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真・恋姫†無双 劉ヨウ伝

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第169話 襄陽城攻め2

 正宗は自らの陣所に設営された寝所にいた。夜更けだったが正宗は就寝することなく起きていた。彼の元に冥琳より文が届けられていたからだ。文を彼の元に持ってきたのは朱里である。正宗は朱里から文を受け取ると竹巻の封を解き中身を読んだ。

「正宗様、冥琳殿は何と仰っているのです?」

 正宗は文を読み終わると思案していた。その様子を見ていた朱里が彼に声をかけた。
 正宗は朱里に声をかけられると文から目を上げ彼女を視線に捉える。

「冥琳は都で問題に巻き込まれたようだ」

 正宗は朱里に答えると冥琳からの文を彼女に手渡した。彼女は文に目を通すと徐々に難しい表情に変わった。

「子細は冥琳殿に直接聞かないと分かりませんが。王司徒と董少府の争いに巻き込まれたようですね」

 朱里は正宗に言った。正宗も頷いた。

「王司徒の過剰な態度やも知れないが、王司徒とて馬鹿ではない。都に醸成する空気はあまり良いものでないだろう。少なくとも董仲穎派がそのような暴挙を行うことが可能なのであろうな」

 正宗は考え込むように腕組みをしていた。

「董少府は麗羽殿を襲撃したことは事実。情勢は違えど冥琳殿を拘束しようと考えないことはありません。ただ、冥琳殿の見立て通り確証はございません」
「冥琳も都に行けばそうなるのは想定内のことであろう。朱里、私は漁夫の利を得るためにどう立ち回るべきだろうか?」

 正宗は董卓との衝突に動揺している様子はなかった。彼の中ではいずれ来たるべきことが今やってきただけのだことなのだろう。

「冥琳殿は冀州より援軍として二万の軍勢を率い合流するとあります。蔡徳珪を誅殺し戦後処理を終える頃には冥琳殿と合流できるでしょう」
「董仲穎と一戦を交えるということか?」

 正宗は神妙な表情で答えた。冥琳の増援と合わせ上洛軍としては過剰と言える陣容である。朱里は頭を振った。

「まずは董少府の出方を見なければなりません。そのために正宗様には予定通り二千の手勢のみで上洛していただきます。ただし、連れて行く手勢は泉と冀州兵より選りすぐった馬術に優れた騎兵のみで編成させていただきます」

 朱里は董卓と決定的な衝突をこちらから行うつもりはないようだった。しかし、何かあった時のために正宗が洛陽から離脱出来るように同行させる警護の兵は機動力のある騎兵に厳選しているだろう。

「寡兵にて上洛した正宗様を襲撃したならば董少府は紛う無き敵にございます。ですが、何も無ければ董少府は正宗様に表向きとはいえ膝を折った証となりましょう」
「董仲穎が差配するとは思えんがな」

 正宗は意味深な言い方を朱里に帰した。

「例え賈文和が差配しようと、彼女の主君は董少府です。賈文和が正宗様を襲撃すれば、その責任は董少府にあります」
「分かっている」

 正宗は苦笑し朱里を見た。

「もし、私を董仲穎が襲撃すれば如何する」

 正宗は神妙な顔で朱里に聞いた。

「その時は董少府に後漢の幕引きのための贄になっていただきます」

 朱里も神妙な顔で正宗に答えた。

「董仲穎が動かずとも彼女に後漢の幕引きの贄にするつもりなのだろう?」
「正宗様もそのおつもりであるはず。反董卓連合を結成し洛陽を諸侯軍が乱入する意義をご存じのはずです」
「洛陽は皇帝陛下の御座所。その地に諸侯軍が皇帝の意思とは関係なしに乱入する事態となれば皇帝の権威は一気に失墜する。それは後漢の終わりを意味する」

