ソードアート・オンライン〜Another story〜
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GGO編
第210話 救えた命
前書き
~一言~
遅くなってしまってすみませんっ! ですが、この話でGGO編 終了 までいきました! もちろん、番外編等はまだ考えてはいますが 正史?的な 時系列の事件は終了です。
無理矢理一話で収めようとしたら…… 何だかいつもの3倍程に膨れ上がってしまいました……。そして、GGO編の最後の内容が内容でしたので……オリ分が少なくなってしまってます。ですが、どうか温かい目でお願いします。 シノンさんが……救われて本当に良かった…… 涙
最後に、この二次小説を読んでくださって、ありがとうございます。これからも、がんばります!!
じーくw
隼人は、詩乃を背に乗せ、バイクを回し続ける。
――この風に、なった感じは……。
詩乃は、隼人の腰に手を回し、彼の温もりを感じて 顔を赤くさせながらも、GGOの世界でも、これに似た感じがしていた事を思い返していた。
そう、あの三輪バギーの背に乗り、カーチェイスをした時だった。
当然ながら、あの時の様な無茶な速度は出ていない。学校付近から 早く撤退? をしたかったのだろうか、最初こそは それなりに早い、と思っていたんだが、きっちりと法定速度を守って走っていた。その辺は とても真面目な性格だと言う事が改めてよく判ると言うものだった。訊いた話によれば、《安全第一》と強く言われていた為、だと言う事だ。
交差点を1つ、更に1つ越えた所で 信号機が丁度 青から赤へと変わった所で バイクの速度も緩まる。丁度、この交差点は国道へと出る道の為、一度赤になればそれなりに長く止まらなければならない。
詩乃にとっては、風の流れを全身に当たって、丁度いろんな意味で 冷ましていたのに、少なからず都合が悪かったのだが、交通規則は交通規則、それを破る訳にはいかないし、させる事も出来ないだろう。……そもそも、どう言えば良いのか、上手く言い換える言葉も見つからない。……思いつくはずも無い。
「シノン……、いや、詩乃」
「っ……!? う、うん??」
色々と考えていた所で、振り返らずに隼人が詩乃に声をかけていた。
声が多少裏返ってしまったのだが、とりあえず 周囲の音もそれなりに多かった為、不審には思われなかったのは僥倖だ。
「……少し 急ぎ気味で出たんだけど、大丈夫か?」
「大丈夫って?」
「バイクの事、だ。その……速度とか 乗りにくかったり、とか、大丈夫か?」
隼人は、ややしどろもどろになりつつ、詩乃に聞いていた。
信号に引っかかったのは、これが初めてであり、もう それなりに運転をした後だから 今更……と、隼人が思っているであろう事は、詩乃にもよく判り、また思わず笑っていた。
「ふふ。GGOでは、ずっと早いバギーでぶっちぎっていたのに、この程度なら 何でもないよ」
「そうか、なら良かった」
詩乃は、そう言って笑い。隼人も安心したのか、軽く息を吐いていた。
詩乃は 隼人自身も、慌てていた と言う感じがしていた。……でも、それは隼人だったら、何処か当然だろうとも思えた。
元来より、仮想世界ででは、操っているのは、自分自身とは言え 自分とは違う姿だ。故に その人間の闇が、現れる事も少なくなく、普段の自分自身とは違う人格が現れる事が多い。事情はあるものの、《朝田 詩乃》と言う現実世界に住まう自分も似たようなものだ。
現実世界ででは、か細く 弱々しい存在だった詩乃。そして、仮想世界ででは、獰猛であり《冥界を司る女神》と言う異名を持つ愛銃を使いこなす女兵士だった。どう考えても、《詩乃=シノン》だとは思えない。
だけど、隼人は違ったんだ。
向こうでも、こっちでも……変わらない。彼は彼のままだった。強い意志を持って、自分の弱さも認めて。ただただ、只管に前を見続けていた。
……ただ、唯一違う事があるとすれば、それは容姿だ。
「……でも、ほんとに似た者同士……かな」
詩乃は、隼人の背中 ライダースジャケットの背中の部分、ぴっちりと身体にフィットしていて摘みにくかったが、それでも出来ない事はなく、親指と人差し指を使って きゅっ と軽く引っ張った。
彼の背中……隼人の背中を追いかけている、と言っていた、あの世界ででのもう1人の仲間であるキリト、……桐ヶ谷和人である。
当初こそ、騙された感が全く拭えずイメージを払拭する事が出来なかったが、それでも あの世界で戦い続けて、真実をしった後はもう、認識は勿論変わっていた。……隼人と同じ地獄とも呼べる場所から生還を果たし、そして GGOの世界ででも、嘗ての世界の闇と対峙、打ち勝つ事が出来たのだから。
ただ、やはり 隼人の方が 何処か大人染みている印象が強く、和人の方は子供。……悪戯心をまだ持ち合わせている少年だ。だからこそ、鼻につく様な言動があったんだと、今であれば冷静に考えられる。……そんな和人を一蹴し、ツッコミを入れる隼人の掛け合いも絶妙だった、と感じたのはまた別の話だ。
「ん? どうかしたか?」
「んーん。……何でもないよ」
隼人は、詩乃の独り言がヘルメット越しではあるが僅かに耳に届いていた様だ。でも、詩乃は首を振って何も無い、と言っていたから 軽く隼人も頷き。
「判った。そろそろ信号が代わる。……しっかり捕まっておけよ」
「………ッッ!」
隼人のその言葉を聞いて、詩乃は考えまい、考えまい、としていた努力も軽く霧散してしまった。バイクを乗っている最中も、しっかりと背中を抱きしめていたのだ。考えれば考える程、意識してしまって 頬が赤くなってしまった。でも、それでも平常心を保とうと、今日の出来事の弁明等で頭の中をいっぱいにしていたのだ。
――……隼人との関係を明日、学校でどう話せば良いか? これから行く場所での関係者に 何を言えば良いか?
それらも正直な所、得意ではない。と言うより初めての事だらけだったから、頭を悩ます事案だ。それと相余って 走行中に身体に吹き付ける冬の風。……それらで、色々と冷ましてもらっていたのに。
「……………もうっ」
詩乃は、観念した様に 隼人の背中に腕を回した。
丁度、横断歩道の青が点滅し 赤に代わる。……止まっていた信号も息を吹き返し、赤から青に変わった。
隼人は、それを確認すると、軽くアクセルを噴かせる。
それでも 大した音にならないのは、そういった仕様なのだろう、と詩乃は何処かで納得しつつ、再び、そこまで背格好は変わらない筈なのに、大きく、そして温かく感じる隼人の背中に身体を預けていた。
詩乃が通う学校がある文京区湯島から、目的地の中央銀座までは、地下鉄を乗り継ぐと少々大変だけど、地上を行くなら案外と近いと言うものだ。
それが、少なからず残念だった、と詩乃が思っても仕方がないだろう。……あの事件以前の自分も、何処か他人とは一歩離れていたと思えるから。そんな自分に他人との関わり大切さを、仲間の事を、本当の意味で 教えてくれた初めての人だから。
《仲間》として《信頼》して、そして いつしか、《親愛》になっていた。
それを、詩乃は 自分の中で認めている。決して口には出したりはしないけれど。
……そして勿論 告白などと言う大それた事を出来る訳ではない、でも詩乃は それでも良いと思っている。
――……大切な事を教えてもらったから。
そして 闇から解放してくれたから。救い出してくれたから。……ただ、これからも手を繋いでくれるだけで良かった。……繋がりがあるだけでも、良かった。
――でも、これから、どうなるか……判らないけど。
詩乃は、隼人の背中を抱く腕に僅かだが力を入れた。
GGOの世界で、確かに言ってくれた言葉があるから。
《一生守って》と言った自分の手をはっきりと握ってくれたんだから。
そして、お茶の水から千代田通りを下って皇居に出ると、隼人のバイクは更に安全運転で、とろとろとお堀端を走った。隼人の背である事と、小春日和である事もあり 本当に心地良い風がとても気持ちよかった。……さっきまでは 紅潮する頬に篭る熱を覚ましてくれる風、としか思ってなかったのだけど。それに、先程、詩乃が隼人に言った通り キリトが運転する三輪バギーで死銃から逃げていた時のスピードや、リュウキとキリトのカーチェイスに比べると亀の歩みと言うものだ。
だから、もう少しだけ、温もりを……と思っていたんだけれど、あっという間に 時間にして15分程で目的地へと到着してしまった。
そして、目的地へと到着したが、その場所を見て少なからず驚いてしまった。何も聞いていなかったから、と言う訳もある。如何にも高級そうな喫茶店だった。普段であれば、まず 『入るハズナイ』と言うだろう。それに、自分の知る周りのクラスメイト達もそうだ。女子高生レベルの金銭事情を考えたら クラスメイト達も口を揃えて言う事は簡単に想像出来る。
隼人は、駐車場へとバイクを転がし、そして見覚えのあるバイクの横へと駐車させた。
「……あ、キリトの、っと。和人の方が早かったね」
詩乃は、そのバイクが誰のものかを思い出して、そう言っていた。アバター名を口にしてしまったのは、そちら側の方が沢山使っていたからだ。
「……まぁ、アイツも少しする事があったから、後でここで合流、と打ち合せをしていたんだ」
隼人の態度は、何処か上の空の様な感じがした詩乃だったが、それは 恐らくキリトとリュウキの三輪バギー・カーチェイスの結果の事を 少なからず考えているのだろう、と詩乃は勝手に納得をしていたから、そこまで細かくは聞かずに、ただ頷いていた。
そして、簡単な談笑の後に 手早く喫茶店のドアを押し開けた。そして 途端に白シャツに黒蝶タイのウェイターが深々と頭を下げられて僅かに狼狽をしていた。
「お二人様ですか?」
一糸乱れぬ佇まいでそう訊いたウェイター。
――……これでは、まるでデートではないか。
と、ウェイターに『お二人様』と言われた後に、更に泡食った所で、店の奥から、まるで空気を読むつもりも無い男の大声が聞こえてきた。
「あっ! よーやく来たね! リューキくーん! こっちこっち!」
どうにも、この店の雰囲気にはまるで似つかわしくも無い大声だ。それを見て 軽くため息を吐くのは隼人。確かに、《リュウキ》と言うキャラネームは 最早自分の一部とまでいえる程に使用してきたものであり、呼ばれる事に違和感はないのだが、分別はわきまえてるつもりだ。……理解出来る者は恐らくはいないだろうと思えるが、それでも こんな公衆の面前で、注目をあびつつ、他人のキャラネームを大声で言う奴の気がしれない。
「はぁ……、アレと待ち合わせなので」
「はい。畏まりました」
ウェイターは一礼すると そのまま 規則正しい、模範とはコレ、といえるであろう姿勢で 立ち去っていった。
同じ様にスーツをつけているとは言え、まさに雲泥の差だ。黒縁メガネを掛けた背の高い男が1人、何やらニコニコと笑いながら、隣でこれまた苦笑いをしている少年に声をかけていた。
「いやー、それにしてもよく判ったねキリトくん。 僕には聞こえなかったよ」
「……当然ですよ。オレは何度もりゅ、……っと、隼人とはツーリングしてますから。確かに隼人のは静かですが、あの排気音はよく判りますよ。独特な音ですから」
