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前編 重力戦線異状なし
前書き
悪魔の兵器パトリア・トキシカの暴走から1か月……。
復興が進み、順調に活気を取り戻してゆくヘキサヴィル。
町の人々に平穏な日々が戻った一方、わたしは原因不明の悪夢に苦しめられ、まともに睡眠をとれる夜はなかった。
睡眠不足で頭痛が酷いある朝、なじみの警務官シドーが久しぶりに仕事を持ってくる。
これは、重力を操り、黒い怪物をなぎ倒し、『重力姫』と呼ばれたわたしが1人の少女であることを改めて自覚し、人とのつながりの大切さと危うさを再確認する話……
『空を飛ぶ』というわけではない。『宙を舞う』というのも、本質とは外れているように思える。
おかしな表現ではあるが、『空に落ちる』というのが、より的確だろうか。
旧市街オルドノワ。
世界を上から下まで繋ぐような巨柱につくしのはかまの如く巻き付く都市、ヘキサヴィルの主要4地区の1つ。
その他3地区のベッドタウンとして栄えるこの街は、記憶をなくしたわたしが初めて目にした街ということもあってか、ヘキサヴィルの中でも一番のお気に入りだった。
住宅の屋根をはるか下に見る高高度から眺めるオルドノワは、老成した貴族にも似た落ち着きのある美しさを備えている。
そんな街に騒乱は似合わない。
もしも存在するのなら、それはわたしが取り除いてみせる。
オルドノワのほぼ中心に位置する噴水、その頂上に立つ少年の像の頭に着地する。
町の人々の姿はない――きっと物陰や建物内に隠れたのだろう。
噴水を囲うようにうごめく『黒い怪物』は、巨大な1つ目をもつ四足生物のようにも、どす黒い化粧台の化け物のようにも見える。
黒い怪物、『ネヴィ』は黒い触手を伸ばし、わたしの体を引き裂こうと襲い掛かる。
それをわたしは超人的なステップでかわし、ネヴィの背後をとる。
ネヴィが振り返る暇も与えずに、巨大な1つ目、弱点であるコアに渾身の回し蹴りを撃ち込む。
全体重と遠心力を乗せた硬いヒールの一撃でコアは粉々に砕け、ネヴィは制御を失い黒い粒子となり塵と消えた。
「……ふぅ!」
緊張から解き放たれ、思わず大きく息を吐く。
ほんの1体、それも小物とはいえ、ネヴィとの戦闘はいつだって死と隣り合わせだ。
触手の先は皮膚を裂き、タックルをもろにうければ骨は折れる。
それでも戦えるのは、それが人々の笑顔に繋がるからだ。
「もう大丈夫。ネヴィはやっつけたよ!」
違和感を感じたのは、安全を知らせても、返事が返ってくるどころか、物陰から顔を出す人もいなかったからだ。
「……みんな?」
そこにはだれもいなかった。
木の影、出店の裏、建物の中、どこを探しても影だって見当たらない。
悲鳴の主だって見つからない。
私の声に誰も反応しないんじゃない。
はじめから誰もいなかった。
だだっ広い街に、わたしだけが立ちつくしていた。
バネのように飛び起きる。
息を荒立て、辺りを見渡すと、そこは見慣れたわたしの家――ベッドの上から見る、いつものわたしの部屋だった。
「……まただ」
時計を見る。
眠りについてからまだ2時間も経っていなかった。
ここしばらく、悪夢を見ない夜はなかった。
原因はわからない。
だが、見るのは夜中で、夢に出てくるのは誰もいない街とネヴィだけ、というのはいつも一致していた。
玉汗があごから落ちる。
きつく目をつむっていたせいか、視界が酷くぼやけている。
心臓は早鐘のように高鳴り、ズキズキと痛む頭に懸命に血液を送り込む。
火の中にいるように身体が熱かったが、背筋は氷のように冷たい。
ニャア、と、鈴のような鳴き声が枕元から聞こえた。
シルエットは正しく猫だが、目もなければ毛だって生えていない。
表皮は黒く、ところどころがきらめいていて、まるで星空を見ているよう。
わたしの相棒、猫もどきのダスティだ。
記憶もなく、馴染みもない街で途方に暮れていたわたしについて回る謎めいた存在。
しかし、わたしに重力操作の力を貸してくれている張本人でもあり、ダスティがいなければ今のわたしはいなかったと心から思っている。
街での私の居場所を与えてくれた、恩人(恩猫)の1人(1匹)だ。
そういえば、重力操作はダスティなしでは行えないはずなのに悪夢の中ではそんなことお構いなしだ。
夢の中独特の、リアルの排除だろうか。
「起こしちゃった? ――ゴメン、わたしはこのまま起きてるから、お前はお休み」
しばらく私の顔をありもしない目でのぞき込んでいたが、やがて諦めたように寝床であるバスケットに戻っていった。