 正宗は淡々と言った。

「その通りです。現在の漢室を終わらせる人間が必要なのです。それは正宗様であってはなりません」

 朱里は厳しい顔で正宗に言った。彼女は史実通りに董卓に汚れ役をさせるつもりのようだった。

「董仲穎の命だけでも救う道はあるか?」

 正宗は朱里に聞いた。

「正宗様が彼女の保護に成功すれば、董仲穎の名は死にますが生きることはできましょう」
「そうか」

 正宗は短く答えた。

「董仲穎が私に襲撃を加える可能性はどのくらいだ?」
「狡猾な方法で張譲を殺し、その後の禁軍の掌握。朝廷権力を掌握せんとする強い野心。総合的に考え九分の確立で正宗様を殺そうと考えている可能性が高いです。先方は正宗様と王司徒が通じていると考えているはずです。正宗様と王司徒が手を組めば、董少府派は塵芥と化しましょう。現在、董少府が曲がりなりに都で権勢を維持できているのは彼女達の武力が背景にあります。その均衡を崩す存在である正宗様を恐れるのは当然のこと。このまま座して待てば都から排除されるだけです」
「大人しく涼州に去る可能性はないか」
「涼州に帰ろうにも身の安全の保証がない以上、彼女達も引き下がるわけにはいかないでしょう。王司徒が董少府を賊徒として処断したいと考える可能性もございます」
「私がそのような真似はさせんがな。皇帝陛下もご気性からして望まないはずだ。だが、穏便にことが進んでは困るということだな。朱里、お前達はどうするつもりだ。大軍を引き連れ冀州に帰るつもりなどないのだろう?」
「私達は豫州と司隷州の郡境まで正宗様とご同行し、そのまま彼の地に駐屯いたします」
「何かあれば洛陽に進軍する腹づもりか?」
「いいえ。あくまで示威行為に留めます。正宗様を董少府が襲撃すれば、正宗様が冀州に逃れるまでの時間を稼ぐまで洛陽に進軍する動きはとりますが」

 朱里は冷徹な笑みを正宗に向けた。十万に上る大軍を都の喉元に配せば、賈詡は正宗が董卓排除のために実力行使も辞さないと受け取り、賈詡は正宗を襲撃するために動く可能性が高い。そうなれば朱里の目論見通りとなる。

「流れを変えるための犠牲を最小限にするにはこれしかないということか」

 正宗は朱里から視線を逸らし独白した。それを朱里は黙って聞いていた。

「その策に乗ろう。しかし、少々人使いが荒いな。主君を寡兵で洛陽に送り込もうとはな」

 正宗は笑みを浮かべ朱里を見た。だが、その表情は非難めいたものでなく、戦を前に昂揚している戦士のものだった。

「策は万端を期すつもりでございます。董少府が正宗様を亡き者にするため襲撃した際、正宗様が冀州まで逃げる段取りは整えておきますのでご安心ください」

 朱里の言葉に正宗は少し考えると何か思いついたのか口を開く。

「并州の鮮卑族を利用するつもりか? 合力の対価は高くつくと思うがな」
「鮮卑族は自分達の利を保証すれば文句はいわないと思います。以前、鮮卑王より鮮卑族の有力者の子弟を冀州へ遊学させたいと打診があったはず。これを条件にしてはいかがでしょうか?」

 正宗はしばし朱里の提案を思案した。

「交渉役は誰にする?」

 正宗は鮮卑王に足下を見られて不利な要求をされると困ると考えているようだった。

「揚羽殿が適任かと。彼女であれば鮮卑王も正宗様が遊学に乗り気であると印象づけることができると思います。真悠(司馬季達)も副使として立てれば、彼女の面目も立つと思います。正宗様の許可をいただければ、直ぐにでも早馬を揚羽殿に出させていただきます」
「進めてくれ」
「かしこまりました」
「董仲穎が私の襲撃に失敗した場合、彼女は次にどうでると見る?」
「涼州に逃げ帰るという選択はないでしょう。正宗様を襲撃した段階で董少府は全てにおいて終わります。彼女達が都を去れば、次に待つのは粛正です。少なくとも董少府が王司徒の上位に立つため、賈文和はかなり強引な方法をとるかと」
「通常の方法では無理だろうな。皇帝陛下と百官の同意を得るのは不可能だ」