普通は判らないだろう、と思える事を淡々と言ってのけるのは、早めに到着をしていた和人だ。何が当然なのか判らないが 確かに和人とは一緒にツーリングをしているから、大体判る事は判るけど。
隼人は ややため息を吐き 詩乃は 苦笑いをしながらも 明らかに制服姿の学生には場違いな高級喫茶に身体を縮めながら、ぴかぴかに磨かれた床板の上を歩いた。
手前側に 和人が そしてその横に椅子が2つ並べられており 和人の隣に隼人、詩乃の順に座った。
「さ、2人とも 何でも頼んでください」
と言う菊岡の言葉に促される様にメニューを開いて視線を落とした。
明らかに唖然としているのは、詩乃だ。全てのメニューは、普段気軽に学生が利用する喫茶とは訳が違う。軽食、デザート、その全てがおしなべて四桁の数字が並んでいるのだ。
「大丈夫だ。……多分、領収書とって 支払いは税金だ」
隼人がそうツッコミを入れると、何か変な所に飲んでいた珈琲が入ったのだろうか、菊岡はむせていた。
「えほっ! げほっ! は、はぁ……、ほんとに君たちは……」
隼人と和人の2人を交互に見て、ため息を吐いた。多分、和人にも同じ様な事を言われたのだろう事が判る。
「当然の反応だよな? 和人」
「当たり前だろ。国民の血税使うんだろうから」
2人ともが納得をしていた所で、詩乃もおずおずとしながらも、メニューを選んでいた。
「じゃ、じゃあ……この、レアチーズケーキ・クランベリーソースと……、アールグレイを」
――……うわぁ、合計2、200円も。
詩乃は、内心青ざめながらオーダーをすると、隼人も続く。
「ん。オレンジとレモンのバターケーキ、……ん、紅茶は カモミールで」
やや控えめだなぁ、と和人は思ったが 別に気圧されている様子も無い極々普通にしている様子を見て 常連さんなのだろうか? とも思っていた。後で聞いてみたら違うみたいだが。
そして、オーダーを終えた所で、黒縁眼鏡の男、菊岡がスーツの内ポケットから黒革のケースを取り出し、1枚抜いた名刺を詩乃に差し出した。
「はじめまして。僕は総務省総合通信基盤局の菊岡と言います」
それを聞いた隼人は、「……そっち側か」とボソリと呟いていたんだが、当然詩乃はそんな事、聞いてはいない。穏やかなテノールで名乗られ、詩乃は慌てて名刺を受け取り、会釈を返した。
「は、はじめまして。朝田……詩乃です」
言った途端に、菊岡と言う男は口元を引き締め、ぐいっと頭を下げた。
「この度は、こちらの不手際で朝田さんを大変な危険に晒してしまい、本当に申し訳ありませんでした」
「あ、いえ…… そんな……」
再び慌てて詩乃が頭を下げ返すと 和人が混ぜ返す様に口を挟んだ。
「しっかりと謝ってもらったほうがいいぞ。菊岡サンがもっと真剣に調べてれば、オレもシノンもリュウキもあんな目に遭わなかったんだからな」
「ん、同感だ。……菊岡サンも渚さんの様に誠意を見せつつ対応をしてくれていれば、……だがな」
「……そ、それは、そう言われてしまえば返す言葉が」
菊岡は、やり込められた子供のように項垂れながらも、上目遣いに続けた。渚に関しては、同僚とは言え、頭の上がらない相手だから、色々と複雑なのだろう。
「で、でもさぁ キリト君もそうだし、リュウキ君だって予想は出来なかっただろう? まさか、死銃がチームだった、なんてさ」
「そりゃあ……まぁ」
「ん。気づいたのは BoB大会最中だったから、な。だが じい……、っと あの世界から帰った後に判ったんだが、綺堂氏 姫萩氏の方が遥かに核心付いた行動をしてくれていたんだと思うのは気のせいか?」
「うぐっ……」
再び、怒られた子供の様に項垂れてしまう菊岡だった。
それを見て、思わず苦笑いしてしまうのは詩乃だ。それも仕方がない。
「とりあえず、ここに呼んだのは、今回の概要だろう? 後は事実確認か」
「あ、うん……。ま、と言っても まだ彼らの犯罪が明らかになってから2日しか経ってないから、全容解明には程遠いけどね……」
そろそろ、真面目に戻ったのだろうか、演技染みた表情は息を潜めていた。
「さっき、チームとはいったけど、実際には4人いた訳だからね。……少なくとも、新川昌一の供述では、となっているよ」
「……あの時のアイツか。その昌一氏が、オレ達をBoB大会で、襲撃した張本人、あのぼろマントでもあった、って事だよな?」
和人の問いに、菊岡は頷いた。
「それはほぼ間違いないね。彼の自宅アパートから押収されたアミュスフィアのログにも該当する時刻にガンゲイル・オンラインに接続していた事が記録されているよ」
「………」
菊岡の言葉を聞いて、隼人は腕を組み黙り込んでいた。だが、直ぐに口を開く。
「……もう1人の男はどうだ?」
「ああ。……彼の事」
菊岡も、それを聞いて 渋い表情をしていた。その表情からあまり良い内容ではない事は判った。
「唯一、SAO時代でも 名前が判らなかったんだ。……今回の件で 誰なのかが判ったら、進展あるだろ? 犯罪には問えなかったSAO時代の全てを含めて」
その期待も 僅かながら和人の中にはあった。
その男は、あの世界で 数多のプレイヤーの命を奪ってきた男なのだから。今回の件も然り、これからも。……何をするのか判らないと言う意味では一番の要注意人物であり、問題人物なのだから。
「アバター名《赤羊》。SAO時代では《死神》と呼ばれていた男の事。……彼は、今も捜査中だよ。現在、JPサーバーでは 日本からでしか参加出来ない筈なんだが……、渚さんや綺堂氏の報告では ログイン先は この国じゃなく……場所はアメリカだと言う事。まだ、それしか判ってないんだ。それなりの手段を用いないと、侵入なんてできるようなモノじゃないんだけどね」
死神が、いたのはアメリカからであり、追いかける事は非常に困難なのだ。国際手配をし、向こう側の警察にも今回の件を連絡して、共同捜査を依頼しようとしているのだが、まずはこちら側の全容を明らかにさせてからとなっているのだ。
だが、薄々は判った気がした。……単純ではない、と言う事を。ただ、あの世界に囚われていた一般人ではない、と言う事を。
「……ん。大体は 訊いた話と代わりは無かったか」
隼人は、何か少しでも進展があるか? と思って菊岡に訊いたのだが、やはり昨日今日で判る程単純ではないと言う事だろう、と判断をしていた。
「今後の菊岡サンの捜査に期待するな」
「同感だな」
腕を組んで、そう断言するのは 隼人と和人の2人。詩乃は話を聞きつつも、丁度ウェイターが華奢なワゴンに載せて戻ってきて、並べてくれた高級デザート類を口に運んでいた。
当初は、食欲はあまりあるとは言えなかったが、菊岡が手振りで勧める事もあり、この位のケーキであれば、問題ないとしていた。つややかな赤いソースが添えられた乳白色の矩形の一端。チーズをさらに濃縮したかのような密度ある味が広がって……、その割には下の上で滑らかに溶けさって驚かされる。レシピが知りたい、と一瞬思った詩乃だったが 訊いても教えてくれる訳無いだろうと、諦めた。
つい夢中で半分ほど食べてしまってから、フォークを置いて、紅茶のカップを持ち上げる。橘の香りが仄かに漂う熱い液体を口に含むと、心の奥の凝り固まった部分が少しずつだが、ほぐれていくような感じがした。
「……美味しいです」
詩乃がそう呟くと、菊岡は嬉しそうに笑い言った。
「美味しいものはもっと楽しい話をしながら食べたいけどね。でも、それはまた今度付き合ってください」
「は、はぁ……」
詩乃が軽く会釈をした後だ。モンブランを口にしていた和人と、カモミールの紅茶を口に運んでいた隼人が笑いを含んだ声で茶々を入れた。
「止めといたほうがいいぜ。何せ、この男の《楽しい話》は、クサいかキモいか、そのどちらかだからな」
「いや、キリト。クサいの前に《面倒》をつけた方が良いだろう。……大体がそう言う感じだし」
2人の間髪入れずの返答に、何度目か判らないが、思わず噴いてしまう菊岡。
「し、心外だなぁ。東南アジア、食べ歩きの話とか、結構自信があるんだけど……、ま その前に事件の話をもうちょっとだね」
菊岡は、傍らのビジネスバッグから極薄型のタブレットPCを取り出し、画面をみせながら続けた。
今回の事件、《死銃》事件に関する全てを知りたかった気持ちは詩乃にも勿論ある。……多分だが、自分の中の何処かでは まだ 当事者である新川恭二の事を信じているのだ。
あの時、襲われたと言うのに、憎みきれなかった。あの時の恭二は別人であり、彼の頭の中に入り込んだ何者かの仕業なのだ――と信じたい自分がいる。学校で、この街で唯一信じられた男性だった、と言う理由だってあるのだ。
あの日、新川兄弟も勿論 その場で逮捕された。
病院で一通りの検査を受けたのは 隼人だけじゃなく、詩乃や和人もそうだった。詩乃に関しては、精神が不安定だった事もあって、渚や綺堂のケアもしつつ行っていた。和人は、先制攻撃をして それで終わったから、特にこれといって問題は無かった。詩乃は身を守る為に、色々としていた事もあって 手に擦り傷等があるだけだった。その後に事情聴取。
何とか心落ち着かせる事が出来た詩乃だったが、一先ず午前2時には終了した。
その夜は、絶対に帰らない事を伝え、隼人と同じ病室で一夜を過ごした。そもそも、《警備上の理由》によって 病院で過ごす事に不都合は無かった。因みに その時も彼女と、少なからず色々あったのは、また別の話だ。
そして、詩乃は当時の夜の事を思い出しつつ、菊岡の言葉を待っていた。
「総合病院のオーナー院長の長男である新川昌一は、幼い頃から病気がちで、中学校を卒業する頃まで、入退院を繰り返していたらしい。高校入学も一年遅れて……、そのせいで父親は早々に昌一を自分の後継とすることを諦めて、3つ年下の弟の恭二にその役目を与えたようだ。恭二には小学校の頃から、家庭教師を付け また自ら勉強を教えたりする一方で、昌一の事はほとんど顧みなかった。……兄は期待されないことで追い詰められ、弟は期待されることでまた追い詰められたのかもしれない。……とは、聴取における父親本人の弁だが」
そこで一度言葉を切って、菊岡は珈琲で唇を湿らせた。
詩乃も、視線をテーブルに落として、《親の期待》と言うものを想像しようとしてみた。しかし、実感することはできそうになかった。あれほど近くにいながら、恭二がそのようなプレッシャーに晒されていたことにまるで気付かなかった。……自らのことばかりに一生懸命で、人を本当に見ようとしていなかった――と、またしても意識させられ、詩乃は胸に苦い痛みを感じてしまった。
――環境が人を育て、変える。
それは、隼人もよく判っていた。……自分の経験や環境を思い返していた。
何不自由ないと思っていた場所で 裏切りがあり 失ってしまい。そして――他人を、拒絶する様になってしまった。それでも、隼人には《親》がいてくれて、支えてくれたおかげで今まで生きてこれた。《親の期待》を自覚した事は無かったけれど それでも 親から追い詰められる事をした覚えはまるで無かったから、本当の意味では 理解をする事が出来なかったのだ。
そして、菊岡は続けた。
「……しかし、そういう境遇でも 兄弟仲は悪くなかったようだ。昌一は高校を中退してからは精神の慰撫をネットワークの中、ことにMMORPGに求め、その趣味はすぐに弟にも伝播した。やがて、兄は《ソードアート・オンライン》の虜囚となり、2年の間、父親の病院で昏睡するのだが、生還してからは、彼は恭二にとってはある種の偶像、……英雄化と言っていいのかな。そういう存在になったようだ」
