SNOW ROSE
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間章 I
枯れ葉舞う頃に
秋も深まりし黄昏の中、一人の老婆が細い並木道を歩いていた。
名前はエリス。齢八十を越えてはいるものの、しっかりした足取りである。
だが、何か考え事でもしているのか、空を見上げては溜め息を零していた。
そんなエリスの傍らを、紅や黄に色付いた木々の葉が、感慨深げに舞い落ちていた。
「仕方ないことよね。私だってもうこんな歳だし…。」
周囲に人影はなく、エリスの独り言は虚しく空へ四散してゆくだけであった。
尤も、誰かに聞いてほしいわけではないようで、ただ思っていたことが口に出たというようである。
そんな中、一迅の風が梢を揺らした。
エリスは手で顔を覆って軽く目蓋を閉じた。
「何を悩んでらっしゃるの?」
突然頭上から若い女の声が聞こえてきたため、エリスは上を見上げた。
そこには二十歳前後の女性が、太い枝の付け根に座っていたのであった。
エリスは呆気に取られ言葉を失っていた。
「あ…ごめんなさい。あまりにも良い天気だったから、つい登っちゃって…。」
その女はそう言うや、スルスルと樹から降りてきたのであった。
「驚かせてしまったみたいね。でも何だか放っておけなくて…。私の名はエフィーリア。良かったら話してみてよ。話すと案外スッキリするものだわ。」
エリスはそのサバサバした女の物言いに、若き日の自分を重ねて苦笑した。
「あらあら。お若いのに、こんな年寄りの話なんか聞きたいの?」
エリスは真直ぐに、エフィーリアと名乗る女の顔を見た。エフィーリアは優しく微笑んでいて、なぜかこの人ならばと感じさせる雰囲気があった。
故にエリスは、やれやれといった風に細道の脇に歩み寄り、そこにあった大きな石に腰を下ろした。
「ねぇ、どうして溜め息なんて吐いてたの?」
エフィーリアはエリスの傍らに並んで座り、顔を覗き込むようにして尋ねてくる。
そんなに彼女に、エリスは苦笑しつつ返した。
「そう急かさないどくれよ。私の名はエリスと言ってね、この近くにあるフレーテの村に住んでるの。この歳まで一人だったから、家を甥に譲ろうと思ってるんだよ。でもねぇ…。」
エリスはそう言うと、黄昏た空を見上げた。
白い雲も淡い紅に染まり、そんな空をとんぼが緩やかに舞っている。
それを暫らく眺め、そしてまた話しを続けた。
「譲るは良いのだけどね、甥だってこんな年寄りの面倒みたくはないだろうし、どうしたものかってねぇ。別にお金の心配なんてないのよ?若い時はそれなりに売れた歌い手だったから。でもねぇ…。」
エリスは皺だらけの手を見つめ、また言葉を付け足した。
「やっぱりさ、もう先が見えちゃうと身内に傍へ居てほしいと思ってしまうんだね。だから、甥に家を譲ろう…なんて考えたのよねぇ…。」
エフィーリアはエリスの寂しげな横顔を見つめていた。
晩秋のやけに紅い夕日が、エリスの年輪を重ねた顔を照らし、深い陰影を作り出している。
「ねぇ、エリスさん。まだ戦が終って間もないわ。その甥の方だって絶対に感謝するはずだわ。家を持てるなんて、今の時代には夢のようなものだもの。」
エフィーリアは何とは無しに思ったことを言ったが、エリスは苦笑いをして首を横に振った。
「あ、私のことはエリスで構わないよ。…でもねぇ…上辺だけじゃ意味はないのよ…エフィーリアさん。若い者にとっちゃ財産が入るにせよ、こんな年寄りの世話なんてしたくないものでしょ?私はね、お荷物になんてなりたくはないの。家を譲るって言ったって、所詮は私の面倒みてよね…ってことだし、何か強制してるみたいでねぇ…。どうしても気が引けてしまうのよ…。」
そう言ってエリスは深い溜め息を吐いたのであった。
「大丈夫よ!エリスはそうやって人のことを考えられるんだもの。絶対楽しい日々を送れるわ。私が保障しちゃう!」
エフィーリアは目配せし、沈んでいるエリスにそう言い放ったのであった。
「それと、私のことはエフィーでいいわよ。でも…何で今まで一人きりだったの?」
この時代、女性が一人で暮らすことなど考えられなかった。それをするということは、生半可な思いでは通せないのである。
たとえ結婚したとしても、夫が亡くなれば大概は家を追われたからである。
時の法によれば、子供は夫の所有物であり逆らうことは許されなかった。また夫の死後は、三十歳にならぬ女性は速やかに家を去ることが義務付けられていた。
要は…女を再び結婚させ、子供を産ませるためである。戦の続いた時代であり、極端に人口が減少していたのだ。
時代がそうさせていたと言っても、決して過言ではなかろう。膿んだ時代の妄想なのかも知れぬ。