 正宗は険しい表情で朱里を見た。彼はある可能性を思い描いているようだった。劉弁の廃位だ。百官を押さえつけて実行に移すとなれば血の雨が降るのは明かだ。それに劉弁の身もどうなるかわからない。

「皇帝陛下を廃位するかまでは分かりませんが、皇帝陛下には董少府が上洛する前からの側近が居るため傀儡にするのは困難でございましょう。正宗様と決定的な対立を行った後となれば尚更のことです。側近は正宗様に付きましょう」
「となれば賈文和が次の皇帝に据えようと考えるのは陳留王か?」
「傀儡にするには彼女ほどの好人物はおりませんでしょう」

 朱里も後ろ盾のない劉協を賈詡が傀儡の皇帝に推戴すると考えているようだった。

「陳留王が自分の兄を蔑ろにした賈文和を許すとは思えんがな。彼女は皇帝陛下を兄と慕っている。それに彼女は信の通った人物だ。賈文和の脅しには屈さぬだろう」

 正宗は劉弁と劉協の間柄を知っているだけに、賈詡の兄への暴挙を許すわけがないと考えているのだろう。皇帝への即位を拒否する可能性がある。

「ならば兄妹の情を利用して、陳留王に納得させるため現皇帝を表向き病死したなどと評して廃位し軟禁するでしょう」

 朱里の言葉に正宗は難しい表情に変わった。

「そうなれば、この私に朝敵の勅を発布されるな」
「正宗様は董少府を糾弾する檄文を出されればよろしいのです。『皇帝陛下を弑逆(しいぎゃく)し廃位し天下の大逆人・董卓を撃つべし』と。それで正宗様の敵と味方が分かります」
「朝廷側が病死と公式に発表すれば私に味方するものは限られると思うがな」
「全ての百官が大人しくしていますでしょうか?」

 朱里は冷酷な笑みを浮かべた。

「百官は一枚岩にならないでしょう。賈文和は皇帝陛下の廃位を実行に移すために百官の粛正を迅速に行うはず。全てを討ち果たすのは難しいです。必ず落ち延びる者達がおりましょう。その噂を知った上で正宗様の朝敵と見なすならば、その者は明確な正宗様の敵にございます。既に華北と華南の主要部は正宗の影響下にございます。それに私達には青州黄巾軍十万が伏兵として控えております。それを使い敵の行動を鈍らせ、各個撃破すればよろしいのです」

 朱里はこの機に正宗に敵対する勢力を根こそぎ排除するつもりのようだった。彼女の提案に正宗は納得した様子だった。

「陳留王を救うことは可能か?」

 正宗は朱里の献策を黙ってきいていたが徐に口を開いた。

「私は先帝に陳留王の身を守って欲しいと頼まれている。私自身も陳留王を守りたいと考えている。政治の具として死なせるにはあまりに不憫だ」
「問題はございません。陳留王を保護なさってください。ただし、陳留王には天下の趨勢が定まり次第、勇気あるご決断をしていただくことになります。その説得は正宗様にお任せいたします」

 朱里は正宗に拱手した。正宗は朱里の言葉が劉協が自ら皇帝位を辞意し、正宗に対して禅譲することを意味することを理解した。彼は重々しい表情で小さく頷いた。
 朱里は正宗が納得した様子を確認すると再度深々と拱手し、正宗の元を去って行った。



