| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

アニー

しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
 

3部分:第三話


第三話

 木曜日ヘンリーはそのレストランにやって来た。そしていつもの席に座りいつものウェイトレスを呼んだ。今日はデートにでも誘ってみようと思っていた。
(少し歳が離れているけれどいいな)
 自分で自分にそう言い聞かせていた。相手が高校生位ならまあ許される。年の差カップルなんて幾らでもいる。それに自分は年齢よりも若く見られる、大丈夫だ、そう自分に言い聞かせながら念入りに髪も服も調えてレストランにやって来た。懐に映画のチケットを二枚忍ばせて。今話題の恋愛映画だ。
(これならいいな)
(ロザンナだったかな)
 覚えたての名だ。その名前を思い出すだけで楽しい気持ちになる。まるで高校生に戻ったような気持ちであった。
 車から出てレストランの扉を見る。少し古風な造りの扉が今日は重苦しいように感じられた。彼はそれをくぐって勇気を出すことにした。だが一つ気懸りがあった。
 近頃またアニーの調子がおかしいのだ。またハンドルやブレーキが重く、乗り心地が悪い。それが気にはなっていた。今朝になってそれが急になおっていたが。それも不自然であった。
(どういうことなのだろうな)
 アニーを見てチラリとそう思った。だがそれよりも今はこれからのことの方が重要であった。彼は意を決して店の中に入って行った。だがそこで待っていたのは思いも寄らぬ答えであった。
「えっ・・・・・・」
 彼はそれを聞いて絶句した。
「それは本当のことですか!?」
「はい」
 彼女の同僚のウェイトレスがそれに答えた。彼女も知った顔である。
「昨日の夜急に病院から連絡がありまして。それで」
「そうですか」
 答えはできてもまだ呆然としていた。
「まさかそんな」
「私達も信じられません」
 同僚も落ち着いてはいなかった。
「おとついまであんなに元気だったのに」
「それが急に・・・・・・」
 別の同僚の目は赤くなっていた。どうやら彼女とはとりわけ仲がよかったらしい。
「はあ」
 彼もまた呆然としていた。もう食事どころではなかった。力なく店を去り事務所へ戻った。彼の心は重かったがアニーの運転は軽やかになっていた。不自然な程に。それはまるで心を持っているようであった。 
 それから数日の間流石に落ち込んだ。仕事も手につかない。見るに見かねた所長が彼に声をかけてきた。
「気持ちはわかるがな」
「すいません」
「謝らなくていいさ。それより君の有給休暇のことだが」
「はい」
「かなりたまっているだろう。ここで何日かとってみたらどうだ」
「休めということですか」
「そうだ。今のままではどのみちよくない。旅行にでも行って気分転換してきたらいい」
「わかりました」
 こうして所長の勧めで彼は有給休暇をとることにした。事務所を出るとまず本屋に向かい地図を買った。それを見ながら手頃な旅行先でも探すつもりだったのだ。
 旅行は好きだ。学生時代はヒッチハイク等をしてアメリカ中を回ったものだ。サンフランシスコまで行ってそこの中華街で美味い料理を心ゆくまで堪能したこともあればニューオーリンズでジャズに耳を傾けたこともある。彼にとって旅は実に楽しいものであった。
 それについて考えるだけで気持ちが楽になった。彼は家に帰ると食事とシャワーを済ませ、バーボンを傍らに置きながら地図を開いた。手頃なところに行くつもりであった。
「何処にしようか」
 だが候補地はこれといってなかった。遠くへ行く気にはなれなかった。近い場所で済ませようとさえ思った。ここで一つの街が目に入った。
「ここにしてみるか」
 そこはワシントンであった。言うまでもなくアメリカの首都である。学生時代に一度ホワイトハウスの見学に行ったことがある。だが弁護士になってからは行ってはいない。今度行くとすれば二度目になる。
 決めるとそこからは迷わなかった。ベッドに入ってゆっくりと休んだ。そして朝早くに家を出た。アニーのいるガレージを開けた。
「遠くへ行くぞ」
 見ればいつものスーツとは違いラフな格好であった。右手にはトランクを持っている。旅支度であるのは言うまでもなかった。
 アニーに乗り込むとそのまま家を出た。鍵もガレージも閉めた。数日は誰もいない家になる。ヘンリーは我が家に別れを告げるとそのまま一人旅に出た。少なくとも人間は一人であった。
 高速道路を飛ばしてワシントンに向かう。ボストンを出て瞬く間にハートフォードに到着した。そしてそのまま南に下りニューヨーク州に入る。ワシントンまではまだまだ距離があった。だが彼はその旅路も楽しんでいたのだ。
 アメリカの道は広い。メガロポリスでもそれは変わりはしない。そして車も思ったより少なかった。彼は思うがままに速度をあげながら進んでいた。そして適当なところでドライブインに入って休息をとった。夜まで走って見かけたホテルに入った。こうしたいささか行きずりの行為もまた旅の醍醐味であった。彼はそれも楽しんでいた。
「ワシントンに着いたらどうしようか」
 ホテルの部屋でそう考えていた。実は着いてからのことは何も考えてはいなかった。ただワシントンに行こうと思いついただけであった。他には何も考えてはいなかったのだ。
 地図や旅行ガイドを見てもこれといって考えつかない。ホワイトハウスにしろ前に一度見たことがあるのでもう一度見ようとは思えなかったのだ。
 考えても結論は出ない。もう考えるのは止めにした。その場その場の成り行きに任せることにした。どうにかなるだろうと思うことにしたのだ。
