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蒼き夢の果てに

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第6章 流されて異界
  第133話 アンドバリの指輪

 
前書き
 第133話を更新します。

 次回更新は、
 1月27日。『蒼き夢の果てに』第134話。
 タイトルは、『弓月桜』です。
 

 
 全体的に色素が薄い少女と言うべきであろうか。髪の毛は浅い紫。肌は透けるような白。真っ当な生命体としては考えられないような、ほぼ完全に左右対称と言える整った顔立ち。くちびるも、そして、その瞳の色も薄く……。

 いや、違う。それだけではない。
 そもそも、彼女はその存在自体が希薄。生物として其処に存在している事さえ疑われるような存在感。人間と言うよりも高位の精霊と言った雰囲気。高校でも、おそらく彼女の事に気を留めているのはハルヒ周りの人間以外ではあまりいないであろう。
 まるで皆から忘れられた彫像の如く、自らに与えられた席に腰を降ろし、ただ静かに本を読む少女。校内で能動的に動くのは俺と共に行動している時だけ……。クラスメイトたちはそう言う印象でしか彼女の事を覚えていないはずです。

 何故ならば、彼女自身が軽い穏行の術を自らに施しているから。他者にその存在を認識されないようにしているから。

「俺はオマエの事しか考えていないさ。正に誠実なることトロイラスの如しだ」

 少し、不自然な間を空けながらも、それでも答えを探し出した俺。
 ただ、これでは苦し紛れに返した感が強すぎる。そもそも、本当にこの台詞をトロイラスが口にした瞬間は、間違いなく本気――大真面目での台詞だったのでしょうが、今の俺の口から出ると本気と取られる可能性はゼロと言う口調及びタイミングでしかありません。
 たったひとつ、俺が彼女の事を拒絶した訳ではない。それだけが彼女に伝わってくれれば良い。そう考えて発した意味のない言葉。

 そう、結局、結論は先送り。感情を理性で完全にコントロール出来ない以上、これは仕方がない事。
 黙って有希やタバサを見つめるだけで心が騒ぎ、気付かぬ内に彼女らに手を伸ばしている。瞳は無意識の内に彼女らを探して仕舞う。こんな感情を簡単にコントロール出来るのなら、俺はとっくの昔に悟りを開いて新しい世界を創り出して居る。そう言う、かなり投げやりな気分で。

 もっとも、ほんの五分前まではハルヒの事を。
 三分前はタバサを。
 そして直前まで有希の事……と合わせて、ハルケギニアの湖の乙女の事を考えていたのです。これではどちらかと言うと、『不実なることクレシダの如し』と表現した方が良いかも知れない状況でしょう。

 但し、ハルケギニアから湖の乙女をこの世界に召喚出来ない理由は、彼女と有希が、時間軸が違うだけで、まったく同じ魂を持つ存在である可能性が高いから……。
 湖の乙女は、未来の長門有希である可能性が高い、と俺が考えているから――

 完全に密着させていた状態からは少し離れたが、それでも他の女性……タバサ以外には絶対に近付かせない距離に存在する彼女を見つめる。
 本当はこんな場面でも、シェークスピアの作品の中でも問題作と言われている『トロイラスとクレシダ』の台詞をすっと登場させられる事に、笑い……までは行かなくても、表情を少しは変えて欲しかったのですが……。
 彼女もハルヒと同じで、自分を過小評価し過ぎている。その事に気付いて欲しい――