――心配してくれているのだ。
鼓動が落ち着いてきた。
汗ばむ身体を夜風がなで、途端に寒くなってきた。
ほんの数時間前にお風呂に入ったばかりだったが、もう一度シャワーを浴びることにした。
シャワールームはベッドから3歩の距離だ。
家と表現したが、わたしの住むこの場所は、もとは豪雨による住宅の浸水を防止するために建造され、都市の巨大化と排水効率の上昇に伴い打ち捨てられた大きな鉄の管だった。
世間一般では、土管と呼ばれる。
言い訳だとかそういう類のものではないが、土管といってもベッドを横に配置してそれでもなお机や装飾品を飾れるぐらいには空間に余裕はあるし、わたしがここで暮らし始めたころは、住処を失い職にあぶれ、居場所を奪われた人々が大勢同じように土管暮らしをしていた。
――それでは逆に危険じゃないか、というツッコミは置いておいて。
よくよく考えてみると、そんな食う寝るところにすら困窮する人々を救ったわたしが、数少ない土管暮らしを続ける者の1人というのは、はたから見ればよくわからない話かもしれない。
顔見知りの男性に、以前それを指摘されたことを思い出す。
確か、ここが気に入っているから住んでいるんだ、と返答したはずだ。
その答えは、今も変わっていない。
何もない土管を1からカスタマイズして作り上げたここは、文字通りわたしだけの城だった。
今こうして熱湯を吐き出すシャワーだって、水道管にホースとじょうろの先を組み合わせた、わたしのお手製だ。
はじめは素材どうしの繋ぎ目からお湯がもれたり、ヘッド部分が外れて頭にこぶを作るはめになったりしたが、そういう失敗も良い思い出、この家から離れられない理由の1つとなっている。
記憶のないわたしは、だからこそ、これまでに積み重ねたものを手離すのをひどく恐れていた。
悪夢にうなされていた当時のわたしは、そんな自分の弱さに気づかなかった。
誰にだって多少なりとも存在する、心のもろいところに。
重力姫と褒めそやされていたって、わたしはキトゥンという1人の少女だった。
袖が異様に膨らんだ黒い衣装は、カラスを連想させた。
黒衣の少女が従える存在もまた、星空をこねて創ったようなカラスもどきだった。
オルドノワのとあるビルの屋上。
わたしと同じように空中を移動するその少女をここまで追ってみたが、いざ声をかけようとすると、その身体が放つ威圧感と瞳の宿す暗い迫力に気圧されて、言葉に迷ってしまう。
訊きたいことは山ほどあった。
この力について、猫もどきについて、そのカラスもどきについて、力の使い方について……
彼女なら、その疑問のいくつかに、ともすれば全てに答えをくれるかも、という淡い期待があった。
わたしはあまりにも無知だった。
結局、それらの答えを彼女から得ることは叶わなかったけれど。
しどろもどろのわたしにしびれを切らしたのか、それとも初めから興味などなかったのか、黒衣の少女は空の彼方へ飛び立っていった。
先ほどまでのゆったりとした飛行ではない。
重力操作のいろはを学んだばかりで、技量の十分ではなかったその頃のわたしでは到底追いつけなかった。
目的を失い、また途方に暮れる。
それでも、怪我の功名というべきか、比較的高いところにたどり着いたから、街を見渡すことができた。
そこから見ると、街が下界も見えないような上空にあること、巨大な柱に巻き付くようにできていること、そして、数か所がかじられた様に欠損していることが分かった。
街の上空を無数の空飛ぶ船が往行している。
プロペラの類は見当たらない。
何か特殊な原動力で飛行しているらしい。
もう少し視点を狭めて分かったのは、ここがどうも路地裏らしいことだ。
広めの空き地に、動いているのかすら怪しい工場。
さびれた雰囲気をただよわせるここにいるのは、わたしを除くと、いかにもガラの悪そうな男が3人ほどだ。
……いや、もう1人いた。
その3人に包囲されるように、青い制服――警務官、という人たちの制服だろう。黒衣の少女を追う途中で見かけたはずだ――の男が立っている。
壁に背を預け、おびえた顔をして、文字通りの立ち往生といった有様だ。
驚いたのは、3人の男がそれぞれ手にしているのが鉄パイプやナイフといった凶器ばかりだったからだ。
半ば反射的に体が動いた。
黒猫もどきのダスティのおかげで、身体10個分ほどもある高所から落下しても平気だった。
落下時の衝撃を、重力を反転させて相殺したのだ。
警務官の男がたまらず閉じた目を開けるころには、わたしはあっという間に悪漢たちを片付けていた。
