッ……」
じい様……俺があなたに憧れ、あなたの背中を追い求めるようになってからのこの十数年間の努力は……この、たった一人の妖怪アホ毛女にぶち壊されてしまいました……。
『じいさま! ハサミでちょきちょきするじいさまはカッコイイね!』
『んーそうか? んじゃハルも床屋さんになるか?』
『うん! なる! ハルもじいさまになる!!』
『そーかそーか! ハルも床屋さんになるか!!』
俺がまだ物心ついて間もない頃にじい様と交わした会話が、頭の中で何度も繰り返された。じい様……あなたへの道のりは、まだまだ遠いみたいだ……おれは一体いつになれば、あなたに匹敵する床屋になれるのだろうか……
その後、涙が流れ落ちてしまうのを必死にこらえながら、俺は球磨の髪の毛先を整え、傷んでる部分をカットした後、シャンプーをするべくシャンプー台に案内した。
「おつかれさん……んじゃあとシャンプーするから、シャンプー台に行ってくれ……」
「了解だクマ〜」
「落ち込みすぎでしょハル……」
シャンプーをしたあとは、球磨の髪を乾かしてやる。ちくしょう。勝ち誇ってやがる。こいつのアホ毛、無力感に打ちひしがれた俺のことをあざ笑うかのように、天空に向かってまっすぐに伸びてやがる……
「うん。だいぶスッキリしたクマ。ありがとクマ」
「はい……ありがとうございました……」
「まだ落ち込んでるクマ……あーそうそうハル」
「ん? なんだよ」
「ちょっとシザーバッグを貸すクマ」
唐突に球磨はこう言い、ピコピコ動くアホ毛と同じリズムで、俺に向かって手招きをした。なんで商売道具を渡さにゃいかんのだ。
「いいから敗者は勝者に従うクマ!」
「はいはい……」
一度言い出したらこいつは引かないからな……観念した俺は、自分の腰からシザーバッグを外し、それを球磨に手渡す。すると球磨は……
「撃墜されたマークだクマっ」
と言いながら、油性ペンで俺のキャンパス地のシザーバッグに、ヘタクソな自分の似顔絵と『敗者だクマ』というセリフを書き込みやがった。
「あぁぁあああ?!! お前、なんてことするんだー!!」
「フッフッフ〜。これぞ勝者の特権だクマ。撃墜マークを描いてやったクマ!!」
「ふざけるな!! なに人様のシザーバッグに自分の似顔絵落書きしてるんだよ!!」
得意げに球磨が落書きした絵は、鏡に残っていた落書きの痕跡と同じく、絵心のないヘロヘロな自画像だった。
「ん? なにこれ? やっぱり毛の生えたりんご?」
北上がソファから移動して、シザーバッグに描かれた落書きを覗きこんでくる。こらどう見てもこの忌々しいアホ毛女の自画像だろうが。
「そうなの? 私には毛の生えたキモいりんごにしか見えないよ?」
「北上はこの球磨の妹なのに、姉の自画像も分からないクマ?」
「球磨姉の絵、今まで誰も正解したことないじゃん」
俺は正解したけどな……でもなんだこのうれしくない感じ。むしろ忌々しい。この絵の正体が分かってしまう自分が忌々しい。
「とりあえず向こう10年はこのシザーバッグを使うクマ!」
「言われなくても使うしかないだろうがー!!!」
「ホント、災難だったねハル……」
そんなわけで、俺は翌日から、この球磨の落書き入りシザーバッグを使わざるを得ないハメに陥ってしまった……。
とはいうものの、実際に使ってみると意外とみんなの評判がいい。むしろこのままバーバーちょもらんまのトレードマークにしてもいいんじゃないか……しばらく使い続けた頃、俺はそんなことを考え始めていた。
「……と思うんだが、北上どう思う?」
「まぁー球磨姉が調子に乗るのは目に見えてるね」
あの屈辱の敗戦から数日経った頃、客として来店した北上の髪の毛先を整えながら、球磨の似顔絵をトレードマークにするアイデアを相談していた。
「調子にはもう乗ってるんだよ。見てみろよ俺のシザーバック」
北上に俺のシザーバッグを見せてやる。あの日球磨によって落書きされたシザーバッグは、俺の目の届かないところで球磨に落書きされ続けているらしい。一人、また一人と落書きされている人数が増えている。
「ぁあ、増えてるね。描いてもらってるの?」
「いや、ヤツが勝手に俺の断りなく進めてるだけだ。鎮守府のみんなを描いてるみたいだな。この子は北上だろう」
俺はいつの間にか増殖していた落書きの中から、北上と思しきおさげの子の絵を指さした。それを見る北上の頭にはてなマークが浮かんでいるように見えるのは、気のせいではないだろう。
「え? そうなの? 似てないでしょー」
「あいつからしてみれば北上はこんな風に見えているんだと思うぞ」
「ふーん……球磨姉の絵が何なのか分かるのかー。ふーん……」
「なんだその意味深でツッコんで下さいと言わんばかりの顔は?」
「別に〜。ニヤニヤ」
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