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アニー

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6部分:第六話


第六話

 家に帰ると車が一台停まっていた。見慣れない赤い車だ。
「何だ?」
 見ればかなり大きな車である。キャデラックであった。
「誰の車なんだ?」
 車のクラクションを鳴らした後でアニーから降りてそれを見る。するとそこで自宅の玄関から若い女の声がした。
「おかえりなさい」
「キャシー」
 キャシーが玄関から出て来た。黒いティーシャツに青いジーンズを着て髪は後ろで束ねていた。どうやらクラクションの音を聞いて家から出て来たらしい。
「待ってたのよ、貴方を」
「それはいいけれど」
 彼はそれよりもこの赤いキャデラックの方が気になっていた。
「この赤い髪の女の子は誰なんだい?」
「私の車よ」
 彼女はニコリと笑ってそう答えた。
「今日から暫く休みだから。車で来たのよ」
「そうだったんだ」
 それを聞いて少し納得した。
「それにしてもキャデラックなんてね。えらく贅沢だね」
「あら、中古よ」
 キャシーは笑ってそう言葉を返した。
「中古車の販売店に入ったらすぐに目に入ったの。それで買ったのよ」
「よく中古車店にこんなのあったね」
「運がよかったって言うべきかしら。何でも前のオーナーがもっといい車買うからって売ったのよ」
「そのオーナーってのはロックフェラーかい?」
「ふふふ、さてね」
 キャシーはまた笑った。
「そこまでは知らないけれど。邪魔かしら」
「いや、別に」
 彼はそれを否定した。
「家の前だったらね。別にいいよ」
「有り難う、寛大なのね」
「うちにはキャデラックを入れられるような駐車場もないしね。そこでいいよ」
「じゃあそこに停めさせてもらうわ」
「ああ。ところで家の中で何をしていたんだい?」
「料理を作っていたのよ」
「料理」
 どういうわけか違和感のある言葉に思えた。ヘンリーは働く女というものはあまり自分で料理を作らないという先入観があるのである。偏見と言われればそれまでであるが。
「料理できるんだ」
「当たり前でしょ、一人暮らしも長いし」
 それを察したのかキャシーはむくれた。
「それとも何?レディーの手料理が食べられないっていうの?」
「いや、それはないけれど」
 今度は宥めにかからなければならなかった。
「ただね、ニューヨークの料理はどんなものかな、って思って」
「安心して、腕には自信があるから」
「いや、気になっているのはメニューなんだけれど」
「バーベキューリブよ」
「バーベキューリブ」
 豚肉のスペアリブをソースに漬けてオープンで焼いたものだ。
「それとマッシュポテト、コーンスープ、そしてレリッシュ=サラダよ。どうかしら」
「いいね」
 どれもアメリカではかなりポピュラーな料理である。レリッシュ=サラダとは茹でて、絞ったキャベツを中心とした野菜類をドレッシングであえたものである。酸味のあるサラダである。
「どうかしら。御気に召して」
「ああ、素晴らしいね」
 メニューを聞いていると笑顔がさらに明るくなってきているのが自分でもわかった。
「是非共頂きたくなったよ」
「じゃあ早く来て。ビールも用意してるから」
「さらに素晴らしいね。今行くよ」
「いらっしゃい、貴方の家へ」
 ヘンリーはアニーを駐車場に入れると自宅の中に飛ぶようにして入って行った。そしてそれから数日間彼女と二人きりで過ごした。既にそういう仲となっていたのであった。
 楽しい数日間であった。休日でもあったので二人水いらずであった。彼等は心ゆくまで語り合い、共に時間を過ごした。だが時間は過ぎていくものでやがてキャシーがニューヨークに帰る時間となった。
「それじゃあね」
「うん、時間が経つのは早いね」
 ヘンリーは玄関でキャシーに対して名残惜しそうにそう言った。
「そういうものよ、時間ってのはね」
 彼女は苦い笑いを作ってそう応えた。
「仕方ないわ」
「これは僕の我が侭なんだけれど」
「何かしら」
 ヘンリーは打ち明けた。
「二人で住まないか、ここに」
「ボストンに?」
「ああ。それなら二人でずっと一緒にいられるだろ」
