剣の丘に花は咲く
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第四章 誓約の水精霊
エピローグ
前書き
今回も馬鹿話はお休みで。
流石に絡みづらい内容の話の時は……。
本編始まります。
目を覚ました時、目の前に広がる空は微かに白んでいた。
未だはっきりとしない意識のまま、周りの状況を少しずつ確かめていく。
どうやら雨はもう止んでしまったみたいだが、雨に濡れた草が身体に張り付き、身体が凍るように冷たい。視界の端には、ゴロゴロと人が倒れているのが映っている。そして、その中には、愛するウェールズの姿があった。ピクリとも動かないその姿を目にしても、心が騒ぎ立てることはなく、ただ、どうしようもないほどの大きな寂寥感だけを感じていた。
涙の一つも、もう……流れないの……。
全身から力が抜ける感覚に身を任せ、アンリエッタはそのまま目を閉じようとする。
「気分はどうだ?」
「……シロ、ウさん」
アンリエッタの瞼が閉じきる直前、士郎が声をかける。閉じるよりも襲い速度で、アンリエッタは瞼を開き、隣で地面に膝をつく士郎に顔を向けた。
「酷い……怪我、ですね」
「かすり傷だと言いたいが、少しばかり無理があるか」
アンリエッタを見下ろす士郎の身体は、傷付いていないところを探すのが困難な程全身に傷を負っていた。しかし、全身を血で濡らす士郎は、まるで怪我を負っていないかの如く、平然とした顔をしている。
肩を竦ませ、苦笑いを向ける士郎に、アンリエッタは震える手を伸ばす。自分の手が血で汚れるにも関わらず、アンリエッタは士郎の身体に手で触れる。触れることで分かる、その傷の多さと深さに、アンリエッタは突き刺すような痛みを胸に感じる。
ゆっくりと、這うように身体に触れるアンリエッタの手の感触に、背筋に妙な感覚が走る。これは危険だと感じた士郎は、丁寧に、しかし素早くアンリエッタの手を掴む。戸惑ったような顔を向けるアンリエッタに、困ったような表情を向ける。
そこで自分の取った行動に気付いたアンリエッタは、青白かった顔に血の気を取り戻すと、慌てた様子で立ち上がろうとする。
「す、すみませんっ、わた、わたしは一体何っ――」
慌てて立ち上がった弾みで、そのまま前に倒れ込みそうになったアンリエッタだが、士郎に腕を掴まれギリギリのところで、倒れずにすんだ。
「慌てるな。転けてしまうぞ」
「あ、ありがとうございま――……」
士郎に掴まれた腕を目にし、恥ずかしげに顔を俯かせたアンリエッタだが、昇り始めた朝日に照らされ出した周囲の光景に息を飲んだ。
「――わたしが……やったのですね」
怯え小刻みに震える身体を止めるように、そっと士郎は手を置く。
「後悔は後でいくらでも出来る。今は何より、怪我人の治療をするぞ」
「怪我、人……? あっ、はい……分かりました。直ぐに治療しますので、そこにす――」
士郎に言われ、足元に転がる王家の杖を持ち上げると、アンリエッタは士郎の治療をしようと士郎に杖を向けるが、それを士郎が杖を持つ腕を掴んだことで止めた。
「俺はいい。それよりも、あそこにいるヒポグリフ隊の生き残りの治療を頼む」
「えっ、で、ですが」
「俺は大丈夫だ。目を覚ましたばかりですまないが、少し無茶を頼む」
士郎はアンリエッタの腕を掴んだままで、木陰に寝かされているヒポグリフ隊の生き残りに向かって歩き出した。
ヒポグリフ隊の生き残りを全て治療し終えたアンリエッタが、濡れた草原に倒れ伏すウェールズに向かって歩き出した。
足元のウェールズを見下ろしたアンリエッタは、膝を曲げ顔を近づける。
雨に濡れ、顔に張り付いた髪をどかそうと手を伸ばすと……。
「ウェール、ズ、さま?」
開かないはずの瞼が開く。
焦れるほどゆっくりと、しかし確実に開いていく目に、アンリエッタの姿が映ると、ウェールズが掠れた声を響かせる。
「……ああ。そうだよ、アンリエッタ」
目を離せば消え入りそうな姿のウェールズが、先程までの人形ではなく、自分が愛した本物のウェールズだと、愛おしげに見つめてくる瞳と甘やかに響く声で分かった。
もう枯れたかと思った涙が、静かに頬を伝っていく。
「ウェ、ウェールズ様……わたしは……」
何かを言おうと、アンリエッタが口を開くが、それが言葉になることはなかった。言葉が出ないことに、焦燥感を感じ、苦しげな様子を見せるアンリエッタの手に、ウェールズがそっと手を乗せた。
「あっ……」