普通は予想できない上空からの不意打ちではあったが、これほど鮮やかに大の大人をのしてしまえるあたり、記憶を失う前の自分の素性になおさら興味がわいてきた。
とはいえ、さしあたっては目の前の警務官だ。
「はぁ~たすかったよ! 逃亡中の暴漢を追いかけてて……で逆に囲まれちまって……」
危機を脱し余裕を取り戻したらしい警務官は、身体のほこりを払い、
「と、ところでさ。いったい何者?」
意図的に無視したわけではないが、彼の背後にある張り紙に目を奪われ、あまつさえその身体を押しのけてしまう。
張り紙に描かれている少女には見覚えがあった。
カラスのような黒い衣服。
赤いメッシュ。
重力使い、という二つ名。
わたしが後を追っていたあの黒衣の少女は『クロウ』という名前だという。
それも、さっきの暴漢たちとは比べ物にならないほどの悪人とされているらしい。
しかし、その割には、彼女はあの屋上で身分の高そうな男と何やら短い話をしていたが……
話の内容が分かるほど近くにいなかったし、そもそも聞き取れていたとしてもわたしには半分も理解できなかっただろう。
自分のことだって何一つわかっていないのだから。
「ちょ、ちょっと君――」
警務官の男が諦めず声をかける。
先ほどの男たちはチャンスとばかりに空き地に逃走していったが、この男は仕事などお構いなしとばかりにわたしに興味津々だ。
「君、ここでなにしてるの? 何でここにいるの? どこから来たの?」
一度にまとめて質問されたせいで、思わず言葉に詰まる。
「あ、いや……それを知りたいのはわたしの方と言うか……」
「はぁ?」
遠回しな言い方をしてしまったせいで、男は首をかしげる。
クロウの張り紙をはがし、眼前の警務官に突き付ける。
「――だから! 『わたし』が誰で、何で、ここ、にいるか自分でもわかんないんで困ってるんです! だからこの女の子なら知ってると思ったんです!」
語気を強めてしまったのは、それが切実な問題だったからだ。
だが、警務官はそれにひるむことも不快感を表すこともなく、より熱心にわたしに話しかけてきた。
「もしかして君はあれ? あの、いわゆる記憶喪失ってやつ?」
答えようとするが、男は流れるような、あびせかけるようなマシンガントークでわたしの気勢をそいでゆく。
そういうのってカッコよくない? だとか。
マンガとか映画とかでよくあるよね! だとか。
身分不明の少女に対する職務質問のようなものかと思っていたが、もしかして、これはいわゆるナンパというやつなのか。
暴漢たちをこんな路地裏まで追いかけるわりには彼らが尻尾を巻いて逃げるのを見過ごしたり、どころか仕事をほっぽり出して年端もいかない娘を口説こうとしたり、この男の職務態度が良いのか悪いのか、判断に困るところだ。
今にして思えば、このお調子者の警務官『シドー』との出会いは、間違いなく私の人生のターニングポイントだった。
――良い意味でも、悪い意味でも。
「……い。おーい。起きてくださーい、眠れる重力のお姫様ー」
ふざけたモーニングコールで過去から引き戻される。
「よく眠れた? 起こしておいてなんだけどさ」
「……うん。懐かしい夢を見てた」
わたしを現実に連れ帰したのは、夢にも現れたシドーだ。
周期的にやってくる揺れが心地よく、つい眠ってしまったようだ。
今、わたしたちは電車の個室の中にいる。
悪夢に飛び起きシャワーで気分転換した後、眠れる気分じゃなかったからここ数日分の新聞をのんびり読んでいた。
空が白み、人の往来がちらほら感じられるになった頃合い、朝一番といってもいい時間帯にシドーが訪ねてきた。
――体調悪いのは知ってるんだけど、こんなこと、キトゥンにしか頼めなくってさ。
いつものように軽口を叩く彼の顔は、いつになく暗かった。
詳しくは電車の中で話す、とか、緊急事態なんだ、とも言っていたような気がするが詳しくは覚えていない。
初めて乗った電車に浮足立っていたような気もするが、それも覚えていない。
というのも、電車には前から興味はあったが、ペットの同伴が禁止されているせいで乗れなかったからだ。
猫もどきは一応ペットに分類されるらしい。
今回は警務隊のシドーが運転手さんにお願いして、ケージから出さないなら、という条件付きで乗車させてもらった。
「もうすぐ着くから、その前に説明しておこうと思って。内密の話だから、ここが個室なのも都合がいい」
そう言って、シドーはファイルから数枚の紙を取り出す。
「最近、重力船が立て続けに行方不明になっている事件は知ってる?」
首肯する。
ここ1週間ほど、世間はこの事件で持ちきりだ。
上空という地形上、空を自由に移動できる重力船はヘキサヴィルの物流、人の移動手段において重要な立ち位置にある。