 ほんの僅かでも場の空気を変えたい、と願い、ない知恵を絞って発した軽いギャグ。有希ならばその意図と、言葉の意味は理解出来るはず。
 しかし……。

「雷神の 少し(とよ)みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めん」

 普段通り、単調で抑揚の少ない口調。但し、故に、今のふたりの間に漂う雰囲気を巻き込み、より一層、空気を重い物へと変える彼女の言葉。
 何時もの……次元を超越しようと、時間軸が違おうと変わりのない彼女の瞳に、真っ直ぐに見つめられる俺。その深い、少し潤んだ瞳に曇りも、そして迷いも今は感じる事はない。
 タバサから始まり、湖の乙女へと繋がり、夢の世界で出会ったシャルロットから長門有希へと辿り着いた無機質不思議ちゃん系の基本。ただひたすら俺の瞳を覗き込むようにして問い掛けを行う有希。
 何時も……と言うか、他者に対する時と俺を見つめる時の僅かな違いは、その微かに潤んだ瞳。少なくとも俺を見つめる時の彼女らの瞳は、ほんの少し潤んでいると思う。そして、俺以外の他者を見る時は、路傍の石を見る時と同じような瞳。確かに、俺以外を相手にする時のタバサは何時も眠そうな瞳……半眼に閉じた瞳とも表現出来るので、表面上は少し分かり難いのですが、有希と万結はまったく同じように思える。
 もっとも、これは俺が彼女らの心の動きが分かるが故に、他者を見る時の彼女と、現在の彼女の違いが分かる、と言うレベル。
 他の人間から見ると、彼女らの多くがメガネを掛けているトコロから、その違いは絶対に分からないだろう、と言う微かな差異でしかない。

「先ずはありがとう、と言うべきなんやろうな」

 俺を必要としている。……と彼女が言ってくれたのですから。
 矢張り、誰かに必要とされるのはかなり嬉しい。まして、それを現実の言葉として発してくれたのなら。
 確かに俺は気を読みます。故に、彼女やタバサが発して居る俺に対する感情は強く伝わって来ます。……ですが、それは俺がそう感じていると言うだけ。それを現実の言葉として聞かされるのとでは、矢張り大きな違いがありますから。
 特に言葉数の少ない彼女らからならば。

 自由な方の左手を彼女の頭に再び置く。俺に触れられている時の彼女からは陽の気。多分、安心や幸福などを感じさせる雰囲気を発せられるので……。
 これを彼女の方から拒否する事はあり得ない。
 先ほどのただ経絡を刺激するだけの軽い圧迫を加えるような、ある意味乾いた触れ方ではない、……何と言うか、髪の毛一本一本を優しく愛撫するかのような触れ方。

 上目使いに俺を見つめ、そして視線のみで僅かに首肯く有希。このような時には何時もの通りの反応。

 ただ……。
 ただ、確かに、普段でも事、俺が絡む時には少し失調気味になる事がある有希なのですが、今宵の彼女は何時にも増して少し雰囲気が妙だとも思える。
 その理由は――

「……柿本人麻呂か」

 独り言のように呟いた後に、心の中で小さくひとつため息。尚、これの正しい返歌は『われは(とど)らむ (いも)し留めば』……つまり、オマエが留めてくれるのならば俺はここに残るよ、と言う意味になる。
 ただ、故に、

「悪い、有希。その返歌を口にする事は出来ない」

 確かに、俺が向こうの世界に帰らなくても誰も文句は言わないでしょう。
 タバサも、湖の乙女も、その他の連中も。
 あの白猫の姿をした白虎でさえ、俺が関わり続ける義務はない、と言う意味の内容を口にしました。

 しかし――

「向こうの世界に残して来たのも、大切な家族なんや」

 今は私だけを見て欲しい、……と言った少女から視線を外し、何処か遠い彼方に視線を向ける俺。
 まるでその方向に彼女らが居るかのように。

「向こうの連中はアレが永遠の別れとならない事を望みながら――」

 戻って来ない事を心の何処かで祈っている。
 彼女ら……転生者である彼女らの強い願いは、前世の轍を踏まない事。その目的を果たす為に、いばら道と成る事が分かっていながら今の人生に転生を行った。

 彼女らの目的、それはおそらく前世で早々に退場して仕舞った俺を生き残らせる事。
 そして、世界の危機が迫っているハルケギニアに比べると、この有希が暮らして来た地球世界が安全だと言う事は……おそらく湖の乙女と妖精女王は知っている。
 いや、湖の乙女は俺がこの世界に流されて来ている事を間違いなく知っている。

 そうでなければ、あのような台詞は口に出来ない。
 曰く、自分の事を嫌いにならないで欲しい、などと言う事を――

「帰って、最低でも一言。ただいまと言わなくちゃならない」

 それで彼女らが喜ぶか、それとも哀しむのかは分からない。でも、帰らなければ、俺が俺で無くなって仕舞うから。
 帰らなくても、帰っても結果、後悔するのなら、俺は帰って、全力で事に当たってから後悔したい。