「悪くはないわね」
 拒否されるかと思っていたが意外にも彼女はそれに乗り気であった。
「ここはいい街だし。考えさせてもらうわ」
「ニューヨークでの君の仕事の都合があるだろうけれど」
「そうね、今の仕事が全部終わったらね」
 彼女はさらに前向きな言葉を述べた。
「ここに居候させてもらっていいかしら」
「居候だなんてとんでもない」
 ヘンリーは真面目な態度でそう言った。
「パートナーとして。いいね」
「わかったわ。パートナーとして」
「うん」
 二人は頷き合った。
「それじゃあね。今度ここに来る時は引越しの時よ」
「ああ、待ってるよ」
 プロポーズは上手くいった。ヘンリーはその結果に満足していた。キャシーは家を出てその赤いキャデラックに乗った。そしてボストンを後にしたのであった。
「さてと」
 彼はそれを見届けた後で家の中に戻った。
「これからが大変だな」
 手続きや式の問題もある。今から気が早いと言われようともそれについて考えるだけで気が楽しくなる。彼はうきうきした気持ちで後片付けをしてベッドに入った。今日の朝まで彼女も一緒にいたベッドであった。
 その中に入ってその日は休んだ。次の日から仕事とは別に何かと忙しくなるだろうとあれこれ考えながら眠りに入った。楽しい眠りであった。彼にとっては楽しい日々のはじまりであった。
 だがそれを苦々しく思っている者もいる。その者はヘンリーがどう思っているのか嫌になる程知っていた。そして動いた。闇の中に鈍い二つの光が煌いた。
 心地良い朝であった。ランニングを済ませシャワーを浴び、食事と身支度を終えて家に出る。そしていつも通りガレージを開けてアニーに挨拶をした。
「おはよう、アニー」
 当然返事はない。だがアニーはどういうわけか上機嫌なように見えた。
「今日も頼むよ」
 そう言いながらキーを入れてエンジンをかける。そして車を前に動かした。
「おや」
 また調子が元に戻っていた。ハンドルもブレーキも軽い。そして乗り心地もいい。実に快適であった。
「またか」
 不思議と言えば不思議であった。いつも急に調子が戻る。だが彼はそれについてあまり深く考えずにそのまま事務所に向かった。そして事務所に入った。
「お早うございます」
「ああ、お早う」
 所長に挨拶をすると彼はいつものように快く迎えてくれた。彼は挨拶の後で自分の机に向かった。そしてそこに座ろうとした。だがここでふと目と耳にあるものが入ってきた。部屋のテレビがつけられていたのである。
「昨日は何かったのかな」
「何でもシカゴの方でマフィアの抗争があったらしい」
 見ればキャスターが真剣な顔でニュースを伝えている。後ろの画面には銃撃戦の後の傷付いた街並が映されていた。そして人相の悪そうな男達の顔も映し出された。
「何か見たことのある顔ですね」
「当たり前だ。あちらの暗黒街の顔役達だぞ」
 同僚の黒人の弁護士がヘンリーに対してそう言った。
「昔からのな。れっきとしたシチリアン=マフィアだ」
「シチリアンか」
 ヘンリーはそれを聞いて考える顔をした。
「身内同士の争いかな」
「どうやらそうみたいだな」
 紹介されている男達の姓は皆同じであった。名前だけが違う。その姓もイタリア系のものであった。
「後継者か何かの争いらしいな」
「よくあることだね」
 ヘンリーはいささかシニカルにそう述べた。
「ああした組織ではね」
 彼はマフィアと関わりになったことはない。元々そうした関係の仕事はこの事務所においては取り扱ってはいない。表の仕事だけを行っているのである。だから彼もそうなのであった。
 マフィア関連のニュースが終わると今度はマサチューセッツのニュースに移った。所謂ローカルニュースである。
「何事もありませんでした、と」
「そうだったらいいね」
 同僚のジョークに笑った。しかしそうもいかないのが世の中だということは彼もよくわかっていた。
 殺人事件のニュースがあった。放火による殺人と銃の乱射だ。アメリカではいつも銃による殺人事件が起こる。アメリカという国の持つ病の一つであった。
「どうしようもないかな」