原因不明、容疑者不在のこの事件は、市民の不安の種となっている。
「いろんな重力船が連絡も通報もなく、いきなり消えちゃうんだっけ」
「そう。お使いに行った船が返ってこない。定時に来るはずの船がこない。民間、公共問わずあらゆる重力船が霧のように姿を消す……」
紙袋から続けて地図を取り出す。
巨柱を中心に描かれたヘキサヴィルの地図には所々に青い曲線と赤いバツ印が点けられている。
シドーは特に落書きの多い場所を指さして、
「行方不明になった重力船の航行予想と消失予想地点だ。見たらわかるだろうけど、消失は工業地区『インダストリエ』付近で最も発生している」
つまり、一連の消失事件の原因はその近くに存在する、と警務隊はみているようだ。
インダストリエ行きの電車に乗ったことに納得がいった。
「そのあたりから船探しをすればいいってこと?」
シドーはしばらく考えるように地図を見つめていた。
そして、申し訳なさそうにうつむいた。
「いや……実は、重力船の場所についてはアタリがついてる。インダストリエとヴァン・ダ・センタリアレを結ぶ線路の真下だ」
消えた重力船の行き先はわかっているというわけだ。
それなら、わたしが行く意味はなんだろう。
まさか、重力船をヘキサヴィルまで運ぶのを手伝ってほしいというわけでもないだろう。
「問題は、まわりにネヴィがうろついてることなんだ」
ネヴィ。
紅黒の怪物。
意思を持ったエネルギー体。
思わず身を乗り出していた。
想像通りの反応だったのだろう、シドーがうなずく。
「そうだ。ネヴィがまた現れたんだ。しばらく表に出てこなかったあいつらが大量に。しかも、様子がおかしいんだ」
ネヴィは本来、本能のままに破壊と暴力をふりまく存在だ。
しかし、今回発見されたネヴィは襲撃した重力船をスクラップにせず、どころか傷つけないように丁寧に自分たちの巣へと運んで行ったらしい。
本能を抑え込み、理性的に行動している。
まるで、何者かに操られているかのように。
「パトリアの一件以来、軍部は以前ほどの強権を持っていない。市民からの反発もあるが、街の復興に費用や人材が割かれているのもそれを後押ししている」
対ネヴィ兵器も巨大重力戦艦も、市民からの反対運動で兵器庫のこやしになっている。
現市長ドネリカが極秘裏に進め、盛大に失敗したパトリア・トキシカのもたらした影響は、同じく市長の秘蔵っ子であった対ネヴィ特殊部隊にまで及んだのだ。
かつての大部隊は機能せず、ネヴィに対抗できる存在は今や数えるほどしかいない。
わたしと同じ能力を持ち、かつては告死鳥とまで呼ばれ忌み嫌われた『グラビティ・クロウ』。
対ネヴィ特殊部隊のエース、右手と両足が機械の『シーワスプ=ユニカ』。
そして、重力姫と呼ばれる『グラビティ・キトゥン』。
クロウはもともと警務隊とそりが合わず、ユニカはどこにいるのかわからない。
だから、わたしに白羽の矢が立つのは当然ともいえた。
どこか遠慮がちなシドーにわたしは笑みを浮かべて、
「大丈夫! 私に任せなよ。絶対みんなを連れて帰ってくるから」
パンパン、とほほを両手で叩く。
久々の大仕事に、石のように重い頭が冴えてきたような気がした。
「お! その意気その意気」
先ほどまでの暗い雰囲気はどこへやら、シドーが声の調子を上げた。
「やっぱり、我らが重力姫に暗い顔は似合わないよ。今回も礼はたんまりはずむぜ」
「別にお礼とかもういいよ?」
「そう言ってもらえるのはありがたいけどさ、助けてもらってばっかってのも大人としてどうかと思うんだよねー」
それにしても、とシドーは言葉をつづける。
「ネヴィ退治を頼まれて元気になるって、こういうのって何て言うんだっけ? バーサーカー?」
「はぁ!? それが乙女にかける言葉? 信じらんないっ!」
机上の紙束を掴み投げつける。
舞い上がったそれらは、まるで白い花びらのようだった。
ヘキサヴィルの街並みは、横よりも縦に、より細かく言えば上へ上へと発展してきた。
巨柱に巻き付くように存在している都合上、横に大きくなりすぎるとてこの原理が働いて根元から折れてしまうからだ。
……もちろん、前例があるわけではないけど。
その関係で、街は上層ほど富裕層が多く、下層になるにつれて土地は安くなり、貧困層が増えてくる。
上層と下層とで住む人種とニーズが変わってくるから、街は層により多様な顔を見せる。
その唯一の例外が、工業地区インダストリエだった。
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