隼人は、その先の言葉は大体理解出来た様だ。昌一の正体を知っているからこそ、結論に至った。……その考えとほとんど変わらない答えが菊岡から返ってきた。
「昌一は、生還後暫くはSAO時代のことには一切触れなかった様だが、リハビリが終了し、自宅に戻ってから、恭二にだけ語ったそうだ。……自分が如何にあの世界で多くのプレイヤーをその手に掛けたか。真の殺戮者として恐れられたか……と言う事をね。その頃昌一の話は嫌悪ではなく、解放感、爽快感をもたらすものだったようだね」
「……あの」
詩乃が小さな声を出すと、菊岡は顔を上げて続きを促す様に軽く首を傾けた。
「そういう事は……新川くん、言え 恭二くんが話したんですか?」
「いや、これらは兄の供述に基づく話です。昌一は警察の取り調べでは、訊かれたことには全て応えるらしい。弟の心情の推測も含めて、ね。しかし恭二の方は対照的に、完全な黙秘を続けている」
「……そうですか」
恭二の魂がどのような地平を彷徨っているのかは、詩乃にはもう想像のしようがない。そんな訳はないのだが、今GGOにログインしてみたら、待ち合わせ場所に使っていた酒場の隅にはちゃんとシュピーゲルがいるのではないか……、と言う気すらするのだ。
「……彼は もう オレの問いに答えられる精神状態ではなかった、と言う事か」
隼人は、あの日の夜の事を思い返しながらそう呟いていた。
詩乃に手をかける理由が本当に理解出来なかったからだ。本当に好きな相手であれば、守る者であり、間違ってもその逆は有り得なかったから。 だが、あの場所で既に恭二の精神は ある意味ではもうあの場所にはおらず、そして 仕様がないのかもしれない。恭二の精神が 通常ではない。異常であったのなら……。
「まあ、そうだね。彼には現実と言うものが無かった、と言っていいのかもしれなかったから」
「え……、それはどういう事ですか……?」
菊岡の言葉を訊いて、詩乃は首をかしげた。恭二とはシュピーゲルとして以外ででも、現実で何度も合っている。……様々なプレッシャーが掛かり続けている事を知らなかった。だが、それを踏まえても、《現実が無かった》と言う言葉の真意を知りたかったのだ。
「そうだね。……新川兄弟にとっての《後戻り不可能地点》がどこかなのは、推測によるしかないのだが……、昌一がガンゲイル・オンラインを始めたのは恭二に誘われたかららしいね。昌一には他の多くのSAO生還者に見られたVRワールド拒否症状はなかったものの、始めの頃はそれほど熱心にはしていなかったそうだ。フィールドに出るよりは、街でほかのプレイヤーを観察して、殺し方を想像するのが楽しかった、と彼は言っている。……だがそれが変わったのは、リアルマネー取引で《透明化できるマント》を手に入れてかららしい」
「RMT……」
詩乃は思わず声に出していた。死銃が纏っていた《メタマテリアル光歪曲迷彩》の機能つきのぼろマントは、恐らくボスモンスターだけが超低確率でドロップするレアアイテムだろう。……あの世界で手に入れたへカートを含め、見てきたどんなレアアイテムよりもプライスが付くだろうことは想像に難くない。
「調べた所によれば、全身を包み隠してくれるあのマントは、日本円で30万程。死神が使っていた部分透明化装置、ステルス迷彩は25万程だと訊いてるが」
「うん、その通りだよ。……昌一は父親から月に50万という生活費を与えられていたようだから 出来たんだろうね」
金銭面は、大型総合病院の御子息という事もあって不自由しなかった様だ。だが、極々一般人である詩乃や和人にとっては、驚愕の金額なのだ。……一般人とは言えないかもしれないが、勿論 隼人も同様。金銭感覚については 常識人であるから。
「つまり、あの聞こえないライフルやレア金属素材のエストックもリアルマネーで買った、という事か……」
「課金ブーストは、あまり好まない事ではあるんだが……、確かに 手っ取り早く 相応の力を手に入れるのには 近道だからな」
和人と隼人はそう言っていた。和人は、確かに隼人であればそれを言いそうなのは判っていた。もうすでに働いている身であり、不自由しなかったのは隼人も同じだろうけれど。それでも、頂点を極めようとなれば、それだけでは足りないのだから。ベータテスト時代でも、隼人の、リュウキの力は一線を遥かに凌駕していたから。
「SAOにRMTがなくて良かったな。それにアイテム課金とか」
「……だな。実際にあったらどうなるのか。……あまり想像したくない」
容易に、犯罪ギルドに力を与えるツールなのだから、背筋が凍る思いだから。
「……つまりだ。あの透明マントがあったから、アイツは PKに走った。……その切欠になったという事だったのか」
「そうだね。それを手に入れてから、街中でストーキングする技を磨いていたそうなんだ」
「なる程。それで総督府の端末から情報を得た、という事か。知りうる事ができる個人情報を入手する事が出来た、か」
結論を言う和人に菊岡は頷いた。
「今も昔も変わらない。どんなMMOでも《隠れ身》ってのは、定番スキルだ。無いMMOを探す方が難しいだろう。……だが、正直VRMMOではやりすぎだ。悪用の余地が多すぎる。どんな世界ででも、知られたく無い情報というモノは有る筈だから、な」
いろんなゲームをしてきた隼人。それは和人も同じだから、同意する様に頷いた。
「だな。VRMMOでの隠れ身は。……現行的に言えば、少なくともGGOで言えば街中。そこでは 使用禁止にすべきだな。……お、そうだ。今度ザスカーに投書しておいてくれよ、シノン」
色々と考えを張り巡らせていた所に、突然話を振られた為 詩乃は慌てて言い返した。
「そ、そんなの あなたがしなさいよ。 ……PKに走った。……つまり、《死銃》が生まれた切欠そのものも、あのぼろマントだったんですね」
後半部分は、菊岡に。そして 視線こそは 向けてないものの、隼人にも向けた言葉だった。
隼人は無言で 軽く頷き、菊岡も同様に頷いていた。
「……そういう事だね。リュウキ君も言っていたけど。行為に及んだ切欠。……《死銃》と言う存在が生まれた切欠、始まりがそこだったんだよ。昌一は 盗み見た個人情報を反射的に記憶して、ログアウトして書き留めた。……その時点では具体的にどうこうしようとは思ってなかったようだ。……行為そのものを楽しんでいた、と言っているよ」
菊岡がそういうと同時に、隼人は口を開いた。
「死銃。……始まり。 つまり 《ゼクシード》のあのミスリードが 本当の死銃誕生の切欠だった、と言う事か……?」
隼人の言葉に、菊岡は 軽く笑みを見せた後、親指と人差し指の先を ぱちんっ と弾いて言った。
「流石だね。 10月某日。弟の恭二は昌一に向かって、自分のキャラクターの育成が行き詰っていることを打ち明けた。リュウキ君の言う様に《ゼクシード》と言う名のプレイヤーが広めた偽情報のせいだ、と盛んに恨みを口にしていたらしいね。……そして」
「昌一も、ゼクシード氏の個人情報を持っていた」
「その通りだよ。キリト君」
「っ………」
詩乃は、3人の結論を訊いていて、はっきりと判った。……そこ、だったのだ。恐らくその瞬間に、恭二の中の仮想世界と現実世界を隔てる壁は少しずつ溶け始めたのだ。
菊岡は、続ける。
その言葉が滑らかに詩乃の耳元を通過していく。
「……どちらか一方が考えた事ではない、と昌一は言っているね。2人で考えたんだと。あれこれ言い合っている内に、《死銃》計画の骨子が出来上がったそうだ。しかしそれでも、最初は単なる言葉遊びだったんだと、彼は説明をしている。……でも、2人は連日の様に議論を重ねて、実際に行為をする為には いくつもの現実でのハードルを机上でクリアしていった。……最後の関門は もう 既にリュウキ君が暴いてくれた様だけどね」
菊岡の話を訊いて、詩乃は思い返していた。
あの日、隼人が外で言っていた言葉、恭二が、恭二達が関門と称していたモノ。個人情報の入手が出来たとすれば、次は1つしかないだろう。
「侵入、ですね。標的の家への」
「そう、……色々と事情は聞いていてね。昌一の供述を訊く間でもなく、それは判ったんだよ。冷静に考えたら、まさに明瞭だからね」
「……ああ、そうだな。あの時は 色々と慌ただしくて、病室だし 少しは休みたかった所に どうもありがとう」
「あ……そ、その節は申し訳なかったとしか…… 思っていた当初以上に大きな事件だったし……」
またまた、子供の様に縮こまってしまっている菊岡。
そう、病院に運ばれて色々と処置を受けて、そこまでの怪我ではなかったけれど、それでも アドレナリンが出ていた事で 薄れていた痛みも冷静になると同時に思い出してきて、身体中が痛いと感じたのは、初めてだった。それは 朝まで続いて……色々とあって 本当に疲れが感じていた所に、菊岡がやってきたんだ。渚は 遠慮をしてくれたんだけど。
「……そう、だったね」
詩乃は軽く苦笑いをしていた。あの時 詩乃も病院にいたから、知っていたのだ。
そして、色々とあった、と言っていた真意も。
「ま、まぁ それはそれとして、彼らはマスターコードと高圧注射器、それに劇薬のサクシニルコリンを父親の病院から抜け出す算段をつけた。――そうやって、計画を進めたって。……ここから先は、昌一の供述がなければ判らなかった事、だよ」
菊岡の表情が一気に険しく、そして強ばったモノへと変わり、続けた。
「――そうやって計画を進める事、それ自体がゲームだった、と供述しているんだ。……自分の供述を取っている刑事に向かって、『あんたも同じだろう』とも口にした様だ。『NPCの話を訊き、情報を集め、賞金首を捕らえて引き渡し、金を得る。警察のやってることだってゲームと一緒じゃないか』とね」
その表情と言葉を訊いて、話を黙って訊いていた和人が口早に答えた。
「額面どおり受け取らない方がいいぜ」
その不意の言葉に、微かに菊岡は眉を動かした。……隼人は頷いた。
「その昌一氏はある部分では、本当にそう思っているのかもしれないが、《赤眼のザザ》だった時のアイツは、これはゲームなんだと自分と周囲に強弁しながらも、プレイヤーの死が現実のものと理解していたからこそ、あそこまで殺人行為に魅せられたんだ」
「ああ。……それでいて、仮想世界ででも、現実世界ででも……、自分にとって都合の悪い部分は、リアルじゃない、と信じ込んでいる様だ」
「……まさにVRMMOの暗黒面って奴なのかもな。……本当の意味で現実世界が薄れていくんだ」
長く、長く、あの世界で戦い続け、そして 関わってきたからこそ、判る事だった。VRMMOの暗黒も光明も見てきた彼らだからこそ。
「……成る程ね。それで、2人は。……君達の現実はどうなんだい?」
菊岡の問い。それを訊いて趣味が悪いと思ってしまうのは詩乃だ。だが、2人だったら、いつもの皮肉そうな笑みを浮かべるんだろうな、とも思っていたのだが、方や眼を瞑ったまま、方や宙の一点を見つめて。……2人とも共通しているのは、その表情は至極真剣である、と言う事だった。
「オレは、あの世界に置いてきたものは、確実に存在している、って思う。だから、その分オレの質量だ減少している、とは思うよ」
