機動戦士ガンダムMSV-エクリチュールの囁き-
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74話
「ようやく逃げ切れたか」
裏路地から顔を出したオーウェンは、視線をクレイとエレアに向けると微かに安堵を滲ませた。いつも無表情で、あまり感情を表に出さない質だっただけにそれだけでも以外だったが、クレイにしてみればその事態を気にしている余裕は無かった。
「エレア、クレイ、怪我はないか?」
「わたしは無いけど」
クレイの腕の中でエレアは心配そうに見上げた。
エレカを放棄し、徒歩に切り替えてから1時間。その間、クレイはずっとエレアを抱いたままだった。雪の中ヒールで走るのは無謀だし、映画であるようにヒールを折って歩くにしても路面が凍結していてどちらにせよ危険はある。脱ぐにしても結局は同じなのだ。
結果エレアを抱きかかえながら1時間走り回っていたわけだが、自然とクレイは疲労を感じてはいなかった。もちろん疲労が無いわけではないのだが、どこか他人事のように疲れているらしい、と理解しているという奇妙な離人感を伴った疲労だった。
どうやら自分は左程疲れていないらしい、と自己分析したクレイは、「別に大したことは無いよ」と笑みを見せた。そもそも50kgを少し超えるくらいの彼女を1時間抱きかかえるくらいで疲労を感じるほど、軟な鍛え方はしていないという自負もあった。
「なら良い。クレイ、そろそろ目的地に着くからエレアを降ろしてもいいぞ」
「あ、はい」
膝を曲げながら、エレアの背中を通して腋に入れた腕はそのままに、彼女の足を抱えた右腕をゆっくりと下に降ろす。おっかなびっくり足をコンクリートの地面につけて立ち上がったエレアは「ありがと」と言いながらもどこか不安げにクレイを見降ろした。
「オーウェンさん、貴方はどこまで―――」
「俺も知らん」
言い終わる前に、オーウェンは素っ気なく言った。
「俺はただ、何かあったらエレアとクレイを守るようにと隊長に言われていただけだ。今回の事態を把握しているわけではない」
「隊長が?」
「あぁ。ただ隊長にしても、今回の事件の目的がエレアの強奪にある、ということ以上のことは把握し切れていない」
エレアの、と言いかけたクレイは、サイド3のあの出来事を想起した。
人為的な発現体とはいえエレアはニュータイプだ。否、むしろ人為的なものであるが故に研究対象として有意義であるともいえる。解らない話ではないが、それにしてもただエレアを手に入れるだけでコロニーを―――地球連邦を敵に回すことなど幾らなんでもリスクとリターンが吊り合っていない。
オーウェンを一瞥する。
オーウェンとて、あるいはフェニクスとて、事態は把握し切れていない。
「まだ軍に入って1年も経ってないんだけどな……」
思わず後頭部を掻く。
軍人は権力の中で満面の笑みを浮かべながらダンスを踊っているものだが、基本その権力の存在を知覚することは無い。だからこそ満面の笑みを浮かべていられるわけだが。
ともかく、権力を権力と理解するのは、それなりに階級が上がってからだ。少なからず軍に入ってからわずか1年のルーキーが、自分の踊っている舞台が権力の掌の上だったと思い知らされることなどあるまい。
「お偉いさんたちのゲームに付き合うのは下の者の礼儀作法らしいからな」
「いい経験になりましたよ」
「政争に感けることはMSパイロットのすることではないからな。何事も分を弁えることだ」
オーウェンが皮肉っぽい笑みを浮かべる。クレイも苦笑いを返した。
再び通路から顔を出したオーウェンが眉間に皺を寄せる。そして、首に下げた双眼鏡で遠くを覗き込む。
「《リックディアス》―――警備部隊の機体か?」
「どうしました?」
「いや、警備部隊の―――何?」
オーウェンが微かに身を乗り出す。視線を追うように上空に視線を上げたクレイは、数km先の上空に煌めくマズルフラッシュの閃光を見た。
