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《sword art online》 ~クリスタルソウル~

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変化

 




 この世界を、人は肉体を介して理解している。

 光は目、音は耳、匂いは鼻、味は舌、感触は肌、それぞれの情報を読み取る専門の器官が肉体にはある。意識せずとも、人はそれらの拾った情報によって世界を構築し、自分の居場所を認識する。人というOSの土台、と言っても過言ではない。

 仮に、人が全ての感覚を失い、思考だけの生命体になったらどうなるだろう。

 そいつは、落ちる。

 何もない無辺の闇へ落下し、自らの力で何もできない存在へとなり下がる。どんな現象や物体も、そいつにとって「感じられない」ということは「存在しない」事と同義なのだから。

 しかし、ある日本の科学者が開発したものは、この理論とは真逆のコンセプトによって生み出されたものだった。

 実際に「存在しないもの」でも、五感で「感じられる」ならば、そいつの主観上「存在している」ことにならないか?

 そう言った科学者の作り出したものこそ「ナーヴギア」と呼ばれるゲーム機だ

 こいつはフルフェイスのヘルメットのような形状で、人間の頭部に取り付けられる仕組みだ。そうして特殊な電磁波により脳みそと通信する。色だとか、音だとか、莫大な労力を費やして解析した脳の信号と同じだけの電流を流し込み、本物と変わらない幻を脳に錯覚させる。実際はもっと複雑な手順を要するが、簡単言ってしまえばこれがナーヴギアの仕組みだった。

 空間さえも自由に生み出してしまうナーヴギア。疑似体験させられる現象の全てはヴァーチャル・リアリティとされ、世界中を震撼させるほどの衝撃を巻き起こした。ゲームの中に入りこむ。現実と夢の壁を、このマシンは軽々と飛び越えるのだ。

 中でもその新作ゲームは、控えめに言っても革新的な出来だった。

 モンスター、迷宮、そびえ立つ城壁、家屋や商店、山に湖。RPGゲームにおける、およそ全ての要素を内包した百の大地が天空に連なり、数万人のプレイヤーが同時接続することを可能とした仮想空間。そこでプレイヤーは、自らの分身であるキャラクターを生身と全く同じ条件で動かすことができる。
 つまり、現実となんら変わらない異世界が人間の手によって誕生したのだ。

 そのゲームのタイトルは、「ソードアート・オンライン」と言った。









「こらぁ、ナオ! いつまで寝てるの?」

「・・・・・・ふぁい」

 アラームよりもけたたましい声に、僕は返事と欠伸の両方で答えた。
 今、何時? 
 そう聞こうとして、止めた。彼女が僕を起こしにくるのは午前六時きっかり。ラグは三十秒以内。こうやって僕を叩き起こすことに、彼女は人生の喜びを見出しているに違いない。
 なぜ、六時なのか? 彼女曰く「私の家がそうだったから」である。他にも、早起きすることはうんたらかんたら、人間の脳を活性化させるにうんぬんかんぬん、という御託があるらしい。

 どうでもいい。

 僕はかつて、そのように口を滑らしてひどい目にあった事がある。著しく機嫌を悪くした彼女が夕飯を化学兵器に作り替えたらしく、一晩中舌の痺れに苦しめられたのだ。痛覚を始め、苦痛を司る感覚はシャットダウンされているわけだから、あの味付けはまさに「苦痛の一歩手前味」といったところか。

 その一件以来、彼女に逆らう気力は完全に消滅した。家事の全てを担当している彼女は、やろうと思えばいくらでも制裁を下せる立場にある。
 それが嫌なら戦闘フォーメーションよろしく家事も役割分担すればいいだけの話だが、壊滅的に何もできない僕に彼女が業を煮やした結果、このような形に落ち着いてしまったのだ。
 つまり、役立たずの男には最初から人権などあるはずもなく、僕はこの年にして家庭における男女のパワーバランスの実態を知る羽目になった。

「あ、起きた。おっはよぉ~」

 おそらく、複雑な顔をしていただろう僕の事など歯牙にもかけず、彼女は満面の笑みで言った。
 僕から見て二つ年上のイヴ。一年前の出会った時とは打って変わり、あの少し悲しげな雰囲気はもうない。イヴは朝日に輝くリンゴのように明るく、綺麗な少女になった。プラチナブロンドの髪をショートヘアにし、Tシャツにホットパンツという格好は以前と違った魅力がある。なにより変わったのは、その笑顔だ。嬉しくてたまらない、といった感じでキラキラ光るイヴは、いつもよりずっと可愛らしく見えるのだ。