 また一歩届かなかったのか、と……。



 すべての会話が終わり、その場に最初と同じ静寂が降りて来る。
 相変わらず有希の頭に手を置いた状態で、彼女の瞳を見つめ続ける俺。

 彼女は……俺が帰りたい理由を理解はしてくれたと思う。……だとは思うが、納得して貰えたのかは微妙。
 それまでと同じように、少し潤んだ瞳で俺を見つめる彼女が発するのは哀。愛ではなく、哀だと思う。

 言葉だけで納得してくれ、と言っても無理か。家族が戦場に赴くと言うのを快く送り出してくれる訳はない。
 むしろ留めて当然だし、本当にオマエが行かなければならないのか、もう一度ちゃんと考えてから結論を出せ、……と言う言葉が出て来ても不思議ではないと思う。

 逆の立場。俺が彼女の立場に立つのならば、間違いなくそう問い掛けるから。

 それに、彼女に取っても俺は唯一の家族。創造物として彼女に、心がない人形としての行動を強いていた邪神……情報生命体に対する感情は、家族に対するソレだとは言えないだろうし、それ以外の人物に対しても家族と言える相手は居なかったはず。
 朝倉涼子に関しては唯一ソレに近い間柄かも知れないのだが、現状では朝倉涼子自身が未だ一般人のサイドに属していて、こちら側の存在に成り切っていない。

 これは、長門有希が今の俺に固執したとしてもなんら不思議な事はない、と言う事か。
 それが人間で言うトコロの恋愛感情……少なくとも独占欲に近い感情である事も、この旅行の際の彼女の不機嫌さやその他の態度などから推測出来る。

 一日の半分はずっとふたりだけで過ごして来たのだから、其処に他者が入り込めば多少は不機嫌にもなろうと言う物。まして、彼女に取って俺は父親にも等しい存在。生命の恩人で、生活の糧を得る方法や生きる目的をもたらせた人物であり、最初の術の師であり、背中を預ける相棒であり――
 手の掛かる子供のように感じている部分もあるらしい。

 彼女は元々創造物。情報生命体に使われる事を前提に造り出された存在であるが故に、誰かに使われる事。つまり、誰かの世話を焼きたい、と言う強い願望があると思う。これは付喪神系の無機物に魂が宿った時に、この世話焼きさんタイプの人格となる事が多いのですが……。
 その彼女の目の前にずぼらで面倒臭がり。しかし、妙に知識の幅が広い俺が現われた。
 今の俺は妙な(しがらみ)に囚われているけど、二〇〇二年二月段階の俺ならば完全にフリーの状態。この辺りは異世界だろうと、何であろうとあまり違いはない……と思う。
 そう言う方向から見ると、ハルケギニアの連中であろうが、ハルヒや弓月桜であろうが変わらない。有希からしてみれば後から出て来た相手に、まるで自分の父親……それも少し世話の掛かる父親を取られようとしている気分だと思う。

 無意味な方向に傾く思考。しかし、直ぐに首を振り前向きな方向に戻そうとする俺。
 それは至極真っ当な結論。万の言葉を紡いでも納得して貰う事が出来ないのなら、行動で示せば良い。
 ただそれだけの事。

 それならば――

「有希、ひとつ頼みがある」

 メガネ越しの少し潤んだ瞳が見つめている目の前で、突然、学生服のボタンを外し始める俺。そのような行き成り、更に意味不明の行動に対して、しかし、眉ひとつ動かす事のない彼女。
 まぁ、ハルヒなら行き成り何をし出すのよ、……とツッコミを入れて来るトコロでしょうが、有希ならば俺の行動にある程度の意味がある事は理解して居ますし、何より、俺の事を信用して居るので余計な茶々を入れて来ようとはしない。

 普段とは違う詰襟のホックを外し、上から順番にボタンを外して行く俺。
 そして、上着の内側の胸ポケット。その一番奥から取り出した小さな蒼い光を、彼女の目の前に差し出した。
 その瞬間、指輪に籠められた霊気に反応したのか、周囲の精霊が活性化。見鬼の俺の瞳には、それが淡い光輝として感じられる。