「あれはヴィルケイの《リゼル》―――」双眼鏡をおろしたオーウェンは険しい顔をしたまま、思案気に顎に右手を添えた。
「情報が少なすぎるな」オーウェンが丐眄する。そうして壁に寄りかかりながら、雪の降る空を見上げた。
「そろそろ来るはずだと思うのだが」
「来るって―――」
言いかけて、金属の軋む音が響いた。
ハンドガンを構えながら、振り返った時には目を丸くしたエレアが地面を見ていた。
「今地面がぱたんて」
「は?」
銃を降ろして、エレアと顔を合わせる。
地面がぱたん? と彼女に言おうとした瞬間、エレアの手前のコンクリートが勢いよく持ち上がり、その下から這い出した目出し帽を被った顔がクレイとオーウェンを見遣った。
ぎょっとしながらその目出し帽目掛けてハンドガンを向ける。セーフティは解除済み、あとは指の腹でトリガーを押し込めば―――。
「待て」
オーウェンがクレイの銃を掴む。
「予定より時間がかかったようだな」
「ごめんなさいねぇ、ちょっとこっちでも色々あったものだから」
目出し帽の中で唯一露出した目が笑う。その声に、そして照れたように頭を搔くその親しみ深さをどこかで見たことがあるような―――。
「その人は?」
銃を降ろしながらオーウェンとその目出し帽の男を見比べる。
「ハロー、ボーイ。よろしく」
ひらひらと手を振るガタイの良い目出し帽の男。そして首元に手を当てて、薄く雪が積もり始めた黒い目出し帽を脱ぎ捨てた。
「あ―――あんたは!?」
人の良さそうな禿頭の男の笑みがあった。
サイド3・ズムシティのあのレトロなレストランの禿頭のシェフ―――眼前の男の声と顔は瓜二つどころかそっくり同じだった。
「にぃにから話は聞いてるわよ、クレイ・ハイデガー少尉。お姫様を守る騎士、なんでしょう?」
よっこいしょ、とコンクリートの下から身を乗り出した禿頭の男が振り返る。人懐っこさそうな表情のまま、目を白黒させるエレアの頭を軽く叩いた。
「にぃに―――?」
「あら、サイド3に行ったのでしょう?」
「―――ご兄弟で?」
「ま、そんなとこね」
腰に手を当てた男が自慢げに笑う。はぁ、と曖昧に応えて、クレイはその男の姿を眺めた。
ダークブラウンの戦闘服にボディアーマー。果たして、クレイの知らない装備だった。
「じゃあ行きましょうか。この面倒事をなんとかするために」
男が開け放たれたコンクリートを見下ろす。その下はぽっかりと穴が開いていて、ずっと下まで続いているらしかった。
男が先に穴の下に降りていく。クレイとオーウェンを見比べたエレアは、ほら、とすっかり目出し帽を被った男の手招きに従って黒い穴の下へと降りていった。
「行け。俺は別に用事がある」
オーウェンが顎をしゃくる。クレイは、穴の前に立った。
梯子は真下に続いている。流石に軍人というだけはあるのだろう、エレアは順調に降りているらしい。昏い穴の中で、銀色の髪がひらひらと揺れていた。
「オーウェンさん、あの」
早く行け、と目で言いながら、オーウェンは「なんだ」と不愛想に言った。いや、むしろいつものオーウェンの表情だった。
「何者なんです?」
「あの男か」オーウェンが穴を見下ろす。
「エコーズだよ」
「エコーズって、あの……?」
「あぁ。まぁ、エコーズが誰の指示のもと動いているのかは、俺は知らんがな。隊長なら知っておられるだろうが」
ほら、行け、とオーウェンが睨む。肯いたクレイは、ゆっくりと靴が梯子を噛む。そのまま冷たい梯子を掴んだクレイは、そのまま黒い穴の中へと降りていった。
何mかほど降りたところで比較的広い下水道に降り、また何mかほど直進しては再び降下し、何の用途に使われているのかもよくわからない通路に出ては降りを繰り返すこと何度か。通路を横道にそれ、分厚い隔壁の前に立った禿頭の男は壁際に埋め込まれたタッチパネルに触れると、素早く10桁以上のパスワードを正確に打ち込んだ。
