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機動戦士ガンダムMSV-エクリチュールの囁き-

作者:桃豚(21)
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89話

 己の、否、存在が燃えていく。私という感覚、私、という存在の根源的な経験が喪失していく炎に焼かれて喪失していく。
 恐い。ただそれだけでしかない感情が感情と言う時間を等質的に染め上げ、非人間的な存在へと変化していく。プライベート収奪された存在へと鈍化していく。
 理想があった。かつて誓った夢。身体に傷を負いながら、心が現実に押し潰されながらも願い続けた果てのない永劫の円環の旅路。道はあまりに長く険しくて、何度も打ち砕かれてきたけれど。
 それでも。
 それでも、いつか、と。
 その想いだけで生きてきた。
 消えていく。己の生の証、私と言う存在の澪標がぼろぼろと輪郭から毀れていく、無くなっていく。
 己が喪失する。別な何ものかに歪んでいく。己が崩壊していく―――。
 理想も喪い。
 記憶も喪い。
 何も、喪い。
 既に彼という存在は、その比類なさを喪失した。そこに存在するのは、ただ肉体の命令に従って肉を動かすだけの有機的な機械でしかない。
 機械は何の意味も見いだせない。ただ己がそのように動作するという自然法則の元に稼働するだけで、そこには人間の尊厳の重さは何も無い。
 灰になって空に舞う記憶。
 散り散りになった想いはもう、自分でも、どんなカタチをしていたのかさっぱり思い出せないけれど。
 微かにだけ。身体が覚えている。
 己がかつて抱いていた理想がどれだけ美しく輝いていたのかを。どれだけその想いが尊かったのかを。
 覚えてる。
 だから行こう。
 たとえ己が己でなくなってしまっても。
 たとえ機械(じが)でしかなくなった自我(きかい)が壊れてしまったとしても。
 歩みを進めよう。
 たとえ孤独であったとしても。
 たとえ誰からも理解されずとも。
 この想いは、きっと、間違いなんかじゃ―――。
 ※
 蒼い炎が噴煙を巻き上げる。
 怒るように。
 恐れるように。
 抗うように。
 意思を持った蒼い炎が揺らぎ、その度に灰色の人型へと思惟の躍動を叩き付ける。
 たかが片手一本、武装はビームサーベルだけ。左腕は切り落とされ、右脚はライフルで撃ちぬかれて喪失している。背中のバインダーも片方を失って片翼で、ビームに焼かれた右の脇腹は碌に形状を維持していない。片手に携えたビームサーベルはリミッターが解除され、反動で右腕からは内側から紫電が迸っていた。
 生きていない。動いていることすら奇蹟的で、あと数秒もすれば、その体躯は勝手に自壊していくだろう。
 だから、その白い幽鬼に構うことは無く、スラスターを逆噴射させて距離を取ればいい。そうすれば、もう、勝てる。《デルタカイ》は勝手に崩壊していくだろう。その姿を勝利の感覚と共に傍観しているのが、合理主義的な考えである。そして戦争とはロジカルな場である。
 ―――だというのに。
 対峙する灰色の人型は、敵の振るう剣戟のレンジ外に逃げなることはしない。光の剣を振り上げる白い人型に合わせるように、灰の人型も粒子束を振り回し、ビームサーベル同士がぶつかり合って干渉光を爆発させる。
 白い人型が叩き付けるのは単なる攻撃ではない。その一撃に己の生の全てを賭し、存在の重さを乗せ、想念の熱を叩き付ける。自身のビームサーベルのグリップすら溶解させる出力で放出されたビームの刃が粒子の飛沫を弾けさせ、2機の機体の表面を焼いていく。
 迎え撃つ灰の人型が放つ攻撃もまた、単に機械が繰り出しただけの無機質の所作などではない。己が駆るマスプロダクツに歴史性を与え、腕を振るう力に唯一無二の力を託し、《デルタカイ》の上げる獅子吼に抗して光の聖剣を打ち下ろす。
 乱舞する狂戦士、立ち向かう剣舞。
 荘厳な神話の挿絵のようだった。
 勇壮な騎士物語の一片の詩のよう、だった。
 己の身体が崩壊しそうになりながら、それでも構わぬと2機の神の計画の後裔たちが刃をぶつけ合う。その姿こそ、神代の人間たちが繰り広げし戦争に他ならない。