「これを今回の戦いの間、預かってくれへんか?」

 おそらくプラチナ製と思しきリングに蒼い宝石。宝石自体の材質に付いては不明。ただ、かなり巨大な霊力を宿して居るのは確実。……と言うか、俺が彼女、湖の乙女から預かってから既に半年。最初に彼女から渡された時よりもその輝きが増した事から考えると、俺の心臓に一番近い位置で長時間持って居た事により、俺の龍気を吸収した可能性も大きい。
 これに籠められている霊力を一気に開放すれば、奇跡と呼ばれる魔法の行使すら簡単な事と成るでしょうね。

「これはハルケギニアに残して来た友人が大切に――。多分、自分の生命よりも大切に守っていた物」

 この指輪を有希に預かって貰いたい。これから出向く戦場で失くしたり、壊したりしないように。
 そっと差し出すアンドバリの指輪。蒼の宝石は、仄暗いふたりの丁度中間辺りで淡い光り……普通の人には見る事の出来ない光。精霊光を発していた。
 俺の言葉に促されるかのように、その指輪に触れようとした有希。しかし、何かに……まるで、急に指先に走った静電気に驚いた時のように、指輪にしっかりと触れる事もなく指を引っ込めて終った。

 そして、上目使いに俺を真っ直ぐに見つめる。ただ、この時の彼女が発して居た雰囲気は、先ほどまで彼女が示していた哀と言う感情などではなく、……これは多分、疑問。
 但し、ほんの少し触れただけで彼女が、この指輪の正体について何処まで気付いたのかは不明ですが……。

「確かに巨大な霊力が籠められた呪物である事は間違いないけど、これを持つだけで呪いが降りかかる、などと言う危険なモノでもない」

 この指輪は、俺に取っては正に呪いの指輪(ホープダイヤ)であった事は間違いない。しかし、逆に言うと、コイツが居なければ、俺が今ここに生きている事は不可能だったのも事実。
 それに、

「大丈夫。こいつはオマエの身を危険に晒す事は絶対にない。それだけは保障する」

 この指輪に籠められた(しゅ)と言うのは、そう言う類の呪。
 俺も幾つかの笑顔と言う物を使い分けるが……。例えば、ワザと犬歯を剥いてニヤリと笑う、何処からどう見ても肉食獣が獲物を前にした時に発する類の笑みとか、昨夜の犬神使いを相手にした時に発して居た、人を小馬鹿にしたような笑みなどの少々、問題のある笑い顔とか。
 しかし、この時に浮かべた笑みは、タバサや有希がその笑みを見た瞬間に発する気が一番好ましい……と思う笑みをチョイス。ハルヒやさつきなら、何故か怒ったように視線を逸らして仕舞う類の表情。

 警戒……ではないと思う。しかし、何か逡巡に近いような気を発しながら、それでも手の平を上に向ける有希――
 その、かなり華奢な白い手の平の上に蒼く光る指輪を置く俺。
 しかし……。

「私はこの指輪を預かる事は出来ない」

 強い口調と言う訳ではない。しかし、これは拒絶。
 そして、手の平の上に置かれた指輪を、そっと俺の方へと差し出して来た。

「この指輪はあなたを護る為に、その友人があなたに預けた物。その様な大切な物をわたしが預かる訳には行かない」

 淡々とした口調で、至極一般的な答えを返して来る有希。
 成るほど、未だ彼女はこの指輪の正体に気付いていない、と言う事か。

 もっと長い時間、指輪に触れていたら分かるかも知れない。それに、もしかすると俺が持って居た時間が長すぎて、湖の乙女の気配が薄く成り過ぎて居る可能性もある。
 出来る事ならば、言葉を弄する前に気付いて欲しい。そうしなければ、歴史に影響……と言うか、俺の言動により彼女の未来を確定させて仕舞う可能性がある。
 彼女が心からそう願い転生を行ったのなら問題はない。それを止めてくれ、と言える立場に俺はいない。しかし、ここで俺が、有希の未来はハルケギニアに転生する可能性が高い、と告げるのは――

「その通り。その友人に取って俺は他の何モノ……多分、自分自身と比べても俺の方が大切だ、と答えるような人物」

 湖の乙女も相手に因って順位付けを行うような人間ではない。しかし、俺と、俺以外と言う対応の差は行っていた。
 最初は俺を契約相手と為したが故に、そう言う対応の差が出るのかと思って居たのですが、それは多分間違い。おそらく、彼女は今、目の前でアンドバリの指輪を俺に対して差し出している少女であった時の記憶がある。
 その記憶に従えば、俺を契約相手に選ぶのは当たり前。
 そして、俺とそれ以外の人間……と言う対応の違いも出て来て当然でしょう。