「アンリエッタ……最後のお願いがあるんだ」
「えっ……最、後?」
「ああ、最後だ」
儚くも、優しい顔を向けてくるウェールズに、アンリエッタは戸惑った様子で、ウェールズを見る。そして、そこで気が付いた。アンリエッタの目の前で、ウェールズの白いシャツの丁度胸の辺りが、赤く染まっていく。それに気付き、慌てて治療をしようと杖を持ったアンリエッタを、ウェールズが止めた。
「もう、どうしようもないんだアンリエッタ。僕は既に死んだ存在……だから……何をしても、もう止めることは出来ない……」
「……っ……」
のろのろと杖を下ろすアンリエッタの姿に、微かな安堵の笑みを浮かべたウェールズは、アンリエッタの手を握る手に、一度ギュッと力を込めて握った。
一瞬ビクリと肩を震わせたアンリエッタが、力なくウェールズに目を向ける。
「君と初めて出会ったあの場所……ラグドリアン湖に連れて行ってくれないか……」
士郎の手により風竜にウェールズを乗せると、士郎達はラグドリアン湖に向かった。
そして今、士郎達の視線の先には、ラグドリアン湖の前に並んで立つウェールズとアンリエッタの姿があった。
朝日に照らされたラグドリアン湖は、波打つ水面が朝日を反射させ、目映いほどの輝きを魅せていた。
その光景を眩しげに目を細め、じっと黙って見つめていたウェールズが不意に口を開いた。
「僕は幸せだった」
「はい」
「辛いことも、悲しいこともあったけど、楽しいことも、嬉しいこともあった」
「はい」
ウェールズの言葉に、アンリエッタはただ頷くのみ。ウェールズに顔を向けることはなく、ウェールズと同じように光の舞いを見せるラグドリアン湖を見つめている。
「何より、君と出会ったことが、何よりの幸せだった」
「……はい」
「僕はここで終わってしまうけど、アンリエッタには、まだまだ時間が残っている」
「……」
「だから、僕のことは忘れてくれないかな」
「っ…………」
アンリエッタは頷かず、ただ黙って隣に立つウェールズの手を強く握り締めた。
軋みを上げるほど強く握られた手に、悲しげな色が混じった目を向ける。
「僕は君を縛りたくはないんだアンリエッタ……僕に縛られ、君を前に進めなくさせたくないんだ」
「でも」
「君の幸せは……僕の幸せなんだアンリエッタ……だから、いつか君が他の誰かを愛し、子供を産み、笑えるように……幸せになれるように……僕を忘れてくれないか」
「わた、わたしは」
ウェールズのただ自分を幸せにしようとする想いに、枯れたと思っていた涙が、途切れることなく溢れ出していく。ウェールズの想いに答えたい。だけど、こればかりは、頷けない。小さく、しかしはっきりと首を振るアンリエッタ。
「いつまでも僕に縛られ、君が幸せになれないなら、僕も幸せじゃなくなる……だから、アンリエッタ……あ願いだ……僕を忘れ、他の男を好きになると……誓ってくれないか」
「……ウェールズ様」
縋るようなウェールズの声に、歯を食いしばり、顔を俯かせるアンリエッタは、じっと黙っている。
その間も、アンリエッタは握り締めるウェールズの手から、段々と生気が無くなっていくのを感じていた。ゆっくりと顔を上げたアンリエッタは、そこで初めて足を動かし、ウェールズの前に立った。
そして、ラグドリアン湖を背中に、胸に手を当て誓を立てた。
「トリステイン王国女王アンリエッタはアルビオン王国王子ウェールズと水の精霊の御許で誓約をいたします」
悲しみと優しさ……。
決意と不安……。
様々な色が顔を過ぎる中、ウェールズから目を逸らさず見つめ続けるアンリエッタ。
それにウェールズは安心したかのような、柔らかな笑みを浮かべる。
太陽がその姿を完全に現し、その輝きで世界を照らすだす。それを背中に受けたアンリエッタは、まるで光の翼を広げる天使のようであり。目にした者が思わず感嘆の声を漏らすほどに美しかった。
その場にいる全ての人の目が向けられる中、アンリエッタが誓約を口にした。
「ウェールズ様のことを忘れ、他の誰かを愛し……幸せになることを」
アンリエッタの最後の言葉を聞いたウェールズは、ゆっくりとアンリエッタに向かって倒れていく。倒れくるウェールズを抱きしめ支えたアンリエッタは、幸せそうな笑顔を浮かべるウェールズの耳元で、小さく囁くように声で呟く。
「だから……あなたも幸せになってください……ウェールズ様…………」
後書き
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