「……当然だ。『今オレ達が暮らしているのは このアインクラッド』そこまで言える世界だったんだ。仮想世界、《デジタルの世界》だからな。オレにとって、ホームグラウンドとまで思っていた世界だ。同じく、だ」
瞼を閉じれば、今でも思い出せる。悪夢とさえ言える世界だったのに、それでも心に残り続けている。悲しい事、辛い事、苦しい事。……負の感情と言える部分も沢山味わってきた世界だが、それに負けない程、大切な事を沢山学べた世界でもあるから。
――崩壊していく浮遊城アインクラッド。
あの時、世界が終わる時。……隼人を奮い立たせた和人。再び前を向く力を、大切なモノを思い出させてくれた隼人。……其々の傍らには最愛の女性。明日奈と玲奈。
強い感情。其々の思いの中に、確かにあった感情の光。広大な海に浮かぶ1枚の葉の様に小さく 儚い光が確かにあった、と今であれば判る。
「それで、戻りたい、と思うかね?」
色々な記憶が頭の中を巡っていた時に菊岡に言われた言葉。それはダイレクトに脳内へと叩き込み、記憶の映像を薄れさしていた。
「聞くなよ。そういう事を。正直 悪趣味だぜ」
「………」
和人は苦笑いをし、隼人は口を噤んだ。それでも 表情だけは 笑っている様にも見えた。
そして、和人は今度は詩乃の方を見た。
「――シノンは、どうなんだ? そのへん」
「え……?」
突然、と言っても 和人はこれがニュートラルなのだが、また 唐突に話を振られて詩乃はしばし戸惑ってしまう。だが、過ぎに思考を言葉にした。……正直、慣れてない事だったけれど、それでもはっきりと感じたままのことをそのまま口にしようと努力をした。
「ええと……、キリト。あなた、言っていることがこの間と違うわ」
「え?」
「仮想世界なんてない。ってあなた言った。その世界ごとにプレイヤーが分割されているわけじゃないでしょ? 今私のいる、この……、この世界。それが唯一の現実だわ。実はアミュスフィアが作った仮想世界だったとしても、私にとっては現実。……って事だと思う」
詩乃が言い終える間もなく、隼人もぴくりと眉を動かし、和人も眼を見開いて詩乃を見ていた。
やがて、シニカルさの欠片もない、と見える笑を唇に浮かべた。
「……そうか。そうだな」
「確かに。シノンの言うとおり、だ」
2人ともが同感だった。自分達の方が遥かに意識をしていた筈なのに、ここに来て詩乃に改めて諭された事への脱帽もあった。
「今のシノンの言葉、ちゃんとメモっとけよ。……この事件において、唯一の価値ある真理かもしれないぜ」
「――って、からかわないで」
「……ははは」
詩乃は肘で キリトの腕を突いて、そして 隼人はただただ、笑っていた。
菊岡はもうケーキを食べ尽くして、空になっている皿を眺めながらゆっくりと頷いた。
「いや、本当にその通りだね。……昌一にとっては――それが全く逆だったのかな。自分のいない場所こそが現実……」
「あの男は、『まだ終わってない』と言う言葉を盛んに繰り返していたよ」
「ん。……まだアインクラッドから完全に戻っていなかった、と言う事だろう。そう考えれば、茅場の目的は、あの城が崩壊したあとにこそ、実現するものだったのかもしれない、な」
和人や隼人の言葉を訊いて、菊岡は眉をひそめた。
「……怖いことを言うね。彼の死に方はまだまだ謎が多い。……が、今度の事件には関係ないだろう?」
――茅場晶彦。
彼の終演とあの世界の崩壊に立ち会ったのは、この世界中見渡してもたった4人だけだ。あの場に居合わせてなければ、電子上とは言え 長らく仕事を共にしていた隼人でも 結論には至らなかったと思えるから。
その後、菊岡は 今回の事件の被害者についてを語りだした。
ゼクシード事、《茂村 保》。彼の死の間際の事と実際の実行犯について。そして 今大会での犠牲者について。状況から判りうる事と昌一の証言を訊いた上での結論だった。
それを訊いていた中で、詩乃はやはり、話の中で時折出てくる《恭二》の名前を訊いて、詩乃はぴくりと肩を震わせた。
昨日の夜。――兄、昌一から訊かされた切欠は、ゼクシードによるミスリードだと訊かされた。あの偽の情報のせいで、ステータスの分配を誤り、《最強》となり得なくなったことが。 だが、実際には極AGI型にもかかわらずあれ程強かった《闇風》の存在がその思い込みを否定しているのだが。
恭二は現実世界ででも 詩乃に似たようないじめを受けていた。
金を脅し取った上級生たち以上に許せなかったのだろう。
――いや、違う。……そうじゃなくて、新川くんにとっての現実はその時はもう……。
そして、全ての犠牲者についての話と説明は終わりを告げた。
仮想世界で消え、現実世界でも息を引き取った数人。殺害が可能とされる条件を有している人物を選んで。
「――条件を満たしているプレイヤーたちを調べるだけでも大変な労力だ」
「同感だ。……あの世界ででの命懸けの情報収集にも匹敵するって思うよ」
隼人と和人の嘆声に、菊岡も顔をしかめて頷いた。
「多大な時間、そして労力を費やしただろうね。――だけど、それでも死銃の噂を真剣に受け止めるプレイヤーはほとんど居なかった様なんだ」
「ん」
「ええ、みんな 下らないデマだと思ってました。……私も」
菊岡も頷いた。だが、ここで少しだけ身を乗り出す様に前かがみになる。
「でもね。色々と調べてみた結果だけど、ある時期において 極一部だけど、少なからず信憑性があった、と言う発言もあったんだ。……勿論、ネット上で誰でもかける様な掲示板での発言だったけどね」
両手を組んで菊岡は続けた。
「君達も訊いた事、あるかな? 死銃伝説の噂と対極とも言っていい噂について」
「………ぁ」
詩乃は、そう言われて、はっとしていた。
そう、死銃の噂をよく聞く様になった、あのゼクシード事件。
あの場にいたのは、死銃だけではないのだ。ある意味では、その死銃を止めようとしていた人物がいたのだ。
「……老紳士」
詩乃がぽつり、と呟いた所で 菊岡はニコリと笑った。
「それ、だよ。皆が呆気にとられていた現場。勿論人数がそんなにいた訳じゃないんだけど、銃を撃って、所謂 圏内だから効果がないのにも関わらず、その後にゼクシードが消えたとなれば、気味悪がって 誰も近づこう等とする訳がない状況になるだろう。……にも関わらず、淡々と近づいて 彼に語りかけた人物。……それが老紳士と呼ばれたプレイヤーの事だね。話し方や立ち振る舞いの雰囲気で、そう名付けたみたいなんだ」
それは、始まりの事件において、皮肉にもある意味死銃よりも広まった名前だった。
「そして、その後のGGO情報サイトでの1件。老紳士の存在を匂わせる様な現象がおきてさらに、ね」
「死銃への挑発……。あれって確か……」
詩乃は、ちらりと隼人を見た。
隼人は、ただ 眼を瞑ってるだけで 頷いたり 肯定したりはしてなかった。
有れは 渚の依頼を受けて 綺堂が仮想世界内での調査。現実世界にまで往来する事件を加味してのプレイヤーの素行調査とでも言うモノをしていた時の事だった。
最初に死銃を見て、その後、綺堂の老獪とも言える感覚が、ただの偶然とは思えないと察し いち早くにコンタクトを取ろうとしたのだが、それは叶わなく、現実世界ででの情報サイトの件は 恐らく見ているであろうタイミング。最も投稿の多い時間帯を狙っての死銃への挑発行為だ。 『それらを、あの世界で口にして 過剰反応を見せたモノが怪しいであろう』と言うカマかけ作戦だった。
異常犯罪者だと言っている通り、少なからず反応を見せてくれるだろうと思っていたのだ。
「――アレでも 間に合わなかったがな。平行して、もう1日早くに気づいていたら、と思うよ」
「オレもそうさ。菊岡サンと色々講義した時に、その考えがあったら、って思う。そうだったら、今大会で犠牲者が出なかったかも、って」
痛切な響きある2人の言葉に詩乃は顔をあげないまま呟いた。
「――でも、私は助けてくれた」
そう、2人が助けてくれた。
和人も。……そして 隼人も。
「いや、シノン自身の力、ってオレは思うよ」
「リュウキが言うなら、以下同文だ。あの時……空気……っとと」
菊岡が居る前での発言ではない、と思った和人はそうそうに口を噤んだ。もう少し発言をしよう物なら、今 感謝の言葉を言われていると言うのに、へカートの50口径の弾丸を眉間にプレゼントされそうな気配がするからだ。
3人を見て軽く笑っていた菊岡は、再び口を開いた。
「君達の頑張りがなければ、事件が発覚するまでにリストに上がっていたプレイヤー達全インが犠牲になっていたことは想像に難くない。だから、あまり自分達を責めないでくれたまえ」
菊岡の言葉に、軽く反応したのは和人だ。
「別に責めてる訳じゃないさ。ただ、これでVRMMOの評判が悪くなると思えば、残念なだけさ」
「………」
複雑な部分といえば、和人の言うそれも 当然あるだろう。
あの世界で、大切な事を学び、大切なモノを育んでいったとも言えるのだから。だが、世間と言うのは マイナス面での受け取り方は異常なまでに早く、報道も過剰に反応する様な書き方をするのが多いのも事実だった。
だが、正直な所 別にそこまでは心配していない。
「それで立ち枯れる程、あの《ザ・シード》なる種から出た芽はひ弱じゃないだろう。今や無数の苗が寄り集まって、それこそ世界樹の如き様相だよ。……まったく、どこの誰があんなのをばら蒔いたのやら」
「………」
「……さて、ね。それより、先に進んでくれよ」
「ああ。と言っても、あとはもう君達が知っている事だと思うがね」
改めて、全ての犠牲者、そして 標的として名を上げられた人物達を思い描いていた時、詩乃はある事に気づいて口を開いた。
「あ……そういえば、これは偶然かもしれないんですけど」
「なんですか?」
「ターゲットの人たちに共通する条件がもう1つあるかもしれません。私を含めて狙われたのは全イン、ステータスタイプが非AGI型なんです」
「ほう……? それはどういう……?」
「新川くん……いえ、恭二くんは、純粋なAGI一極ビルドで そのせいで、プレイに行き詰ってました。多分、他のタイプ……特にSTRに余裕のあるプレイヤーにはと複雑な感情があったと思います」
「ふむぅ……」
菊岡は絶句し、しばしタブレットの画面を見つめた。
「つまり、動機は何から何までゲーム内に起因するもの、ということですか。それは、検察側も起訴には苦労するだろうなぁ……。しかしなぁ……」
信じられない、と言う様子をみせる菊岡だったが、和人は首を振り、嘆息気味の言葉を発した。
「いや、あり得ることだよ。MMOプレイヤーにとって、キャラクターのステータスと言うのは絶対の価値基準だからな。悪戯のつもりで、ウインドウ操作中にプレイヤーの腕を押して 操作ミスをさせたせいで、何ヶ月も殺し合い続けている……っと、勿論ゲーム内だけど、それだけの大喧嘩になった奴らを知ってるよ」
「ん。そうだな。……それに他人よりも上に立ちたいと言う願望。何処かでは必ず持ち合わせているモノだ。それを、その行為で邪魔されたと、そう思ってしまえば、簡単に感情を拾える世界だ。爆発する事は想像に難しくない」
2人の話。
それは、詩乃にも深く納得できる話だった。だけど、まだよく判ってない菊岡は再び左右に首を振った。
「これは、検察官や弁護士、それに判事と裁判員もいちどVRMMOにダイブする必要がありそうだな。いや――法整備までも考慮すべき時、かな。……ま、それは我々が考えることではないがね。……えーと、次は何だったかな……」