 俺の言葉に、表情からはそれまでと違う様子を窺う事は出来なかった。しかし、心の部分は違った。今の有希は明らかに動揺と思われる気配を発して居る。
 今までも。そして、今もその友人と言うのが女性だなどとは口にしてはいない。しかし、言葉のニュアンスや、俺の発して居る気配でそう感じ取る事は出来たはず。

 確かに今までも微かには感じて居たでしょう。しかし、今回ほどあからさまにハルケギニアに残して来たのが女性だと臭わせた事はありません。

「俺の事を大切に想ってくれている相手から預かった物だから、有希に預かって貰いたいんや」

 今度の……今夜戦う相手は不確定の要因が多すぎて、どう言う展開で話が進むのか予想がし難いから。
 事実をありのままに口にする俺。
 昨夜はその部分を甘く見て居て、最後の最後に伏兵に足を掬われるような結果となって仕舞った。

 実際、単独犯と決めつける根拠など何処にもなかったのに、目の前に現われた犬神使いの青年だけが敵だと思い込み、共犯者の存在を始めから頭の片隅にも置いて居なかったのは、無能の誹りを受けたとしても仕方のない事実だったと思う。
 ハルヒが攫われた件でも然り。結界の過信。実際、侵入を阻止する結界を複数配置したのと、最後の結界……部屋の存在自体をあやふやにして仕舞う結界を同時に無効化されるとは考えて居なかったのですが……。
 ここも、涼宮ハルヒと言うかなり特殊な立場の人間が居る事を敵が初めから知って居れば、部屋の存在自体をあやふやにしようが、押し入れの隅に隠そうが、ホテル中をくまなく探し回られて、結果、存在を確認出来ない部屋を発見されたと思う。
 建物の構造自体を弄った訳ではない。存在自体をあやふやにする、……と言うのは部屋の扉があるのに、其処に窓があるのに、何故かそれが()()と認識出来なくしているだけ。
 例えば人海戦術。相当数の犬神を使役して居た上に、ヤツ自身が犬神を倒された際に発生する返りの風を受けても平然として居られる程の、ほぼ不死身と表現しても問題ないような回復能力を示していたので、こう言う採算を度外視した戦術も使用可能でした。

 このような方法。当然、俺やその他の敵対者の足止めを同時に行いながらの捜索活動となるので、その場合の被害は甚大な物に成る可能性は異常に高く成るのですが……。それでもハルヒを生け贄に使って行う召喚作業がもたらせる効果から考えると、犬神の千や二千の被害など問題にならないぐらいの効果を発揮する可能性が高いので……。
 実際、一九九九年七月七日の夜に彼女は、自らを贄とする召喚作業を意識する事なく行った挙句に、アンゴルモアの大王ならぬ、名づけざられし者と言う、この世界に取って最悪と言うべき神を召喚して見せましたから。

 ――術者としては完全に素人の彼女がね。

 それに、そもそも、這い寄る混沌が関わっている可能性を最初に考えたのに、ハルヒがこの破壊神召喚事件に無関係だと、何故思い込む事が出来たのか。ヤツらの目的から考えると、ハルヒの中に眠って居る黒き豊穣の女神シュブ=ニグラスの種子を目覚めさせるのは、世界を混乱させるのに持ってこいの方法ではないのか。
 実際、今年の七月七日の夜までは、無意識の内にハルヒが発生させた色々な怪現象で水晶宮は兎も角、天の中津宮の方は事件処理に忙殺されていたはず。
 最低でも俺の飛霊を護衛に付けて置けば、あの程度の犬神使いなどに彼女が攫われる事はなく、昨夜の段階で事件は解決していたはずなのですが……。

「その指輪は彼女の宝であると同時に、俺に取っても大切な宝」

 広げられた彼女の手を包み込むように……つまり、指輪ごと彼女の手を握り、瞳を見つめながらそう言う俺。
 太平洋岸とは言え、クリスマス直前の東北の夜。俺たちだけの為に全館を暖房する必要はない、と断った為、この廊下の温度は外気温と大きく違わない。
 吐き出す息は少し白く凍り、空気の冷たさが肌を刺すかのような夜。

