短編集
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まっしろ男とまっくろ女
前書き
小説家になろうで同名タイトルで投稿済み
駆け足で改札を抜ける。階段を急ぎ足で下りホームへ踊りだしたその瞬間に、上り列車の扉は閉ざされた。私は駆ける足を緩め、ゆっくりとホームで歩き出す。乗りたかった電車は過ぎ去った。次を待たなければならない。ならば、ゆっくりベンチに座って待とう。
そうしてホームに意識を向けた時、私はその人物に気がついた。七分丈のデニムとサンダル、薄手の上着を羽織った少女。齢は十五ほどだろう。あどけなさが幾らか残る顔立ち。その視線は、先過ぎ去って行った電車を未だ遠くに見ていた。
私は僅かに「ほう」と息をついた。少女の顔立ち感嘆したのではない。その姿におかしさを見たから。今は十月の暮れ。比較的温暖なこの街でも、少女の格好は寒いに違いなかった。ただ、私は少女をおかしな人間だとは思わなかった。彼女の周りだけ季節は夏、そんな幻想を抱かせる程に彼女に違和感はなかったのだから。
「もし」
それが私に向けられた言葉と気づいたのは、話しかけられて何秒を空けてからだったか。
「なんでしょう」
「次の列車はいつになりますか?」
暫しお待ちをと答えて、私は財布から時刻表を取り出した。それには次の列車は今から一刻の後とあった。
「今から約一刻、十七時二十六分にありますよ」
「下りは、どうですか?」
その発言に違和感を抱きつつも私は時刻表で確認する。今から五分もせぬ内にそれはやってくるようだ。
「後五分でここを発ちます。来るのはもうすぐでしょう」
その返答に満足したのか、少女は私に礼を行って近くのベンチに腰を落とした。私は少し悩んだ挙句、少女のそばのベンチへと移動し腰を落とした。今から一刻も立っているのは酷である。
「お暇ですか?」
少女の言葉に、今度はすぐに言葉を返した。
「ええ。後一刻もありますから」
「暫しお話をしませんか?」
「喜んで」
私の言葉を受け取って、少女は一人僅かに笑みを浮かべた。盗み見たその顔にあどけなさはなく、ただ悲痛なものが垣間見えた。
「私、夏が好きなんですよ」
そんなものは見ればわかる、そう呟こうとした口を閉じて、彼女の続きの言葉を待つ。
「今は秋でしょう? それに、もう日が暮れる」
少女はそこで一旦言葉を切った。その無言の隙間を埋めるように、遠く列車の音がした。間もなく到着するのだろう。
そうして幾らか間を空けて、列車が線路を踏む音が少しずつ大きくなる中、少女の口からその言葉は紡がれた。
「そういう、事なんです」
そうして少女は立ち上がる。その目は今ホームに進入してくる列車を強く見つめていた。想見していた。私はこうなるだろうことを。故に驚きはしなかった。だからこそ、間に合った。
「え」
少女は驚きの声を上げる。線路へと駆け出そうとしたその手を、私が無理矢理に掴んだから。全力を持って彼女を引き寄せる。体勢を崩した彼女の後ろを、列車が駆け抜けていった。
◇
「旦那様、お食事が出来ました」
夢から、少女の声で起こされる。懐かしい夢を見ていた。
「今食べるよ。毎日ありがとう」
寝ぼけ眼を擦りながら、私の部屋から去りゆく彼女に礼を投げる。彼女は礼には及びませんと私に返して、私の部屋の襖を閉めた。そうしてそれと同時に、じりりと目覚まし時計が鳴る。この音がするという事は時刻はもう八時になったのだろう。少し、寝過ぎたか。私はすぐに朝食へと向かった。
自殺しようとした少女を匿ってから早八ヶ月。あれから彼女に一度もその理由を尋ねた事はないし、彼女もまた私に話すことはなかった。ただ、帰る場所を尋ねた私に対して彼女はそんなものはないと応えた。なら泊まっていくと良い、何て半ば冗談で言うたのだが、少女は真に受け家政婦として働かせてくれなんて言い出した。結局それを了承してしまった私は今でもこうして、件の彼女と二人でアパートで暮らしている。
「膳を下げに参りました」
布団に腰掛けて窓の外を眺めていた際に、彼女は現れた。私は白い景色へ視線を向けたまま、彼女に言葉をかける。
「美味しかったよ。ありがとう」
「ありがとうございます。ですが住まう家と賃金さえ頂いているのです。より旦那様に気に入って頂ける食事を作れるよう精進致します」