ロックが解除される音と共に、数十cmほどもある分厚い金属のドアが左右にスライドしていく。
ぽっかりと開いたがらんどう。背後でオーウェンの口笛が耳朶を打つ。ぽかんと口を開けたクレイは、その空間に足を踏み入れながらその正面の構造体を網膜に焼き付けた。
20mほどもある空間ぎりぎりの高さほどもある、ダークブルーのコンストラクト。末広がりの脚部は連邦の機体とは異なった曲面構造をしており、大きく開いた肩は、その嘴を備え冠羽のようにユニットが屹立した頭部も相まって、大空を舞う熊鷹を想起させた。
ガントリーの柱とコクピット前にかかるキャットウォークに囲われる様は、まるで禁忌を犯した巨人が封印されるが如く―――。
MS-14B《ゲルググ》の昏い瞳が、クレイを睥睨するように見下ろしていた。
《ゲルググ》の下には2個分隊ほどの、ダークブラウンのボディアーマーを付けた目出し帽の巨漢がこちらを眺めていた。禿頭の男が暢気な素振りで手を振ると、何人かが頷きを返した。
「上はどうなってるの?」
一際背の高い男を禿頭の男が見上げる。微かに身動ぎすると、
「は、外ではネオ・ジオンの部隊と輸送船の護衛部隊、サイド8から派遣されたコロニー守備隊との戦闘が継続中です。ニューシドニー、ニューマンハッタンのコロニー守備隊の一分が正体不明の武装組織―――推定呼称『アカデメイア』に襲撃されて指揮系統が混乱しているため思うようにコロニー守備隊と護衛部隊の連携が取れていないようです。『アカデメイア』はその後警備部隊のMSを強奪、ニューエドワーズ内に侵入、当コロニー内の試験部隊と戦闘を開始した模様です。またそれに呼応するようにして司令部ビル・通信施設にて潜入していた戦闘員が武装蜂起したものと思われます」
「コロニー守備隊?」
クレイは思わず巨漢に聞き返した。男はクレイの声にもぴくりとも顔を動かさず―――といっても目出し帽のせいでほとんど顔の動きなどわからなかったが―――、ええ、と至極あっさりと応えた。
コロニー守備隊、という言葉と同時に、あの黒髪の女性の顔が脳裏をよぎった。
扶桑みさき―――結局彼女とは会えていない。何バンチの守備隊なのかもわからないが、可能性はネオ・ジオンの部隊と戦闘を行っているか、あるいはその『アカデメイア』とかいいう巫山戯けた名前の武装組織の襲撃に遭って、もう―――。
「何?」
「いえ、別に―――問題ありません」
そう、と禿頭の男は特に気にした風でもない声色で応えた。そう、今―――現在進行形では関係の、無い話、だ。
「まぁそれにしてもいいようにやられてるわけね―――ハイデガー少尉、何かある?」
男が首だけ振り返る。それに伴うようにして一斉に酷く切れ味の良さそうな剣のような目がクレイを見据え、エレアは慄いたようにクレイの後ろに隠れるようにして身動ぎした。
「オーウェンさんから聞きました、今回の騒動はその―――エレアを強奪するためだって」
エレアの右手を握る。彼女の手は、謎の雪のせいか酷く冷たかった。
「『アカデメイア』を名乗る武装組織の目的はその娘の奪取にあるって情報は掴んでるけど」
「でもそれにしては戦闘の規模が大きすぎませんか? 人一人を誘拐するのにコロニーを戦闘に巻き込むなんて―――」
歯を食いしばる。
コロニー。それは、宇宙世紀開闢の時から、宇宙に暮らす者たちにとっての故郷であり大地なのだ。コロニーに対する尊重は、譬え自分に関係のないコロニーとて持って然るべき。それなのに、ただ一人を誘拐するためだけにその大地を穢す―――。
エレアを横目で一瞥する。エレア・フランドールという少女は、クレイにとってこそ中心的意味を占めているが、それほどの価値のある存在なのだろうか。
「疑問は最も。確かに強化人間としてのエレア・フランドールは成功体として高い価値があるのは事実だけど、ここまで戦闘の規模を大きくするほどのものではない」
