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蒼き夢の果てに

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第6章 流されて異界
  第135話 相馬さつき

 
前書き
 第135話を更新します。

 次回更新は、
 2月24日。『蒼き夢の果てに』第136話。
 タイトルは、『大元帥明王法』です。 

 
 月の明かりに支配された蒼の世界。
 黒々と氷空に向かって伸びる城山の樹木は、遠く、シベリア生まれの寒気団が作り出した冷たい風に晒され、今宵、この場で行われている儀式に相応しい音を発していた。
 その、まるで人がすすり泣くかのような陰気の中に、一際強く感じる……異界の気配。
 確かに一口に異界とは言っても、その種類は千差万別。この現代社会とまったく違いを感じる事のない、俺が生まれ、元々暮らして居た世界や、未だ社会の制度や科学技術が中世から近世レベル。一部の貴族が支配し続けている世界などが存在するのだが……。
 今、俺が感じて居る異界の気配はその中でも最悪に近い気配だったのかも知れない。



「かけまくもかしこき――」

 意外に朗々とした声が犬神使いの口から発せられた瞬間、
 ゆっくりと手にした日本刀……いや、これはおそらく日本刀の源流とされる毛抜き形太刀。その太刀を抜き放つさつき。
 ギラリ、……と不穏な光を反射する刀身。そして、その光に反応するかのように周囲にすっと浮かび上がる赤。しかし、それは普段の彼女を示す鮮やかな赤などではなく、もっとずっとずっと(くら)い色の炎。
 まして今宵、彼女の気が充実した際に発現する左目の瞳がふたつに増える現象は発生せず。更に、通常時の彼女が能力を発動させる際に発生させる、輝くような瞳もこちらに魅せる事はなかった。

 その代わりにさつきの身体に纏い付く黒い……闇。それはまるで風に揺れる薄手のケープのようにゆったり、ゆったりと揺れ、柔らかで、それにたおやかなイメージを作り上げる。
 但し、その薄物が小さくはためく度に。軽く揺らめく度に、その内側には強い狂気を孕んでいるように俺は感じていた。

 しかし――
 しかし、これは当然、予想通りの展開!

「天にまします我らの父よ、願わくは御名を聖となさしめたまえ――」
「夫神は唯一にして御形なし。虚にして霊あり。天地ひらけてこの方国常立尊(くにとこたちのみこと)を拝し奉れば――」

 事前の打ち合わせ通りに、祈りの詞を唱えながら前進を開始する俺。そして、同じように稲荷大神秘文(いなりおおかみひぶん)を発しながら右斜め後方へと後退を開始する弓月さん。
 前へと進む俺の手は術を発動する為の印の形を。
 そして、後退中の弓月さんの手には桃の弓。更に、彼女が動く度に発する微かな鈴の音。

 双方共に。……俺の方は普段の仙術による強化に加え、有希の元々持って居た有機生命体接触用端末の技術によるドーピングを。
 弓月さんの方も俺の術と彼女の術による強化が行われる事により、現在のこのふたりの動きは、一般人の目では完全に追い切る事は不可能と言っても良いレベルにまで強化されている。
 全身の毛が逆立ち、猛烈な勢いで全身に血液が送り込まれる。神経には普段の百倍……いや、千倍以上の情報が駆け巡っていた。
 そう。現在の俺、そして弓月さんも神の領域で戦える術者。感覚を、肉体を通常の人間の限界を超えるレベルにまで高めた存在。

 しかし、それは相手の方も大きく変わりはしない!

 刹那、抜き放った毛抜き形太刀を無造作に振り抜いたさつき。空間を縦に斬り裂く一本の紅く燃える断線。
 その瞬間――

 ふわり。そう言う形容詞が相応しい雰囲気で、それまで刃に纏わり付いていた昏い炎が……離れた。

 大きさはバスケットボール大。その十を超える昏い炎の塊が、奴らに相応しい禍々しき気を放ちながら、さつきに向け疾走を開始した俺に向かって飛来する!
 爆発的に拡大するさつきの霊気。その影響により、一瞬にして冷たい冬の大気が沸騰する。そう、元来彼女が従えられる精霊は火行の精霊。その精霊たちに限界を超えた量の霊気を神刀の一振りで与えたのだ。
 これぞまさに天上の業火と言う雰囲気であろうか。

 そう、ここは元々、霧の如き闇が纏わり付くかのような、異常な湿気に覆われた場所。その中心に発生した狂気に等しい熱量により、空気中の水分が一瞬の内に蒸発。体積が千倍以上に膨れ上がる現象。水蒸気爆発に等しい衝撃を発生させながら――

 しかし!