 ―――神裂攸人に、その沈鬱の啓に見惚れている暇はない。
 何のためにフェニクスがビームライフルを託したのか。連邦に背信した己を何故信じるのか―――。
 スラスターを焚き、サーベルで斬りあいながらデブリの中を突っ切っていく2機に追従していく。ロングバレルのビームライフルの銃口を絡み合う2機に向け、照準レティクルを重ね合わせる。
 ロックオンマーカーに白い《デルタカイ》が重なり合う。トリガーガードに指を入れ、操縦桿のスイッチ越しにトリガーを押し込みかけ―――。
 ぎらりと蒼い視線が攸人を捉える。
 《ゼータプラス》が振り下ろしたビームサーベル目掛けて大剣を振るうが如くにビームソードを掬い上げる。拮抗も束の間、弾かれる形で《ゼータプラス》がよろめく数瞬、《デルタカイ》はAMBAC機動で瞬時に飛び去り、ロックオンが外れた―――と思った次の瞬間には、直上から灰色の《ゼータプラス》目掛けて手負いの獣が牙を向く。
 さっきからこれだ。ただでさえ混戦しているというのに、砲撃タイミングが来るたびに瞬時に察知してデブリの中に消えていく。
 片腕を失い、足を欠損し、翼を捥がれているというのにむしろ軽やかになったとすら思えるほどの挙動。アンバランスになったAMBAC機動を逆手に取り、天衣無縫の技量でもって躍動する超絶機動。
《デルタカイ》がどんな機体なのか、その詳細を神裂攸人は知らない。『ナイトロ』と呼ばれるサイコミュシステムがどういうシステムなのかも知らないが、ただ言えることはある。
 この機動を操り、片手一本だけ戦い続けるその鬼神は、決して機体の性能だけに依るものではない。初めて乗ったであろう機体を手足の如く操る技量は決して天性だけに由来するものではない。
 一撃の剣戟に滲む悠久の歴史の残影。
 才気にあふれた神裂攸人には決して理解できぬ境地、手を伸ばせば届きそうなほどに近くて、それでいて遥かな遠くに陽炎のように霞んでいく理想(ユメ)の果て。
 見知った男2人の背中が重なる。
 幽邃の赤い光を背に受けて、何度も後ろを振り返りながら荒野を歩く2人の男。その背は孤独で、すぐに挫けてしまいそうで、何度も赤い土に膝をついて、摩耗していく。虚しくて、触れれば崩れてしまいそうで―――それでも、乾いた赤い風に眼球を潰されようとも、欲望のままに黒い夕焼けに手を伸ばし続ける、その姿。
 あぁ、そうだ。そんなことは最初からわかっていたことだ。
 そういうものに憧れたわけじゃない。乾いた大地を独り歩いていく、そんな生き方が美しいと思ったわけじゃない。
 ただ見てみたいと、己と異なる世界に生きる他人の生の輝きを、受け止めてみたいと思ったのだ。
 侮蔑羨望後悔希望憎悪愛―――どの感情が合致するのかはわからない。合致するはずも無い。
 《デルタカイ》がビームソードを横薙ぎに払う。《ゼータプラス》がビームサーベルの斬撃が奔り、ビームの刃同士がぶつかり合う。
 日輪の如く干渉光が迸ったのはほんの僅か。18m以上もあるメガ粒子の剣に弾き飛ばされた《ゼータプラス》が腰のビームキャノン2門を即座に指向。ミリほどの間隙すらなくメガ粒子砲を撃ち込む。
 咄嗟の一撃、されど必殺の一撃を、《デルタカイ》は微かに身動ぎするだけで躱して見せ、大出力の剣を振りかぶる。
 フェニクスの技量に疑いを挟む余地はない。
 だが、それ以上にあの《デルタカイ》の技量が逸脱している。徐々にだけれど押され始めている―――。
「―――大尉ぃ!」
 スラスターを爆発させながら照準を重ねる。
 ロックオンからトリガータイミングまで僅かに1秒、《デルタカイ》が察知するのと時を同じくして銃口からビームが閃き、光軸が《デルタカイ》を掠めていく。
 さらにスロットルを解放し、フットペダルを踏み砕くように押し込む。一気に負荷Gが圧し掛かり、内蔵がぐしゃりと拉げる。身体の末端に血液が押し込められていく感触を味わいながら、怯んだ《デルタカイ》にさらにビームライフルの照準を合わせる。
「隊長、俺が奴を止めます! その隙に隊長が仕留めてください!」
(04、貴様何を―――!?)