「だったら―――」言いかけたところで、禿頭の男は振り返りながら制するようにクレイの顔の前に手をかざした。
「やめておきなさい。余計な詮索をすれば、貴様はMSパイロットではいられなくなる。パイロットの本分はゲームに興じることではないでしょう」
禿頭の男の声に親しみは無く、目出し帽越しにクレイを見据える瞳は睥睨しているとすら言えるほどに怜悧だった。
言葉をかみ殺し、は、と俯く。エレアの手がクレイの手を握り返した。
「班長、よろしいでしょうか」
先ほどの巨漢が身体を小さくする。禿頭の男は身動ぎ1つで肯定の意を示すと、その巨漢の男のナイフのような瞳がじろとクレイを見遣った。
「エコーズ第703部隊のイサカ・ラフバレ曹長であります。クレイ・ハイデガー少尉にやってもらいたいことがありまして」
「なんです?」
少しだけ身を引く。
「我々の任務はフランドール中尉をカルナップ大尉の元に送り返すことと、この戦闘を終結させることにあります。そのためには市街地を通って第666特務戦技教導部隊付きの格納庫にフランドール中尉を送り届ける必要があります。外のネオ・ジオンの戦力を排除するには中尉の能力は有力な切り札になる。ですが現在市街地にはコロニー警備隊の《リックディアス》が数機存在しています。我々も対MS戦用装備は持ってきているのですが何分《リックディアス》クラスの重MSとなると手古摺る。その上敵MSは対歩兵用散弾を装備している可能性が高い」
「―――つまり」クレイは、ガントリーの中の巨人を見上げた。ふと、その肩に黄色い猛禽のマークがあるのを見とめた。
「これに乗って、露払いをしろと」
光の燈らない単眼が挑むようにクレイを見返した。クレイと同じように、その大柄な男も《ゲルググ》を見上げた。
「性能面なら心配はありません。アナハイム・エレクトロニクス社とサナリィの協力の元、原型機を遥かに上回る性能にまで徹底的に改修されています。我々も出来る限りの支援は行います。少尉の腕なら切り抜けられる」
男の声を、まるで異星人の発する音声のように聞きながら、クレイは虚空に焦点を合わせた。
当たり前だが―――当たり前だが、クレイ・ハイデガーの目の前にいる男は、というよりここに居合わせているエコーズの人間たちは自分に実弾を使った戦闘をしろと言っているのだ。それも、クレイの腕ならば突破が可能だという。
エコーズとてMSパイロットが居ないわけではあるまい。エコーズで《ジェガン》と《ハンブラビ》を運用しているという話は聞いている。クレイ・ハイデガーなどよりもはるかに優れた腕のパイロットの筈だ。恐らく何らかの事情で、パイロットを秘密裏にこの場に居合わせることが出来なかったのだろう。
エレアはダメだ。それこそ保護対象であり、MSに乗せるなど論外。もしものことがあって撃墜されればそこでゲームオーバーだ。
畢竟、それはクレイ・ハイデガーがやらねばならないことなのであり、それによってエレアが助かる―――そして、この戦闘を終結させるための重要な因子であるというならば、それは軍人にとっての責務でも、ある。
責務。そう、遠い昔に――が言った言葉だ。言葉は正確には違うけれど、その言葉に伴う重さは同じ性質のものだった―――。
―――あれ、何かおかしい。何かを忘れている、気が、する。
でも、今はそれどころじゃないと思い直したクレイは、何か引っかかるものを感じながらも気にしないことにした。
それでも数秒ほど逡巡する。そう、エレアでも撃墜されるIFを想定したのだ、クレイが撃墜されることの方が遥かに可能性は高い。
だが。
だが、クレイ・ハイデガーにとってそれが責務、義務だというのならば、どれほど迷いがあってもそれを行わなければならない。
恐くないと言えば嘘だ。死ぬ、という言葉を想起しただけで、クレイは身体が震えるのを感じた。だがそれが何だろう、クレイ個人の快苦などいったいどうして問題になるのだろう。