 世にも妙なる音色が立て続けに鳴った。
 その音の一瞬の後、遙か上空に舞い上がったふたつの火球が消滅。

 見なくとも分かる。これは鳴弦(めいげん)。実際に矢を放つ事なく、弦を鳴らすだけで魔を穿つ神道の技。
 正に音速で放たれる見えない矢。これを躱せる魔は殆んど居るまい。

 左右。そして、地を這うように接近中の複数の火球。まるで蜘蛛の網にも似たその紅き包囲網。その速度は正に神速。一般人では正確に眼で追う事さえ不可能なレベルであろうか。
 しかし!
 更にギアを一段階アップ! しなやかな膝と、強靭な足首により右に左にと不規則に動きながらもその速度は衰える事なく、あろうことか一段と加速した俺。その走りは岩を砕き、大地を削るかのような勢い。しかし、現実には地を覆う冬枯れの芝生を一切傷付ける事のない繊細な動き。
 その現実界に生存するすべての生命体にあり得ない速度に、左右から接近中であった火球は目標を見失い、後方へと流され、そこで再び放たれた鳴弦(音速の攻撃)に因って次々と消滅させられる。

御国(みくに)を来たらし給え。御心(みこころ)を天におけるがごとく、地にも行なわし給え」

 地を這うように接近しつつ有った火球の内のひとつは、霊気を宿した右足で一蹴。普段の数倍軽く感じる身体に、供給過剰なまでに生成される龍気。
 数瞬遅れて届く爆風……一般人ならば致命傷と成りかねない熱風を、その身に纏いし精霊光で無効化。黒き学生服、そして、蒼の髪の毛一筋すら害する事は叶わず。

 そう。例え、複雑な印を両手で組みながら、更に分割思考で複数の術式を同時起動させながらでも今の体調ならば問題ない。
 伊達に何回分もの転生の記憶を思い出さされた訳ではない!

 そして!

 火球を放った直後に急接近して来る俺に対して、迎撃の構えを見せるさつき。この対応ひとつを見ただけでも、彼女が普段の彼女でない事が確実。
 何故ならば――

 既に鞘に納められていた毛抜き形太刀を、今度は、抜く手も見せずに引き抜き様の一閃。同時に立ち昇った数本の炎がまるで赤い蛇の如く、目の前に迫った俺をその毒牙に掛けようと迫る!
 赤い、紅い、朱い火の粉が踊り、長い黒髪が彼女を中心に発生した上昇気流により不自然にうねった。
 そう、それ自身がまるで異界から鎌首をもたげて獲物を狙う紅蓮の毒蛇の如き形。

 一瞬、炎の中心に存在する禍々しき、しかし、さつき自身の美しい姿に瞳を奪われ掛ける俺。その瞬間!
 彼女を中心にした空間に猛烈な光が発生。その発生した光が闇に慣れた俺の瞳を焼き――

 小細工か!
 気付いた瞬間に目蓋を閉じたが、それでも――
 しかし、視力を奪われたのはほんの一瞬。まして、俺の見鬼の才は現実の瞳や視力に頼った物ではない。これほどの悪意を放つ赤い蛇が接近して来る様など、目が見えようと、見えまいとに関わらず、肌で感じ取る事が出来る!

 そう。今のさつきは恐れるに足らず。普段の……今まで、俺が戦って来た彼女は常に先手を取り、終始攻め続けて一気に押し切るタイプ。その彼女が迎撃の構えを取るなど、とてもではないが今の彼女が正気だとは思えない。

 踏み込み様に放たれた左斜め下からの気配(一閃)を、右足に体重移動を行う軽いスウェーバックのみで回避。鼻先数センチの空間を斜めに切り上げて行く炎の刃による攻撃も、大気に焦げ臭い香りを付けた事を感じさせただけに終わる。更に、それから一瞬遅れて襲い掛かって来る赤い炎の蛇を、ヤツラが撃ち出された際の僅かなタイムラグを利用して躱す、躱す、躱す!
 しっかりと見えなくても感じる。更に、さつき自身の動きは普段の彼女の動きではない!

