鋼殻のレギオス IFの物語
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第二章 【Nameless Immortal】
壱 バカばかりの日
前書き
【Nameless Immortal】
ずっと家族が欲しかった。
いや、正確に言うならずっと家族というものが好きだった。憧れの形と言ってもいい。
生まれてから長い間、家は貧しかった。食べるものにも苦労した。自分の言葉としては出なかったけれど、苛立ちに似た感情を周りから感じたこともあった。
父親だった人はお金を稼ぐのが得意じゃなかった。使い方も、得意じゃなかった。
厳しい言い方をされたこともあるけど、仕方のないことだったのだと思う。ずっと我慢できるものでもない。
自分に自信を持てないからこんな言い方になってしまうけれど、大切にされていたのだろう。
お前は大事な自分の子供だと、何度も言われた。可能な限りの教育も受けさせてもらえた。
食べ物も優先して貰えた。これは自分が武芸者だったこともあるのだろう。
体を維持するのに必要だから。力をつけるのにも必要だろう、優秀な武芸者になってくれと言われた。
お金なんてロクにないのに錬金鋼も買って貰えた。武芸の稽古もつけて貰えた。
そのあいじょうがただ嬉しかった。
風の音に混じって遠くから重機の発する低音が聞こえる。
今頃、縁外部近くには多くの人員や機械が動いているのだろう。
坂を登りきった小高い丘に立地する此処から見れば、僅かにだがクレーンの頭が見えた。暫くすればその周辺は更地になるだろう。
幼生体の襲撃から数日。ツェルニでは破壊された建造物の修復作業が行われている。軽微ならば修復し、危険だと判断されたものは人の手で止めを刺されている。
人づてに聞いた話だが、建築科の生徒たちはその破壊行動を楽しんでいるとか。レギオスという限られた空間である以上、建造も破壊も出来る空間は限られ、それを行う時期も決められている。
今回のことで制限を気にせずに出来ると、彼らにしてみれば不運であると同時に幸運でもあるのだろう。
もっとも、他の学科の生徒たちにとっても同じとは限らないが。
一過性のものではあるが、ツェルニではバイトの求人が増えていた。
奇異な事件があったとは言え都市は平常通りに動く。寧ろ平常に戻すための作業が増えただけ労力な労働力は増している。
けれど身体、精神的な理由による欠員で人が足りなくなった分野が発生していた。
そんな理由で、日常の作業から普段では余り見ない仕事まで、求人が平時よりもやや割高で張り出されていた。
そのお零れに乗りレイフォンはバイトをしていた。ルシルに誘われた仕事で、もう一人、ルシルの友人である男性も含め三人での参加だ。
うっすらと汗が浮かぶ額を風が撫ぜ、前髪を揺らす。
「よう、もうそろそろ休憩終わりだぞ」
飲んだスポーツドリンクの口を締めているとルシルから声をかけられる。
汚れてもいいように運動着のレイフォンに比べ、ルシルは制服姿のままだ。もっとも、これは二人がしていた仕事の差でもあるのだが。
「随分涼しそうだねルシル。汗一つかいてなさそうで」
「唐突な嫌味か? まあ、そこは仕事を持ってきたのがオレということでだな」
「そっちのツテだし多少は分かるよ。でも僕が荷物置き場の整頓で汗かいてる間、そっちは空調効いた部屋で書類の整理なのはどうなの?」
三人が来ているのは養殖科に属するある研究室所有の敷地だ。建物内の荷物が都震で崩れ、その整理要員が必要とされていた。知人がそこにいたルシルが話を聞き引き受けたというわけだ。
空調のない荷物置き場でレイフォンは研究室の人と協力し、散らばった道具を整理整頓していた。
その傍らルシルは居室で椅子に座り散らばった書類の整理整頓をしていた。
事情はわかるが、釈然と行かないものがでるのは仕方ないだろう。
ちなみに、もう一人はレイフォンと同じ荷物整理分担だ。
「頭脳派と肉体派で分担だな。何もおかしくないな」
これみよがしにルシルが眼鏡を指で押し上げる。
だがレイフォンは胡散臭そうに視線を向ける。
「頭脳派? 僕とそこまで大差ないよね」
「その発言、オレもお前も何の利もないな……」
その通りなのでそれ以上の追求をやめる。殴れば殴るほど自分も傷つくだけだ。
「バイト代貰えればいいけどさ。けど面白い仕事だって聞いたから乗ったのに」
とはいえ他に用があったわけでもないのだが。
降ってわいた休暇だ。クラリーベルもアイシャも別々のバイトや用事で動いている。
レイフォン自身欲しい物もあったので言うほど不満はない。
「そっちは安心しろ。荷物の方はもういいって、新しい仕事貰った」
「どんな内容?」
「後でニールが道具持ってくるから、その時話す」
ニールとはバイトをしているもう一人の事だ。一般教養科の男子生徒で名前はニール・ローアン。二つ隣のクラスにいるルシルの友人であり、レイフォンにとって今日が初対面だった相手だ。
他のバイト先で知り合った仲らしく、ルシル曰くその縁で今日も呼んだらしい。
「そういえばニールは? 休憩に入ってから僕見てないけど」
「さっき見たら休憩所にいた。茶啜って煎餅かじってた」
レイフォンの近くにルシルも腰を下ろす。
養殖科が使っている耕地の一角だけあり、地面は柔らかな芝生だ。
二人がいる周辺には何もないが、少し視線を遠くへ向ければビニールシートのプレハブや柵で覆われた作物の姿がある。農業科の敷地も近くにあるのだ。
人工栽培や新種の作物の作成、農薬の実験などの研究用作物だ。その更に外には実習用の小さな耕地もある。
近くを見ても建物の姿が多い。
本格的な植生や栽培は別の場所で行い、どちらかといえばここはあくまでも研究メインの場所なのだろう。
慌ただしく動く学生の姿が見える。向こうも向こうで色々と忙しいのだろう。
「……あれさ」
視界の端。農地を越えたずっと向こうの縁外部近く.
修復作業が行われている遠くの区画をルシルは見て呟く。
「もうちょっと手抜きしてくれたりしないかな」
「大体予想はつくけど何でまた」
「遅れればそれだけ休暇が増えるだろ」
「休みの理由って主に負傷者でしょ? 意味ない気がするけど」
前回の戦いで殆どの一般人はシェルターに避難していただけだ。人的被害は武芸科に集中した。
授業が科ごとに別ならいいがそうなってはいない。クラスは複数の科の生徒で構成され専門科目を除き大抵はそのまま授業を受ける。武芸科の生徒だけ放置して授業を再開、というわけにはいかない。
ある程度は武芸科の生徒が問題なく復帰出来るようになるまで授業は休講となっている。
「それにあまり建設的な意見じゃないよね。休暇が長引くのは嬉しいけど」
「もっと壊れてれば、とは流石に思わないからこれくらいは許せ」
「ああ。そういう事言う人もいるみたいだね」
実情を知らない、というのは時として残酷な人間を作り出す。
大多数の人間は汚染獣の姿を見ていない。転がる四肢を、死体を見ていない。
上がった悲鳴も、鼓舞する震えた声も、荒れた外延部も、こびり付いた血潮も。何一つとして。
念威操者がとった記録としては残っていても残酷な物は一般には公開されていない。
わざわざ労力を割いてグロテスクなそれを探し実情を見ようなどという人間はいない。
だからシェルターに避難していた人間が知る惨状はせいぜいが記録上に記された数字だけだ。
汚染獣の脅威も事が終わった後に映像媒体を通した姿でしか見ていない。
新聞欄に乗った殺人記事。それよりは身近で身につまされる。その程度。
被害が出たといっても外延部の一部とそれに隣接する建物だけ。普通に暮らしていれば見る機会はない。
死者数も都市全体の人口からみれば零カンマ以下の%。割合で言えば二十クラスで一人いるかいないか。
まして休業中だ。花が生けられる席を見るわけでもない。
事が終わってしまえば非日常の一大イベント。そう捉える学生も多くいた。
だから、ロクでもない発言や噂も裏では多く出た。
思ったより被害が無くてがっかりした。
もうちょっと死んでくれれば休みがもっと増えたのに。
被害の写真を見て正直ワクワクした。
二年前の戦争に、今回の幼生体。弱い穀潰しが間引きされただけ。
もう一回くらい襲って来ないかな。
表だって発言する者こそいないがそういった言葉が聞こえることがあった。
「友人知人が死んでないなら他人事ってことなのかな」