「こう、するんですよ!」
 さらにトリガーを引き絞る。あまりに直線的なビームの光軸は、あの《デルタカイ》を落とすには至らない。精々が秒ほどの隙を作るに過ぎない。
 だがそれでいい。その一瞬の合間すらあれば一気に距離を詰められる。
 彼我距離は既に近接戦闘域。ビームライフルの銃身を握り、銃口からビームサーベルを発振させ、即座に袈裟切りを振り下ろした。
 ロングビームサーベルの切っ先が《デルタカイ》のビームサーベルを接触する。防眩フィルター越しに視界を切り裂く閃光が炸裂し、乱舞したスパークが視神経を無理やりに励起させる。
 拮抗など無い。高々付属的機能でしかないロングビームサーベルの出力など、《デルタカイ》が出力限界を解除したサーベルに敵うはずもない。力場同士が干渉し合う最中に《デルタカイ》が無理やりにビームサーベルをねじ込む。ビームライフルの銃口は一瞬で蒸発し、メガ粒子の光はライフルを両断し、《リゼル》の右腕を一太刀の元に切り落とした。
 数万度の刃が《リゼル》の脇腹を溶解させる。
 溶けた金属合金は真っ赤でどろどろだった。まるで、血だ。
 そうだ。それが贖い。己という存在の罪を贖うには流血をもってするしか、ない。
 ダメージコントロールが五月蠅いくらいに甲高い音を鳴らし、ディスプレイ上に表示される機体のステータスは真っ赤に染まる。
 全天周囲モニターの右手側に《デルタカイ》の右腕がある。その手が返す刃を志向し、ビームサーベルの一撃が3秒後に自分の身体を蒸発させる。
 ビームサーベルが唸る。あと2秒、それより早く―――。
 刃が両断するより早く、《リゼル》の左腕が伸びた。5指のマニュピレーターが《デルタカイ》の肘の部分を握りこむ。機体同士の接触でコクピットが揺れ、頭が揺さぶられた。
 ビームサーベルの刃はすぐそこにあった。脇腹すれすれで煮えたぎる光の剣が《リゼル》の生傷を抉っていく。ばちん、という劈くような音と共に右手側の全天周囲モニターがショートし、宇宙よりもずっと無機質な黒塗りが視界に広がっていく―――。
「―――……! 隊長、今だ! 《リゼル》ごとこいつを叩き切れ!」
(ユート!?)
