送り犬
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6部分:第六章
第六章
「その場合は。どう思われるでしょうか」
「ニホンオオカミが絶滅していなかったとすればですか」
「そうです」
また述べてきた。
「その場合は。どうされるべきだと思われますか」
「そうですね」
南口さんはまずはまたビールを一口飲んだ。それで気持ちを少し落ち着かせてからまた言ってきた。
「難しい問題ですが」
「それでも」
「どうするべきかですね」
「はい。貴方はどう考えておられますか」
「あくまでです」
前置きをしてきた。
「あくまで僕の考えですが」
「はい」
「静かなのがいいのではないでしょうか」
こう言うのであった。
「少なくとも今は」
「静かなのが、ですか」
「誰かが言えばそれでここも騒がしくなりますよね」
「それは火を見るより明らかですね」
若松さんもそれは言う。
「ここに人がどっと来て。それでニホンオオカミは迷惑するでしょう」
「だったら今は静かでいいです」
またこう言う南口さんだった。
「今は。それで」
「そうですか。静かにですか」
「若松さんはどう思われますか?」
今度は南口さんの方から若松さんに問うてきた。
「やはり静かにするべきでしょうか」
「ええ」
これが若松さんの返答だった。
「私もそう思いますよ」
「そうですか。やっぱり」
若松さんのその返答を聞いて納得した顔を見せた。
「そうなりますか」
「少なくとも今はいいでしょう」
温厚だが確かな声で述べる若松さんだった。
「今は。彼等をそっとしておいてあげましょう」
「そうですね。今は」
「また時期が来ます」
やはり静かな言葉だ。だがその静かさの中には深い叡智がある。それを確かに見せている声であった。
「その時でいいでしょう。彼等のことを伝えるのは」
「そうですね。では今は」
「また随分と変わった犬でした」
若松さんは犬という言葉を笑いながら口にしてみせた。
「あそこで犬が出るとは思いませんでしたね」
「ええ、確かに」
南口さんもまた若松さんのその言葉に応えて頷く。
「面白い犬ですよ」
「そうですね。けれどここには」
「はい。夜には歩かないようにしましょう」
そしてこうも言うのであった。
「今は」
「当分の間は」
若松さんも南口さんもそれぞれ言う。
「そうしましょう」
「やはり夜の山道を歩くのは危ないことですね」
「その通りです。そしてこのことは」
「はい」
「皆さんにお伝えしましょう」
話す若松さんの目はまた温かいものになっていた。その温かさを見て心の中でしきりに頷く南口さんだった。言葉には出さないがそれでも若松さんもわかっていた。
「そういうことで」
「そうですね。それでは」
「はい。何でしょうか」
「もう一本」
こう言ってビールを若松さんに差し出した。何時の間にか南口さんは六本目も空けていた。飲むペースはかなりのものだった。
「どうですか?ビール」
「そうですね。それでは」
「頂かれますね」
「いや、実はですね」
少し苦笑いを浮かべながらも言うのであった。
「ビールは大好きなんですよ」
「そうだったんですか」
「ところがですね」
その苦笑いと共に述べる言葉であった。
「これが。飲み過ぎて」
「痛風ですか?」
「はい。その心配があるのですよ」
苦笑いの原因はこれであった。ビールが好きだとどうしてもこれから逃れることはできない。中々難しい問題である。しかもなってからでは遅い話だ。
「ですから」
「では止められますか」
「いえ」
だがそれは断るのだった。
「是非共」
「飲まれるのですね」
「はい。まあもう一本だけなら大丈夫でしょう」
半分以上自分自身に言い聞かせている言葉だった。若松さんもお酒に関しては弱いようである。
「ですから。御願いします」
「わかりました。それでは」
「はい。それでは」
「有り難うございます」
ビールの勢いもあって犬ということにしてしまう二人だった。これから十数年後絶滅した筈のニホンオオカミがこの山で発見される。世紀の大発見と謳われたが二人はそのニュースを見てほくそ笑むだけだった。その頃はもう人々の対応も冷静になっていた。二人はこのことには素直に喜んだ。何事も時期があるということだった。そしてそのことを喜ぶ人間もまたいるのだがこのことは知られることはなかった。騒ぎの影に隠れて。
送り犬 完
2008・11・17
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