「だろうな。噂って言えばアホなのも色々聞いたな。ツェルニ七不思議とか陰謀論とか」
やれ、畜産課の畑にある案山子の中には夜な夜な動くものがある。
やれ、都市を裏で操る権力者とその組織がある。
やれ、機械科は既に超電磁砲を実用化している。
やれ、変態による変態のための研究会がある。
やれ、光るケモミミの女の子を見た。情報求む。
「獣耳は一体どこにあるのか見てみたいと思わないか。耳は二つか四つか」
「どうでもいいよ。けどそれだけ聞いてると平和だね。意外とみんな暇なのかな」
「旧版や改訂版にレギオス七不思議とかもあったな。一体誰が流しているんだか」
無自覚な元凶の一端をレイフォンはアホを見る目で見る。
なお、レイフォンもアホなのでここにはアホしかいなかった。
アホがアホな話をしてアホがアホを憐れんでいた。
「暇だね」
アホが言った。
「暇だな。ならどうでもいい話するか。レイフォン、さっき聞いた怖い話でお前をビビらせてやる」
「いいよ。出来るならだけど」
レイフォンの神経は意外と図太い。特に幽霊なども信じていない、というよりはもしいるならば昔たくさん見ているはずだ、という考えから特に気にしていない。
怖いことには怖いのだろうが、実感がひどく薄いのだ。
「さっきの掃除で一番最初にレイフォンが持っていた機械あるだろ? ぶつけてたやつ」
「あったね。何が逸話でもあるの? 角凹んでたけど誰か大怪我したとか」
スポーツ飲料をレイフォンは少し口に含み蓋を占める。
ルシルが言うのは床に落ちていてレイフォンが棚に戻した機械だ。棚に戻す際に少し角の方をぶつけてしまったのをレイフォンは覚えている。
ディスプレイに少し罅があり動作テストでは動かず「古いポンコツだしな」と研究室の人は叩いていた。
角が直角であり、人を殴ればたやすく殺せそうだとレイフォンは思っていた。
「あれの値段は三百万するぞ」
「ぶっ!?」
レイフォンが飲み物を吹き出す。
「床に落ちてた金具や試験管サンプルは一つ最低一万からだ」
「何個か踏んだんだけど僕……え、でも見えなかったし大抵元から割れてたし」
「途中でレイフォンが寄りかかってた解析機の値段は文字通り桁が違う」
「やめて、怖い。真面目に怖い」
ぶつけたことを思いレイフォンは冷や汗が出てくる。価値を知り、今更ながらに胃の辺りが重くなる。
普通はありえないが、少しでも弁償しろと言われたら終わりである。
普通、もっと安いのではないか。試験管なんて一つ数百だとレイフォンは思っていた。研究室の生徒からは「仕方ないけど出来るだけ気をつけてね」で終わったが、今更ながらに何なのだあの価値観は。「高い玩具」とも言って軽く扱っていたが、高すぎではないのか。
それとも、研究者になればあの程度の値段は玩具レベルなのだろうか。
「……研究者、なろうかな」
「現実に戻れ。真面目な顔して何考えているかわからないが無理だろ」
「だよね」
言われるまでもなくレイフォン自身知っていることだ。
「二人共、ここにいたのか」
足音とともに背中から声がかかる。振り返れば、もう一人のバイト仲間がいた。
体格はレイフォンと同じくらいで髪はやや癖毛混じり。歳にしては落ち着いた容貌をした男性だ。
大きなバックを背負い脇に荷物を抱え、手には持参の魔法瓶を持っている。
「ニールか。茶はいいのか」
「うむ。どうやら新製品の試飲だったようでな、美味だったよルシル。好意で茶葉を少し貰ってきた」
「そうなんだ。よかったね」
満足気なニールへどうでもよさそうにレイフォンが言う。聞けば長くなるので流すのが一番なのだと今日学んでいた。
同い年相手にもはっきりとした丁寧な口調で喋るニールだが、類は友を呼ぶとはよく言ったものだ。ルシル曰く「中身が半老人」であり、好きなものは茶や煎餅。持ち歩く魔法瓶の中は熱い茶が入っている。
何でも毎朝沸かして入れてきているらしい。ちなみにそれを聞いた際、レイフォンは蒸らす温度や手順を力強く語られた。
レイフォンとルシルの隣まで来たニールが荷物を地面に置く。どうやら色々と渡されたようだ。
「ニール、地図は貰ってきたか」
「仔細ない。これの赤い印が付いた場所だ」
渡された地図をルシルは見つめる。
レイフォンが横から覗くと地図上の何箇所かに赤丸が付けられていた。
「移動の前に、先に作業服を二人に渡しておく」
「場所はここじゃないの?」
「ああ、別所での作業となる。ルシルから聞いていないのか?」
レイフォンは頷く。ニールが来てから話すということだったのだ。
道具を見れば色々なものが入っていた。大きな網、ペン、タグ、長さを測る物差し。カメラもある。
何をやるのかレイフォンには見当がつかない。
「ルシル。何するのこれ」
「漁」
「はい?」
レイフォンは聞き返す。
ニールが補足する。
「魚を捕るんだレイフォン。手段は問わないが、網の方が好ましいということだ」
「養殖科だよねここ?」
「ああ。何でも池などに住む魚の生態調査を行いたいらしい。そのために捕まえる必要があるようだ」
基本的に都市で消費する食品は管理され育成されている。つまりは養殖だ。
魚も同様であり大規模な養殖湖を使い育てられている。中には季節でプールや釣堀として開放されるものもある。
水温水質などの管理は培われたノウハウや機械的に管理され問題はない。
だが、可能ならば出来る限り手がかからずコストは削減出来た方が望ましいのは当然の話だ。その為の研究は様々に行われている。
このバイトもその一環だ。
都市の中にある池では人の管理を離れ生息している魚もいる。当然ながらそこには機械の手はない。
放っておいても勝手に上手くいくサイクル。最低限の管理で済むコロニー。
その要素を取り込めないだろう。と、そういったことをするための調査の一つだ。
「つまり楽したいってことだね」
「人はそれを効率化と言うのだ。とは言えバイトで出来る仕事なのでな。生体数の把握程度だ」
ふむふむとレイフォンは頷く。よくわからなくても取りあえず頷いておく。
作業さえできれば理解などできなくても意外に世の中回るのだ。
「じゃあ行くか」
ルシルが立ち上がり地図をレイフォンへ渡す。
「一応俺が先導するが、道が分かるなら好きに行ってくれ」
「すまないが、少しいいか」
「どうしたニール」
「二人と違って足が無いのでな。どちらかの後ろに乗せて貰えないだろうか」
「ここまでどうやって来たんだよ」
「文字通り足で来た」
ちなみにここは土地を使う関係上、居住区などからは結構離れている。
少々満足げなニールを「何言ってんだこいつ」とばかりに二人が見る。
だが仕方ないのでレイフォンが小さく手を上げる。
「じゃあ僕の方乗っていいよ」
「では頼むと――」
だが、それをルシルが阻んだ。
「やめとけ、死ぬから」
「流石に酷くないルシル」
「この間レイフォンの案内で走ったが二度と先導は受けないと誓ったからな」
「ルシルが気にしすぎなんだよ」
「下りでアクセル吹かしたまま曲がろうとする奴など知るか。死ぬかと思ったぞ」
通りで自分が付いて少し経ってからルシルが着いたのだとレイフォンは思う。
二人の話を聞きニールが神妙な顔をする。
「……悪いが、やはりルシルに頼むとする」
レイフォンとしては釈然としないものがあるが、まあいいかと諦め腰を上げる。
そのまま三人は駐輪してある方へと歩いて行った。
ちなみに小型シティローラーへの二人乗りは原則禁止だが、気にするものなどいなかった。
養殖科が保有する牧場の端で三人はシティローラーを止めた。
本来養殖とは水産資源の人工育成を差すが、ツェルニの養殖科は牧畜なども行っているため幾つかこういった土地を保有している。
今いる牧場はその一つで湧水樹の森と隣接している。遠目に見れば背の高い木々が壁の様に見えるだろう。
多く放牧されているのはクフだ。灰色気味の黒い毛皮をした鹿に似た家畜である。
養殖科の品種改良成果の一つであり、湧水樹の森に大量に自生する地衣類を餌としている。
なお牧場には一切用がない三人はさっさと作業服に着替え湧水樹の森へと入っていく。
湧水樹の森は都市における浄水システムの役割を担っている。
下水道の汚水を貯水池から吸い上げその過程で濾過。残る汚れはバクテリアが分解し土壌の栄養へ。
森は都市のあちこちに存在し、大抵は高温高湿の場所となっている。
中心部に向かうほどその特徴は顕著で木々も多いが、三人が向かうのは外部近くだ。