「・・・・・・おはよう、イヴ」

 しかし、こんな風に絡まれている時はその限りではない。僕は布団を抱きしめながら唸るように挨拶した。

「あれ、不満そうじゃない? せっかく美女が起こしに来てあげたのに」

「まさか。うれしいよ・・・・・・ただ」

「ただ?」

 彼女は子供がするように首をかしげる。今はその仕草が憎たらしい。

「もうちょっと、寝させてくれないかな? せめて七時まで」

「ダメ」

 即答だった。予想はしていても、それなりに絶望した僕はベッドの上で脱力する。7時でも充分早いように思えるのだが、そもそも感覚自体が彼女とはずれてしまっている。イヴからしたら、僕は堕落や不摂生の権化ように見えているに違いない。

「七時は早起きとは言いません。我が家の家訓は『早寝早起き朝ごはん』」

「それ、初耳なんだけど」

「今決めました。家訓は絶対だから、ナオも肝に命じてね」

 僕は再び目をつむり、黙想する。
 とうとう家訓まで勝手に決められてしまった。これ以上どんな決まり事を増そうと言うのか。よく言えば面倒見がいい、悪く言えば口うるさい。家の中にいるイヴはだいたいそんな感じだった。百歩譲って家庭的であることは認めるが、これじゃまるで・・・・・・

「イヴって、お母さんみたいだね」

「へ?」

 思ったことを率直に告げると、ポカンとした表情のまま、イヴが固まった。まるで幼稚園児に告白された若い保育士みたいなリアクションだった。

「あれ?」

 なにか変なことを言ったかと考えて、僕はようやく失言に気がついた。
 お母さん。十五歳、思春期真っ盛りの健全な男子が、あろうことか異性に対し”お母さん”。
 なんという失態だろう。急に恥ずかしくなって、寝ぼけていた頭を壁に叩き付けたい衝動に駆られた。
 おそるおそるイヴの様子を伺う。すると案の定、彼女の顔にはニヤニヤ笑いが伝播していった。

「ほうほう、私がナオのお母さん、ね」

 明らかに楽しんでいる様子のイヴに、僕はさっと青ざめる。捕えた獲物をどのように料理してやろうか、あれはそんな事を考えている目だ。只でさえ子供扱いだというのに、これ以上からかわれるネタを提供してどうするのだ。

「じゃあ、ナオのお母さんはこんなこともするのかなぁ?」

「は? いや、ちょっと!?」

 そう言うが早いか、イヴはふざけて僕に抱き着いてきた。浮かしかけた上半身が再び布団に叩き付けられる。しなやかな体がぎゅっと密着し、やわらかな感触を伝えてくる。それは僕にとって、フロアボスの必殺技に匹敵する破壊力を持っていた。しかもなんだか甘い香りまで立ち上ってくる。頬が急激に熱くなるのが分かった。すぐそばにあったイヴの顔が、満悦そうに、無邪気な子供のように笑う。

「あれ、お母さんが嫌なの?」

 灰色の瞳がからかうように光った。限界だ。

「離れろっ、てば!」

 顔を背け、華奢な両肩をつかんで彼女を押し返す。僕はいよいよ動悸が激しくなってきて、スチームポットにでも変身できそうだった。

「あー、嫌われちゃった」

 甘い香りがすっと離れ、僕はようやく彼女から解放された。まるで全力ダッシュをした後のような気分だった。ぜいぜいと荒い息をつき、素早くベッドの端へと避難する。そんな僕を見て、イヴはまた笑った。

「うん、朝から元気でよろしい」

「お陰さまでね」

 そう言ってむくれてみせても、イヴは全く動じない。無防備すぎる彼女の振る舞いに度肝を抜かれるのはこれが初めてではなかった。親しくなり始めてからというもの、ずっとこんな感じである。僕が異性に手を出せるはずがないと高を括っているのか、そもそも男だと思っていないのか。きっと両方だ。

 静かにうなだれる僕を尻目に彼女は上機嫌に言った。

「じゃ、そういうことで早く降りてきてね。朝食できてるから」

「はぁい」

「ああ、それと」

 思い出したようにドアを半開きにしつつ、振り返ったイヴは、最後にとんでもない爆弾をおいていった。

「ナオさえよかったら、今度から私の事お母さんって呼んでいいよ」

 返事の変わりに全力で放ってやった枕は、空しくドアに当たって床に落ちる。急に静かになった部屋で、僕は大きな溜息をついた。

「僕と二つしか違わないくせに」

 届くはずのない恨み言を言いながら、僕はベッドから床に降り立った。ベッドに机、本棚とクローゼットが入ってほぼ満員の部屋。簡素だが木造の温かい造りだ。微かに残るイヴの香りを意識しながら、僕は小さな窓を開け放った。

 ざあっ、と心地よい風が頬を撫でる。
 小高い丘の上に僕たちの家はあった。
 そこは優雅な緑の曲線がつらなり、白い岩が貝殻のように散らばっていた。透明な湖を囲んで咲き誇っている花々は、虹色の色彩で世界を飾る。澄み渡った青空と、それらのコントラストは、“比喩ではなく”現実を超越した美しさだった。

