イリス ~罪火に朽ちる花と虹~
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
Interview13 アイリス・インフェルノ
「皆に迷惑をかけたという話だ」
やがてイリスの泣き声は小さくなっていき、イリスは顔を上げ、レイアを顧みた。
「……ごめんなさい。レイア」
イリスは指で、泣き腫らした目元の涙を拭った。
「イリス、これ、貸したげる」
エルがイリスに小さな両手で差し出したのは、花柄のピンクのハンカチ。
「ありがとう。でも、いいわ。イリスの涙を拭いたら、エルの可愛いハンカチを黴だらけにしてしまう」
イリスの涙が落ちた床は、硫酸でも垂らしたように穴だらけだった。ハンカチの布地など一溜りもなかろう。
さて、と。ふり返れば、分かりやすく反応が分かれている。
ミラとやり合ったことにより、イリスに少なからず反感を表しているのが、ジュードとエリーゼ、ローエンにミュゼ。
イリスにまだ肯定的と言えるのはレイア、それにエルとユリウス、アルヴィン。
(この先の仕事で手伝いの手が減るのはもう諦めるとして。せめてこの分史世界を出るまでは協力し合わないと)
「それで」
重い沈黙の中、凛とした第一声を発したのは、ミラ=マクスウェルだった。
「お前は私をどうしたい? 蝕の精霊。私に非があるとお前が訴えるなら改めよう」
ミラはイリスへと手を伸べた。
イリスはその手を見て、その手を借りずに自力で立ち上がった。
「お前はイリスが殺したいマクスウェルじゃない。だから殺さない。かつてのマクスウェルのように、クルスニクの子どもたちに害をもたらさなければ、ね」
後ろでレイアがほっと胸を撫で下ろしたのが見えた。
「私は人間をいたずらに傷つける気はない。人は守るべきものだ。お前とも、叶うなら善き関係を築いていきたいよ、蝕の精霊イリス」
ミラが改めて右手を差し出した。
イリスはじっとミラの手を見下ろし、手を握り返した。
周りの空気がぱああっと明るくなった。
2000年の時を経て分かり合ったクルスニクの娘とマクスウェルの娘。歴史的、そして感動的な一幕――
次の瞬間、ミラがイリスの手から乱暴に逃れて下がった。
「ミラ、どうしたの!?」
ミラに滅法甘いジュードが真っ先にミラの右手を診る。
ミラの右手は、手袋の布地は黴が生えて崩れ、手の平は水膨れができていた。
ジュードらが実行犯のイリスに注目する。受けるイリスのまなざしは、まさしく石だった。
精霊の主と精霊殺しの眼光がぶつかり合った。
この時ルドガーは悟った。
――分かり合うなどとんでもない。この二人の女は不倶戴天の敵にしかなりえない、と。
覆せない結論に立ち尽くしていると、床が大きく揺れた。
「な、なにっ?」
「――おそらくこの世界の『私』がナハティガルを追って呪帯を越えたんだろう。呪環の爆発も顧みず」
「てことはこの後、俺らがミラを拾って要塞から脱出するから~……」
「確か、カラハ・シャールのドロッセルさんのお屋敷に戻って、休ませてもらったんだね」
「そうそう。ミラサマの足。一時はどうなることかと思ったよな」
アルヴィンの台詞を聞いた途端、ミラは苦く顔を伏せた。
ジュードとアルヴィンが困惑している。彼らの中では思い出話の一つだったはずが、ミラにはそうではなかったのが何故か分からない――といった感じだ。
空気を変えるためにもルドガーはジュードらに尋ねてみた。
「足って何のことだ?」
「……私が愚かにも危険に突っ込んで皆に迷惑をかけたという話だ」
「ミラ、本当にどうしたんですか?」『なんかヒクツっぽいよー』
「卑屈になっているわけではない。この世界の『私』の在り様を見て、本心からそう思っただけだ」
ジュードら昔なじみ組はしきりに頭をひねっている。ミラを知らないこちらのクランスピア組はそれを見てさらに首を傾げる。悪循環だ。
「――偏差反応が消えた。ここにはもう時歪の因子はない」
見れば、ユリウスがGHSのフリップを開いて、難しい顔をしていた。その事務的な態度に救われた。
「んー。よくわかんないけど、カラハ・シャールに行けばいいってこと?」
「あ、うん、そうだね」
エルがバッサリまとめ、ジュードが抜けた返事。
グッジョブ、の意を込めてルドガーはエルの頭を撫でくった。
「あんまり長居したくもねえしな……」
アルヴィンが流した視線の先には、この世界のドロッセルの死体。
「皆さん、すみません。ワガママを言ってもよろしいでしょうか」
声を上げたのはローエンだった。
「お嬢様をこのままにしておくことは、私にはできません。例え壊れて崩れる世界でも、せめてお嬢様を弔わせてはいただけませんか?」
ローエンは宰相になる前にシャール家の執事だったと、いつか聞いた。今でも、時おりドロッセルを訪ねるローエンの態度は恭しいものだとエルが言っていた。
「――分かった。じゃあ俺たち、先に外に出て待ってるから」
「いえ。皆さんは先にカラハ・シャールへ向かってください。このタイミングで時歪の因子がなくなったというなら、1年前の『私たち』の誰かが時歪の因子かもしれません。時間を置けば追いつくのが難しくなってしまいます」
ローエンの気遣いはありがたい。ありがたいのだが、ドロッセルの死体を前にしたローエンを一人置いていくのは、やはり心配だ。
「俺も残るわ。おたくらは先に行け」
「アルヴィンっ?」
「じーさん一人じゃ何かと大変だろ」
「……ありがとうございます。アルヴィンさん」
ローエンとアルヴィンが呪帯の向こう側へ足を踏み入れようとした時――アルヴィンの背にエリーゼが体当たりした。
「うおわ!? どしたよ、エリーゼ」
エリーゼはアルヴィンの背中に頭を押しつけ、イヤイヤをするコドモのように首を振った。
アルヴィンが助けを求めるようにこちらを見返すが、ルドガーたちとてエリーゼの行動の意味が分からない。
「じゃあ僕が残るよ」
ジュードが素早く、それでいて自然に交替を申し出た。
「アルヴィンはみんなと行って。――それならいいよね、エリーゼ」
エリーゼは小さな声で、はっきりと肯いた。
ページ上へ戻る