少し入り込んだ場所にある野池。それが目的地である。
湧水樹の森にある木々は背が高い。そのため中は外に比べやや暗くなっている。
地衣類が付き奇妙な斑上になった木々や地面は、さながら人が踏み入れず苔むした森のそれに似ている。
気候を利用し温水プールなどに使われる場所もあるが、そちらと違って整備されている場所ではない。
そのため足元も凸凹のある地面で、土壌は水気も多い。
「……暑い」
誰かがポツリと言う。
いくら外部近くとはいえ、それでも気温と湿度は十分に高い。
長袖長ズボンの作業服に長靴を履いている身としては汗も出てくる。非常に蒸し暑かった。
「脱いじゃダメかなこれ」
「汚れてもいいんなら好きにしろ」
足元の地面は水分が多くややぬかるみ、湧水樹だけでなく他の植物も繁茂している。
気を抜けばすぐに服が汚れる環境だ。自前の服装に戻る気はレイフォンにはなかった。
それにしても、現状でこれでは夏場は地獄ではないのだろうか。
「雨の後など、気温の高低が大きいとうっすら靄がかかる場所もあると聞くな」
「凄いねそれ……」
目的地まで距離自体は遠くない。会話している間に三人は目的地の池に到着する。
水辺に植物の生えた何のことはない普通の池だ。
元々は農地や牧場に水を引く際、水量の調整のために一時的に水を貯める調整池だ。それが使われなくなり長年放置され今の形となっている。
さっさと三人で準備をしていく。
「そういえば全体の数調べるっていうけど水でも抜くの?」
「そこまではしない。取りあえずは二十五匹程捕まえて印をつけるだけだ」
「もっといるんじゃないの此処」
「一度では無理だな。試行回数を増やして印の有無から逆算するのだろう。一番オーソドックスな手法だ」
「……あー、うん。分かった分かったなるほどね。なるほど」
レイフォンは適当に頷いておく。
そんなレイフォンを見てニールは準備の手を止め落ちていた枝で地面に絵を描く。
「仮にだ。一回目に十匹捕まえたとする。その全てに赤い印を付け放流する」
池を模した大きな楕円が描かれる。その中に十個の小さな丸が描かれ内部に×がつけられる。
「その十匹が固まった場所にいないだろうだけの十分な時間を置き、二回目に再度十匹捕まえる。この時、十匹全てに印があれば池の魚は全部で十匹しかいないことになる」
「まあ、そうだろうね」
「では、印付が五匹だったら全体ではどうなる」
線を引き、×が付けられた十個を丸を五個と五個に分け、片方に×のない丸が五個付け足され計十個になる。
全体では十五の丸が描かれたわけだ。
「十五……いや、同じなら反対にも×無しが五匹いるはずだから全部で二十だね」
「最初に捕まえた数が全体数の内の何割だったか。それからの逆算手法だ」
「ああ、割合ってそういう事か」
仮に印付が一匹なら同じグループが十個あるはず。つまり最初の十匹は全体の一割で総数は百匹。
印付が三匹なら三割で総数三十三匹だ。
ちょっと賢くなった気分にレイフォンはなる。
「実際は偏りがあるので何度も繰り返さないといけないがな」
「……お前ら、手伝えよ」
ルシルの恨み言で準備を再開する。
準備が終わりジャンケンをする。一発で負けたルシルが一際深い長靴を履く。
ルシルは網を持って池の中に入り、長靴の深さギリギリのところで網を投げる。
――トルネード投法・秘儀 投げ網
腰の捻りを効かせたルシルはそのままコケに足を取られてズッコケた。
「……パス」
「ふっ」
ずぶ濡れになったルシルに変わり二番負けのニールが池に入っていく。
ルシルの反省を踏まえニールは体をひねらず、足を前後に開き体を支えて前に投げる。
――オーバーハンド投球・背負い網
踏み込むように投げ、後ろ足で網の端を踏んでいたニールはそのまま頭から突っ込んだ。
「……」
「……あ、うん」
無言で渡されたバトンをレイフォンは受け取る。
背後から届く「お前もこけろ」の怨念を受けながらレイフォンが網を投げる。
――衝剄変化 刃鎧の錬金鋼無し超劣化・滑り止め
――アンドスロー殺法・普通投げ
気付かれぬよう剄で足を固定し、腰の捻りをうまく使ったレイフォンは何事もなく網を投げ終わった。
「ないわー」
「……はぁ」
背後から聞こえてきたそれをレイフォンは無視する。
さてどうしよう。投げきった姿勢のまま明後日を向きつつレイフォンは思う。
そしてふと、視界の端で誰かがこちらを見ているのに気付いた。
岩に座って釣り糸を垂らした男性だ。武芸科の制服を敷物代わりに座って煙草を吸っている。
距離は近いが草木の陰に隠れて見えづらい場所だったから気づかなかったのだろう。
横にはクフがいてモシャモシャ餌を食べていた。
「……一年か。まあ、何も見なかったことにして漁を頑張ってくれ」
「あ、はい」
それだけ言って男性は煙草を咥えなおした。
レイフォンの様子にルシルとニールも男性に気付く。
取りあえずやることを終えたレイフォンは岸に戻る。
「今さらだが何が釣れるんだろうなここ」
「気になるなら聞けば? 何も見なかったことにしろって言われたけど」
「そりゃ何でまた。サボりかなんかか」
「全学休講中なのに何サボるのさ」
ふと、ニールが言った。
「そも、ここは釣りの許可が降りている場所なのか」
『……』
暫し無言になる。
不意に水が跳ねる音がした。男性が魚を釣り上げたのだ。
その魚には小さな赤いタグがついているようにしか見えなかった。
「……何も見てないよな。誰もいなかった」
「うん。誰もいなかったね」
「そうだな。だが念のため独り言を言ってくるとしよう」
自分たちのバイトについて、軽い説明の独り言をニールが木陰でしてくる。
レイフォンは少し前の話を思い出し、やっぱり皆結構暇なんだなと改めて思った。
レイフォン達は無人の池で網を引き揚げ、かかっていた魚を容器の中に入れていく。
そのあと一匹ずつ写真を撮って長さを測り、特殊な糊が付いたタグを張り付けていく。
既にタグが付いたものがいたらタグに記された番号を記録していく。
「俺も暇な時に穴場で釣りしようかね」
「似たような池や沼は幾つか点在するし、探るのも面白いかもしれんな」
さっさとノルマ分終わらせるまでそう時間はかからなかった。
捕まえた魚を放流し、三人は道具を片付け森を出る。
シティローラーの元まで戻って作業服を脱ぎ、元の服へと着替える。
「どうも落ち着かないな、これは」
「いやぁ、風通しが良くなって実に涼しい」
ニールが神妙な顔で、ルシルが清々しい顔で言う。
替えが無いので全身ずぶ濡れだった二人は下着無しなのである。
サンプルを取る池はもう一か所あるので三人はそっちへ向かった。
作業着を着て一か所目と同じように漁をして記録し、慣れたのか一か所目より早く終わりさっさと森を出る。
これで頼まれた仕事は一応終わりだ。後はデータや借りたものを返却して終了となる。
「濡れたまま走れば早く乾いたりしないかね」
木陰のルシルが言う。
下着が無い二人は人目につかぬよう隠れて着替えていた。
「そんな短期間で乾く物でもないだろう」
「風で冷えて風邪引くんじゃないの」
「……ああ、そうだな。その通りだ。それに濡れた奴の後ろに乗りたくはない」
「それは僕も嫌だな。それと一応弁解しておくけど狙ってないから」
そんなしょうもないギャグを言うつもりなどレイフォンには無い。
「それもそうか」
ルシルが納得し、着替え終わった二人が出てくる。
「ま、下無しで走ると風が気持ちよかったし無しで良いか」
『……』
「おい、無言で距離取るな」
「不思議だな。何でか自然と僕の足が後ろに」
「待て。来るな、うつる」
「そういう事言うか。特にニール、貴様は死ぬがいい」
ルシルはさっさと機材や荷物を自分のシティローラーに積みこんでいく。
「お前の席無いから。歩いて帰れ」
「ガキか貴様。……レイフォン、頼めるか」
「あー、うん。別にいいよ」
ここは都市バスのルートからも離れている。流石に歩いて帰るのは酷だろう。
レイフォンとニールが僅かだがある荷物をシート下に仕舞う。
その間にルシルはさっさとエンジンをかけ自前のシティローラーに跨る。
「じゃあな薄情ども」
それだけ言ってさっさとルシルは消えていった。
もっとも、服を返しに畜産科の建物へ行ってどうせ合流するので短い別れだが。
更にレイフォンに至っては入れている単発バイトが幾つか被っているので後日もある。
少し遅れてレイフォンとニールも荷物を仕舞い終わる。