 そう、これぞ正に紙一重。普段もかなりギリギリで躱す感覚だが、今宵はその普段の自分すらも嘲笑うかのような刹那のタイミング。世界のすべて。見鬼が捉えた気配。耳に聞こえた音。肌で感じる熱や風の動き。そして自分の感情すらも無機質に捉え、次の身体の動きを決定する情報として使用している。そんな状態。
 俺の精霊の守りを抜けた僅かな熱が表皮を炙ったが、そんな物は焚火に近寄った程度の感覚。猛烈な熱量により発生した上昇気流に、少し伸びて来た蒼の前髪を払われた程度。

 そして!

 この瞬間、それまである一定のパターンで印を結び続けて来た両手を自由に。
 そして、振り抜かれたさつきの細い……彼女の外見に相応しい華奢な右手首を掴み、そのまま巻き込むように――

「我らに罪を犯すものを我らが赦す如く、我らの罪をも赦し給え!」

 しかし!
 腰で撥ね上げた瞬間、彼女の身体が体重のない存在で有るかのように身体を捻り――

 無理な方向に関節を捻り、彼女の腕自体が使い物に成らなくなる事を一瞬怖れた俺。その弱気と打算の()い交ぜになった感情により拘束が緩まった瞬間、さつきは自らの腕が使い物にならなくなる事を恐れる事もなく、更に自らの武器である毛抜き形太刀を手放し、投げを放とうとした俺に全体重を預けて倒立。
 そして、僅かに反動を付け宙に舞った。

 チッ、武器であり、人質でもある精神を操られたヤツの相手をするのは骨が折れる。
 心の中……分割された思考の片隅で一瞬だけ舌打ち。ただ、出来るだけさつきに怪我を負わせたくないのは事実。
 何故ならば、犬神使いが言うアラハバキ召喚用の生け贄の代用品が、さつきである可能性が当然、存在するから。
 例え本当に犬神使いとさつきが姉弟の関係であろうとも、人間としてもっとも大切な感情。他者を傷付けてはならない、と言う感情を既に失っている犬神使いの青年に、そんな一般的な禁忌は残っていないだろう。おそらく、必要とあらばさつきの生命どころか、自らの生命すらアラハバキに差し出すはず。

 狂信者と言うのはそう言う連中。人語が通用する可能性も低く、真面な判断力も有していない場合が多い。
 今の戦いの目的。犬神使いの青年の目的はおそらく時間稼ぎ。その中に、自らが姉と呼ぶ存在の相馬さつきの身の安全に対する配慮はない。
 そして、俺と弓月さんの目的もまた時間稼ぎ。あまりにも圧倒的な能力差を見せる事によって、さつきに人間の盾としての価値すらない、と判断され、自ら生命を断たせるような命令を行使させないための、作られた膠着状態。

 すべては安全にさつきをコチラのサイドに呼び戻す。その為の準備の段階。

 刹那、弓月さんの援護射撃(鳴弦)が、後方に流れ、急制動した炎の蛇を次々と撃ち落として終った。
 成るほど、これなら大丈夫。心の中でのみ大きく首肯く俺。
 有希や万結を旅館の護りに置いて来た事に多少の不安を感じていたのですが、今までの弓月さんの動きを見る限り、それは杞憂に終わった模様。おそらく、今の彼女の術者としての実力は現状の有希と比べてもそう遜色はない、と思う。
 弦を弾くだけの鳴弦は、しかし、退魔の技術としてはかなり高度な技。故に、術者の力量に因って効果がまちまちとなる物なのですが、彼女に関しては一級品。
 これならば問題なく背中を預けられる。

 但し、そちらを優先したが故に、空中に退避したさつきに関しては何の障害を得る事もなく、俺と弓月さんの丁度中間点辺りに着地。
 そして、その着地の勢いを利用して――

 弓月さんに急接近を開始。革のローファーの裏からまるで炎を放つようなその勢いは、正に砲弾の如き!
 対して弓月さんの方は、さつきが俺に対して放った赤い炎の蛇に対応していた為、一瞬だけ反応が遅れる!