 彼はそれを聞いてそう思った。実は彼も護身用に家に銃を持っている。誰でも銃が手軽に買えて発砲することができる、それがアメリカであった。彼もそれがよくわかっているからどうしようもないのではないかと思ったのだ。今のところ使う機会はなかったがこれからはわからない。この国は建国前から銃に頼ってきた、イギリスから独立できたのも、開拓を成功させたのも、多くの戦争に勝ってきたのも銃のおかげであった。暗部と言えば暗部になるかも知れない。だがそれがアメリカの歴史であった。
 これには白人も黒人も関係ない。当然アジア人でもだ。彼等は最初からアメリカにいたわけではない。後から来たのだ。経緯は様々としても。ネィティブの土地と命を奪ったのは白人だけではないのだ。黒人の騎兵隊もいれば黒人のガンマンやカウボーイもいた。カウボーイの三人に一人は黒人であり、バファローを余興として撃ち殺していた者達の中にも大勢の黒人がいた。そうした意味で黒人もまた銃を使って侵略をしていたのであった。彼もまたアメリカ人だからそれは知っていた。西部劇は白人の正義の歴史の記念碑では本来ないのだ。あくまでアメリカの侵略の歴史である。侵略の善悪なぞどうでもいいものだ。ただそれが銃によるものであり、それによりアメリカという国が誕生した以上この国は銃から離れることはないのではないかとさえ思っていた。
 ニュースは続いていた。今度は交通事故のニュースであった。
「本日未明」
 キャスターの言葉が続く。そして後ろには映像が映し出された。そこには派手に破損した赤い車が映っていた。
「赤」
 ヘンリーはそれを見てすぐに反応した。ただこの瞬間は反応しただけであった。
「ハイウェイにて赤いキャデラックが衝突事故により破壊される事件が起こりました」
「キャデラックだって!?」
「おいヘンリー、どうしたんだい!?」
 それを聞いた所長と同僚達が彼に声をかけてきた。
「そんなに驚いた顔をして」
「え、いえ」
 彼等に声をかけられヘンリーは少し我に返った。その間にもキャスターの言葉は続く。
「ちょっとね」
「車の中に乗っていたのは」
「何っ!?」
 名前を聞いた。最初聞いた時は我が耳を疑いたかった。
「キャシーだ」
 彼女の本名であった。テレビに映る写真も彼女のものであった。間違いなかった。
「後ろから追突された時の衝撃と車の炎上により死亡しました。今マサチューセッツ州警は彼女の詳しい死因及び衝突したと思われる車を探しております」
「馬鹿な、そんな・・・・・・」
 ニュースを聞いても信じられなかった。彼は信じたくはなかった。信じられないというより信じたくはないという気持ちの方が
大きかった。
「一体どうしてそんなに驚いているんだい?」
「そうだよ。いつものヘンリーらしくないぜ。どうしたんだ」
「実はね」
 彼は詳しいことを話した。キャシーと自分のことを。結婚の約束までしたことを。そしてそれが昨日の夜だったことも。全て話した。
「そうだったのか」
 所長はそれを聞き終え沈んだ声で頷いた。
「気の毒にな。悪いがそれしか言えない」
「俺もだ。何と言っていいかわからない。済まないな」
「いえ、いいです」
 ヘンリーは慰めの言葉に顔を少し上げた。
「もうどうやってもどうしようもありませんから」
「それはそうだがね。しかしおかしいな」
「何がですか?」
「こっちで話そうか」
 彼はそう言ってヘンリーを自室に案内した。そして彼を座らせて二人で話をはじめた。
「最近の君のことだがね」
「はい」
 所長は応接用のソファーにて彼と正対していた。二人は向かい合っていた。
「どうも身の周りの女性が次々と亡くなっているような気がするんだ」
「まさか」
「いや、本当だ」
 彼は否定しようとするヘンリーに対して言った。
「まず君の担当だった未亡人だ。彼女は何者かにはねられたな」
「ええ」
「次にレストランのウェイトレス。彼女も交通事故だった」
「はい」
「そして今君の恋人だ。彼女も交通事故だ。これで三人目だ」
 所長は何かを探るような目と声で話をしていた。話しながら考えてもいるようだ。
「君の周りで続けて三人も交通事故で死んだ。それも女性ばかり。これでは奇妙に思わない方がどうかしているのではないかね」
「ですが私は」
 彼はキャシー以外に最近付き合った女性はいない。ましてや誰か、女性に恨まれるような真似もしてはいない。ストーカーといっても今回は本当に身に覚えがなかった。
「わかっているよ、君はそんな男ではない」