レイフォンがややシートの前目に座り、その後ろにニールが座る。
ニールの手が軽くレイフォンの方におかれる。
「……一応言っておくが、安全運転で頼むぞ」
「任せといて。それにこれ古い型だしそんなに速さでないから平気だって」
自信満々にレイフォンは答える。
レイフォンは慣れた手つきでエンジンをかけ、シティローラーを発進した。
日も大分落ちた夕刻、アパート近くの停留所から数えて二つ目の停留所でレイフォンは都市バスから降りた。その後ろからクラリーベルとアイシャも続いて降りる。
三人の目的は買い出しだ。減ってきた冷蔵庫の中身の補充と今日の夕食の材料を買うために商店街へと向かっていた。
休日の学生らしく、三人とも私服でラフな格好だ。
「肩、どうかしたんですか?」
肩こりでもしたかのように手で揉みながら肩を回すレイフォンにクラリーベルが問う。
横目で見ていたアイシャもそれに追随する。
「帰ったら揉もうか?」
「こってるわけじゃないからいいよ。……やっぱり赤くなってる」
肩口のシャツをレイフォンは捲る。
強い力がかかったのだろう。赤い跡が皮膚に浮き上がっていた。
「どうしたのそれ」
「二人乗りでちょっとね。安全運転したんだけどなあ」
「ああ……」
それだけで納得したのだろう。横の二人はそれ以上追及しなかった。
何故それだけで理解できるのかはなはだレイフォンは疑問である。
「誰かは知りませんが可哀そうに」
全く酷い言われようだ。
帰りも送ろうかと提案したら「走って帰るから結構だ!」と盛大に拒絶された自分の心も考えて欲しいとレイフォンは思う。
そんなことを考えながら直ぐ近くの商店街へと入る。
停留所の近くに開かれた商店街には様々な店が軒を連ねている。食材だけでなく雑貨品や日用品を扱う店も多数ある。
買い物だけでなくちょっとした暇潰しにもよく、それ目当ての学生の姿も見受けられる。
生活圏が散らばっているためか、こうした小規模な商店街は居住区の中に点在している。
「何買いましょうかね」
並ぶ店々に視線を滑らせたクラリーベルはどことなく楽しげだ。
普段、クラリーベルは余り買い出しをしない。料理が余り出来ないため献立やその素材がロクにわからず、買い出しでは微妙にあっているが斜め上の素材を買ってくるからだ。
偶に買いに行ったとしても惣菜を買うかメモを渡されてのお使い程度。
そんな戦力外が来ているのは少し前の幼生体戦が理由だ。
秘密裏にとはいえ十分な戦果を挙げた武芸者二人には報奨金が支払われた。カリアンが帳簿を誤魔化して工面したその金額は中々に多く、グレンダンとそれ以外の都市における武芸者の価値と汚染獣の脅威の差を実感できるだけの額であった。
そういった臨時収入が入ったため何か良い物――安直ではあるが普段よりも高い物でも買おうと来たのだ。
外食でも良かったのだが、ここの所バイトなどで三人の活動時間が合わず惣菜や個々で外食することが多かった。
そのため冷蔵庫の中身を埋めるついでにと、運よく三人の時間が合ったことで料理を作ろうという運びになっていた。
夕食時、久々の友好の時間である。
「あ、クラリーベルは好きに回ってて良いよ」
その友好をしょっぱなからレイフォンは良い笑顔でぶち壊していった。
「何故!?」
「料理を考えて材料を買ったりとかクラリーベルは出来ないよね」
「それはそうですけど」
「なら付いて来てもいいけど暇だと思うよ。食べたい物の希望は既に聞いたし」
この中でクラリーベルは唯一の上流階級出身である。王家の一員としての生活の中で目は肥えている。
だがその審美眼が働くのは見た事触れた事がある物に限られる。貴金属や緻密な細工等は分かっても生鮮食品の良し悪しが微妙では役目はない。
既に何を食べたいかはある程度リクエストを取ってある。
なので実際に作る二人だけいれば事足りるのだ。
「何か食べたいのを見つけたら適当に買っといていいよ。使い道はこっちで考えるから」
「扱いが酷い。そう思いませんかアイシャさん!」
クラリーベルは 仲間を 呼んだ
「……こないだ言ってた本の新刊、あるか確認しておいて」
しかし 仲間は 来なかった ……
「裏切り者、泣いてやる!」
クララは 逃げ出した
クララは どこかへ 消えて いった
「いいの、あれ」
「どうだろうね。孤児院だとこんな感じだったんだけどな」
レイフォンが育った孤児院におけるヒエラルキーは単純だ。まず一つ目は単純に年齢。二つ目は生活能力だ。
孤児院において料理は皆で作るものだったが、実際に調理全般を行える者と補助しか出来ない者に分かれる。
そしてその技能の有無の間には大きな壁がある。
料理が出来ない者は出された料理に文句を言うな、文句言うなら食わせんぞこらというのが通用する世界だ。
反感を買えば嫌いな食材山盛りで食べ切るまでの監視付きかストを起こされ飯抜き。平時でのヒエラルキーも当然上である。
買い物に連れていかされれば買っている最中は邪魔なのでお菓子でも見てこいと言われる。
幾つも選んで持って行けば最安値の一つだけ残し他は戻されそれを駄賃代わりに荷物持ち。
そのため基本的に孤児院では女性の方が立場が強い。最年長である養父のデルクも料理下手なので押し黙る。
『リーリン、そんなに怒らなくとも。あの子も反省して――』
『私しーらない。お義父さんがお夕飯作れば』
『…………』
喧嘩を仲裁しようとして無言で去る寂しい養父の背中を何度もレイフォンは見てきた。
そんな世界で育ってきたレイフォンとしてはクラリーベルへの言葉に悪意はない。よく孤児院に来ていた相手だからと、同じ調子で言っただけだ。
「多分、あれは色々とヤケ買いしてくると思う」
「暫くしたら戻ってくるだろうしこっちはこっちでさっさと買おっか」
育った世界が違うのだ意識の相違は出る。次から気を付ければいいや。
そう考えレイフォン達は目当ての食材を買いに行く。
レギオスは個々が独立した存在だ。基本的にレギオス内だけで自給自足が完結しており、それゆえ食においても都市ごとの独自性という物が出る。
気候、地質、住民の嗜好、都市の来歴。傾向は似れど同じものが出来る方がおかしい。
惣菜屋のケース内に陳列された出来合いの品は多様だ。見た事のない料理もあれば故郷のそれと似ているものもある。
生鮮食品においても同様だ。聞いたことの無い家畜の肉では肉質から用途まで違う。
ある意味、自炊をするのならば腕を磨き料理の品目を増やす良い機会ではあるだろう。
そういったわけで最初から美味しい料理を作るならある程度の知識が必要になる。
食材を見てものを予測し、自分の中の知識や経験から判断しなければならない。
クラリーベルが戦力外通告されどこかへ消えていったのもその辺りが原因だ。
立ち向かい倒さなければ経験値は入らない。しかもレイフォンとアイシャがいるので逃げても問題がない。
レベル1ヒノキの棒では故郷周辺でしか威張れないのである。
レイフォンとアイシャは店を巡り必要な食材を一つ一つ揃えていく。
折角の機会だと今までは手が出なかった肉や野菜などを話し合いながら選んでいく。
今までの癖だろう。さっさと買おうとするアイシャの手を止め、レイフォンはショーケースをじっくりと眺める。
ブロック肉の切り分けをとっても、少しでも大きい物をと見極めていく。
(リーリンなら質や鮮度も考えて選ぶんだろうな)
量だけで選ぶ自分と違い、色々な要素で複雑に熟慮を重ねていた幼馴染をふと思い出す。
上の世代がいた頃からリーリンは台所に立っていた。自分たちが一番上となってからはレイフォンと二人で炊事を行ってきた。
初めは後ろから付いていく荷物持ちだけの付添が、次第にその日の献立を話しながらの隣り合った買い出しになった。
選びもせず買おうとしてリーリンに叩かれ、どんな品を選ぶべきかを帰り道に何度も聞かされた。
懐かしさに気を取られ動かなくなっていたレイフォンを店員が怪しげな眼で見る。
他客の邪魔なのでレイフォンは一旦その場を離れ、辺りを見回してアイシャを探す。
数歩離れた場所にいた連れ合いはどこか別の場所をぼんやりと見ていた。
「どうしたの?」
「ん……前に来た時より、人が少ないなって」
レイフォンは路の隅により往来する学生たちを改めて見る。
確かにアイシャの言うとおり、明らかにその数は減っているように見えた。
「この間の事からまだそこまで経ってないしね。閉まってる店も幾つかあるし」