 両手で冷たくなった彼女の手を完全に包み込む。俺の手の温かさが伝えられるように。
 有希が感じている心の冷たさが誤解である事を。この指輪の持ち主は、未来の長門有希本人である可能性が高いと言う事を彼女に伝える為に。
 言葉ではなく、それ以外の()()で感じて貰えるように……。

「それを有希に預ける意味をもう一度良く考えてから、答えを返して欲しい」

 俺はその指輪を返して貰う為、必ず有希の元へと帰って来る。その事だけは約束出来る。
 先ほど、ハルヒに対しては言えなかった一言。その言葉の中に含まれていた弱気に対して怒ったハルヒが、後ろから枕を投げつけて来た。
 いや、多分、彼女らしい喝を入れた心算だったのでしょう。但し、その所為で俺が結構、小細工が得意な術者だと理解出来たのですが。

 彼奴(あいつ)は彼奴なりに、俺の事を心配していた。そう言う事。

「指輪を預かる代わりに……」

 一瞬、緩んだ気。瞳は彼女の瞳を覗き込んでいながら、心の方は先ほどのハルヒとの別れのシーンのプレイバック。
 その一瞬の隙を突くかのような有希の言葉。

「戻って来た後に、わたしの願いをひとつ聞いて欲しい」

 静かな夜に浸み込むかのような彼女の声。その小さな、そして特徴的な抑揚の少ない声も普段通りの彼女。
 成るほど――

「俺に出来る事ならばな」

 握ったままであった両手を解放しながら、軽く一度瞳を閉じた後に答えを返す俺。この一拍の間は当然、彼女の様子の確認と、その願いの内容を予測する為の物。
 彼女からの願い……。今の俺に対してはおそらく初めて。二月にこの世界を訪れた俺の異世界同位体に対しては、自分の名前を呼んで欲しいとか、最後の戦いに連れて行って欲しいなどの要求は行ったはず。
 しかし、今の俺に対して明確な言葉にしての要求と言うのは初めて。
 直接言葉にして、自らの名前を呼んで欲しいとも、彼女は伝えて来ませんでした。

 今宵の彼女は矢張り、少し様子がおかしい。

 行動が少し積極的に成って居るのはハルヒの様子がおかしかったのと、弓月さんの動きの影響でしょう。更に、先ほど、俺自身が彼女の気の活性化を行った結果の可能性も大。

 少し考えるような間。真っ直ぐに俺を見つめたまま、微かに首肯く有希。少し積極的に成って居るとは言え、冷静な彼女がそう難しい要求をして来るとは思えないので、今回はこれで十分ですか。
 受け取って貰えたので、後は指輪が発する気配の正体に彼女が気付いてくれたのなら、今彼女が感じている寂しさやその他が、勘違いである事が理解出来るはず。

 後は、俺が自らの未来を変えるだけ。俺が暮らす世界は未来が絶対ではないから。必ず同じ軌跡を描き、同じ未来が訪れる世界などではなく、ほんの少しのかけ違いからまったく違う未来が訪れる可能性がある世界のはず、ですから。

 首肯いた後に、アンドバリの指輪をセーラー服の胸ポケットに納める姿を見つめながら、そう結論付ける俺。何にしても自らが、これまで以上に気合いを入れて事に当たる必要がある。
 ……そう言う事。
 そんな俺を、上目使いに見つめる有希。少し潤んだ瞳。沈黙と小さな首肯。

 そして――って、おい!

