SNOW ROSE
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騎士の章
Ⅱ
二人がリリーの街を出発してから十日程が過ぎた。
世は相も変わらず夏のうだるような熱さが続き、心地よい秋は暫くお預けと言ったところある。
さて、二人は小さな村を二つ三つ立ち寄った他は野宿で旅していたが、なんとかリグの街に入ることが出来た。
ここはリリーと共にハウリスト・フレミング伯が治める土地である。前男爵の投げ遣りな治世に比べると、それとは比較にならぬ程の発展を見せていた。
街に入るや二人は早々に宿を決め、各自で必要物資の調達に出掛けることにした。この街に立ち寄ったのも、物資の不足からである。
まずマルスは古着屋を探し、そこで上着を見た。彼の上着はもうボロボロになっていたため、予備を含め三着購入したのであった。
上着を買って直ぐにマルスは外へ出たが、その店の正面にあった小さな花屋が気にかかった。
彼はそちらへと歩み寄り、なんとはなしに見てみると、一角に白い花があるのが目に留まった。
マルスはそれが気になり、近づいて手に取ってみた。
「なんだ…造花か…。」
マルスが手にしたものは、白い薔薇の造花であった。
「なんだってこんなもんが…?」
そう言ってマジマジとその造花を見ていると、奥から店主らしき男性が姿を見せた。
「お客さま、それが気に掛かりましたか?」
その男性は小柄で、いかにも花好きといった風情を持っていた。
マルスがキョトンとしていると、「これは失礼しました。」と言って軽く挨拶をした。その後、男性はマルスの持っている造花を指して「宜しければお持ちください。」と、ニッコリ微笑んで言ったのであった。
「いやぁ、別にそんなつもりでは…。」
マルスは恐縮し少々顔を赤くしたが、男性はまぁまぁと言って話しをしだした。
「これは旅人の無事を祈るために造ってるんですよ。白い薔薇なぞ在りもしないのですが、伝説の女神にあやかって旅人に差し上げております。」
この話は広く知られた伝承であった。プレトリウス王国の北の町、メルテに伝わる兄弟の伝説である。
一説によると、この兄弟の墓所には伝説の白い薔薇が咲いていたのだと言われ、旅に出る際にこの墓所へ出向いて祈ると、無事に目的地に辿り着けると言われていた。
しかし、その墓所の在処は現在分からなくなっているのである。
「それで造花をねぇ…。」
話を聞いたマルスは、手にした白い薔薇の造花をまじまじと見ていたのであった。
同時刻。
エルンストは乾物を買うために市場に出向いていた。
「そろそろ補充しておかなければならなかったからな…。」
一人呟きながら店先で品物を見ていると、どこからか楽器を奏する音が聞こえてきた。
―どこかで聴いたことがあるような…。―
この音が何処から聞こえてくるのか知りたくなり、エルンストは店の者に尋ねることにした。
「すまないが、この辺りで音楽を奏している場所がどこにあるか知ってるか。」
店番なのか、そこにいた青年は嫌な顔をしながら溜め息混じりに答えた。
「この音ね。少し行ったとこだよ。小さな野外劇場があるんだけどさ、毎日のように演奏に使われてるんだよ。」
この青年は音楽嫌いなのか、頬杖をつきながら話をしていた。まぁ、上客ではなさそうだと思ったのかもしれないが。
さて、エルンストは彼の話が少々気になり、このムスッとしている青年からもう少し話を聞くことにした。
「なぜそんなに音楽が盛んなんだ?」
「そりゃ、女神を讃えるためだ。知らないのか?」
青年は怪訝な顔をして、聞いてきたエルンストを見上げた。そして、まぁ仕方ないといった面持ちで話し始めたのであった。
「もう、いつの頃だか分からないって話しだけどさ。その昔、仲の良い兄弟がいた。弟は病気がちで、そんな弟を救おうと兄が働きに出るんだ。元来才能のあった兄は…」
「楽師に抜擢されるが、弟は曲を書き残して亡くなり、兄も馬車事故でなくなる…。雪薔薇の伝説だな。」
途中からエルンストに割り込まれた青年は「知ってるじゃんか…!」と、再び頬杖をついてムスッと外方を向いてしまった。
「すまんな。だが、なぜその伝説がこんなことに?」
「そりゃ、この街道がメルテまで続く本道になってるからさ。こっから歩いて四・五ヵ月で、兄弟が住んでたとされるメルテに行ける。そのメルテでは、三月から五月にかけて音楽祭をやるからな。帰ってきたやつらが入れ代わりでこの街に来て、また次のやつらが出発してるってことだ。」
青年はムスッとしながらも、エルンストにそう話したのであった。
エルンストはどうにかそれで理解出来た。
―レヴィン音楽祭か。―
しかし、こんな端から始まっていようとは、全く知らなかった。先に聞こえてきた音楽は、K.レヴィンのリュート・ソナタだったのだ。
エルンストは青年に礼を述べ、いつもより多く乾物を買った。
無論、このムスッとした青年への心付けも忘れはしなかった。
夕の帳が降りるころ、マルスとエルンストは宿に帰ってきた。
彼らは帰って早々、荷物の整理をし始めた。この街に長居する気はないのである。
「マルス、明日の昼前には出れそうだな。」
荷物整理をしながらエルンストが言った。
「そうだな。必要な物は揃ったし、他に用事もなさそうだしな。」
そう答えたマルスの荷物から何かが落ちた。あの花屋から貰った造花である。
それを見たエルンストは目を丸くして言った。
「何で君がそんなものを?」
元来、造花は女性の持ち物であり、まず男性は持つことはなかった。些か引かれている様子だったため、マルスは苦笑しつつ経緯を話したのであった。