シャッターの降りた店をレイフォンは見る。
聞いた話では商業区や居住区の中でも人口密度の高い区画には総合商店や百貨店があるという。少し遠いバス停で降りていても良かったかもしれない。
だがそれもいずれの機会だ。
最寄の商店街が不便では困る。暫くしたら閉まった店も再開し元通りになるだろう。
「大怪我したわけでもないのに、何でだろう」
「精神的なものだと思うよ」
「そうなの?」
「多分ね。そういう人見たことあるし」
それでも納得がいかないのか視線を人波に向けたまま、アイシャは曖昧な呟きだけを返した。
既に必要なものは粗方買い終えていた。道脇に寄り、レイフォンも行きかう人の姿を某と眺める。
一体この中のどれだけの人間が、ついこの間あった事態を正しく理解しているだろう。
このツェルニは今まで一度も汚染獣との戦闘が無かったというが、それにしては落ち着いているとレイフォンは思う。
(ああいや、違うな。そもそも長くいないんだから今までは、なんて関係ないか)
ここが学園都市だということを今更ながらにレイフォンは思い出す。
避難時に正しく動けるようにと、都市の中には嘗ての教訓から定期的に避難訓練を行うことを制度化している場所もある。
ツェルニの住人の中にはそれと前回の事態が大差なかった認識の者もいる。
警報が鳴って、シェルターに入って、暫くしたら出て帰宅。
住処を追われたわけでもなく、友人が死んだわけでもなく、化け物を見たわけでもない。
訓練とは違いますと、そう言われただけ。
ふてぶてしさと言えばそうなのだろう。
それだけ早く日常に戻れるわけでもある。
ならいいか。そうレイフォンは思う。
悪い事ではない。寧ろ良い事だろう。
そんなことを思っていたからだろうか。
視線の先、賑やかに行きかう学生たちの群れ。
その中にいた、どこか気力の無いニーナの姿がふと目に留まったのは。
こちらの視線に気付いたのだろう。何故か一瞬表情をこわばらせる。だが次の瞬間には少し表情を和らげたニーナが軽く手を上げ近寄ってくる。
濃色の長ズボンに上は灰色のシャツと長手の黒のパーカー。靴は運動用のモノ。
動きやすそうな私服姿だ。
(訓練服もだけどニーナさんって全体的に黒っぽいなあ)
本人に聞かれたらぶん殴られそうな事をレイフォンは思う。
躊躇いなく機動性重視で選んでいそうな武芸者の鏡なジョシリョクの塊だ。
目的はレイフォン達と同じらしく、惣菜しか見当たらない袋を片手に下げていた。
「……二人とも久しぶりだな。前回の対抗試合以来か」
「お久しぶりです。ニーナさんも買い物ですか?」
「ああ。冷蔵庫の中身がもう無くてな」
見事なまでに包丁が一切いらない中身の袋をニーナは少し掲げる。
取りあえず野菜が足りない様な気がレイフォンはした。
「それ、もっと緑が――」
「シッ」
何故口に出すのか。
おいたしたアイシャをレイフォンが叱る。
「……ちゃんと買ってあるぞ」
失敬なとばかりにニーナは袋を漁り、丸ごと一玉のキャベツを出す。紛うことなく緑色の塊であった。
一人で食べるには巨大なそれを片手で鷲掴みにしている姿が妙に似合っていた。
(多分、素手で千切るんだろうな)
それと何かそのまま握り潰しそうだ。
聞かれたら蹴り飛ばされそうなことをレイフォンは思った。
押し黙った二人に満足したニーナはキャベツを袋の底へと戻す。
「普段は寮長の先輩が作ってくれるが、忙しいようで最近はな。来週からは戻るらしいが」
「寮だとそんな感じなんですね。……そういえば初めて会いましたけど、ニーナさんの寮って近いんですか?」
商店街は居住区内に幾つも点在している。
同じ商店街を使っているという事はある程度住んでいる場所が近いという事になる。
だがニーナはそれを否定した。
「いや、いつもは――、っと」
不意にニーナは後ろからの衝撃を受け言葉を止め踏鞴を踏む。
どこかへ消えていたクラリーベルがニーナの背中に顔から突っ込んでいた。
色々買ってきたのだろう。膨らんだ袋を持っている。
「ニーナさん、ニーナさんじゃないですか。お久しぶりです」
「う、うむ。久しぶりだなクララ」
「聞いてくださいよニーナさん。そこの二人酷いんです。邪魔だからって私を除け者するんですよ。いくら料理ができ……」
クラリーベルの眼が動きニーナの持つ袋の中を瞳に収める。
優しい笑みクラリーベルは浮かべた。
それは先ほど呼んでも来なかったはずの仲間が、今しがた現れた事を歓迎する微笑みであった。
トゥットルトゥットゥットゥー
クラリーベル ロンスマイアが あらわれた
クラリーベルは なかまを よんだ
ニーナ アントークが あらわれた
ふたりは ちからを ためている ……
レイフォンと アイシャの こうどう
女子力をぶつける
女死力をなぐる
▶面倒なのでスルーする
「あれ、そういえばニーナさんって建築実習区域の寮ですよね。珍しいですねここで見るなんて」
クラリーベルは われに かえった
「……いつも行く商店街は閉まっている店が多くてな。ここまで足を延ばすことになった」
「まだ後処理で忙しい人それなりにいますからね。引きこもってる人もいそうですし」
クラリーベルが軽く言う。
少しだけ憂いを滲ませた顔でニーナが頷く。
「その通りだ。……うちの寮長は趣味で薬学をやっていた関係で応援に呼ばれた。友人は恋人が重傷を負ってな。相手の意識が戻って、やっと気力を取り戻した」
「何か満身創痍って感じですね」
「そう……だな。だから未だに少し、慣れない」
店の壁に背を預けたニーナの視線は先ほどまでレイフォン達が見ていた方へと向いていた。
何事もなかったかのように日常を送り休暇を楽しんでいる学生たち。
余りにも変わらない商店街を満たす彼らをニーナは遠くの景色を眺めるように見る。
どこか意識の乖離があるのだろう。彼らと自分の間にそれを感じてしまっている。
「……被害の最終的な内訳が昨日出た。見たか?」
「さっきから重いですね。まあ、チラッとだけは。死者が二桁で収まってた記憶はあります」
必要に駆られた技術は他に比べて飛躍的に伸びる。
今の医療技術の水準は非常に高い。習熟した専門家の居ない学生の街ツェルニでもその恩恵の多くは享受できる。
ただの外傷だけならば手術室に運び込まれた時点で生きていればその多くが生きながらえる。
だから汚染獣襲来の当日がピークでそれ以降死者数はさほど増えなかった。
術後も安定せず病床に就いていた者。安定期に入る者と死んだ者。その区切りが昨日出された。
保険や死因の関係上で一応の区分ともなるもので、今後の期間は呼称が変わる。
死者を除いた負傷者の数は千を越えた。戦線に出たほぼ全員が何らかの形で診療は受けたのだから当然だろう。
病床数の関係もあるがその大半は既に治療も終わっている。意識未明の患者を除き殆どの者が一応の形では日常の中に戻った。
それが不完全なものであるにせよ、そのことも昨日出された区切りの理由になっている。
「まだ眠りから覚めない者もいるというのにな」
「最後の一人までとなれば下手したら何年もです。酷な様ですがそこまで付き合えませんよ」
「分かっている。頭ではな」
慣れ、なのだろう。
そんな時分が己にもあっただろうかとレイフォンは思うが記憶は朧だ。
そも八十人と聞いて「あの有様でそれだけだった」と「そんなに死んだのか」の両方が混在している。そしてどちらにも感傷が薄い。
見ている限りクラリーベルにしても世間話の体で、アイシャに至っては興味が無さそうに買った物の確認をしている。
近くで話していてもここにも距離がある。どちらかといえばレイフォン達も向こう側だ。
「居心地が悪いなら寮に帰ってもいいんじゃないですか。暫くすれば戻りますよ」
「それは経験則かレイフォン」
「多分そうなのかな。よく覚えてませんけど。それと時間平気なんですか?」
「……あ、ああ。まあな」
曖昧に濁したニーナの瞳がレイフォンを……正確にいうならば、いつも通りの三人を見る。
「お前たちは変わらないな」
「あのて……あのくらいの襲撃はグレンダンではよくありましたから」
言い直したクラリーベルにニーナが苦笑いをする。
ニーナがポツリと呟く。
「よくあった、か。そうか。やはりそうなのか」
「ニーナさん?」
何となく、本当に何となくレイフォンは声をかけた。だがそれが届いたのかはわからない。
クラリーベルを向いていたニーナの視線が外れる。何かを見るわけでもなく焦点も合わせず、ただぼんやりと足元のタイルを見やる。
