幽霊と弥三郎
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4部分:第四章
第四章
「いえ」
「どうしたのじゃ?」
「御言葉ですが私一人でやらせてもらいます」
「御主一人ですか」
「左様で」
女は答えてきた。
「それでは駄目でしょうか」
「できるのじゃな」
弥三郎は櫂をこぎながら尋ねてきた。女はただじっと前を見ていた。
「はい。お任せ下さい」
「わかった」
その言葉の強いことを見て彼も決めた。ここは彼女に任せてみようと思ったのだ。
こう思ったのには実は訳がある。それはやはり彼女が幽霊であるからだ。その恐ろしさは人のそれとは比較にならないのは言うまでもないからである。
「ではそれで行くぞ」
「はい」
そう取り決めて川上に向かった。辿り着いたところはごく普通の村であった。
「さて」
その村に着いたところで弥三郎は女に声をかけた。
「ここじゃな」
「そうです」
女は舟の上から岸の上にあがって答えた。弥三郎もそこにいた。
「着いたな」
「はい」
「それではこれからは」
「行って参ります」
「もうか」
「はい。ここに辿り着きましたらもう迷うことはありません」
声が恐ろしげなものになっていた。それを聞いて弥三郎も内心かなり恐ろしいものを感じていたがそれは表には出さなかった。武辺者としての意地である。
「さすれば」
女は飛んで行った。そのまま村の中へ入る。弥三郎がそれを追えば村の奥の一際大きな屋敷に入って行った。そして一瞬だけだが叫び声がした。
それは男のものと女のもの両方あった。それが聞こえてすぐに女が戻ってきた。
相変わらず逆さまのままであったがその顔は晴れやかなものになっていた。そのうえその側に男女の首を漂わせていたのであった。弥三郎はその首が誰のものであるのかすぐに察した。
「それが御主の亭主とその妾じゃな」
「左様で」
女はその晴れやかな顔で答えてきた。
「これで見事恨みを晴らすことができました」
「それはよかった」
「これが果たせたのもお侍様のおかげです。まことに有り難うございます」
礼を述べると女はすうっと消えていった。その晴れやかな顔が実に心に残るものであった。
女が消えると二つの首はそのまま落ちた。夜の中に転がるその首を見て弥三郎はこれからどうしようかと思った。
「夜じゃしな」
まだ夜は深かった。ここで彼は最初の目的を思い出した。
「まだ時間はあるし」
彼は予定通り若者のところに向かうことにした。とりあえずは首をそのままにして村を去った。そして渡し守りのところに戻りようやく目を覚ましていた彼に声をかけて若者のところに向かった。そして床の中でこのことを若者に話すのであった。
「それは奇妙なことでございますね」
「うむ」
弥三郎は若者の言葉に頷いた。
「やはりそう思うか」
「このこと上様にも話されますね」
「無論じゃ」
彼は答えた。
「話しておかねばなるまい」
「そうですね」
若者もそれに頷いた。確かにそうすればいいと思った。
「まあ問題がないわけでもない」
「問題とは」
「上様がな。この話を信じて下さるかどうか」
弥三郎はそう言って顔を顰めさせた。
「それが問題じゃ」
「それがありましたか」
「そうなのじゃ」
信長は今もよく知られているように現実的な性格である。目に見えないものは信じない性格だ。その彼がこんな話を信じるかどうかというと甚だ疑問であるのだ。だが弥三郎はそれを言おうと決めていた。
「じゃが言うしかあるまいな」
「そうするしかありませんね」
若者もそれに同意した。こうして彼は信長にこのことを報告することにした。
信長は岐阜の城にいた。そこで弥三郎の話を聞くのであった。
「以上でございます」
主の間で彼は報告を終えた。そして頭を垂れていた。信長はそれを頷きもせず聞いていた。だが聞き終えてからその鋭利で整った顔を動かしてきた。
「その話はじゃな」
「はい」
「まことであるな」
「既に首も届いておりますが」
「ふむ」
信長はそれを聞いて袖の中で腕を組んだ。それからまた述べた。
「ではまことであるのだな」
「それがしとて最初は信じられませんでした」
弥三郎自身もそう述べた。
「ですが実際に見ましたので」
「目で見たのか」
信長はそこを聞いてきた。
「その方の目で」
「その通りでございます」
「左様か」
それを聞いてまた黙ってしまった。その顔が考える顔になっていた。
「さすればまことであろう」
「はい」
「わしはこうしたことは信じぬのじゃがな」
一応はそう前置きした。信長はそうした話や迷信の類は一切信じない男であるのだ。これはこの時代からよく知られていることであった。
「じゃがその方が見たというのならまことであろう」
「では話を残しておきます」
「そしてじゃ」
だが信長はここでまた言ってきた。
「何でしょうか」
「その怨みを晴らした女房のことじゃ」
「逆さまの女のことですな」
「左様。その女、さぞかし無念であったじゃろう」
実は信長は女に対してかなり寛容な男であった。夫羽柴秀吉の浮気癖に怒るねねに対して彼女を褒め称えつつも嗜める手紙を書いていたりもする。決して苛烈なだけの男ではなかった。そうした繊細な部分も併せ持っている男なのである。
「じゃがよく無念を晴らした」
信長は言った。
「厚く供養するようにな。村の者に申し伝えておけ」
「わかりました」
「わしの名でな」
信長はこうまで言い含めた。
「よいな」
「はい、それでは」
「それにしても世の中とはわからぬものじゃ」
信長は話を終えてもそう思うこと至極であった。それが言葉にも出る。
「逆さまにされてもまだ復讐を果たすとはな」
「人というものでしょう」
「ううむ」
そのうえで弥三郎の言葉に唸ってきた。
「そうなのかも知れぬな」
「げに恐ろしきはその怨念」
弥三郎は信長に対してそう述べた。
「違うでしょうか」
「確かにな。しかしのう」
それでも信長は言った。
「その女よく恨みを果たした。丁重に弔ってやるがいい」
「はっ」
弥三郎はその言葉に頭を垂れた。こうしてこの話は一件落着となった。
これは本当にあった話である。だがこの話を知る者も信じる者も少ない。しかし女が怨霊となり逆さまになってまでも夫と妾に復讐を果たしたのは話として残っている。実に奇怪であると共に人の業を思わせる話であった。
幽霊と弥三郎 完
2006・12・21
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