「わかりました。私も地球連邦軍の軍人である以上、貴方方の任務は私にとっても負うべきものです。ただ約束してほしい。エレアの安全は―――」
「―――ダメ!」
その後に続く言葉は、不意に鼓膜を刺したその言葉にかき消された。気が付けば、クレイの掌を拉げさせるくらいに強く握ったエレアは、睨むように大男を見上げていた。
「いくらエコーズの支援があったってMS単機で複数機と相手するなんて無謀すぎる。貴方たちはクレイに死ねって言ってる。単純にMSの操縦技術で選ぶならわたしが選ばれるべきだしまたそうするべき」
赤い目を溶岩のように煮えたぎらせたエレアが矢継ぎ早に口を開く。大人しげでどこかのほほんとした様子の彼女からは全く想像だにしないその姿に唖然としながらも、男は声色一つ変えなかった。
「中尉は私たちの保護対象です。失うリスクは極力減らすべきと―――」
「つまりクレイは死んでも別に構わないって言いたいの?」
「そうは言っていません。ただリスクに対してのリターンが最も大きい選択が、ハイデガー少尉があの機体に乗るという選択ということです。我々エコーズのMSパイロットを事前に確保できなかったのは我々のミスです。ですが今はそのミスの過失について議論しても全く非生産的です」
言って、男は肩を落とした。微かに後悔を滲ませた目をエレアに向けて、そうしてクレイを一瞥した。
理法はこのイサカという男にあるのだろう。だが、エレアはなおその紅い目を巨漢に、そして禿頭の男に、そして黙して控えるエコーズの10人ばかりに全く気圧されることなく睨めつけていた。
クレイは、固く握りしめたエレアの手を離した。そうしてエレアの頭に手を置いたクレイは、自分の胸辺りにある彼女の顔と同じ位置まで膝を曲げて、作りなれない屈託のない笑みを頑張って作った。
「大丈夫だよ、エレア。さっきオーウェンが言った言葉とここで知った情報を合わせれば、多分、666の仲間がコロニーの中で戦ってるはずだから多対1なんてことにはならないと思うから」言いながら、クレイは巨漢をちらと見上げると、男はすっかり色をなくした目で強く肯き返した。
エレアは強く口を結んで、責めるような目をクレイに向けていた。それは責めるようなというだけではまるで説明不足だろう。まるで何の言伝も無く家を空けた親を、あるいは子どもを叱るような子どもの、あるいは親の目だった。
「だって―――」エレアは俯きながら、掠れるような声をなんとか絞り出した。
「わたしが一緒に居なきゃ―――」
そこまで言って、結局彼女は何も言わずにクレイを見返した。その哀哭の目を、悲愴の目を、判定の目を、不安の目を滲ませて。
もう一度慣れない笑みを作って、エレアの頭を撫でたクレイは立ち上がって、エコーズの人間を見渡すようにした。
「露払いは引き受けます。ただ―――」
「ええ、わかっています。我々の身命を賭して、必ず」
声こそ無かった。が、10人ほどの人間のその沈黙こそ、特殊部隊という性質の人間たちの何よりの肯定だった。
「話が決まったのならハイデガー少尉はノーマルスーツに。フランドール中尉も着替えを」
「了解しました」
禿頭の男に従うようにその《ゲルググ》の元へ行こうとして、ぐいとクレイの上着のジャケットをエレアが引っ張った。
振り返って、その雪のような少女の顔を見る。
「ちゃんと、帰ってきてね?」
彼女の柔らかそうな唇はその言葉の形に強張った。
「もちろん」クレイはエレアの左手をとって、自分の小指と彼女の小指を絡ませた。
「さっきは散々言ってくれたけど、俺だって教導隊の人間なんだからな。ちょちょいのちょいだよ」
あ、とエレアは気まり悪そうに上目づかいで見た後、小さく肯いた。エレアの指から自分の指を離して、今度こそクレイは《ゲルググ》の元へと向かった。