視線が、俯く。
「なら……」
――ああ。そうか。
この中で一番ニーナと付き合いの長いレイフォンはいち早く気づいた。
最初にこちらを見て顔を強張らせたのも。今までの会話や問いかけも。
この言葉を言うためだったのだと。
「お前たちがもっと早くに出ていれば、被害は少なかったんじゃないのか」
あの日からずっと心の中にあったのだろう。
瞳を逸らしたのは自分の顔を見られたくないのか、それとも自分を抑えるためか。
巡り続けた思いは時間と共に冷やされ集い言の葉の滴となる。心の露として静かに吐き出される。
隠すことをやめ吐露したニーナの言葉が滴れ続けていく。
「たった三割の敵を削るのに何時間もかかった。三割では足りない損傷が出た」
「甲殻を砕くために何度も振り下ろした」
「怒声と悲鳴の差が分からなかった」
「必死だったよ。ただ必死だった。疲れさえ意識したら死ぬと思った」
凄く疲れた。そう乾いた声で絞り出すように聞こえた。
滔々と静かに蓋から毀れ続けていく。
「けど、お前たちは慣れていたんだろう。何度も……」
「一匹何秒だ。百を削るのに何分だった。一つでも怪我をしたか」
「お前たちが出ていればもっと。もしかしたら誰もと、そう」
「もしかしたら……」
その声には胎の底から零れたような想いが籠っていた。どうしようもない何かを悔恨していた。
ニーナの知る誰かが取り返しのつかない状態になった。
想像にすぎない。だがきっとそうなのだろうとレイフォンは根拠もなく思う。
さてどうしたものかとレイフォンは困る。
俯き垂れた髪でニーナの目元が隠れる。それを見てああ髪が長くなっているなとレイフォンは今更に気付いた。
シュナイバルで別れたあの日。ちぎった様に無造作に切られていた髪は今よりも短かった。もっとよくニーナの顔が見えていた。それが今は下を向いている。
不意にレイフォンの心に靄がかかる。胸に得体のしれぬ気持ち悪さが沁み出す。
そういえばあの日、あの時。自分は何を考えていた。
「知らなかったはずがない。なのに何故だ。何故お前は――」
「長くなるなら帰っていい?」
突然の声にニーナの言葉が止まる。項垂れていた視線が声の主に向けられる。
僅かに押されて止まっていたレイフォンの体が横へ動く。その衝撃に意識が取られ靄が薄まる。
ずっと沈黙を保っていたアイシャがニーナを見ていた。
「袋、持っているのも疲れる。下ごしらえもある。それ、長いの?」
「お前何を……」
「下らない愚痴を聞くほど、暇じゃない」
止める間もなくアイシャは吐き捨てる。
「百人程度死んだだけで煩い。どうでもいい」
「貴様……」
ニーナの瞳にはっきりと怒気が浮かぶ。握った拳が戦慄く。
あと一歩距離が近ければ胸倉を掴まれていただろう。気の弱い人間なら逃げ出したくなる威圧感だ。
だがその視線を真っ向から涼しい顔でアイシャは受ける。
「『武の理法の修練を通し、都市の守護者たらん意識と技量を有した存在の育成』だっけ」
「……それは」
ニーナの威圧感が僅かに治まる。
何の事だか分からないレイフォンの傍で近くに寄っていたクラリーベルが呆れて呟く。
「確か、武芸科理念の最初の一文でしたっけ。よくあんなの覚えてますね」
レイフォンにとっては初耳の事実だ。
武芸科の、ということは他の科にもあるのだろう。だが欠片も見た覚えがなければ聞いた覚えもない。
「こっちは一般教養科、そっちは武芸科。自分で選んだはず。臨時で動く人たちの場所だって、知ってたのに」
「それは……だが、だからといって何もしなくていい理由には」
「クラリーベルから聞いた。二人が武芸科じゃない事、納得したって。それ、自分たちだけで平気だと思っていたことのはず。被害が出たら教養科相手に責任転嫁?」
「ッ、そんなつもりはない! ただ私は理由が……武芸者であるならばせめて――!!」
「知らないよ。私たちはあなたじゃない。あなたの都合を押し付けるな」
その言葉の何が琴線に触れたのかは分からない。だがニーナの様子が明らかに変わる。
愕然とした表情のニーナから威圧感が消える。戦慄く拳はそのままに再び視線がそらされる。それはどこか咎められ怯える子供の様でもあった。
空いていた一歩の距離をアイシャが詰める。
「百人程度で煩い。どっかいってよ」
「……百人、程度。その言い方……お前に死者の何が……」
「都市が亡んだわけでも無いの――にぃゅッ」
「はいそこでストーップ」
背後に忍び寄ったクラリーベルがアイシャの体を引き寄せて首を極める。
不意に引っ張られたこともありアイシャは体勢を崩す。そのせいで回されたクラリーベルの腕が余計に極まり変な声が漏れる。
「言い過ぎですよ。それとその台詞、あなたが言うと反則です」
「――ッ、―――! ァ、――」
「思う事が無いわけじゃないですが一方的過ぎます。多少は相手の都合を知ることを覚えた方が良い。場合にもよりますけどね」
クラリーベルの視線がニーナに向けられる。
ニーナはまだ目の前の事態に困惑していた。
「すみませんニーナさん。アイシャさんはまあ、色々あってこういう子でして」
「いや……そうだな。確かに前たちを責める様な事を言ってしまった」
「初陣が死戦なら思う事もあるでしょう。戦い抜いて生き延びたなら今回はそれでよろしいかと」
「そう言って貰えると助かるよ」
ニーナの表情が少しだけ和らぐ。
「それと一応弁解を。先ほど知らなかったはずがないと言われましたが実際は本当に知らなかったんですよ。聞こえは悪いですが幼生体くらいなら大した損傷はない思ってしまったもので。その辺りは申し訳ありません」
「……謝られるだけこちらが惨めになるな。それは」
お前たちがそこまで弱いとは思わなかった。
遠まわしにそう告げられたのと同意だ。そしてそれに反論できるだけのものをニーナは持っていない。
「だが、そうか。そちらとしての理由はあったのか」
「前に言いましたが禁じられていますので。極力動きたくないのもあります」
「確かに言っていたな。だがそれはそこまで……」
「ええ。もし表だって手伝うことが有ればそれがこの都市にいる最後かと。余程の場合を除き武芸科で対処出来るなら手を出したくありません」
「……それは一人二人程度なら死んでも、か?」
『大した損傷はない』とさきほどクラリーベルは言った。
それは裏を返せば少しは損傷が出ると思っていたという事だ。
それを止められる力があるのに。そうニーナは暗に言いたいのだろう。
だが当然だという表情をクラリーベルは浮かべる。
「戦えばいつか人は死にますよ。それは変えようがない事です。ねえ、レイフォン?」
「……え、ごめん。何?」
「いや話くらい聞いててくださいよ」
簡単にさっきの内容をレイフォンは教えられる。
なおレイフォンが話を聞いていなかったのは別のモノを見ていたからだ。ニーナに意識を向けるクラリーベルはただの抵抗と思ったのだろう。明かに変な動きでアイシャの体がビクンビクンと動いていた。
「確かに死ぬときは死ぬかな。何度か戦場で見たおじさんがある日いなくて後から死んだって聞いたし」
グレンダンでさえ戦死者は出る。それをレイフォンは何度か経験している。
いくら武芸者の質が高くても戦場に絶対はない。数を重ねればその中で死者は出る。
汚染獣から比べれば武芸者の体は遥かに柔らかくて脆く壊れやすい。医療技術が高くとも心臓を貫かれれば流石に死ぬ。雄性体に噛まれれば首から上が消える。
場合によっては戦後の治療が上手くいかないことだってある。
矛盾する言い方ではあるが戦死は「稀によくある」というやつだ。
「だから悲しいけど、それは仕方ないことだと思います」
戦死者を限りなく減らしたいなら簡単だ。天剣授受者に戦わせればいい。
天剣授受者が戦線に立つのは老成体か大群時の要請だ。それ以外は他の武芸者達が相手をする。
その決まりを無くし常に天剣授受者が出ればいい。大勢の武芸者の代わりに一人置くだけで事足りる。
だがそうだからといって戦死者の存在を「天剣授受者の怠慢」と言えるだろうか。
ひいてはそれ以上の力を持つ「女王の怠慢」となるだろうか。
それは違うだろうとレイフォンは思う。ただ管轄が違うだけだ。
あの戦場は武芸者たちが自ら納得して立つ場だ。それを一方的に奪うのは多分違う。
力不足だというのならば分かる。だが問題なく倒せる技量と技術がある。