「疾ッ!」

 更に思考を分割。そして同時に右手の印を解き、複数の呪符を放つ俺。
 同時に左手で結ぶ印に籠める霊気を増加。体内を駆け巡りながらも、今この時まで明確な目的の示されていなかった強い力を少し解放。

 刹那、俺の後方から吹き抜ける一陣の風。その風により、周囲に蟠りつつあった闇が払拭され、同時に高く舞い上げられた呪符が空中にて起動。蒼く輝く魔法陣を構築した。

 その瞬間!

 大気を震わせる轟音。目も眩むような強烈な光。さつきの足元に飛来する雷!
 一枚に付き一撃。都合、八発の九天応元雷声普化天尊法(きゅうてんおうげんらいせいふかてんそんほう)が――

 但し、それは所詮牽制に過ぎない攻撃。当然、一般人ならばそんな近くに雷が落ちれば無事では済まないが、操られているとは言ってもさつきは相馬の姫。口先だけが達者で実力が伴わない表の世界の術者などではなく、正真正銘の術者。
 大地を穿つ雷が、さつきの足元を狙うように次々と撃ち付けられる。
 大地を走る雷が残した傷痕。無数の穴と、雷の蛇が這いまわった痕――リヒテンベルク図形を冬枯れの芝生の上に付けながら……。

 しかし、僅かに速度を緩め、左へ右へと回避行動を行いながらも、それでも弓月さんに近付こうとするさつき。
 徒手空拳。しかし、それでも弓は遠距離には強いが、近距離には弱い。精神を支配されながらも、戦闘に関しての決断は早く、そして正確。

 しかし! そう、しかし!

天狐(てんこ)地狐(ちこ)空狐(くうこ)赤狐(しゃくこ)白狐(びゃっこ)。稲荷の八霊。五狐の神の光の玉なれば」

 攻撃に対する僅かな減速と、直線ではなく回避運動を入れながらの接近。このふたつの要素だけで、今の弓月さんが体勢を整えるには十分な時間を与えた。
 最初と同じように僅かに後退しながら構えられる弓。

「誰も信ずべし、心願を以て。空界蓮來(くうかいれんらい)。高空の玉。神狐の神。鏡位を改め神寶(かんたから)を以て」

 更に紡がれる稲荷大神秘文。祝詞が、祈りの詞がひとつ紡がれる毎に高まって行く霊気。
 そして、彼女の祝詞に呼応させ、組む印に龍気を集中させる俺。同時に弓月さんの瞳を見つめる。

 その瞬間、それまで俺の背後から吹き付けて来ていた風が止み、正面からの風へと変化。自らが発生させている膨大な熱の産み出す上昇気流が渦となり、さつき自身の行動の阻害へと変わったのか、それまで最初と比べるとスピードも、勢いも落ちて来たとは言え、確実に弓月さんとの距離を詰めていた動きが一瞬止まる。

 刹那、戦場を貫く――高く、短い良く澄んだ音が響く。その数は二度!

 そして、その弦音が響いた直後、さつきの両足首が淡く光輝を放ち――
 魂の絶叫! 今までさつきから聞かされた事のない大きな声。

 当然、弓の連射。それも間を置かない連射など不可能であろう。しかし、弓月さんの鳴弦は矢をつがえ、放つ必要のない神道系の術。その弦音に魔を退ける呪が籠って居ると言われている神の技。
 更に、魔を退けるとは言われているが、効果があるのは魔のみ。つまり、人間であるさつきには一切の被害が及ぶ事はない。
 ……はず。

 一進一退の攻防。いや、これまでは攻防にすら届いていないか。ここまでの経過から分かった事と言えば、さつき一人では、俺と弓月さんを留める事は出来ないと言う事ぐらい。
 俺たちの側に彼女を傷付ける事が出来ない……と言う縛りがなければ、ここまでの交錯の間に彼女を無力化出来ている事は想像に難くない。

「我らを試みにあわせず、悪より救い出し給え」

 十メートル近い彼我の距離を五歩も掛けずゼロにした俺。目の前には立ち止まり次の行動に移り出せないさつきの小さな背中が――
 今、正に手を伸ばし、次の術式を打ち込もうとしたその瞬間!
 後方に迫りつつあった俺の気配に気付いたさつきが、振り返り様に左腕を振るう!