「そう言うことか。しかしなぁ、白い薔薇とは…。伝説上の花を、よく創ったものだ。」
経緯を聞いたエルンストはその造花をじっと見ていたが、ふと乾物の店での話を思い出し、マルスに提案を持ちかけた。
「なぁ、マルス。今から野外劇場に足を運んでみないか?」
それを聞いたマルスは唖然とし、怪訝な顔をして言った。
「エルンスト…お前、熱でもあるのか?」
そう言われたエルンストは苦笑いし、今度はこちらが乾物店での話しをしたのであった。
話しを聞いたマルスは頷き、それではと行ってみることになったのである。
日は地平に落ち、月が大地を淡く照らしている。その中で、多くの明かりを灯された野外劇場が、一際美しい姿を見せていた。
全体に花崗岩や大理石が使われた豪奢な造りで、周囲は彫刻で飾られた立派なものであった。
そこから歌声が聞こえてきていた。どうやら今日は声楽曲の演奏の様である。
二人は空いていた外側の端の席に腰を下ろした。
「今日はオラトリオだったか。」
エルンストは知っている様子で、ボソッと呟いた。
オラトリオとは、簡単に言えば背景や衣装、振り付けの無い歌劇である。もっと細かく言えば、宗教的ないし瞑想的な性格をもった長い台本に基づき、独唱、合唱および管弦楽によって奏されるものを言う。
ここで演奏されていたのは、M.レヴィンのオラトリオ「時の王とエフィーリア」であった。全三部の大作で、普通は三夜に渡って演奏されるが、今夜はその終わりを飾る第三部であった。
マルスもこの曲は知っていた。リリーの街でも演奏され、それをアンナと聞きに行ったことがあったからだ。
それはさておき、二人は暫らく演奏に聴き入っていた。
内容は、伝説の騎士とその恋人の物語であり、一般的には<白薔薇の伝説>として知られているものである。
オラトリオも終盤に入り、アルトがレシタティーヴを歌う。
数多の叙勲を受けし騎士あり
彼の者の心は此処に在らず
愛しき人への想いを抱き
遠き彼方へと飛んでいるのだ
そのレシタティーヴの伴奏が静かに終えると、二本のオーボエ・ダモーレとリュートを伴うテノールのアリアが続いた。
走れ、駆けろ!この想いと共に!
わが心は懐かしき故郷へと続くのだ
飛べ、羽撃け!この愛と共に!
愛しき人の待つ場所へと急ぐのだ!
何を躊躇うことがある?
われは愛する人とあるために
この日を待ちわびていたのだから!
この後、マルスが唯一嫌いな場面があった。
主人公は二人とも死に、墓に埋葬されてしまうところである。
―ハッピーエンドにすればいいのにさ…。―
そうマルスは思ったが、伝説まで変えられるわけもなく、オラトリオの終曲合唱「ああ、汝らのために祈ろう」が高らかに歌われていた。
全曲が終わりを告げると、盛大な拍手が沸き起こった。楽団員は客席に向かいお辞儀をしている。
「マルス、たまにはこういうのも良いだろう?」
エルンストが聞いてきた。
「そうだな。ま、気分転換には丁度いい。」
マルスは以前聴いたことがあることは言わず、言葉を濁したのであった。どう考えても茶化されるのが落ちだからである。
そうこうしているうちに、見物料を少年の団員が回収しに回ってきた。
この時代、細かい料金設定はされてなく、聴いた人物の主観が支払われていた。よって、その日の稼ぎはマチマチであったのである。
「いかがでしたか?」
少年は二人の前に来てそう言うと、中程の箱を差し出した。この中に入れるのである。
先ずエルンストが銅貨五枚を入れた。次いでマルスが入れたのであるが…。
「こ、こんなにいいんですかっ!?」
少年はマルスの入れた代価を見て驚いた。それもそのはずである。銀貨三枚を入れたのだから。
それを見たエルンストも仰天した。全夜聴きに来たとしても、銅貨十五、六枚が精々であるからだ。
しかしマルスは気にもせず、目の前の少年にこう告げたのであった。
「もう一曲、何かやってもらえるか?」
要はアンコールである。その言葉を聞いた少年は、嬉々として「お易いご用です!」と言い、楽団のもとへ駆けて行った。
少年から話しを受けた楽長らしき人物は、マルスへ向かって礼を取り、楽団員を持ち場に付かせた。
「お客様よりご要望があり、後一曲演奏致します。曲はJ.レヴィンのカンタータ“恵まれしサッハルよ、汝の幸いを広めよ”です。」
男性がそう言うと、客席から拍手が起こった。そして、その男性が楽団へ向き直ると拍手は止み、静かに演奏が始まった。
この曲は、とある男爵のために書かれた表敬のためのカンタータで、J.レヴィン最期の作品とされているものである。
「美しいものだな…。」
マルスが隣に座るエルンストに言うと、エルンストは溜め息混じりに言ってきたのであった。
「君には驚かされる。まさかカンタータを一つ丸ごと演奏させるとはね。」
この日の楽団の稼ぎは、前日の四倍近かったという。マルスが頼んだアンコールにも、殆どの観客が代価を支払ったからである。
この後、この楽団は“レヴィン・コレギウム”と名乗り、サッハルを中心に活躍することとなる。
マルスとエルンストの二人は、曲が終わると早々に劇場を後にした。翌日の昼前には予定通りにこの街を出て、次の街へと向かったのである。
次のバルハの街を抜けてメルの街に着くまでは何事もなかったが、メルの街にて新たな展開が待ち受けていた。
だが、今の二人は何も知らないのである。
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