菊岡は、タブレットを操作しながら、確認をした。
「そうそう、今回BoBでの標的に関してだけど、前回までとは違って、BoB大会中の計画実行には、大きな障壁があった。ゲーム内の《死銃》とゲーム外の実行役との間で連絡が取れないので、双方の射撃時間を一致させるのが困難だったんだね。それを一応解決したのが、ゲーム外でも視聴可能なライブ中継だったんだが」
「それも難しいだろう。……現実世界ででは移動手段は限られているんだから」
「だよな? 幾らバイクで渋滞を縫って進んでも、限界があるし、何よりオレも最初は死銃は2人だと思い込んでたし」
和人や隼人の言葉を訊いて、菊岡は頷いた。
「そう、それなんだ。ターゲットには最も自宅の近い3人を選んでいたらしいんだが……ペイルライダーの自宅とジーンの自宅はまだ良くても、朝田さんが住んでいる場所からは、ずっと離れてたからね。しかも、今までは死銃役を望んでいた恭二が今回に限っては、実行役に固執したそうだ。昌一は電気スクーターを持っているそうだが、恭二は運転が出来ない。……だから、昌一はもう1人加えることにしたんだ。昌一、恭二、死神さん? ともう1人を。ええっと、名前は《金本 敦》19歳。昌一の古い友人で……と言うより」
菊岡は、そこまで言い終えた所で 隼人と和人の2人をちらりと見た。
「SAO時代のギルドメンバーだったそうだ。キャラクター名は……《ジョニー・ブラック》。聞き覚えは……」
「あるよ」
「………」
2人が頷いた時だ。
詩乃は、仮想世界では、感じる事が多かった、感覚がこの場であっても機能した。
狙撃手である故に、その感覚を、相手の気配を察知し 自らは悟らせない境地を磨き続けていたから、この世界ででも 使えたのかもしれない。
そう、言うなら……《殺気》。
「《ラフィン・コフィン》で、ザザとコンビを組んでた毒ナイフ使いだ。……向こうの世界ででも何人も……」
和人があの世界ででの事を思い出し、口にしていた。
だが、隼人は違う。残ったカモミールが入ってるカップを握り締めていた。その手は異常なまでに震え、割ってしまうのではないか? と思える程だ。
「牢獄よりも地獄。……オレの責任だ」
ゆっくりと口に出したのは自責の念。殺気は薄れ、果てしなく後悔だけが残され 場に伝わった。その瞬間、詩乃は隼人の腕を強く掴んだ。
そして、隼人の、そして和人の眼を見てゆっくりと左右に首を振る。
それだけでも十分に伝わった。泣き笑いとも思えた2人の表情は、やがていつも通りに戻る。 ただ、違うのが詩乃の手に伝わる隼人の温もり。
それだけは、中々治らない。……暖かかった彼の温もりは不自然なほどに冷たくなっていた。
そして、そのジョニー・ブラック事、金本敦がまだ捕まっていない事を説明された。凶器となる薬品も注射器も携えたまま、逃亡している、と言う事を。
だが、捕まるのも時間の問題と菊岡は説明し、隼人もそればかりは頷いた。《通称S2システム》東京都内では至る所で設置された自動識別監視カメラが人物の顔を解析し、手配犯を見つけると言う《眼》だ。開発の一旦を引き受けていたと言う隼人も強く頷いていた。
――オレンジプレイヤー。……レッドプレイヤーは圏内には入れない。
この現実世界においてのシステムになり得る事だから。
「は、はは……正直 ぞっとしない話だな」
悪い事をするつもりは毛頭ないのだが、四六時中監視されてるんじゃないか? と言う感覚が和人を唸らせ、菊岡も頷いていた。
そして、全てを伝え終えた後に、詩乃が口を開いた。
「……あの、新川くん。恭二くんは、これからどうなるんですか……?」
「うーん……」
菊岡は、眼鏡を指先で押し上げてから軽く唸った。
「昌一は19歳。恭二は16歳なので、少年法による審判を受けることにはなるわけだが……何人も亡くなっている大事件だから 当然家裁から検察へ逆送されることになると思う。そこで、おそらく精神鑑定が行われるだろう。その結果次第だが……彼らの行動を見る限りでは、医療少年院へ収容となる可能性が高いと僕は思うね。……何せ、2人とも現実というものを持っていないわけだし……」
「いえ、そうじゃないと思います」
詩乃がぽつりと呟くと、菊岡は瞬きをして、視線で先を促した。
「……お兄さんとは、あの時に会っただけで、私には判りません。……でも、恭二くんは、恭二くんにとっての現実は、ガンゲイル・オンラインの中にあったんだと思います。この世界を――」
掲げた右手の指先を伸ばして、すぐに戻す。
「全て捨てて、GGOの中だけが真の現実と、そう決めたんだと思います。それは、単なる逃避だと……世間の人たちは思うでしょうけれど、でも……」
恭二は、詩乃自身を襲った、命を奪おうとした人間だ。……その与えられた恐怖と絶望の大きさは計り知れない。でも、それでも 恭二を完全に憎悪しきる事など到底不可能だと詩乃は思っていたのだ。ただただ、深いやるせなさだけがあった。
そして、詩乃は続けた。
「でも、ネットゲームと言うのは、エネルギーを注ぎ込むにつれて、ある時点から娯楽だけの物ではなくなると思うんです。強くなる為に、只管経験値とお金を稼ぎ続けるのは、面倒だし、辛いです。……たまに短時間、トモダチとわいわい遊ぶなら楽しいでしょうけど、恭二くんみたいに、最強を目指して毎日何時間も作業みたいなプレイを続けるのは、すごいストレスがあったと思います」
「ゲームで……ストレス? しかし、それは本末転倒というものじゃ……」
唖然としている菊岡を見て、詩乃は頷いた。
「はい。恭二くんは文字通り転倒させたんです。この世界と……あの世界を」
「しかし……なぜ? なぜそこまでして最強を目指さなければならないんだろう……?」
「私にも……それは判りません。さっきも言いましたけど、私にとってはこの世界も、ゲームの世界も連動したものだったから……。リュウキ、キリト。あなたたちは、わかる……?」
視線を2人へと向ける。
和人は、椅子の背もたれに深く体をあずけて瞑目。隼人は腕を組んで考え込む。
『強く、なりたいから』
やがて、言葉を発されたのは どちらからだろうか。一瞬だったが、詩乃には判らなかった。だけど、その言葉を、その意味をゆっくりと考えてから、頷いた。
「……うん。私もそうだった。VRMMOプレイヤーは誰しもが同じかも知れない……、ただ 強くなりたい」
体の向きを変えて、詩乃は正面から菊岡を見た。
「あの、恭二くんはいつから面会できるようになるんでしょうか?」
「ええと……送検後もしばらくは拘置されるだろうから、鑑別書に移されてから、ですかね」
「そうですか。……渡し、彼に会いにいきます。あって、私が今まで何を考えてきたか……今、何を考えているか、話したい」
例え、それが遅すぎたのだとしても、たとえ言葉が伝わらなくても、それだけはしなくてはならない、と詩乃は思った。
この時、詩乃の肩に感触があった。
反射的に その方を見ると 隼人が笑って肩に手を触れていた。その温かさは、先程までの冷たかった身体のものではなかった。
そして、菊岡は僅かに 今度は 今回ばかりはおそらく本心からと見える微笑を浮かべると言った。
「あなたは強い人だ。ええ、是非 そうしてください。今後の日程の詳細は後ほどメールで送ります」
そういうとちらりと左腕の時計を覗いた。
「――申し訳ないが、そろそろ行かなくては。閑職とは言え雑務に思われていてね」
「ああ、悪かったな。手間を取らせて」
「……情報について、感謝する」
和人や隼人に続いて、詩乃も頭を下げた。
「あの、ありがとう、ございました」
「いえいえ。君たちを危険な目に合わせてしまったのはこちらの落ち度です。これくらいのことはしないと。また、新しい情報があったらお伝えしますよ」
となりの椅子のビジネスバッグに手を伸ばし、タブレットPCを仕舞うと、腰を上げた。テーブルの上の伝票に手を伸ばそうとした時。
「そうだった。リュウキ君、キリト君」
「?」
「なんだ?」
「これは、頼まれていたものだ」
スーツの内ポケットに手をやり、小さな紙切れを取り出すとテーブル越しに2人へと渡した。
「死銃の片割、いや 赤眼のザザこと 新川昌一は、捜査員が君たちからの質問だと伝えると、ためらわず答えたそうだ。ただ、自分から君への伝言も届けるという条件を出した。勿論、それを馬鹿正直に訊く必要ないし、そもそも取り調べ中の被疑者からのメッセージなど外部に漏らせる訳もないので、公式には警察内で止まるものだけど……、どうする、訊くかい?」
2人は、互いに少し見合った後に、頷いた。
「それでは、えー…… 『これは終わりじゃない。終わらせる力は、お前たちにはない。直ぐにお前も、それに気づかされる。イッツ・ショウ・タイム』。――以上だ」
それを訊いて、先に軽く笑みを見せたのは 隼人だった。
まだ、現実世界に返って来ていないと言うのであれば、向こうで剣を、命の取り合いをしていたリュウキとして、菊岡に、返事となる伝言を伝えたのだった。
全てが終わり、バイクを取りに行った所で 珍しく隼人が口ごもっていた。
「えと、その……、ちょっと良いか? 詩乃」
「ん? どうしたの?」
詩乃は、珍しい顔が見れた と思っていた。和人はと言えば 何か やれやれ とため息を吐いていたと同時に、安堵感も何処か持っていた様だ。
「シノン。……詩乃は、このあと 時間はあるか?」
「別に用事はないけど。GGOにも当分ログインする気ないし」
「なら――、悪いがちょっと付き合って貰えないか?」
「何を?」
「BoB大会中のライブ中継カメラで撮られた時の事、説明をしてもらいたいんだ。……病院で 玲奈とは会ってたし。その時納得して貰った……と思ってたんだけど………」
そこで、盛大なため息を吐いていた。
そう、詩乃と玲奈はもう対面を果たしている。
ベッドで眠る隼人に縋り付く様に 泣いている詩乃。そして、遅れて入ってきたのは 聴きつけた玲奈だった。ただならぬ様子を見て、そして ベッドで眠っている隼人を見て SAOから解放された後の事を。
――……意識が囚われている、もう、眼を覚まさない。
玲奈は、それを連想させてしまい、涙を流したのだ。
やがて、綺堂がやってきて 説明をしてくれて、隼人はただ鎮静剤を打って眠っているだけだと言う事も含めて全てを説明した。
詩乃も、まだ精神が不安定だった事もあって、事情を自分で説明する事は出来なかったんだけど……、時間が経つにつれて、玲奈の事が判ってきた。
そう、隼人の心を助けてくれた大切な人。
その事が判ってきた。
だから、とても複雑な想いがあった。不安定だった事も含めて隼人から 離れず泣き付き。玲奈も大体の事が判って落ち着こうとしたんだけど、薄々と玲奈の方も判ってきた様子で、負けじと? 隼人の傍を離れなかった。
多分、他の人がみたら、所謂 修羅場の様に見えるのだが、眼を覚ました隼人には さっぱり判らない。色々と説明をしたんだけど。
『むー………』
玲奈は、ずっと頬を膨らませていたのだ。色々と説明をしていく内に、何故か詩乃も複雑な表情を浮かべており。
『…………』
何処か、詩乃ではなく、あのネコ科動物の様な眼をもつ《シノン》へと変わった様な気がした。
それでいて、玲奈も玲奈で何やら少しにらみ合い? とまではいかないけど、対面しっぱなしだった瞬間がある。……猫同士?