 ほぼ勘のみに頼ったかのような裏拳の一撃! そう、いくらなんでも接近する際にある程度の気配を断ち、更に常識では考えられないほどの速度で接近して居た俺を相手に、カウンター気味に裏拳の一撃を入れられる相手は少ない。
 この瞬間に長い髪の毛により隠されたさつきの顔に、無以外の何か……ぞっとする何かが浮かんだような気がした。

 しかし!

 その攻撃を敢えて正面から受ける俺。その瞬間、俺と攻撃を加えて来たさつきの腕との間に発生する魔法円。
 これはあの時……暗く、冷たい旅館の廊下で有希が施してくれた術。ありとあらゆる物理的な攻撃を一度だけ反射する仙術が発動した証。後方から猛スピードで接近する俺を確認する事もなく、反射的に放った横殴りの一撃が、さつきの頭部へと返され――

 その、自ら放った一撃で右側に流れるさつきの身体。その宙を流れる左手首を掴む俺。
 刹那、術式の重要な部分が起動した!



 限界まで高まっていた戦闘の気配が突如止み、周囲には犬神使いが唱え続ける祝詞が響くのみ。
 天を貫く雷も、大地を焼く炎も、そして、鳴弦の妙なる響きに重なる祝詞と祈りの詞も途絶え……。

 ふたりの女神()、そしてその周りを取り巻く星々が放つ冷たい光が……いや、この場所に辿り着いた時には濃い闇に押されながらも、確かに輝いていた月と星の光が弱まって居た。
 おそらく、池……虚無より立ち昇る闇の勢いが光を凌駕したのだ。それだけ、アラハバキ召喚の段階が進んだと言う事か。
 僅かな間に状況確認。確かに時間的な余裕がある訳ではない。しかし、同時に慌てる必要もない。

 何故ならば、このアラハバキ召喚術には致命的な欠陥がある。この欠陥は未だ排除されていない。

 そう考え、今はさつきの精神の解放を優先。
 何もない空間に掲げられたさつき。丁度、俺と同じ目線の高さにまで持ち上げられ、その場で、まるで十字架に掲げられた聖者の如き姿でもがいている状態。
 彼女の周囲には風が渦巻き、俺が掴んだ両手首と、弓月さんが撃ち抜いた両の足首それぞれに、拘束を示す淡い光りの帯が存在していた。

 これは蜘蛛の巣に絡め取られた蝶の儚さか。それとも、本当に人類すべての原罪を背負い十字架に掲げられた聖者の似姿か。

 その瞬間、生気のない。普段のハルヒとは少し違う理由ながらも、似たような強い瞳で俺を射抜く彼女の瞳からは考えられないほどのドロッとした瞳と視線が合う。
 その時、夢見る彼女のくちびるが小さく動――

 刹那、俺の周囲に魔法円が発生。それと同時に彼女の衣服が猛烈な勢いで燃え上がる。
 これは魔法反射が発動した証。矢張り、未だ完全に彼女の能力……本来の彼女に加護を与える存在の能力を完全に封じ切る前の油断は危険過ぎるか。

 ただ、さつき自身が発する炎が彼女を害する可能性は低い。俺に雷の気が無効なように、彼女は炎に対してある程度の耐性はあるはず。問題は、彼女が着ている服に関して、その範疇に入るかどうかが分からない事ぐらいか。
 何にしてもこの炎をどうにかしなければ危険過ぎて近付きも出来はしないが。

 三歩、歩み寄る間に考えを纏め、十字架に掲げられ、その後、炎の柱と化したさつきに後一歩の距離の位置に立ち止まる俺。
 見えない十字架に掲げられ、その後、炎を纏った彼女はまるで中世ヨーロッパで吹き荒れた魔女狩りの犠牲者の姿。既に衣服の大部分は炎に包まれ、長き黒髪はこれから先の彼女の未来を暗示するかのように不吉に揺らめく。
 そして――