レイフォンは養父であるデルクを思い浮かべる。彼が培った技量、それをただの無用な肥やしとされる。
思い浮かべ嫌な気持ちになる。それはきっと矜持の簒奪だ。いずれは皆がただ腐ってしまう。
それにレイフォン個人としても冗談ではない。収入を、稼ぎ場を奪われてしまう。
今のレイフォン達の立場もそれに近い。けれどそこには思い違いもある。
ここにいるのは学生という点だ。グレンダンで言うならば初陣前の若人だ。
覚悟や技量は違う。育てられる立場にある。本来ならば同列に語るは違う。
しかしそれを理解出来る土台がまだ二人には無い。戦死という価値観を自分に照らし合わせて語ってしまう。
だからレイフォンとクラリーベルには分からない。知らぬ誰かの戦死にそこまでの感傷が無い。
自分たちが出れば減らせるはずの死者。自らに課せられた制約をも理由にして仕方のないことだと言いきれてしまう。
それでも唖然としたニーナの表情にレイフォンは僅かに胸が痛む。
二人の価値観はニーナには理解できないものだ。
だが幾たびの経験から語る二人に返せる言葉がニーナには浮かばない。ただニーナは強く歯噛みする。
そしてそんなニーナを見ていたレイフォンは手遅れになる前にと前に出て口を開く。
「クラリーベル。そろそろ手を離した方が良い。動かなくなってる」
「え? あ、ちょ、大丈夫ですかアイシャさん!!」
クラリーベルから解放されたアイシャの体が崩れ落ちる。受け身も取れず倒れて鈍い音がする。
レイフォンがが背中を何度か叩くと咳き込みながらアイシャが意識を取り戻す。
「大丈夫? すぐ助けられなくてごめん」
「……」
小さく開かれた口から言葉は出ない。すぐには声が出ないのだろう。
アイシャはレイフォンに向けて小さく頷く。そして恨めしげな視線がクラリーベルを突き刺す。
「な……よ、く……ゆる……カフッ……い……ケフッ」
「ほんとすみません。忘れてました」
クラリーベルは指を二本立てた手をアイシャに向ける。
「何本か見えますか?」
「……一本」
「片方へし折ろうとするのは止めてください」
指を振りほどいたクラリーベルは身を屈める。
抱え上げるべく身を寄せたクラリーベルが小声で言う。
「ワザとでもやり過ぎですよ」
「……あれが一番早い」
嘆息しつつクラリーベルはアイシャの体をグイと持ち上げる。体を捻ってアイシャを背負う。
「まだ辛いでしょうし途中まで運びますよ」
「……」
「首絞めてもいいですけど全力で背中から倒れますから」
「……チッ」
仕方がないので二人分の買い物袋をレイフォンは持つ。クラリーベルが持ってきた方を見るとやたらと高そうな肉と一緒に黒マントとトマトジュースが入っていた。何故かレイフォンは優しい表情になる。
レイフォンは改めてニーナに向き合う。もうこれ以上、今話すことはない。
「僕たちはそろそろ行きますね」
「……ああ。済まなかったな」
力なく視線を俯かせたニーナが言う。背中を向け三人から去っていく。
レイフォン達はバス停へ向かって行った。
コロコロ
コロコロと
命を有様を決めるダイスが転がる。
どれだけの努力を積み重ね知略を尽くしたところで最後は運になる。
結局のところ人の行いでは天の采配には勝てない。小さな足掻きなどどうしようもない力の前には押し潰される。
だからこそ運も実力のうちだと言われる。それが無ければそもそも何もなせないから。
だからこそ人は皆祈るのだ。それを自分の力と出来るように。
コロコロと転がるサイコロの行方に祈るのだ。
「あ、ファンぶった。扉を開けた途端セキュリテーが作動しました。けたたましいアラームと共に先頭にいたクラリーベルが通っている途中で扉が閉まります」
「ちょ、全力で後ろへ逃げます」
「駄目です。足元に落ちていたバナナの皮を踏んで転倒しました。押し潰され首から上が肉塊になりました」
「ぬああ! ええ……」
6%以下の可能性を引き当てたクラリーベルが頭を抱える。
同卓している他三人にも笑われる。
「どうやらセキュリティの認証登録に遅延があったようです。数秒遅れ認証されました。信仰主による祝福を受けすぐさまクラリーベルは蘇生します。刻印が一画消え残りは2です」
「人災じゃないですか。担当を後で審問にかけて」
「可能ですが担当は司教です。明確な証拠がなければ助祭からの糾弾など寧ろ背任とされる可能性があります」
「階級は絶対ですからね」
呻くクラリーベルはクスクスと隣の女生徒に笑われる。
体面にいる短髪の男子生徒は裏返した紙をGMに出しつつ口を開く。
「まあよくある。死に易いからの高ストックせいだし」
「あと二つなんですがそれは。今日私に厳しくないですか」
クラリーベルはジロリとGMを見る。火のついていない煙草を咥えた顎ひげの男性だ。身に着けているのはよれた制服のシャツとズボンである。
五年生か六年生かクラリーベルは忘れたが今この場における最高齢でありサークル部長でもある生徒だ。
「主は言っている。これは試練だと。神秘の煙を拒絶したクラリーベルへの試練だと」
「煙草を根に持つ主ってどうなんですかねそれは。空調直ってからにしてください」
「よくあるよくある」
うんうんと短髪の男子生徒が頷く。
女生徒が裏返した紙をGMに出す。
「よくあっては困るんですがね」
「あら、主へ苦言を呈すとは背任者でしょうか?」
「え。い、いやぁ私の不徳を見咎められ試練を課されるとは流石主は――」
「ふふ。冗談ですよ冗談」
思う事はあるがクラリーベルは口を閉ざす。これ以上ストックを減らしたくはない。
それに実際は出目が悪いだけのところもある。それは仕方のないことだ。
そのままシナリオが進んでいく。
「第二課へ着きました。部屋の中には紅髪の司教が既に待っています。集まった助祭たちの姿を確認した司教は食べていたバナナを慌てて完食し試練の説明を――」
不意に説明が止まる。顔を上げた部長の視線を追おうと背後を振り向きかけたところでノック音が部屋に響く。来客者だ。
聞こえてきたのはどこかで聴いた声だ。
「失礼します。此処にクラリーベルがいると……」
入ってきたのはフェリだ。クラリーベルの姿を見つけ言葉を途中で止める。
「本当にいたんですね」
「そりゃここの一員ですからね。それに知ってて来たんでしょう」
「ええ、まあ……」
フェリは部屋の中を見回す。
ぎっしり詰まった本棚に薄汚れた壁の染みに剥がれかけたポスター。ゲーム系のサークルなどフェリにとっては物珍しいのだろう。
「会長の妹じゃねぇか。知り合いだったのかロンスマイア」
「ええまあ。一応ゲーム中なのでクラリーベルで……というか面倒何でもう呼び方変えなくていいですよ」
「去年のミス・ツェルニだったか。知り合いとか何か凄いな。何が凄いのかわからないが」
部長と短髪男子生徒が好き勝手に言う。
クラリーベルたちが囲んでいるテーブルをフェリは覗き込むように見る。
「……随分とまあ、楽しそうですね」
「『ファナティック』っていうゲームですよ。テーブルトークなロールプレイング」
「はあ」
「まあ簡単に言えばとある設定の世界があって、そこに生きるキャラクターを演じてゲームをするんです」
ファナティックは宗教が蔓延したとある自立型移動都市の話だ。プレイヤーはそこに住む聖職者で掃除人の仕事についている。
宗教においては絶対なる主が存在しそれ以外の救いはあってはならない。そして主からの祝福は信徒と聖職者全てに齎されている。ハズである。
そのため主を敬わない異端者、祝福されているならありえない不幸である背信者は即刻処刑される。
また絶対なる主の元なら在りえないはずの分派も存在し、そこに属していても処刑である。
階級制度も存在しより主に近き存在である上位の者へは服従。背けば背任。
法術と呼ばれる奇跡を扱える者も存在するが、主以外が奇跡を使っては冒涜で異端認定。
そんな世界でプレイヤー達は――
「興味ありませんのでその辺で」
「そうですか。他にも機械都市や常闇世界などあるのでどうせなら今度やって――」
「他に用もあるので結構です。用事を終えたらすぐ帰ります。……今少しいいですか?」
ちょいちょいとフェリから手招きされる。
背後からクラリーベルに「勧誘しろ部長命令だ」「もっと誘いましょう」「部費と知名度の鴨葱だ」「会長の後ろ盾だ」などと好き勝手な小声が届く。
全無視してクラリーベルは素知らぬ顔をする。
「今はちょっとよろしくないです」
「え……」
「嘘ですよ」