「と言う事、なんだ。よくわからないんだが、オレからよりも詩乃からの説明も欲しいみたいで。……それで 色々と説明をして欲しいんだ。……あまり 言う様な事じゃないとは思うが。無理には言えないが」
「………ん。大体、私もわかるから」
詩乃にとっては、あまり 面白い事じゃないけど、ここで 拒否をしてしまうのは大人気ないし、……心象がよくないと思う。……でも いろんな意味で負けたくない。
「ははは……、何だかオレも巻き込まれそうなんだ……」
「ああ、あの場にはキリトもいたしな……。はぁ」
「はぁ」
全く意味が判らん。と言わんばかりに再びため息を吐く隼人。
本当に鈍感だ。と言わんばかりにため息を吐くのは詩乃。
でも、気になる所はあった。
「そういえば、名前だけで良く判ったね? キリトは……まぁ GGO内で剣を使う変わり者だったから、まだ判るにしても、リュウキは……銃、使ってたし……」
「まぁ、そうだな。……そのキリトの傍に居た事。とか 『お前は大体判る』とか訳判らん事言われて」
またため息を吐きながらそう言っていた。
翻訳すると、隼人、リュウキの異常とも言える《眼》。未来を見通しているかの様な動き。死神の存在とその終演。リュウキでなければ 有り得ない。と仲間達が結論した様だ。
「――ま、まぁ 別に良いよ。その、玲奈……さんとは 色々と話をしたかった所だし。うん。リュウキに貸しを作るのも面白いかも……だしね。ケーキでも 奢ってもらおうかな」
詩乃がそう言い終えると。何故か和人の方が情けない顔をしていた。
「うえっっ!? あの店で奢らせるの?」
「……なんでキリトが反応するんだよ。まぁ 別に問題はないが」
あの状況を何とかしてくれると言うのなら、と。隼人は了承。
……しれっと 言い切ってしまう所を見て、和人はやっぱり 敵わないな、と思わずにはいられなかった。
「ま、まぁ あんな所で とは言わないわよ? 幾らなんでも、アレだし……」
流石に断ったのは詩乃の方だった。
そして、銀座中央通りから昭和通りに出て、暫く北に走ると、秋葉原駅東側の再開発地区に差し掛かる。どこかグロッケン市街に似た銀色の高層ビル群の谷間を抜け、御徒町界隈に入ると、今度は打って変わって、ノスタルジックな下町の風景が続く。
とろとろと、2台のバイクが細い路地へと入り 右へ左へと分け入っていくと、やがて1軒の小さな店の前で止めた。
黒光りする木造の建物は無愛想で、そこが喫茶店だと示しているのは、ドアの上に掲げられた2つのサイコロを組み合わせ対象の金属板だけで、下部に《DICEY CAFE》と言う文字が打ち付けられている。店名なのだろう。
でも、その入口の扉には《CLOSED》になっている。
「……ここ、なの?」
「ああ」
隼人は、バイクを停車。和人も同じく ダイシー・カフェの駐車場となっている場所にバイクを止めた。
そして、躊躇いなく隼人は右側を、和人が左側の扉を開く。
からん、という軽やかな鐘の音に続いて、スローテンポなジャズが流れ出てくる。香ばしいコーヒーの香りに誘われるように、詩乃は店内に足を踏み入れた。オレンジ色の明かりに照らされた艶やかな板張りの店内は、狭いが何とも言えない温かみに満ちていて、身構えていた方からすっと力が抜けた。
「いらっしゃい」
見事なバリトンでそういったのは、カウンターの向こう側に立つ、チョコレート色の肌の巨漢だ。歴戦の兵士といった感じの相貌とつるつるの頭は迫力があるが、真っ白い襟元に結んだ小さな蝶ネクタイがユーモラスさを添えてい。
店内には、3人の先客がいた。学校の制服を着た女の子たちが座っており、その制服から、和人や隼人と同じ学校なのだという事が判った。
「おそーい!」
第一声が、クレームである。
肩口にまで伸び、僅かにうちはねをつけた少女が、2人に向かってそう言っていた。
「ははは……、悪い悪い。クリスハイトの話が長くてさ」
「そう、だ。ツケは アイツに払わさしてくれ」
ため息と苦笑いが混じりあった返答をする2人。
「ったく! 待ってる間に、アップルパイふた切れも食べちゃったじゃない。太ったら、責任とってもらうからねー!」
「横暴だ」
「な、なんでそうなるんだ」
もう片方、僅かに茶色がかかったストレートヘアを背中の中程まで伸ばした女の子が、やりとりをニコニコと見ていて、その隣にいる同じく茶色がかかったストレートヘアを、さっきのクレームをつけていた女の子と同じ位の位置まで伸ばした女の子も 同じく笑っていた。
顔立ちもよく似ているので、姉妹である事はひと目で判るというものだ。
「それより、早く紹介してよ。キリトくん。リュウキくんも。……あ、でも レイは、もう知ってるみたいだけどねー」
「お、お姉ちゃん……。で、でも ひさしぶりだね? 詩乃さんっ」
「えと……うんっ」
病院については、アスナも当然ながら知っている。
大事無い、と言う事もあり、部屋にまでは入らずに 玲奈と隼人を2人きり? にさせたから 詩乃とは出会って無かったのだ。……後で色々と訊いたのは別の話。
尚、説明をしておくが 確かに 色々と複雑な感情に見舞われたのは当然であり、色々とあったのだが、基本的に玲奈はしっかり者であり、そこは姉譲り。そして、面倒見も良い。そこは兄譲り。である。
玲奈も涙を流したのだが、それでも 自分以上に泣き続ける詩乃をしっかりと支えた。犬猿の仲、泥沼の……というわけでは決して無いのである。
「そうだったな」
「ん。説明はキリトに任せる。……苦手だ」
「オレだって得意って訳じゃないって!」
「……大丈夫だ」
「何が大丈夫なんだよ!」
今度は 2人が漫才をはじめてしまったので、最初にクレームを入れていた女の子、里香がダイシー・カフェに備え付けられているクッションを2人に向かって投げつけ 先へと進ませるのだった。
「おほん。ええっと 仕様がないから、オレが言うけど、こちらは ガンゲイル・オンライン三代目チャンピオン、シノン事、朝田詩乃さん」
「や、やめてよ。そんな紹介……」
思わぬ紹介の仕方をされた詩乃は、思わず抗議をしようとするが、キリトは笑いながら続けた。さっきまでは 嫌がってた様に見えたのに、ノリノリに見えるから、さらに腹立たしいものだ。
「こっちが、ぼったくり鍛冶屋のリズベットこと、篠崎里香」
「なっ! なによそれっ……!!」
また気色ばむ里香と言う少女の攻撃をするりとかわして、さらに続ける。
「それで、あっちがバーサク治療師のアスナこと、結城明日奈。知ってるそうだけど、ついでに その妹のバーサク歌手のレイナこと、結城玲奈」
「ひ、ひどいよー!」
「そーだよっ! それに、わたしは ついでなのっ??」
抗議しつつも、ほほ笑みを絶やさない2人。その笑みもよく似ている。 あえて区別を付けるとすれば、玲奈はまだ何処か明日奈に比べて幼っぽい……と言う所と、髪の長さだろうか。
「そんでもって、あれが……」
キリトは最後に、カウンター奥のマスターに向かって、顎をしゃくった。
「壁のエギルこと、エギル」
「おいおい、オレは壁かよ! 一番扱いひでぇし。だいたい、オレにはママからもらった立派な名前があるんだ」
詩乃は、驚いた。
どうやら、この場にいる全員がVRMMOプレイヤーらしい。巨漢の男、エギルはにやりと笑いを浮かべて言う。……威圧されそうな巨漢なのだが、GGOの世界にはエギルにも劣らない無骨で筋肉質なアバターのプレイヤーたちが多いから、別段詩乃は意識をする事が無かった。
「はじめまして。アンドリュ・ギルバート・ミルズです。此処、ダイシー・カフェと共に、今後とも宜しく」
名前のところだけはネイティブな英語の発音で、後の部分が完璧な日本語なので、詩乃は思わずぱちくり、と瞬きした後、慌ててぺこりと頭を下げた。
「まぁまぁ、座って。……この後は全部リューキだぞ」
「~~~♪」
「口笛吹いて、誤魔化すな! キャラ、変わってるだろ!」
「って、あんたたち、いつまで漫才すんのよ! さっさと座りなさい」
攻撃を躱され、背後で倒れていたリズだったが、復帰して キリトとリュウキの背後から、げんこつを軽く落としていた。
「仕方ない……。時折端折るかもしれないから、何か抜けてたら キリト。フォローを頼む」
「……こう言う時に、お前は絶対抜かないだろ。端折ったりするか。情報の多さと物覚えの良さはオレがよく知ってる」
もう一発げんこつが必要か? とリズが考えたが、そうそうに隼人が話を開始した為、未遂で終わり、BoB大会での出来事、そして 菊岡に訊かされた事件概要を続けた。
言われなくても、何か違う所があったり、足りない部分があったりしたら補填をしようとは思っていたのだが……、和人の言うように、全くそれは必要なく 詩乃も同様だった為、今度は詩乃と和人の2人が苦笑いするという珍しいシーンとなった。
「――こんな所、だな。まだ 公にはなっていない。……他言無用で頼むよ」
話を締めくくると、隼人はややため息を吐いて座り込んだ。
時折、玲奈の方を見たのは、説明に嘘偽りないことを認識させる為、だったりする。他の人にはニコニコ、と笑っている玲奈なのだが……、どうしても、詩乃こと、シノンの話になると、少し膨れてしまう。
その辺は、里香が茶々を入れて楽しむのがデフォルトだったりした。
「はぁ、っとは言っても、リュウキといい、キリトといい。あんたたち、ってよくよく巻き込まれ体質ね。あたしらなんか、目じゃない位に」
「……好んでる訳ではないがな」
「同感。だけどオレたちの因縁だってあったしな」
「あー……そっか。――あーあ、あたしもその場にいたかったな。死銃って奴に言いたいこと、山ほどあるんだし」
「……そう、だね。うん。間違ってることをしっかりと面向かって言わないと、とは思う。たとえ通じなくても」
里香や玲奈の話を訊いて、隼人は軽く首を振った。
「あいつが最後の1人。って訳じゃない。まだ 名前も判明してないが……死神だっている。あの世界に魂を歪められた人間は、恐らくまだまだいるはずだ」
隼人の言葉を訊いて、和人も思わず頷いた。
場に一瞬だけ沈んだ空気が流れたのだが、明日奈が柔らかな微笑みで打ち消した。