 翌日ワシントンに到着した。見れば学生時代に来た時とあまり変わりはない。かなり前に来たつもりだがどうもその時とさほど変わってはいないのである。少なくとも彼の頭の中にあるワシントンと今のワシントンはほぼ一緒であった。
「あの時は親父が大統領だったかな」
 アニーの中からホワイトハウスを眺めながらそう呟いた。
「息子が大統領になっても外見は変わりはしないんだな」
 世の中とは案外そういうものなのかもしれないとも思った。アメリカという国は変わるのが早いと言われている。しかし実際にはそれ程変わりはしないものなのかもしれない。彼の住んでいるボストンなぞは独立戦争前の空気がまだ残っている程だ。東部ではかなり古風な街とさえ言われている。
 ホテルを見つけてそこにアニーを置いた。そしてぶらりとワシントンを回ることにした。目に入るその街並は彼の記憶の中にあるワシントンのままであった。歩いている人々も同じである。
 ショッピングモールに入るとボストンより品揃えはいいように思われた。だがニューヨーク程ではなかった。アメリカの首都ではあるが最大の街ではない。だからであろうか。
 しかし食事は違っていた。色々とある。こっちはニューヨークでもそうだが彼はどういうわけかワシントンの味の方が好きであった。ニューヨークの料理はどれも大味な気がするのだ。メトロポリタン歌劇場に行った時帰りに食べた中華料理がかなり大雑把な味だったのはよく覚えていた。イタリア料理も日本料理もニューヨークのそれは大味に思えたのであった。それがアメリカの料理であり、ニューヨークの料理だと言われればそれまでだが彼は味には少しうるさかった。繊細な料理が好きなのである。
「こっちの料理はそうでもないからな」
 とりあえず何処に入ろうかと探し回った。中華料理もいいしタイ料理もいい。何故か今はそうしたアジアの料理が食べたかったのだ。
 ふと韓国料理の店が目に入った。ハングルで何やら書かれている。彼はハングルは読めないが横に書かれている英文を見た。するとそこには料金まで書かれていたのだ。
「成程な」
 見ればかなり安かった。味はどうかわからないがその値段が気に入った。しかしそこで一つ気になることがあった。
「辛過ぎないだろうな」
 繊細な料理が好きなのである。韓国料理はいささか辛さが強い。それを考えるとどうかと思った。だがそれよりも店の中から漂ってくる美味そうな匂いに惹かれた。彼は焼肉は度々食べている。好物の一つであるのだ。
「ここは入ってみるか」
 そう決心して中に入った。すると流暢な英語で挨拶が返ってきた。
「いらっしゃいませ」
「うん」
 彼も英語で挨拶を返した。そしてカウンターに座って店の者に尋ねた。
「ビーフでいきたいんだけれど。これを全部持って来てくれ」
「かしこまりました」
 コースメニューを頼んだ。そして暫くしてタレに漬けられた赤い肉が運ばれてきた。網の下のガスに火が点けられる。彼はそれを見ながら言った。
「日本風の焼肉かい?」
「わかりますか」
 それを受けてガスに火を点けていた三十代前半程のアジア系の女が顔を上げた。顔立ちは韓国系というよりは日系のそれに見えた。
「実はうちは日本の焼肉屋のチェーン店なんですよ」
「そうなのかい」
 これは意外な返事であった。では看板のハングルは何だろうと思った。彼はそれについて尋ねることにした。
「看板のあれは」
「宣伝です」
 彼女はそう答えた。
「ハングルで書いた方が本場らしく見えますよね。それです」
「そうだったのか」
「うちはそうしてるんです。味は少し違うと思いますが」
「そうみたいだね」
 焼けた肉を一口食べながらそれに応えた。フォークで食べている。
「韓国の焼肉とはまた違う味になっているよ」
「これも日本風だと思います」
「何かまろやかな味だね。気にいったよ」
「有り難うございます」
 こうして店の者と楽しく話をしながら焼肉を食べた。まさかこんなところで日本風の焼肉を食べるとは思わなかったがその意外な出来事にかえって気分をよくした。店を気分よく出てワシントンの検索を再開した。
「食べてみれば何もすることがないな」
 これはまた意外なことだった。政府の関連施設を見る気にもなれない。そうなればここですることは極めて限られてくるのが実情であった。
「どうしようかな、ここには球団もないし」
 野球があればそれを観ることも可能だがここには球団自体がない。かってはセネタースという球団があったが移ってしまった。何でもエクスポズがこちらにやって来るという話があるが実現するかどうかはわからないのだ。ちなみに彼は幼い頃から地元の球団であるレッドソックスのファンである。この球団のファンは熱狂的な者が多いが実は彼もその一人である。優勝した時は朝まで飲みあかしたものであった。ちなみに一番嫌いな球団はヤンキースでありそこのオーナーは彼にとってはこの世で最も嫌いな者の一人である。常々ヤンキースやこの名物オーナーの悪口を言っている。野球となれば人が変わるのである。
「少し早いけれど飲むかな」
 ふとそう思った。まずは横にあった店で新聞を買う。レッドソックスはヤンキースに勝っていた。それを見てさらに気分をよくさせた。
 酒場を探すと丁度いい店があった。そこをチェックした後で時間を潰すことにした。適当な場所を歩き回ったり、カフェに入ったりして時間を潰した。
 そして店が開く時間になるとそこに入った。その日はそこで飲んだ後でホテルに帰った。それでこの日は終わりであった。
 一日でワシントンに見切りをつけた。彼はこの街を後にした。そしてボストンに帰った。途中一泊して帰った。いい気分転換にはなった。アニーの動きも非常によかった。

 
ページ上へ戻る
ツイートする
 

全て感想を見る:感想一覧