「・・・・・・あれから一年、か」

 柄にもなく窓からの景色に見入っていると、いろいろな事が頭を過る。
 命がけの戦い、迷宮を彷徨った日々、モンスターの息吹。眩い銀色の輝きと、全てが変わった最悪の事件。
 この一年間で起こった全ての出来事、その結果が現在の僕たちだ。どんなに苦しくても、過去をなかったことにはできない。しかしそれでも、デスゲームに巻き込まれる原因となったあの事件を、僕は後悔と共に思い出さずにはいられなかった。

 それは綿密に準備された、無差別で理不尽な犯罪だった。

 ソードアート・オンラインというネットワーク対応型のゲームがある。ただのゲームと思うなかれ。通称SAOと呼ばれるこのタイトルは、仮想空間を実際に走りまわり、剣を振るうことができるのだ。まさしくゲームの中に入り込んだかのようなインパクトに、僕を含め一万人のプレイヤーは夢中になった。
 しかし、ある人物の狂気によって、楽しい筈のゲームは地獄に変わった。
 SAOのディレクターであり、ヴァーチャル・リアリティ研究の第一人者、茅場晶彦。彼はプログラムをいじり、ゲームをクリアするまでプレイヤー達がログアウトできないよう細工したのだ。抵抗する術を持たない僕たちは、この時点で仮想空間の囚人となり、現実へ戻れなくなった。
 しかも、この話にはとんでもないオマケがつく。
 HPがゼロなったプレイヤーは死ぬ、というのだ。

 プレイヤーを仮想空間に送り出すゲーム機・ナーヴギア。このマシンは電磁波の出力次第では脳を焼き切ることも可能であり、茅場晶彦はゲームオーバーになったプレイヤーをそうやって片っ端から殺していくと言った。嘘だと思ったが、彼の言う通りゲームオーバーとなったプレイヤーは二度と復活しなかった。つまりそういう事なのだろう。

 ログアウトは不可、ゲームオーバーは死。
 ナーヴギアを頭から取り外そうとしても殺す、と彼は言った。救助が一向に来ないのもきっとそのせいだろう。

 なぜ? というプレイヤー達の疑問に対し、茅場晶彦は明確な答えを言わなかった。ただ、「この現状こそが、私の目的だ」と語った彼の満足気な声は今でも耳に残っている。

 結論。
 現実への帰還は、ゲームをクリアすることでしか成し得ない。未だ僕たちは仮想空間に捕らわれ続けている。

 ようやく自分たちの置かれた状況を理解した時、僕たちを混乱が支配した。
 SAOの舞台であるアインクラッド。それは直径十キロ近い大地を百層も連ねた、信じられないほど巨大な浮遊城だった。ゲームのクリアとはすなわち、このアインクラッドを全て踏破し、第百層の最終ボスを倒すことを意味する。当然、道中には九十九のフロアボスと、無数のモンスターが待ち構えており、その全てがプレイヤーを殺す力を持っているというわけだ。ゲームクリアにはどれほどの時間がかかるか、そもそもクリアできるのかどうかすら疑問だった。

 二千人。
 焦りから無謀なゲーム攻略に挑み、たった一ヶ月でこれだけのプレイヤーが死んだ。プレイヤー全体の二割に相当する数だった。にも関わらず、その時点で第一層のフロアボスすら倒すことができていなかったのだ。

 ゲームクリアは不可能。自分たちは、仮想空間で死ぬしかない。

 一時、暗い絶望感が全プレイヤーを覆い尽くした。

 しかし、時間とは恐ろしいもので、気が付けば僕たちはそんな地獄にも適応していた。
 一瞬の判断ミスが死につながるギリギリの戦闘も、幾度となく繰り返せばやがて日常となる。プレイヤーの死亡率は急激に減少した。攻略のペースも徐々にだが上がってきている。皆が皆、それぞれのやり方でこの世界を受け入れようとしているのだ。

「ナオー、まさかまた寝てるんじゃないよねー」

「今行く」

 せっかちなイヴに返事をし、そっと窓を閉じる。
 絶望し、宿に閉じこもって震えていたのは昔の事。今の僕は、ここが現実か仮想空間かという問題よりも、彼女の機嫌を悪くしてしまったらどうしようとか、そんな些細なことを心の底から心配している。それがいいことなのか、悪いことなのかは分からない。ただ確かな事は、僕はイヴの笑顔を幻として割り切ることはできず、仮想空間で共有できる時間を”楽しい”とすら感じ始めている。

 もはやこの世界は、僕にとってただのデスゲームではなくなってきていた。

 
 

 
後書き
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