 所長は彼が何を言いたいのかよくわかっていた。
「時々頭のおかしな者がいるのも事実だがね。だがここまでやって誰も犯人を見ていないというのもまた変な話だ」
「そういえば」
 この三件の事故はどれも相手が見つかってはいない。犯人はおろかその車さえ見つかってはいないのである。ただはねられ、死んだということしか残ってはいないのだ。
「おそらく君の近辺が関係しているだろう。思い当たるふしは本当にないのだね」
「はい」
 彼はきっぱりとそう言い切った。
「全くありません」
「そうだろうな」
 これも彼が予想した答えであった。
「少なくとも人間はそうだろうな」
「!?」
 それを聞いて妙な感じを覚えた。
「それは」
「いやな、君が最近これといって女性と付き合ってはおらず、また恨みも買ってはいないことはわかるんだ。けれどな、今回はやけに何かを感じずにはいられないんだ。私の推測でなければいいがな」
「はあ」
「最近身の周りで何か変わったことはないかね?」
「私のですか!?」
「そうだ。思い当たるふしはないかね」
「そうですね」
 彼は腕を組み考え込んだ。それから言った。
「そういえば今乗っている車ですが」
 ふとアニーのことが思い浮かんだ。
「時々調子が悪くなるんですよ」
「どういう時だね?」
「どういう時と言われましても」
 またそれを聞いて考え込んだ。
「何か時々でしてね」
「今はどうなんだね」
「凄くいいですね」
「そうか」
 所長はそれを聞いて何でもないかという顔をした。だがヘンリーはここで言った。
「そういえば」
「そういえば!?」
「何か僕が女の子と知り合いになると急に調子がわるくなるような」
「で、今は調子がいいと」
「はい。まあ偶然でしょうけれどね」
「いや、それはどうかな」
 所長は明らかにそこに疑問点を見出していた。
「どう御考えですか?」
「君は日本の妖怪について知っているかね」
「狐や狸、あと鬼の話が多いとは聞いています」
 実はあまりよくは知らない。何でもアメリカから日本に渡って文豪になったという人物が昔いたとは聞いている。彼はよく日本の妖怪ものを書いていたというが。
「そうだな。後は天狗か」
 どうやら所長は日本のそうした話しに結構詳しいらしい。
「だがな、それだけではないんだよ、日本の妖怪は」
「あと幽霊の話が多いそうですね」
 実は彼は現実主義者である。あまりそうした話に興味はないが一応会話ができる程度には話を知ってはいた。
「そしてまだある」
「?それは」
「物がな、妖怪になるんだ」
「物が!?」
「そうだ」
 所長が頷いた。
「例えば傘だ。傘が変化して妖怪になるのだ」
「はあ」
 これは何処か、映画か漫画でチラリと見たことがある。傘に足が生えて、そして目と口が一つずつある。しかも手まで生えている。独特なデザインだとは思っていた。
「他にも筆や扉もなるな。日本にはこうした話が多い」
「御言葉ですが所長」
「どうした」
「まさか僕の車に何かあると思ってはおられませんか?」
「その通りだが」
 彼は答えた。
「まさか、そんな」
 ヘンリーは笑ってそれを否定した。
「車がそんな。安物の映画じゃあるまいし」
「しかし実際に調子が女の子と知り合ったら悪くなって、死んだら急によくなるのだろう」
「それはまあそうですけれど。偶然ですよ」
「いや、そうともばかり言えないだろう。実際に君の周りで三人の女性が死んでいる」
「はあ」
「それも怪死ばかりだ。どう考えてもおかしいだろう」
「まあそうですけれどね」
「やはり何かある、まして君の車がそんなに都合よく調子が変わるとすると」
「アニーが彼女達を殺したと?」
「証拠はないがな。ましてやこれはオカルトな話だ」
「はい」
「我々の事務所であやるような仕事ではない。むしろ教会だ」
「エクソシストですか」
「そういった方面だな。まあ君の宗派はどうか知らないがバチカンにはまだある」
「それは聞いたことがあります」
「だが今回のような件はおそらく専門外だろう。彼等は悪魔や悪霊がその対象だ」
「ですからアニーは」
「言い切れるかね?」
「勿論ですよ」
 彼は答えた。
「車が一人でに動くことなんて有り得ないですし彼女は傷一つないんですから」
「それは有力な証拠だな」