「でも、魂を救われた人だって、いっぱいいると思うよ」
その一声に続く形で、手をあげるのは玲奈だ。
「うん、わたしも立候補! 救われたー、と言う意味じゃ、ね?」
「うんうん」
「へーへー、ほーんと、仲の良い姉妹ですこと、いろーんな意味で」
里香が茶々を入れるのだが、救われたと言う意味では強ち自分自身も無関係と言うことではない。心の温度を知れたのだから。……だけど、それは自分の中だけのものだ。
「……それに。わたしは、団長のことを擁護するつもりはないけど……それでも、あの二年間は否定したり後悔したりは、したくないのが、本音かな」
「あ、わたしが言おうと思ってたんだけどなー」
「早い者勝ちだよ? レイ」
楽しそうに笑うその会話は、完全に沈んだ空気を打ち消してしまった。ゆっくりと頷くのは、男性陣。
「……オレも、同感だ。死神との戦いの時。何よりも早くに動けたのは、レイナが手を握ってくれたから。だから 反応する事が出来た。……積み上げてきたあの世界。あの二年間があったからこそ、だ」
「ははは。同じく。死銃との最後の戦い。銃と剣を2つ同時に使えたのは、アスナの手だったと思うよ。それもこれも、全部あの世界から、だったんだ」
其々が己の手を見ながらそう言っていた。
――手は、握るためにある。誰かと。
詩乃は、あの時の言葉が鮮明に蘇ってきた。その温もりは力と勇気をくれる。例外なんてないんだということが判ったから。
「……なら、わたしがへカートを撃てたのは、リュウキのおかげ、だったって事になるわね。うん。あの時、私を助けてくれたから」
「……そう、だったら良いな。シノン自身の力だ、とは思うんだが、それでも。誰かの力になれたなら……良かったよ」
隼人はそう言って詩乃に笑いかけた。
折角、色々と説明をして 納得気味だったのだが、またまた 頬を膨らませそうになるのは、玲奈だ。
「むー……」
「はは。良いじゃない。状況を考えたらさ? レイ?」
「えっ、わ、わたしは別に……」
「ほんと、可愛いんだからっ♪」
「わっ も、もー リズさんっ!!」
ぐりぐり~と抱きしめる里香。何やら百合の香りがするのだが、勿論そんな事誰も言わない。と言うより いつも通りの光景。あまり、慣れていないのは 詩乃だけだ。
そして、会話を重ね、内容はアバター名へと戻った。
「……ステルベン。どういう意味でつけたのかな。病院用語で死ぬ事、なんて……」
詩乃の呟きを訊いた和人は口を開いた。
「医者である父親への反発、かもしれないかな。――と言うより、そんな簡単に想像できる理由じゃないと思うけど」
でも、それを訊いた明日奈ははっきりと、しっかりとした声で言った。
「VRMMOのキャラクターネームに、名前以上の意味を探そうとしないほうがいいわ。気づくことより、見失う事がきっと多いから」
「うん。だって、その世界では 自分の名前になるんだからね? 他の人の名前も深く考えるのって、あまり良い事じゃないって思うから」
玲奈も続く形でそういった。
それを訊いた里香が笑顔で応じる。
「おー、流石姉妹! 揃って本名をキャラネームにしてるヒトが言うと、流石説得力が違うね~」
「もうっ!」
「リズさんっ!」
すかさず明日奈が、肘撃ちを 玲奈が指さきで、脇腹を突っつく。そして、大げさに痛がる里香。そのやりとりに詩乃がいつしかほほ笑みを浮かべていると、不意に明日奈がまっすぐと詩乃を見た。
「あの……、朝田さん」
「は、はい」
「わたしがこんな事を言うのも変かもしれないけど……、ごめんなさい。怖い目に遭わせてしまって」
「いえ……そんな……」
詩乃は急いで首を振ると、次いで一言ずつ、ゆっくりと返した。
「今度の事件は、たぶん 私が呼び寄せてしまったものでもあると思うんです。私の性格とか、プレイスタイルとか……それに過去とかが。そのせいで、私は大会中にパニックを起こして リュウキに……っぁ」
詩乃はこの時、はっきりと思い出した。
そう、大会中、ライブ中継カメラに撮られたシーンの事を。
隼人は全くを持って判って無かった様子だったが、誰がどう考えても、色々とこじらせているのは、あのシーンをおいて他には無いだろう。
「……誰にもそう言う時はある。勿論、オレだってそうさ。怖いことだってあるし、恐ろしさを感じる時だって。……蹲ってしまうことだってあるんだ。……シノンだけじゃない」
そんな時に、こう言うことを億面もなく言うから、色々と生まれてしまうのだ。
和人はやや、引き攣りながらも笑みを浮かべ 明日奈も同様。寧ろ『キリトくんじゃなくって良かった……』と極小の声で呟いていた。
「それに、一応これが説明して、と言われたことの全てなんだが……。何かあるのか?」
「うえっ!?」
「っ……」
「やれやれ……、ほ~~んと、この男は……」
男自ら 導火線に火をつけ、今か今かに爆発するのではないか、と言う現場に一切の躊躇いもなく、場に降り立った様な、そんな感じ。
悪気がないのがさらにタチが悪い。 でも、本当に救ってくれて、誰にとってもかけがえのない人だから、さらに一層 タチが悪い。
「……心中察するよ。玲奈さん」
「あ、あははは…… 詩乃さんも、だよ~……」
殺人鬼に追いかけられている。と言う状況もあった。
つまり まるで、映画の中の主人公とヒロインの様な感じになってしまっているのだ。……でも、本人にはそんなつもりもなく飄々としている。……ここまでくればこれは技能だ。
「……キリトくんは、何もないよね? GGOで、他の女の子とか……」
「うえっ!! な、ないって! なんにもっ!」
突然明日奈の言葉を訊いて、動揺をしてしまっていた。
その間ににも、隼人は なんのことか? と頭を捻らせるのだった。
そして、最後に里香が 今までの話題はとりあえず置いとこ、と言わんばかりに両手をぽんっ と叩くと、威勢のいい笑顔を浮かべた。
「ともあれ、女の子のVRMMOプレイヤーとリアルで知り合えたのは嬉しいな」
「ほんとだね。色々 GGOの話とかも聞きたいな。お友達になってくださいね、朝田さん」
「~~ぅ っと、うんっ 私も改めて、お願いします。詩乃さんっ!」
みんなの言葉。……そして、差し出された手。
それを見て、BoB大会で 隼人の手を掴む前の自分に逆戻りをしてしまった感覚がした。
トモダチと言う言葉が胸に沁み落ちた途端に、そこから焼け付くような渇望が湧いてきたのも感じた。……そして、痛みも。
あの時は、隼人が助けてくれた。でも、それ以外では何度も何度もあったのだ。
望み、そして、裏切られる。戒めとして刻み込んだそれが、中々消せない。
隼人を欲した自分の気持ちに嘘をつけず、助けてくれたことも相余って、隼人の手を握ることは出来た。……だけど、それ以上に踏み込めない自分もいたのだ。同じ闇を持っていたからと言う理由も恐らくある。
友達になりたい。
この場のいる皆と。……温かい空間。その一部に自分もなりたい。普通の女の子のように。
でも、そうなればいつか彼女たちも知るだろう。自分自身がかつて、人を殺したことがあると言うことを。……自分の手が染み付いた血で汚れていることを。
だからこそ、この温かい空間が、豹変してしまうことが何よりも怖い。……嫌悪の色へと代わるのが本当に怖い。これ以上、自分に踏み込むことは出来ない。もう許されない行為なんだ。
そう思ってしまった途端に、隼人に対する想いも どす黒いモノへとかわろうとしていた。咎人である自分がそんな、温もりを味わう資格などあるのか? と。 如何に同じ様な過去を持った者だとしても、彼は、彼らは 沢山の人たちを守る為に、立ち上がり、傷つき、それでも戦い抜いた勇者。……英雄だ。
だが、自分は違う。……母親を守ろうとした、と言えばそうだが、それでも 絶対的には違うんだ。守ろうとした母親も 恐怖で顔を歪め、そして その場にいた銀行員の人たちも同じだった、から。
……そこには 笑顔なんかない。助けてくれてありがとう。と。勇者様に救われた人たち、の様なことは一切ない。
――もう、合わない方がいいかもしれない。……いや、その方がいい。
その想いが頭の中に過ぎった時、このまま帰ろうと思った。友達になって、と言う言葉の温度だけでも、温めてくれるだろう。隼人への想いは依存である。……これ以上縋ってはいけない。
だから、ごめんなさい。と言おうとしたその時――。
「シノン」
突然、電流が走った気がした。
声をかけたのは隼人だった。……そして、和人も真剣な表情で、それでいて少し複雑な想いも同居した顔で、決して詩乃から顔を逸らせなかった。
「あのね。朝田さん。……詩乃さん。今日 この店に来てもらったのには、もう一つ理由があるの。……もしかしたら詩乃さんは不愉快に感じたり……怒ったりするかもしれないけど。それでも、どうしても、どうしても、あなたに伝えたいことがあるんです」
「り、理由…? わたしが、怒る……?」
ますます意味が判らない。とその時、隣でいた和人がやはり 何処か張り詰めた声を上げていた。
「シノン。……訊いてくれ。まず オレは君に。オレ達は君に謝らなければならないんだ」
「………」
和人と、そして 隼人は頭を下げていた。
「オレは、オレ達は、君の昔の事件のことを、ここの皆に話したんだ。……どうしても、皆の協力が必要だったんだ」
「えっ……!?」
和人の言葉を訊いて、いや もう後半部分の声は聞き取れなかった。意識には届かなかった。
――知ってる!? あの郵便局の事件のことを、11歳の詩乃が何をしたのかを。
思わず、駆け出して、この店から飛び出しそうになるのだが、それは叶わなかった。詩乃の手を握り続けるモノがあったから。
「詩乃さん。実はキリトくんとリュウキくんを含めた5人は、昨日の月曜日。学校を休んで、……市に行ってきたんです」
「――――!?」
驚き、どころではない。
詩乃は、数秒間、明日奈が何を言っているのか、まるで理解出来なかった。
その後に その明日奈から出た地名は、間違いなく自分自身が暮らしていた。中学校卒業まで暮らしていた町の名前だ。つまり、あの事件のあった土地であり、忘れたい、二度と帰りたくない場所だった。
――ナゼ? ドウシテ?