「早く! でないと―――」
 ディスプレイに表示された《リゼル》の左腕が悲鳴を挙げる。高々MSの腕を掴んでいるだけというのに、その力を抑え込むだけで機体のフレームが拉げていく。
「《リゼル》じゃこいつを抑えてられない! だから!」
 ディスプレイ上の通信ウィンドウに苦悶を浮かべたフェニクスの顔が映る。ついで別枠でウィンドウが立ち上がり、《リゼル》の背後の映像―――ビームサーベルを刺突するように構えた灰色の《ゼータプラス》の姿が投影された。
 《ゼータプラス》がスラスターの翼を広げる。あとはその刃が《リゼル》ごと《デルタカイ》を貫いて―――。
 ―――何か。
 声―――が聞こえた。
 鼓膜に微かに触れる声。熱に浮かされたように、呪文を口にするように紡がれていく声。
 その声に含まれた文字列が頭の中で閃く。
 単なる文字列などではない。単なる象徴の羅列などではない。より重く、確かな質感を持った一つの言葉―――名前。攸人が聞いたことがある、誰かの名前が頭の中に反響する。
 ガスパールの声―――機体同士が触れ合うことによる接触回線と気づいて、攸人は自分の視界の先にある《デルタカイ》の頭部ユニットを目に入れた。
 青く緑色の輝きを湛えた《デルタカイ》の双眸に、男の声が重なる。
 名前―――組織の人間の、名前だった。攸人の知っている名前が紡がれる。攸人の知らない名前が紡がれる。名前は一度も被ることは無く、永遠と口から流れていく―――。
 まるで呪いだ、と思った。相手を憑り殺す呪詛が滔々と紡がれている。
 だが、その対象は他でもない、己に呪いを刻み込んでいる。ぼろぼろと零れていく何かを必死にかき集めようとして、そうして動くたびにぼろぼろともっと何かが毀れていく。そうすることしかできない己への呪いの言葉が、延々と繰り返されていく。
 あるいはそれは殉教者の詩である。磔にされた願い人のペルソナが奏でる妖しい実存の(いのり)である。
 それがガスパール・コクトーという人間の存在様態。神裂攸人は、その男の略歴を略歴という物理的手段でしか捉えていない。その奥にある空虚、その表層に空いた深淵を、攸人は知らない。
 だが、鼓膜に刻まれていく果敢無い声色が呼びかける。ガスパールという人間の生の様を、歴史の歩みを。狂気の論述を、理性の叫びを。
 だんだんと大きくなる接近警報の音。ビームサーベルを今貫かんと気勢に満ちた《ゼータプラス》が背後から迫る。
 どんな形であれ、それを裏切った。
 だとしたら、その贖いは―――。
 神裂攸人は操縦桿から手を離しかけて―――。
「―――え?」
 不意に、鼓膜にチープな音が入り込んだ。聞きなれた音だ、と頭が判断し、だからこそそれが何の音なのか理解できなかった。
 咄嗟にディスプレイに目を走らせれば、機体が変形シークエンスに移行している表示が酷く場違いにはっきりと表示されていた。
 そうだ、確かにあの音は何度も《リゼル》をウェイブライダー形態に変形させる時に聞いた音だ。
 だが何故、と自問している暇も無かった。《リゼル》の胸部装甲がコクピットごと持ち上がる。Ζ系の機体は変形の際にコクピットが前面へと展開するのだ。
 胸部装甲が《リゼル》から見て真上を向く。次の瞬間、さらにコクピットの中に聞いたことのない警報音が爆発し、それに連動するように胸部装甲部位が吹き飛ぶや、球状の管制ユニットが《リゼル》の真上目掛けて射出された。
 咄嗟に口を噤んだのは条件反射からだった。いきなり身体中に襲い掛かった負荷Gに押し潰されそうになること数秒。球体の管制ユニットが減速用のバーニアを焚き、身体にかかる圧が薄れていく。
 呆然と眼前に広がる宇宙空間を眺めることどれほどか。我に返った攸人は、シートから立ち上がりながら、背後を振り返った。
 既に視界の半分は死んでいたが、その光景はすぐに目に飛び込んできた。
 蒼を基調とした《リゼル》が背中からビームサーベルで貫かれている。
 その、先。
 《リゼル》を貫通した蒼白の粒子束が、《デルタカイ》の胴体を串刺しにしていた。
 丁度管制ユニットにずぶりとビームサーベルが突き刺さっている。たとえガンダリウム合金の装甲といっても、摂氏数万度に達するビームの前では紙切れも同然だった。あれでは、爪の先一欠けらとてこの世に何も留めてはいまい。ガスパール・コクトーという男は、刹那の輝きの中で永遠に喪失したのだ。最早その言葉を聞くことは出来ず、彼と言う男の声は永劫の果てに消えていった。
 終わった。ただ、その言葉だけが攸人の頭の中一面に広がっていく。
 大出力で発振されていたビームサーベルは未だに高熱の粒子を撒き散らして、眩く閃きを放つ。《デルタカイ》の蒼い双眸が、どことも知れないはるか遠くの虚空を眺めて、侘しく煌めいていた。
(死を持って罪を贖おうと―――そういう心積もりだったわけか)
 フェニクスの声が耳朶を打つ。それは誰に向けた言葉であったか―――突き刺していたビームサーベルを引き抜き、2機のMSが遺骸となって漂い始める。灰色の《ゼータプラス》の焦点はどこにも無かった。
(貴様は軍人だ。貴様と言う個人が存在するのと同様の次元で軍人だ。であればその咎の負い方は法によって決定されなければならない―――死を持って罪を償うなどというのは単なる逃避だ。くだらんことをするな)
 音声通信だけの声が心臓を貫く。その声はどこか憤懣に、やるせなさに満たされていた。
「―――了解」
 声を絞り出す。
 攸人はつい、苦い笑みを浮かべ、虚脱した。シートに身を預け、操縦桿を握る力を緩める。視線をあげれば、満天の宇宙に敷き詰められた星辰の光が、攸人を見下ろしていた。
「あの、隊長」
(なんだ?)