だがエリスは、そんな時代を撥ね除けて生きてきたのだ。余程の才覚と強靱な精神の持ち主なのだろう。
「そうねぇ…。心から愛した方が死んでしまったからかしらね…。その知らせを受けた時にね、結婚はしないって、そう決めたのよ…。」
遠い過去の日々を思い出すかのように、エリスは瞳を閉じた。
「あの人を本当に愛していたわ。今でもはっきり思い出せる。透るようなあの碧い瞳、私の名を呼ぶあの人の声…。もう遥か彼方のお噺ね…。やぁね、こんな話し…。」
エリスはエフィーリアの顔を見て、照れたように微笑んだ。その微笑みは妙に子供っぽく、エフィーリアもつられて微笑んだのであった。
そんな晩秋の夕暮れの中、エフィーリアは微笑みながらこう言ったのだ。
「エリス、きっとその人に逢えるわよ。」
言われたエリスはキョトンとし、訝しげにエフィーリアを見た。
「エフィ、それはありえないお話しよ?もう当の昔に亡くなってるんですもの。聞いてなかったの?」
「いいえ、きっと逢えるわ。こんなに苦労して他人のために心を砕ける人が、幸せになれなきゃ可笑しいもの。年が廻り、また枯れ葉舞う頃に…」
そうエフィーリアが言った時、遠くから男性の声がした。
「そんなところに居たのか。」
そう言って近づいて来たのは、エリスの甥のカールであった。
方々捜し回ったようで、かなり汗をかいていた。
「もう、家に行ったら居ないから心配したよ。」
「カール、お前なんでここにいるんだい?フィレの街に居たんじゃないのかい?」
エリスは驚いて目の前の甥に尋ねた。
「やっぱり手紙届いてなかったんだ…。伯母さんが用が済みしだい来いって手紙寄越したから、急いで仕事を終らせたんだ。そして来ることを手紙で知らせようと出したんだけど…。着いてなきゃねぇ…。」
カールは仕方ないと言った風に両手をあげた。
「でも伯母さん、こんなとこで何してんのさ。」
不思議そうに聞いてきた甥に、エリスはエフィーリアを紹介しようと横を向いた時、そこにはもう誰の影も無かった。
「あら…?」
エリスが怪訝な顔をしているので、カールは「どうかしたの?」と声を掛けたのであった。
「さっきまで若いお嬢さんとお話しをしてたのよ?カール、お前は見なかったのかい?」
「いいや、伯母さん一人だったけど…。」
二人は顔を見合わせた。
「そんなはずないわ。エフィーリアって名前まで名乗ってくれたんですもの。」
エリスは信じられないといった顔でカールを見上げたが、カールはそんな伯母の言葉に目を丸くしていた。
「エフィーリアだって!?」
カールのあまりに素っ頓狂な声に、エリスの方が驚かされた。
「何だい、そんな大声で…。」
エリスは嗜めるように甥に言ったが、カールはお構いなしに質問をぶつけてきたのであった。
「その人ってもしかして、金の髪に栗色の瞳をしてなかった?」
「ちゃんと見てたんじゃないのさ…。」
エリスは甥に揶揄われていると思い、少しムッとした顔になって言った。
「違うよ、僕は本当に見ていないよ。でも、その名前に心当たりがあるんだ。」
この甥の言葉にエリスは困惑した。そんなエリスを見て、カールはその理由を話し始めた。
「今の話しだけどね、その名前って街では有名なんだ。」
そう言うや、彼は街で聞いた話をし始めたのだった。
今から二十年程前、エフィーリアと言う美しい娘がこの世を去った。その娘の容貌は金の髪に栗色の瞳だったと伝えられている。
その死の際、埋葬しようとしたら棺から薔薇の薫りが漂ってきたため、参列者達は驚いて棺を開けたという。
棺には入っているはずのない真っ白な薔薇が満たされており、神に祝福された証と騒がれた。
その娘はその後、神に愛され女神となったと言われたのだと言うのだ…。
暫らくは二人とも、暮れゆく茜空を眺めていた。
空はもう星が瞬き始めており、紅から藍のグラデーションが美しかった。
「カールや、もしその御方だったとしたら、どうして私なんかのとこへ姿をお見せになったんだろうねぇ…。」
エリスはふとカールに問ってみた。
カールは問われて伯母を見たが、エリスはただ、名残惜しげに沈み切らぬ太陽を見つめているだけであった。
「そうだね…。でも、こうも言われてるんだよ。幸福にならなければならない人が不幸に晒されていると、女神はその愛ゆえに幸福を齎す…ってね。」
カールは俯いてそう語った。
この伯母が、どれほど大変な人生を歩んで来たのかを知っているからであった。
しかし、エリスは甥のその言葉を聞くや立ち上がり、ニッコリと笑った。
「そうなのかい。こんな歳んなってどんな幸福が来るか分かんないけどねぇ。それを信じてみるのもいいかねぇ。」
天を仰いでそう言うや、カールに「さ、帰ろうかね。」と言って歩き出した。