そんな疑問だけが頭の中に渦巻いた。
「なんで……そんな、ことを……」
何度も何度も首を左右に振る。
もう、握り続けているモノも全て振り払って、この場所から逃げ出そうとしたのだが、それは出来なかった。
それは心情的に、ではない。物理的にだ。
掴まれた手は、強力磁石のように離れない。やがて、その手は片手から両手となり、詩乃の手を包み込んだ。
「訊いてくれシノン。大切な事、なんだ」
「なに、なにが……たい、たいせ……」
「シノン。……詩乃は、会うべき人にあってないんだ。……聴くべき情報を聞いてないんだ。オレも、そうだった。でも、気づかせてくれたから、心から強くなることが出来たんだ。これは詩乃自身を傷つけてしまうかもしれない。そうも思った。だけど…… そのままにしておけなかった。だから、新聞社のデータベースで事件のことを調べて、電話じゃ判って貰えないと思ったから、皆にも協力してもらって、直接事件のあった郵便局までいったんだ」
詩乃の傍にいる隼人が、そう言い聞かせていた。
説明を始めた和人も、思わず立ち上がって、詩乃に言い聞かせたかった。
「だから、訊いて欲しいんだ。詩乃。話を……訊いて欲しいんだ」
隼人が言っている言葉の意味。和人が言っている言葉の意味。今の詩乃には、理解することが果てしなく難しいことだった。
ただただ、呆然と言葉を繰り返す詩乃の斜め前で、明日奈と玲奈、そして 里香は立ち上がった。店の奥に見えるドアへと歩いて行って、ゆっくりと扉を開いた。
その奥から、誰かが出てきた。女性――30歳くらいだろうか。髪はセミロング。化粧は薄めて服装も落ち着いている。OLと言うよりは、主婦のイメージの方が近い。
その印象を裏付けるのは、小さな足音が続けて響いたことにあった。女性の後ろから、まだ小学校前だと思える女の子が走り出てきたのだ。……顔立ちもよく似ていることから、きっと親子だろう事は判った。
だけど、それらのことを見て取っても、詩乃の戸惑いは深まるばかりだった。なぜなら、親子が誰なのか、まるで判らないからだ。東京に来てからはもちろん、故郷の町でもあったことはないと思える。
その女性は、詩乃を見て まるで 泣き笑いの様な表情をして、ゆっくりと一礼をした。……隣の女の子も続けてぺこりと頭を下げた。随分と長くそのままだったけれど、里香や明日奈、そして玲奈に促されて、詩乃の座っているテーブルの前にまでやってきた。
黙って見ていたエギルも、ウェイターとしての仕事を全うする。カフェオレやミルクを差し出し、戻る。明日奈と玲奈は、2人が座る椅子を用意する。
何が何やら判らない。……こうして間近で見ても、誰なのかわからない。そして、隼人の言っている《会うべき人》だと言うのかも判らなかった。何かを勘違いしているのではないか……、と詩乃の脳裏で思った時だ。
―――――いや。
どこか、どこかで出会ったことがある? 記憶のずっと奥。さらに奥。源泉の深層域。ちりっ と小さな火花が弾けている。赤の他人だと思うのに、何故かその感覚だけは拭えなかった。
その時だ。女性が再び深々と一礼をした後に、かすかに震えが帯びた声で、名乗った。
「はじめまして。朝田……詩乃さん、ですね? 私は大澤祥恵と申します。この子は瑞恵、4歳です」
名前にも、やはり聞き覚えはなかった。それでも まだ記憶の奥深くでは、あの火花が疼き続けている。挨拶を返すことも出来ずに、ただ目を見開き続ける詩乃に向かって、祥恵と言う母親は大きく一度息を吸ってから、はっきりとした声で言った。
「……私が東京に越してきたのは、この子が生まれてきてからです。それまでは、……市で働いていました。……職場は………町三丁目郵便局です」
「あ…………」
詩乃は、その言葉を訊いて、全てを理解した。自分の唇から、かすかな声が漏れる。
そう、それは、――その郵便局は、まさしくあの場所だ。
5年前、詩乃が母親と一緒に訪れ、そこで人生を大きく変えてしまうことになる事件に遭遇した、あの小さな、なんの変哲もない、町の郵便局。
あの銀行強盗の男が、1人の郵便局員の男を射殺した後、奥にいた女性職員か、自分の母親か、どちらを撃つか迷いをみせていたその時に、詩乃は飛びかかって拳銃を奪い――引き金を引いた。
そう、あの時の職員が……目の前の女性 祥恵なのだ。
つまり、この女性と引き合わせる為に、隼人や和人、明日奈、玲奈、里香達は、あの町の郵便局へと行ったのだ。既に職を辞していた女性の現住所を調べ、連絡し、この場所で……と理解出来たが、その理由が判らなかった。
「……ごめんなさい。ごめんなさいね、詩乃さん……。私、あなたともっと早くにお会いしないといけなかったのに……、謝罪も……お礼すら言わずに……」
大粒の涙が、祥恵の目から流れ落ちた。
詩乃は、どうして謝られているのかが、まだ判りかねていた。
そして、祥恵は隣の三つ編みにした瑞恵の頭をそっと撫でながら、続けた。
「……あの事件の時、私、お腹にこの子がいたんです。だから、詩乃さん。あなたは、私だけでなく……、この子の命も救ってくれたの。……本当に、本当にありがとう。ありがとう……」
その言葉。意味。全てが詩乃の頭の中を巡った。
「…………命を…………救った………?」
そして、最後には、ただ その二つの言葉を繰り返していた。
あの郵便局で、11歳の詩乃は、拳銃の引き金を引いて、1つの命を奪った。
それだけが、詩乃がしたことだった。今までずっとそう思ってきた。
――――でも、……でも。
今、眼前の女性は、確かに行った。
《救った》と。
「オレも、言われたことがある」
不意に、隼人が口を開いた。祥恵にも負けない程、震えを帯びた声で。
「『誰かを助ける為にした事。でも正当化するつもりはない。ただ、失ってしまった。奪ってしまった。……それと同じくらい、助けた、助かった人たちのことも考えてみろ』……そう、言われたんだ。自分を責め続けていたことは、オレにも判る。……罰そうとした事も。でも、救った人たちの事を考える権利だってあるんだ。それを、考えて……これは、決して正当化じゃない。それでも、詩乃には、自分を……赦す権利が……ある、って事を……」
そこまで言って、もう言葉がでなくなったかの様に、隼人の口から言葉が出る事は無かった。
詩乃は、隼人が言っている事理解する事が、出来た、出来た気がした。だから、何かを言わなければ、と祥恵の方をもう一度見た。それでも、なにを言えば良いか、何を考えてすらいいのかわからない。
とんっ。
と、小さな足音がした。4歳の女の子、瑞恵が椅子から飛び降りて、詩乃の傍へと来ていた。……ピンク色の頬はふっくらとして、大きな瞳はこの世の何よりも純粋な光をたたえている。
幼稚園の制服らしいブラウスの上から、かけたポシェットに手をやり、ごそごそと何かを引っ張り出した。
それは、四つ折りにした画用紙。
そこには、クレヨンで描いたと思しき絵が広がっていた。中央に髪の長い女性。ニコニコと笑う女性はきっと母親。そして、右隣は三つ編みの女の子。自分自身。……そして 左隣には眼鏡をかけた父親だろう。
そして、何よりも眩しく見えたのは、一番植えに、覚えたばかりなのであろう平仮名で
《しのおねえさんへ》
と記されている。
瑞恵が差し出すその絵を、詩乃もしっかりと両手を伸ばして受け取った。それを確認した所で、瑞恵は大きく息を吸い込むと、一生懸命に練習してきたらしい、たどたどしい声で、一音一音、はっきりと言った。
「しのおねえさん、ママとみずえを、たすけてくれて、ありがとう」
その言葉が……詩乃にとっての引き金だった。
視界の全てが、虹色の光に満たされ、そしてにじみ、ぼやけた。
それが、自分自身の涙だったのに、気づくのには時間がかかった。
後悔で涙を流してしまう事はあった。……隼人が自分の為に怪我をし、ベッドで眠っている時だ。だけど、こんなに、こんなに 優しく、清らかで、何もかも洗い流してくれるような涙があるなんて……。
幼き少女が自分にくれた光。……心の形。
そこに涙の雫が落ち……滲んでいく。止まらない涙。
幼き少女はもう1つ……自分に贈り物をしてくれた。
まだ、火薬の微粒子によって作られた黒子が残る、まさにその場所を――小さな柔らかい手が、最初はおそるおそる、しかし、すぐにしっかりと握ってくれた。
温もりに、違いは沢山あるだろう。
過去の闇を 打ち消してくれる温もり。
そして……罪を、罪を赦してくれる様な、温もり
過去の全てを受け入れられるようになるのには、まだまだ、長い時間がかかるだろう。……だけど、私は、わたしが今あるこの世界が、好きだ。
一度、離そうとした。……でも、そんな事はもうしない。全てを抱きしめて、生きていく。
生きることは苦しく、伸びる道は果てしなく険しい。
それでも歩き続ける事はできる。……その確信がある。
だって、彼に抱きしめられた温もりも、この幼き少女に繋がれた右手の温もりも、……この頬に伝うまた違う種類の涙も、こんなにも温かく、全てを包んでくれるのだから。
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