「有希、オマエ、さっきから何をしようとしているんや?」

 今度は俺の首に腕を回し、再び少し背伸びをして、俺の顔に自らの顔を近づけようとする有希。普通に考えると、これから口づけを行おうとしているようにしか考えられない行為。
 ……なのですが、彼女は軽く甘噛みする事によって治療用のナノマシンを注入する事が出来る、と言う特殊な能力がある。

 もしかすると、何らかの病の兆候が俺にあると有希が考えて居るのか、それとも――
 そう考えながら指一本で接近しつつあった彼女を押し止める俺。
 しかし――

「問題ない」

 何もかも普段通りに。淡々とした口調。表情は無で小さく呟くようにそう言う有希。但し、感情の方は非常に不満そうな雰囲気を発生させている。
 ……確かに彼女が説明をせずに何か始めたとしても、俺に取って不利になるような事を為すとも思えない。

 ただ――

「一応、聞いて置くけど、もしかしてオマエさんは、俺の身体にナノマシンを送り込んで運動能力や思考能力をアップさせる、などと言う事が出来るのか?」

 それなら、わざわざ頸動脈などから送り込まなくても、腕の血管からナノマシンを送り込んで貰えた方が有り難いんやけど――
 緊急を有するのならいざ知らず、抱き着かれ、首筋に彼女の吐息を感じながら甘噛みされるって……。
 命のやり取りをする前には流石に勘弁して貰いたい。

 確か現在の科学で再現可能で、一般的なスポーツ競技では禁止されているドーピング行為の中には、一時的に血液の量を増やす方法があったはず。それに、有希は痩せても枯れても情報を集める事によって進化の極みに達した、……と自称していた情報生命体が産み出した人工生命体。もしかすると、赤血球の能力を増大させて、一時的に酸素を運ぶ能力をアップさせ、有酸素運動を更に効率良くさせる方法を持って居る可能性もありますから……。

 一応、俺も生命体の一種ですから、酸素を身体中に送る事によって身体を動かしたり、思考したりしています。この酸素を送る能力が上がれば、当然、生命体として持って居る基礎的なポテンシャルが上昇し、引いては術者としての能力が上がる……とは思うのですが。

 俺の問い掛けに一拍の間を置く有希。少し意表を突かれたかのような視線で俺を見つめている事から考えると、これは多分、俺の想像が間違っていた、と言う事だと思う。
 しかし――

「血栓が発生し易くなるリスクを伴うが、あなたの血液は基本的にコレステロール値の低い血液。一時的に血液の増量を計るのなら、方法はある」

 方法は有るんかい! ……と言うツッコミ待ちのような表情で言葉を続ける有希。
 ただ、それならば……。

「それなら、最初の質問に帰るけど、オマエさんは一体、何をしようとしているんや?」

 行き成り顔を近づけて来る必要がある行為――
 それって、どう考えても――

「問題ない」

 あなたは動かないで居て欲しい。
 動かないで居てくれ、と言われても……。

 少し身体を折り曲げ、彼女が顔を近付け易い体勢を取る俺。ただ、現状の雰囲気としてはあまり良いムードとは言えない。確かに事務的とまでは言わないけど、今までのやり取りは何処からどう聞いても恋人同士の語らいではない。故に、このタイミングで口付けを交わすとは思えないので……。

 身体を折り曲げた事により、更に近くなった彼女の顔。その整った顔立ちと、普段よりもずっと近いその距離に、流石に少し視線を逸らす俺。
 そんな事はお構いなしに接近する彼女の――

 そして!

 触れる事なく通り過ぎる彼女のくちびる。
 代わりにしっかりと触れ合う頬。意外に温かい、そして当然のように柔らかい感触。俺に妙な安心感をもたらせる落ち着いた彼女の気配と香り。
 僅かな時間、そうして居た後に一度離れ、再び見つめ合える距離に別れるふたり。

 事、ここに至って、ようやく、有希の意図を理解出来た俺。これは親愛の情を表現する挨拶。くちびるを交わすのではなく、頬と頬を触れ合せる行為。

 反対側の頬が触れた瞬間、ハルヒによって消費させられて終った物理反射の仙術が再び補充された事を感じる。
 そうして……。

「わたしの所へ、必ず無事に帰って来て欲しい」

 ……と、耳元で小さく告げられたのでした。

 
 

 
後書き
 長門さんの機嫌が良くなった理由は割と単純ですよ。
 それでは次回タイトルは『弓月桜』です。

 追記……と言うかネタバレ。
 第6章に入ってから、それまで意識して使用していなかった言葉を使用するようにしています。
 大きな意味はありませんが、意識誘導的な効果は発揮しているはずです。
 ……え? これの何処がネタバレなんだって?

 第7章の内容に関係しているのです。その為に、第5章まではその単語の使用は避けていました。
 
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