生真面目にそう応えてすぐ、食器の音がした。盆を持ち上げたのだろう。
「そういえば、旦那様」
なんだい、そう答えながら私は顔を床へと向けた。
「……いえ、何でもありません」
そう言って食器が僅かに揺れる音を立てながら彼女は去っていく。彼女が言いたいことは、なんとなく分かる。こんな奇妙な同棲をはじめて、ついひと月前までは共に食事を摂っていたのだ。急に私が一人で食べると言ってから、彼女と顔を合わせる機会は激減した。その以前から私は自身の部屋の掃除を自分ですると言って彼女を立ち入らせず、金は蓄えがあるから気にしなくてもいいという事もあり、自身の部屋から出ることが殆どなくなった。そんな私を心配でもしているのだろう。
けど、それで良い。今更外へ出てもどうしようもない。この生活が続く限り私はこれを続けていこう。
その日の夜の事。膳を運んできた彼女は、すぐには私の部屋を去らなかった。私は朝のように視線を窓へと向けながら、彼女が口を開くことを待った。
「旦那様。ご迷惑でなければ共に食事を摂っても宜しいですか?」
「駄目だ」
そう、少し強く彼女に言う。この生活を続ける上で、それだけは守らなければならないことだ。
「すいません、出すぎた真似を。では、私はこれで失礼します」
そんな彼女のしょぼくれた声を聞いて、私はやっと、彼女が寂しかったのだとわかった。だから、私は問う事した。この関係の終わりの事を。寂しさの次にある事を。
「なぁ、お前はいつまでここにいるんだ?」
私の言葉はともすれば拒絶と取れる。だから私は言葉を重ねた。これは選択ではない。一つの可能性の質問だと彼女にわかってもらうために。
「今すぐ出て行けとか、お前に不満があるとかじゃない。お前が望む限りお前はここに居ていい。だが、例えば今から十年二十年先までこうしていることはできないだろう?」
十年二十年先にまでは、確実に雇用主と家政婦という関係は破綻してしまっているのだから。
少女は口を閉ざす。そんなところまで考えが至っていなかったのか、それとも思っていることを口に出すことが憚られるのかはわからない。
「お前はいつかはここを出て普通に暮らすべきだ」
「分かっています。近い将来、私は貴方の元を離れます。ですがそれまでは自身の責務を全うします」
そう口にして、彼女は私の部屋を出る際にいつもより強めに襖を閉めた。
朝、一人目が覚める。私は立ち上がり布団の側に置いてある百日紅ひゃくじつこうでできた長さ四尺程の棒を握って部屋を出た。
「あら、旦那様どうされました」
流しのほうから彼女の声がする。今は朝食を作っているのだろうか。
「散歩。すぐに戻るよ」
「その棒は一体」
「サルスベリの棒。最近物騒な噂をよく聞くからね。護身用だよ」
私の言葉に彼女は小さな笑い声を上げた。
「旦那様が捕まってしまいますよ」
私は苦笑いを浮かべて、玄関から外へ出た。そうしてアパートの階段へと向かい、踊り場でぼぅっと立って時が過ぎるのを待った。風は乾燥していて、時たま鶯の声が聞こえた。今日一日はとても天気が良いことだろう。私はまた自宅を目指して玄関を通り、自室に戻って彼女が朝食を運んでくることを待った。
そうして、その日の昼間、事件は起こった。
「旦那様、お願いです。今日の昼間だけでいいです。一緒に食事を取らせてもらえないでしょうか」
そう懇願する彼女に私は首をふる。彼女の前で私が何かをすることはできない。
「私はとてもゆっくり食事を摂るし、例え家政婦と言っても女性だからね。あんまり男性にそういう事を言うものではないよ」
「気持ちのよい日です。窓を開けてのんびり食べませんか? 以前はそうしていたではありませんか。今日、今日だけでいいのです。お願いします」
何故、今日に拘るのだろうか。今日は、確か六月の……二十二日、夏至だったか。それもよく晴れたいい天気の。私にとっては最悪の天気の。
「今日は、駄目だ」
もし彼女と共に食事を摂るとしてもとしても、今日は特に駄目だ。
彼女は私の部屋を駆け足で出て行った。彼女を何がそんなに急かすのか、それはわからない。ただそれでも、私は彼女の前では何もできない。
彼女の去った自室で、昼食を摂る。ゆっくりと慎重にそれらを口に運んでいく中、一つのものを食べた時、無意識にその言葉を呟いた。
「苦い」