 正宗と朱里が密談を終え、彼が寝所に入り寝入ろうとした頃。彼の寝所の外に人の気配を感じた。正宗が気づかない訳もなく、彼は目を覚ました。

「甘興覇か?」

 正宗は唐突に呟いた。彼は両目を開けると寝台より抜け出し、寝台を椅子代わりに腰を掛けた。

「はい」

 甘寧は正宗が自分の存在に気づいたことに驚いている様子だったが正宗に返事した。

「何用だ?」
「火急の件でまかり越しました。主君・孫文台からの言づてを持って参りました」

 甘寧の言葉に正宗は眉をしかめた。この時間に正宗に言づてなどまともな内容でないと感じたのだろう。

「甘興覇、外では何だ。中に入ってこい」

 正宗は甘寧に寝所に入るように促した。すると彼女はいそいそと正宗の寝所に入ってきた。彼女は正宗の前まで進み出ると片膝を着き目を伏せ拱手した。
 甘寧は正宗に孫堅が襄陽城を夜襲することを報告した。正宗は報告を聞き終わると渋い表情を浮かべていた。甘寧は片膝をつき、正宗の様子を伺っていた。

「夜襲だと」

 正宗は険呑な声音で短くつぶやいた。甘寧は正宗の顔を窺い彼が喋り出すのを待つ。

「孫文台は正気か?」

 正宗は怜悧な瞳で甘寧を見下ろした。彼の雰囲気は孫堅の行動を快く思っているようには感じなかった。

「孫文台様は本気で襄陽城を攻めようと考えております」

 甘寧は正宗の質問には答えず、主人の意思のみを正宗に伝えた。正宗は甘寧の態度に気分を害す素振りを見せなかったが視線を甘寧から逸らし彼の陣所の天幕を凝視した。純白の天幕は小さい灯りの火を受け、淡い橙色に染まっていた。

「孫文台は死ぬやもしれんぞ」

 正宗はしばし考え込んでいたが呟くように言った。

「文台様は危険は承知の上と申しておりました」
「孫文台がどうなろうと知ったことではない」

 正宗は甘寧を睨み付けた。

「文台様は清河王に名誉を挽回したいだけでございます」
「そう思うならば地道に襄陽城を攻めろと孫文台に伝えおけ」

 正宗は甘寧に命令したが彼女は動く様子はなかった。孫堅の命令を受け正宗の元に来た以上、正宗に孫堅の作戦行動の許可を得る必要があるからだろう。

「清河王、文台様は名誉挽回の機会をこの一戦に賭けております」

 甘寧は淡々と目を伏せ正宗に意見した。正宗は彼女の言葉に沈黙した。彼は一瞬眉根を寄せるも直ぐに平静になった。

「孫文台はちと功を焦りすぎているようだな」

 甘寧は正宗に何も言わなかった。彼女も正宗の意見と同じ考えなのだろう。その焦りの一旦は正宗との隔意にあることも。だが、それは切欠であり一番の理由は蔡瑁軍にいいようにあしらわれ、武侠としての体面を潰されたことへの怒りが一番だといえる。

「私にも責任の一旦があるようだな」

 正宗は憂えた。

「いいえ。清河王に非はございません。本日、荊州の豪族達が居る前で失態したことが堪えられなかったのだと思います」

 甘寧は正宗を気遣った。責任の一旦が正宗にあることは事実だが、今回の孫堅の決定は彼女自身が決定したことである。一軍の将が自ら決断したことは将個人の責である。甘寧も武官に身を置くものとして、それを心得ているからこそ正宗を責めようとは思わなかった。

「甘興覇、今より互いに話すことは、この場限りの発言とする。話を終えたら互いに忘れろ。城門を破れる可能性はどのくらいだ? 本音で申してみよ」

 正宗は真剣な顔で甘寧に訊ねた。

「文台様が攻めるのは襄陽城の西門からです」
「何故、西門から攻める?」

 正宗は孫堅の作戦を訝しんだ。わざわざ西門を攻める理由が何かあるかのかと考えたのだろう。甘寧は正宗に襄陽城内の状況を簡単に説明した。それを聞き、正宗は余計に表情を難しくした。