クラリーベルは立ち上がってフェリに近づく。
フェリはポケットから封筒を出しクラリーベルに渡す。
既に封が開いていたのでクラリーベルは中を見ると三つ折りにされた便箋が一枚入っていた。そして封筒の内側に張り付けられもう一枚の紙がある。中を見たもの以外には気づかれないようにしてある。
「兄からです。渡すよう頼まれました」
「内容は?」
「知りません。ただ中の件をよろしく頼みたいと」
「なるほど」
「では私はこれで」
回れ右してすぐに帰ろうとするフェリの肩をクラリーベルは掴む。
「ここだけで十分ですよフェリ」
「何の事でしょうか」
「ですからもう一人の方は行かなくて結構です。私から伝えておきますので。そっちの方が楽でしょう? 会長にはそのように」
フェリの目が僅かに泳ぐ。だが直ぐに納得したのか小さく頷く。
「分かりました。そのように伝えておきます」
フェリが部室から出ていく。
口を広げた封筒を覗き込むクラリーベルの背後から声がかかる。
「何貰ったんだそれ。会長からだろ」
「さあ。何でしょうね」
三つ折りの便箋を出してクラリーベルは軽く目を通す。
「前に会った時割のいいバイトの紹介頼んだのでそれですね。生徒会が斡旋してるやつの適当なリストです」
「張り出されてる感じのか。そりゃまた親切な」
都市内におけるバイトにもいくつか種類がある。需要が自由な飲食店などの雇用型に都市運営で必須となるインフラ関連の従事型。バイト情報誌を探れば載っている類のものだ。
それらとは別の系統として研究室における研究や実験への協力要請などがある。これらは事務の認証を受け生徒会塔や掲示板に張り出されるものが多い。バイト代が研究費の一部として扱われるためだ。
またそれ以外にも下級生への家庭教師で一部それに属するものもある。
クラリーベルが手に持つ用紙にも生徒会が斡旋するバイトの一覧が載っている。
用紙を受け取った部長がそれを眺めながら流れるような動作でライターを出す。が、隣に居た女生徒がすぐさまそれを奪う。そしてクラリーベルへパスする。
取りあえず空気を読んだクラリーベルはライターを部屋の隅へ投げた。
「なっ、お前ら。……はぁ。バイトなあ。俺もそろそろ何かしないと生活費がやばい」
「あら。結構お金に余裕があるはずでは?」
「金ってのは使ったらなくなるから不便だよな。うちの後輩も返せって煩いしよ」
「駄目だ。ダメ人間だこの人」
返された用紙を封筒に戻してクラリーベルはポケットにしまう。
「取りあえずセッション再開しましょう」
「だな。始めるか」
部長がダイスを握る。
ひたすら頭をからっぽにする時間が再開した。
工業区の端っこに位置する場所にレイフォンはいた。
場所は商業区との境目に近く周囲は閑散としている。そこにある整備店をレイフォンは訪れていた。自分の乗るシティローラーの整備をするためだ。
作業服を着た店員の生徒が機材片手にレイフォンのシティローラーを検査している。
椅子に座わったレイフォンは出されたお茶を啜りながらそれを横で見る。
「結構乗ってるな。古いタイプだし先輩からのお下がりか?」
「バイト先のです。足代わりに使っていいって言われてて」
「へえ。少しガタが来てるから余り無理しない方が良いぞこれ」
「危ないですか?」
「普通に乗る分にはまだ問題ない。ただアクセル効かしても余り力出なくなってるだろうし劣化が早まるな」
店員はボルトの閉まり具合を確かめていく。電気系統のチェックも行いタイヤを軽く手で回す。
「溝もそろそろ危ないなこりゃ。変えるかい」
「タイヤっていくらくらいします?」
「そんなしない。ただ今変えるくらいなら本体ごと新しくするのも手だ。新調するなら良いの紹介するよ」
「その辺はおいおいで」
そんなにすぐ変えられるだけの資金がレイフォンにはない。
もうしばらくは今の物に乗っていなければならない。
「結構荒く走ってるみたいだし新調の際はモデルだけじゃなくタイヤの種類見るのも手かな」
「タイヤにも種類ってあるんですか」
「あるよ。ノーパンとか」
ノーパン。
一瞬意味が分からず既知の知識を元に脳裏で変換される。
何故か友人の馬鹿がサムズアップする先日の光景が浮かぶ。
だが流石にそれは無いし何の関係もないので即座に脳裏から消す。
「多分だが今想像しているのとは違うぞ。パンクしないって意味な」
「ああなるほど。というか何を想像したと……普通のとはどう違うんですかそれ」
「シティローラーはランドローラーの派生だな。ノーパンはランドローラーのに近い」
ノーパンタイヤは空気の代わりにジェルや別の素材を詰めている。その分パンクが起きづらい。
デメリットとしては重さや値段、施工の労力さや乗り心地などがある。
元々ランドローラーは荒野を走るためのものだ。パンクは命にも関わるため丈夫なものが望ましい。
そのタイヤがシティローラーの方にも転用されている。
最も充填剤によっては砂利道が苦手だったりもするため完全にランドローラーと同様ではない。
それにノーパンタイヤと言えどパンクしづらいだけで物によってはパンクする。
都市内であれば荒地も少ないため普通のタイヤの方が向いている場面も多い。
その辺りは個人の好みだろう。
エアーでの掃除やオイルの注入、錆落としにミラーの調整。
手慣れた流れで店員は作業をこなしていく。
特に何も出来ないレイフォンはお茶を啜りながら作業をボケッと眺める。
そもこの整備も走行距離の赤ラインが上限突破し周囲からの忠告でやっと来ていた。
「いやーでもいいな。君、新入生だろ。二輪好きが増えてくれると嬉しいよ」
「周りでも余り見ませんけど結構少ないんですか? 店も少ないですし」
「店はなー……台数が少なくはないんだけど割合的に少ないというか」
店員が曖昧に笑う。
どういうことかと疑問を浮かべるレイフォンに店員は説明する。
「台数の大半が配達業用で個人用の需要なんて人口の1%もない。だから一般向け販売店の需要も余りなくてよ。巡回バスの整備もしてるけどそっちが本業みたいなところある」
「ああ……動くならバスですし駐車場の問題とかもありますからね」
レイフォン自身、学生寮にでも入っていたら置く場所に困っていただろう。
「レース大会でもあって興味持って貰えたらいいんだがな。投書してるけど見込みなくてさ」
「投書って生徒会ですか?」
「それも一つかな。まあどこ走らせるんだって話だけど」
一人二人ならともかく大勢になれば騒音問題や事故対策も変わる。
面白そうではあるが実現は難しいだろう。
店員は機械を設置しタイヤの圧力を確かめる。エアーが自動で注入されていく。
「まあ暫くは治安的にも厳しいんだろうけどさ。悪いイメージがどうも」
「治安、ですか」
「二輪って不良グループにも需要有ってね。暴走族ってやつ? 抑えになってた武芸者や都市警はこの間の汚染獣の影響で手が回らなくなってる。だから今は特にな」
「はあ」
「君も危ない運転とか事故には気を付けてくれよ」
「……善処します」
目を逸らしてレイフォンは政治家並の発言をする。
別個で充電しておいたバッテリーも取り付け一通りの整備が終わる。
「終わりかな。言われてたブレーキの効きも直ってるはずだ。領収書は要る?」
「お願いします。宛名は空白で」
貰わなければ自腹になってしまう。支払いを済ませ領収書を受け取る。
シティーローラーに跨ったレイフォンはスターターを作動させる。スロットルを開けペダルを蹴ってエンジンをつける。
今日は特に用もない。日も落ちてきているし直帰だろう。
食べて帰ってもいいが先日の材料も残っている。早い所使った方がいい。
「また何かあったらよろしく。商用モデルじゃなくて個人用もいいぞ」
「じゃあその時にまた」
メットを被ったレイフォンはアクセルを回す。
そのままフルアクセルで爆走して消えていった。
後書き
一年ぶりかな? もっとぶりですね。
一次小説書いたり公募出したり試験勉強したり研究したりしてたら遅くなりました。
申し訳ない。
まあ似た状況でも更新してる人はいるので言いわけですが。遅筆で申し訳ない。
あと本編の文字数減らすのは諦めました。
ここに沢山書くのもあれなのでいつも通り割烹で好き放題書きます。
ニーナは可愛いなぁ。
※12/09にアイシャとクララの台詞を一部改訂しました。
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