水分がないような舌触り。間違いない、炭化している。焦がしてしまったのだろう。彼女にしては珍しい失敗。
私が呟くとほぼ同時、部屋の入口で、何か音がした。
「誰かいるのか」
問いかけるとその瞬間、その人物は駆け出した。足音で分かる、我が家政婦だ。彼女の足音は離れていき、そうして玄関が開けられ、閉じられた音がした。
恐らく彼女は私の膳を下げに来たのだろう。そうして私が苦いと呟くのを耳にした。だが、何故逃げていったのか。こんな失敗なんて気にすることではないのに。
もしや、私の秘密がばれてしまったのか。何にせよ追わなければならない。私は立ち上がって、また百日紅の棒を握って玄関の外を出た。階段まで小走りで近づく。まだ彼女は近くにいるらしい。僅かに聞こえた彼女の足音は、上の階からだった。
階段を駆け上がる。踊り場までは十段、踊り場から次の階までは十一段を数えながら手摺を握り、上へ、上へと。この半年で怠けた足は上手く動かないが、それでもただ彼女の元へ向かう為に階段を上った。そうして、屋上に出てきた時、唐突に手摺は消えた。油断していたから、体勢を崩した。
「旦那様!」
そんな私を心配してか、遠くから彼女の声が聞こえた。やっぱり屋上に彼女はいたか。
「どうした、そんな遠くにいて。こっちに来いよ」
天頂には太陽が輝いている。屋上は強い日差しに当てられていた。彼女の元へと向かうのは絶望的とすら思えた。だから彼女を呼んだ、呼び寄せようとした。
「いえ、駄目です。旦那様、最期ですから聞いてください」
断られてしまった。だから、私は言葉を投げる彼女の元へ向かう。ゆっくりと、慎重に。持ってきた百日紅を肩に担いで。
「私は、旦那様に拾っていただき幸せでした。ですが、私はもう貴方の下で仕えることはできません」
それは、私の秘密を知ってしまったからか。それを受け入れる勇気がないというのか。けど、私はそれを責める気はない。彼女の人生を私で潰したくはない。
「そういう、事なんです」
いつぞやの、列車に飛び込もうとした彼女の言葉を、今一度聞いた。今この場所はホームではない。だが、アパートの屋上。
「待て! 何でそんなに思い悩む」
あの日のように、すぐには彼女に手が届かないから言葉をかける。慎重に彼女に近づきなから言葉を紡ぐ。
「それにお前の責任はない」
「何だ、旦那様も気づいていらっしゃったじゃないですか」
その言葉に疑問を抱く。私も、気づいていた?
「旦那様が苦いと呟くのを偶々耳にして、その時ようやく料理の失敗に気づきました。こんな木偶な私はもう旦那様の側に居れません。こんな、緑内障の家政婦なんて」
心臓が、止まるかと思った。それ程に彼女の言葉は私に対して強い意味を持っていた。
「こんな晴れた日に失敗してしまうのです。もう以前のように仕えることはできません。日々狭くなる視野の中、叶えられる事があるとすれば、もう一度旦那様の顔が見たい、それだけです」
緑内障は視界が周りからだんだんと暗くなっていく。彼女が進行していっているならば、何かを見るのに一年で一番天頂に太陽がある今日、この晴れた日以外に絶好の日はないだろう。
「ですがそれも叶いませんでした。私は、もう駄目なんです。これでさよならです」
彼女の言いたいことは痛いほど分かる。今から彼女は屋上から身を投げるつもりなのだ。
「待て、待ってくれ。少しでいい。全て話すから」
彼女と言葉を交わす内、随分と彼女に近づけた。後ほんの一、二間だ。今の私はあの日のように強引に彼女の手を掴むことはできない。けど、彼女の肩を叩いて労う事や、私の秘密を教えることはできる。だから、やらないと。仕えてくれた彼女に。
右腕を伸ばす。そう、直ぐ側に彼女がいる。もうすぐ彼女に手が触れる。あと少し、あと少し。
そうして伸ばされた私の指が触れたのは、彼女の髪でも肩でもなく、冷たい金網だった。
◇
「待て、待ってくれ。少しでいい。全て話すから」
そう言いながら旦那様は私へ歩み寄ってくる。階段を駆け上がったからだろうか、彼の足取りは少し覚束なかった。
私の視界はもう、薄暗かった。もうしばらくできっと、本当の真っ暗闇になってしまうだろう。けどその前に旦那様が私の元へ来てくれた。あの日、視界が暗くなっていくことに耐えられなかった私の手を握ってくれたように。