「待ってよ伯母さん!」
カールも立ち上がり、先に行く伯母の後に続いたのであった。
空には数多の星々が瞬き始め、辺りには夜の気配が近づいて来ていた。
時は過ぎ春の初めにカールは結婚し、正式に館の主人となった。
家族が増えたことでエリスは今までよりも明るくなり、よく三人で街に出掛けることも多くなった。
カールは仕事も順調で、妻のミモザはエリスを楽しませてくれた。
夏にはミモザが身籠ったことが分かると、カールとエリスは飛び上がるほど喜んだ。
エリスにとって、三人で暮らす毎日はとても幸せだった。本当に…。
しかし、その年の初秋にエリスは突然倒れてしまい、そのまま寝たきりの状態へ陥ってしまったのである。
「さて、そろそろ舞台から降りる頃かねぇ…。」
窓の外を見ると、紅や黄に染まった木の葉があの時のように舞い落ちている。
部屋にはエリスを囲むように家族や友人達が集まっていた。
カール夫妻は勿論、エリスの妹レジーナと夫のカルロ、その娘マリーアに友人達が七人来ていた。
その中で、カールは心配そうに伯母に語りかけた。
「エリス伯母さん、何言ってるのさ。ミモザのお腹には赤ちゃんだっているんだ。また家族が増えるんだよ?まだまだ生きなきゃ。しっかりして。」
その甥の言葉を聞いてエリスは微笑んだが、エリス自身はもう終わりが近いことを知っていた。
「できればねぇ…孫の顔も見たかったけど…。寿命というのは、どうにもならんもんさね…。」
浅い溜め息を吐き、エリスは窓の外へ目を向けた。
そこではやけに紅い夕日の輝きが、枯れゆく木々に深い陰影を創りだしている。
「こんな晴れた空の下で、よくお茶を頂いたねぇ…。ミモザの作ってくれたスコーンが美味しかった…。春の陽射しが心地よく、お前達の心遣いが嬉しかった…。とても楽しく、素晴らしい人生だったよ…。」
エリスは微笑みながら思い出を紐解いていた。
エリスを囲んでいる人々は、彼女の言葉を胸に留めておくかのように黙っていた。
ふと、その時…。
「約束を果たしに来たよ。」
エリスの耳元で誰かが囁いたのである。
エリスは驚いて聞き返した。
「約束…?」
周りに集まっていた人々は、ポツリと囁いたエリスの言葉に首を傾げている。
どうやら聞こえてはいない様子であった。
エリスはその人々の反応を前に、何とはなしに理解出来たのであった。
「エフィ…あなたなんだね…。」
エリスはそう呟くと、晩秋の黄昏の中で静かに息を引き取った。
それはまるで眠るように…。
† † †
「エリス…!」
男性が彼女の名を呼んだ。
エリスはその声に聞き覚えがあり、慌てて振り返ったのであった。
「ジェフリー…!」
信じられなかった。もう逢えないと分かっていながらも、心から求めていた愛しい人が目の前にいたのだから。
エリスの瞳から涙が溢れ出た。
「君を一人にしてしまって…すまなかったね…。」
「あぁ、ジェフリー。どんなに逢いたかったか…!あなたが死んだとき、どんなに苦しく辛かったか…!」
そう言うと、エリスはジェフリーの胸の中に飛び込んだ。
その胸の中は温かく、太陽の陽射しよりも心地良かった。
「もう…どこにも行かないで。ずっと傍にいて…。」
「ああ、もうどこにも行かないよ。ずっと…ずっと一緒だよ…。」
ジェフリーはエリスを強く抱き締めたのであった。
二人の傍らにはエフィーリアの姿があったが、何も言わずただ、優しく微笑んでいた。
† † †
エリスが亡くなった時、周囲の人々は悲しみに沈んだ。
彼女の苦労した歳月を振り替えって見ても、この一年足らずの幸せではあまりにも少ないではないかと…。
しかし、そんな涙に暮れる人々の上に、驚くべきことが起きたのである。
「これは…!」
そこにはエリスの亡骸を祝福するかのごとく、白き花弁がいずこともなく舞い降りてきていたのである。
それを見るや、エリスの友人であった一人の老爺が言った。
「奇跡じゃ…。高き御方が奇跡を齎されたんじゃ!あぁ、やっと逢えたんじゃのぅ…。」
そう言って涙を流しながら微笑んだという…。
残念なことに、この物語はここまでしか伝わっていない。
この物語はクリストフ・ヴァールの手により書かれてはいるが、断片でしか残されておらず、その手稿以外には伝えられていないのである
今でもフレーテと言う名の村はあるが、この物語に登場する村とは別と思われる。
そこにはそれらしい伝承も伝えられておらず、何より、この物語の時代には無かったと考えられるためである。
きっと…強い想いは必ず叶う…そういう説話として残ったのかも知れない。
「枯葉舞う頃に」
完
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