「完全に塞がって居ないとはいえ難しいのではないか? 本気で孫文台は西門を破れると思っているのか?」
「無理とは言いませんが成功の確率は高くないかと」
「そのことは孫文台は承知しているのだな」

 甘寧は口に出さず顔を伏せ頷いた。正宗は渋い表情に変わると天幕を見上げた。

「孫文台が夜襲に失敗すれば城に篭る蔡瑁軍の兵士達は戦意が昂揚するだろう。その意味は理解しているであろうな?」

 正宗は険しい表情で甘寧を見た。孫堅が夜襲に失敗すれば襄陽城の士気が上がり攻め手にとって都合が悪くなる。今後の戦局を左右する一戦になるため、正宗は孫堅のいちかばちかの勝負に出る姿勢に難色を示すのは仕方ないといえた。

「甘興覇、何故に孫文台を諌めなかった。忠義とは主君に僕のようにかしずくが勤めではないぞ」
「文台様は覚悟を決めておられておりました。不利であろうと文台様に従うのが私の道だと思いました」

 甘寧は顔を上げ正宗の目を直視して言った。その表情には迷いがなかった。

「それで主君が失脚しようとか?」

 正宗は冷徹な目で甘寧を見た。彼の瞳には感情が篭っていなかった。

「この一戦で失態を犯せば孫文台を長沙郡太守から罷免する。その覚悟が孫文台にあるのだろうな?」

 正宗は感情が篭らない声で甘寧に伝えた。甘寧は正宗の通告に体を硬直させていた。

「文台様は清河王への名誉挽回のため、この一戦にかけております。必ずや朗報をお持ちいたします」
「甘興覇、言葉だけならどうとでも言える。戦に奇跡などそうそう起こるものでない。気概のみで戦果を得られれば苦労などない」

 正宗は甘寧に厳しい口調で言った。

「私への名誉を挽回するつもりなら先陣としての勤めを果たせばいいのだ。何故、功を焦る。このまま城を攻めれば時期に敵の兵糧と士気は尽きる。その時に功を目指せばよいだろう。孫文台の力量なら十分に可能なはずだ」

 正宗は真剣な顔で甘寧に言った。彼は元々長期戦を視野に入れ、襄陽城攻めに挑んでいた。この討伐は正宗が荊州の主であると衆人に示す絶好の機会といえた。だからこそ蔡一族を殺戮し襄陽城攻めの際の抵抗を激しくするために布石を打ったのだ。
 孫堅が失態をおかせば敵の戦意があがり抵抗が更に激しくなり、正宗軍にも大きな被害が出る可能性がある。この討伐で正宗軍が被害を最小限に抑え蔡瑁軍を完膚無きまでに叩き潰すことで正宗の武威を荊州中に示すことが重要なのだ。その計画に狂いを起そうという孫堅に正宗が怒りを覚えているようだった。