このひと月、失敗が怖くて得意な料理しか作らずにごめんなさい。薄暗い部屋のお掃除が上手く行かなくてごめんなさい。顔が見たいとわがままを言ってごめんなさい。そう、心のなかで謝り続ける
そうして、旦那様は腕を伸ばした。その意味が、分からなかった。だって、屋上の端に立つ私と旦那様の間には、安全のための金網があるんだから。金網に触れて掴む動作をした旦那様を見て、もしかして、登ってきてくれるんだろうか、何て思った矢先、彼の持っていた棒が、床に落ちた。旦那様は左腕も使って目の前の金網に手を触れる。まるで、それが何かわからないというように。
「あ……」
驚いたように目を見開く旦那様。その瞳は、白かった。
「はく、ない、しょう」
私の口から漏れた言葉を聞いて、すぐに旦那様は目を閉じた。白内障、水晶体が白色に濁る事によって視界が白濁する病気。明るいところだと特に、水晶体の中で光が散乱してしまい視界が真っ白になってしまうもの。
そうだ、何故気づかなかったのか。視界が悪い私は、いつだって失敗してきた。料理だってきっと、胡瓜を切る間隔がぶれてきたり、彩りが悪かったりしてきたはずなのだ。けど、旦那様が気にする様子はなかった。頑張って隠し通していると思っていた。けどそんなことはなかったのだ。お互いが目が見えてないことを隠そうと躍起になっていたから、相手が見えていないなんて考えることなんてできなかっただけ。
「旦那様。今直ぐそちらに向かいます!」
「来るな!」
旦那様は叫ぶ。それは拒絶。嗚呼、だから彼は昨日、いつまでここにいるのかと私に問うたのだ。完全に視界を閉ざしてしまう自分の元に、私を残さぬように。
私は金網をよじ登る。今はまだ、彼より私のほうが見える。なら、私が本当に何もできなくなるまでは、彼を助けないと。
金網を登る音に気がついたのか、旦那様は落ちた棒を手探りで拾い上げて走りだした。棒? 否、あれは杖だったのだ。何故、朝気が付かなかったのか。
「待ってください!」
彼を追う。白内障の彼はこの晴天の中、何も見えていない。追わないと。私が側にいると伝えないと。
彼は走る。屋上の階段へと。そうしてその事がわかった時に、私は走りながら人生で一番大きな声を出した。
「止まってぇ!」
彼は止まらない。階段の側には手摺もなく、フェンスもないのに。だから、私は旦那様を追う。彼が落ちないように、何とかして追いかないと。
あと一間、もうすぐで届くという時に、旦那様はとうとう階段の側に辿り着いた。けど止まらない。だって、見えていないんだから。彼は屋上の端、僅か一尺程の高さの縁に蹴躓いて屋上から姿を消した。
「ああ」
間に合わなかった。けど、見ないと。彼が下で、どうなったのか。
小走りで縁に近づく。大丈夫、私は見えているんだからゆっくりと下を覗けば……
縁の直ぐ側、僅かな影になっている部分に踏み出した右足は、何故か止まらず前へと滑り、縁へと思い切りぶつかった。そのせいで、走っていた勢いはそのまま回転運動となり私の体を空中へと送り出す。私は浮遊感に包まれながら、木の棒がコンクリートを跳ねる音を聞いた。
後書き
文中にある通り、題名は互いの視界の事でした。
補足を入れるならば、男がずっと顔を合わせなかったのは瞳が白いことを知られたくはないから。少女が顔を合わせたかったのは最後にその顔を見たかったからです。男が明るいところを嫌っていたのも、少女が窓を開ける等提案していたのも、全部光度を気にしての事でした。
途中で男が百日紅の杖を握って部屋を出たのはトイレに行くためにです(室内でも視界が悪いので杖があったほうが安心できるので)。ですが少女に見つかってしまいました。この時男は少女の事が見えていませんが少女からは見えていました(視界と明るさの違いで)。なので咄嗟に散歩と嘘をついて家を抜け出し、踊り場で時間を潰していました。
男が屋上に上がった際、少女が逃げようとしていたのにも関わらず声をはりあげたのは、手摺が消えたところがフェンスのないところだったからです。男にとっては少しバランスを崩しただけでしたが、少女にとっては縁の近くで大事な人がふらついていたわけです。
最後少女が落ちた原因は、男が杖としていた百日紅、もといサルスベリです。少女は影(=暗いところ)に男が落としていったそれに気づかずすべります。
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