「でしょう?アニーの無実はこれで証明できます」
 ヘンリーの運転は慎重である。今まで事故一つ起こしたことはない。アニーも買った時のまま綺麗なものである。若し人をはねたり轢いたりしたならば何処かに傷があるだろう。そして血でも付いている筈だ。だがそんなものは今まで何処にもなかったのである。
「おわかりになられたでしょうか」
「そうだな」
 所長はとりあえずは頷いてみせた。
「アニーが普通の車だったらの場合は」
「まだ疑っておられるのですか」
「ヘンリー君、若し彼女が無実だった場合責任は私が取ろう」
 身を前に乗り出してきた。
「どういうことですか?」
 身を乗り出してきた所長に応えて彼も身を前に出して。二人は鼻が着かんばかりに顔を近付け合った。
「一度車に傷でもつけてくれ」
「アニーに」
「そうだ。いいかな」
「そんなに疑っているのですか」
「若しもだ。もしそれで何もなかったら車の修理費は私が全額出す。それでいいかな」
「悪い条件ではないですね」
 むしろかなりいい。傷を付けるにしても軽いものでいいと思った。それで疑いが晴れるのならば安いものだ。あまりにも何時になくオカルティックな所長にも嫌気が差していたところだ。彼はそれに頷いた。
「いいでしょう。やってみます」
「よし」
 所長はそれを聞いて大きく頷いた。
「では早速やってもらおう。いいね」
「わかりました」
 それで所長の気が済むのなら早い方がいい。彼は家に帰るとこっそりとコインでアニーの後ろに傷を付けた。綺麗なボディに傷が付くのはいたたまれなかったが。
(済まないな)
 こっそりと謝罪する。これでアニーの嫌疑は晴れた、そう思った。そもそも車が何をするのだろうと思った。彼は所長に対して疑問を持ちはじめていた。
 だがその疑問は次の瞬間に完全に消えた。同時にアニーの傷も。両方共瞬く間に消えてしまったのだ。
「これは・・・・・・」
 流石に呆然とした。今つけたばかりの傷がすうっと消えてしまったのだ。跡形もなく消えてしまった。さしものヘンリーもそれを見て我を失ってしまった。
「・・・・・・・・・」
 そのまま自宅の駐車場から姿を消した。今自分自身で見たことが信じられなかった。彼は一人考えても仕方のないことを考えながらその夜を過ごした。結論はもう出ていた。それを自分自身に言い聞かせるだけであった。
「そうか」
 次の日の朝所長はそれを聞いて全てを悟ったように頷いた。
「では間違いないな」
「所長は本当にそう考えておられるのですか?」
 昨日は殆ど眠れなかった。ヘンリーは憔悴した顔で所長に尋ねた。
「何をだね」
「アニーが人殺しをしたということをです」
「君は実際に見たのだろう」
「はい」
 疲れた声で応えた。
「車の傷が消えていくのを」
「確かにこの目で見ました」
 彼はそれを認めた。
「ですが。まさか車が」
「昨日言った筈だが」
 所長はヘンリーに親が子供に言って聞かせるような穏やかな調子で語った。
「物が意識を持つという話を」
「それはそうですが」
「傷があっという間に消えたのだろう?それだけで君の車は普通ではない」
「それは認めます」 
 ヘンリーはそれは否定しなかった。
「しかしですね」
「有り得ないとでも言うのかね?」
「当然ですよ」
 彼はまだそれを信じなかった。いや、信じたくはなかった。
「そんな非科学的な」
「確かに非科学的だな」
 所長もそれを認めた。
「だがな、科学だけでこの世の全てを断定できるかね?」
「それは」
「それができると言い切れる程君は世の中について無知ではあるまい」
「それはそうですけれど」
「それならばわかる筈だ。いいね」
「具体的には何をやるおつもりですか」
「君の車は確か君が女性と遭えばそうなるのだったね」
「はい」
「私はそれを利用しようと思っているんだ」
「どうするおつもりですか?」
「いいかね」
 所長は話をはじめた。そして彼はヘンリーを納得させた。
「いいね」
「それで効果があるのなら」
 彼は頷いた。
「宜しくお願いします」
「よし」
 これで決まった。ヘンリーはこの謎に関して所長の指示の下動くことになった。すぐに準備がはじめられた。

 
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