「文台様は一度決められたら誰の意見も耳に貸しません」

 甘寧は顔を伏せ淡々と正宗に説明した。それを聞き正宗は眉間に皺を寄せた。

「お前では埒があかん! 私が直々に向かい孫文台を止める!」

 正宗は寝巻き姿など気にすることなく寝所を出て行こうとした。

「清河王、既に出陣していると思います。即断即決が孫堅軍のやり方です」

 甘寧は正宗に声をかけ止めた。正宗は彼女の言葉を聞き動きを止めた。その表情は怒りを内に秘め、彼女を眼光鋭く睨んだ。

「甘寧、お前はどうするのだ?」
「これより文台様に合流します」

 甘寧は即答した。彼女に迷いはないのだろう。正宗のことを真摯な目で見ていた。

「所詮は虎ということか」

 正宗は小さい声でつぶやくと甘寧に厳しい視線を向けた。

「甘興覇、お前は孫文台に仕えるか? それとも孫家に仕えるか? いずれだ?」

 正宗は甘寧にゆっくりと近づくと彼女を見下ろしながら質問した。甘寧は正宗の質問に戸惑っているようだった。何の脈絡もなく出された質問の真意が理解できないのだろう。

「孫文台か、孫仲謀のいずかを主人にするか選べと言っているのだ?」
「どういう意味でしょうか?」

 甘寧は正宗の言葉に何か深い意味があると感じたのか険しい表情で聞き返した。

「孫文台はこの一戦で失態を犯せば全てを失う。その時、孫家を守る気はあるかと聞いているのだ?」

 甘寧は表情を固くした。正宗は彼女に孫堅を見捨てる気があるかと聞いていた。彼は孫堅が夜襲に失敗すれば太守の地位を罷免するつもりなのだろう。そうなれば孫家は財政基盤を失う。それは孫堅が一代で築いた軍閥を維持できなくなるということだ。蔡瑁討伐後の荊州支配は正宗によって執り行われる。その中で孫家の居場所が無くなることは容易に想像がつく。

「孫仲謀は見込みがあると私は思って入る。この私の幕僚に加えても問題ないとも考えている。孫仲謀が私の幕僚となれば孫家の軍も温存できるだろう。だが、孫仲謀は若い誰か補佐が必要だ」

 正宗は意味深な言葉と共に甘寧の目を見た。

「私に夜襲に加わるなということでしょうか?」

 甘寧は正宗に怒りを覚えているのか語気を抑えながら言った。彼女は正宗が自分に取引を持ちかけていると思っているようだ。

「勘違いするな。私は孫文台が失態を犯した時のことを言っている。お前が孫家を守りたいと思っているか知りたかっただけだ」

 正宗は表情を緩め甘寧に答えた。甘寧は表情を崩すことなく、正宗の真意を探ろうと沈黙する。

「警戒するのは当然だな」

 正宗はそう言うと片膝をつき正宗を見上げる甘寧の側に近づくと自らも膝を折り彼女と目線を合わせた。すると正宗は甘寧の腰に手を回し自らの方に抱き寄せた。甘寧は突然のことに何が何だか分からない顔で抵抗もできず正宗に為されるままだった。しかし、自分が正宗に抱きしめられていることに気づき表情を赤らめて言った。

「な。なななな」

 甘寧は声にならない声を上げた。

「甘興覇、人に聞こえぬように話せ。お前は孫家を守りたいか?」
「えっ?」

 甘寧は変な声で正宗に返事した。彼女は少し頬を染め恥じらっているようだった。ただ、正宗の束縛から逃れようとはしなかった。

「孫文台ではなく、孫家に手柄を取らせたいかと聞いているのだ」
「当然です」
「では私の目となれ」

 甘寧は沈黙した。その言葉を甘寧は反芻し、言葉の意味を理解した。正宗は甘寧に自分の間者となれと言っているのだ。それも孫家の情報を正宗に流す間者である。

「私は心から孫文台と孫伯府を信用できん。だが、孫仲謀は違う。あの者は信用できる。お前もな。このまま孫家を潰すには惜しいと私は思っている。今宵、もし孫文台が失態を犯そうと、襄陽城の総攻めの折は私が孫仲謀に機会を用意しよう。孫文台が見事西門をこじ開ければ、この話は忘れてくれて構わん」

 正宗は甘寧にそう囁くと彼女を解放し立ち上がると踵を返した。

「私の話はこれで終わりだ。孫文台に合流し戦功を上げてまいれ」

 甘寧はしばし正宗の背中を呆然と眺めていたが覚醒したのか、正宗に頭を下げ拱手すると立ち去って行った。

「孫文台、本当に手間のかかる女だ」

 正宗は周囲に誰もいない寝所で独り溜息をついた。 
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