「やっぱりさっきの強制脱出って、隊長が?」
 (あぁ、あれか)フェニクスの顔は見えない。
(そうだ。元から貴様の機体は私のコントロール下にある。遠隔操作までは出来ないが、ある程度機体の制御に介入できる。お前がIFFで味方認証されている機体目掛けてトリガーを引いた瞬間に、貴様の機体が自爆するようにも設定してある)
 さも平然とそれを口にした。
 先ほどの一瞬がフラッシュバックする―――クレイの《ガンダムMk-Ⅴ》目掛けてビームライフルの照準を重ねたあの瞬間に、神裂攸人は跡形も無く爆殺されていた。もちろんその気は無かったけれど、背中に冷たい物を感じた。
「やっぱり、知っていたんですか? 俺が内通者だと」
(当然だ。クセノフォンとオーウェンは、そもそもそういう仕事のために666にいる)
 《ゼータプラス》の視線が攸人を捉える。
「では何故俺を確保しなかったんです? そうすればさっきみたいな面倒なことは―――」
(簡単なことだよ。貴様が最後にこちらにつくことは知っていた。味方側に付くならお前は戦力としては十分期待できる。お前がクレイに惚れているのは知っているからな。それだけだ)
 そもそも、と、《ゼータプラス》の視線が《デルタカイ》に移る。ビームサーベルの発振は途絶え、限界出力に耐えきれなかった右腕がスパークを起こしていた。
(そもそもさっきお前が背後からロックした時からだ。貴様たちがクレイを手に入れたがっていたのも知っていたから、あいつを引き入れようとするのはわかる。だがあの場面で私を生かしておく必要はない。いや、むしろ私は邪魔な存在だ。最初の時点で私を殺しに行かなければ可笑しいはずだろう? なのにお前がまず最初に狙いを定めたのは私ではなかった)
 もっとも、そうしていたらお前は死んでいたわけだが。フェニクスが皮肉っぽい声を上げた。
(―――だが、それに気づかない中佐では、ないはずなのだがな)
 フェニクスの呟きには、いつも通りの凛乎とした様子が無い。その声は少女のような頼りなさで、暗い森の中を独りで歩いているように慄いているようにも感じられた。
 フェニクス・カルナップがガスパール・コクトーとどんな関係にあったかは、攸人の知らない出来事である。知っていることは、共に初期のティターンズに参加した一員として戦場を駆けた人間たちという共通項だけだ。その項目がどれほどの重さを持つのかも、神裂攸人の知る由のないことである。
 フェニクスは何も語らず、《ゼータプラス》のビームサーベルの発振を抑えた。
 宙を揺蕩う二つの残骸(エクリチュール)
 それは、誰の里程標(ぼひょう)なのだろう。ガスパールという男の死がただそこに臨在しているだけなのか、それともそこには一人の人間の生の道程の痕跡が覗いているのか。あるいはもっと、より深い何者かの幻想(ねがい)が―――。
(―――エレア)
 フェニクスの、名詞で名指すことの出来ない声色がヘッドフォン越しに攸人の肌にふれる。
 《デルタカイ》は何も語らない。
 (きず)だらけ白い神話は、既に蒼い瞳の閃きも喪失している。
 そこには、ただ、何かのシーニュが漂っているだけだった。 
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