「大元帥明王に帰命し奉る。汝の威徳と守護を授けたまえ」

 それまで分割した思考と印形のみで唱え続けて来た祝詞の、最後の部分を現実の言葉として口にする俺。
 その刹那、それまで半完成状態であった風の呪縛が完成。さつきの周囲に蟠っていた闇、そして、彼女自身が完全に支配下に置いて居た炎の精霊たちの舞いを無効化。

 その事により、彼女を覆っていた炎がすべて振り払われ――
 視界の真ん中に妙に白く、柔らかな何かが現われた瞬間に視線を外し、同時に如意宝珠(にょいほうじゅ)『護』を起動。

 その刹那、火刑に処されようとした魔女の如き状態となって居たさつきの身体を白い光が包み込む。そして、その光が消えた後には――
 出会った時に彼女が着ていた黒のコートに身を包むさつきが、其処に存在していた。

 もっとも、如意宝珠で再現したのは黒のコートのみ。その下は、確認した訳ではないけど、おそらく下着すら存在していないでしょう。
 こう考えた時、何故か怒っているハルヒの顔が最初に浮かんだのはナイショ。

 一瞬、戦場に有るまじき形で緩み掛けた頬を引き締める俺。確かにさつきの拘束は完成したが、未だ完全に終わった訳ではない。
 そう考え、視界の端の方で愛用の弓を構えたままでこちらを見つめる巫女姿の少女に視線を移す俺。

 今の彼女は臨時の龍の巫女。確かに、有希やタバサのように俺の霊気を調整、制御が出来る訳ではありませんが、それでも術を合わせて、相乗させる事は出来る様子。
 もし、俺が産まれた世界で――いや、有希やタバサよりも先に彼女と出会って居たのなら、俺の人生はその段階で変わって居たかも知れない相手……のように感じる。

 もっとも、さつき……いや、ハルケギニアで出会った崇拝される者との間で為された、攻守の交代が流れるように行われた戦いを経験した際には彼女の事を。タバサや有希、湖の乙女との連携を経験した時は彼女たちそれぞれの事を何者にも代えがたい相棒だと感じたので……。
 結局、俺は何度人生を重ねようとも、一人では戦う事さえ真面に熟せない存在だったと言う事ですか。

 自らが重ねて来た転生の意味に、少し陰に傾く気分。しかし、それも無理矢理に噛み砕き、少し苦い感傷として呑み込む俺。自身が何でも出来る英雄(ヒーロー)などでない事は先刻承知。そのような事を今ここで嘆いても仕方がない。

 視線が合い、大きく首肯く弓月さん。尚、彼女は俺が先ほどのさつきの姿を瞳に映した可能性については素直にスルー。もっとも、俺の側から言わせて貰えば、アレは不可抗力。コッチにそんな意志はなかったのだから、スルーされて当然でしょう。
 何故か彼女の瞳を覗き込んだ瞬間、少々言い訳じみて来る思考。但し、それも矢張り一瞬の事。

「夜の守。日の守。大成哉(おおいなるかな)賢成哉(けんなるかな)
 稲荷秘文慎み慎みもうす」
「我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ――」

 稲荷大神秘文。そして祈りの詞の最後の部分を口にする弓月さんと俺。
 そして放たれる鳴弦。更に――

 右の掌底に溜める気。いや、これは純度の高い龍気。俺の両手両足と磔にされたさつきの同じ個所か強い輝きに彩られる。
 但し、さつきには俺に刻まれた聖痕に一か所足りない!

 自らの中に渦巻く光を強く感じる。
 さつきは虚ろな瞳で、何かを小さく呟き続けている。普段の彼女からは到底考えられない状態。
 いや、彼女が発して居る言葉の羅列は……歌だ。異界に封じられた、忘れ去られた神を呼び覚ます歌。
 焦点の定まらない瞳は深淵を覗き込むが如く虚空を見つめ、発せられるは異界の歌。

 しかし、さつきの周囲には渦巻く風の結界。これが存在する限り、日ノ本に仇なす妖夷(ようい)の類が能力を振るう事は出来ない!
 身体中の血液が沸騰する寸前。既に俺から漏れ出た龍気に煽られ、周囲に存在する小さな、自らの意識すら持たない精霊たちが活性化し、流星の群れのように駆け巡る。

 そして残された聖痕を刻むべく、最後の一歩を――

 
 

 
後書き
 それでは次回タイトルは『大元帥明王呪』です。
 
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