床まで降りていたキャットウォークに乗り、柱に埋め込まれたタッチパネルを2、3操作する。
「あの、一つ質問が」
「なに?」
しずしずと上昇していくキャットウォークに一緒に乗った禿の男は、どこか懐かしげに《ゲルググ》を見上げたままだった。
「どうして《ゲルググ》なんですか? 既存機種の強化改修をするならそれこそ《ネモ》なり《ジム・カスタム》なりを使った方が―――」
「あぁ―――」男は、それについては特に感慨も無さげにクレイに視線だけをよこした。
「名目上ってだけよ。アナハイムから色々パーツちょろまかすためのね」
「はぁ……」なんだかよくわからないが、色々込み入っているらしい。
「まぁ、後はフェニクスの思い入れって奴よ」
「大尉の?」
「聞いたことない? フェニクス・カルナップ、サイド3出身のティターンズ。当時彼女が使ってた《ゲルググ》ってわけじゃないけど、外観なんかはそっくりそのまま。雪娘の守護騎士、その幻影―――」
男が最後に口にしたぼそりと呟くような言葉の意味はよくわからなかった、フェニクスについての話は聞いたことは無かった。
ティターンズ。かつての地球連邦軍のエリート組織。ダークブルーの《ゲルググ》の色合いを見ればなるほどと思うが、当時のティターンズが何故《ゲルググ》を使ったのだろう―――味方と思わせておいて、ということと考えれば合目的的だ。
鈍い振動と共にキャットウォークの上昇が止まる。コクピットへとせり出した足場から外部操作でハッチを開けると、クレイは中へと入った。
全天周囲モニター―――一年戦争時の《ゲルググ》には当然なかった装備だ。シートの上のノーマルスーツに着替え、シートに座れば、コクピット周りの計器もクレイの乗っていた《ガンダムMk-V》と同じ最新型の物へと変更されていた。
機体のステータスと武装を確認。外観から確認できたのは90mm機関砲に82式近接装攻殻改―――。
(ハイデガー少尉、聞こえて?)
音声だけの無線通信は、あの禿頭の男からだった。連邦でも特殊部隊用のコードに手惑いながらも、「なんでしょう?」とすぐに返した。
(出撃タイミングはこっちで図るからよろしく。出撃時はサイドコンソールに規定の入力をすればいいから。この《ゲルググ》の直上のハッチが解放した後はガントリーごと地上に持ち上がるから、その後は設備の破壊は気にしなくていい)
クレイは全天周囲モニターの真上を仰いだ。
なるほど確かに壁際にはレールのようなものが敷設されている。
「了解しました」
(それとコールサインは、こっちはSF702、そちらはトムキャット01で行くから爾後よろしく)
雄猫―――重ねて了解の意を伝えたクレイは、《ゲルググ》のコクピットから真下を見下ろした。
エコーズの装備に変えたのだろう、一見でエレアがどこにいるのかわからなかったが、流石に厳つい巨漢の群れの中に在って150cm少しほどの身長のエレアはすぐに判別できた。ヘルメットのせいで綺麗な銀髪も見えなかったが、きっと間違いはない。
と、その小柄な体躯がこちらを見る。目出し帽をつけていたが、クレイをはたと見据えるその紅い瞳は違えようもなかった。
目が会った、と思ったのは偶然だろうか。
エコーズの部隊が隔壁へと向かう。あのイサカ―――とかいう男に促されて、最後まで《ゲルググ》に視線を向けていた少女も、後ろ髪引かれるように人の波に従った。
その、前に。もう一度だけ振り返ったエレアは、小さく手を振って、そうして再び流れの中に消えていった。
彼女は何を意図したのだろう。
またね。
そう、きっと、それの筈、なのだ。
ヘルメットのバイザーを上げる。収納スペースにあったタオルで顔を拭き、大げさに溜息を吐く。
一人での戦闘など狂気の沙汰ではない。現代戦闘とはチームを組んで戦うものであって、騎士のように勇猛果敢な一人の英雄はお呼びではないのだ。
落ち着くようにと装備に目を流して、クレイは咽喉を鳴らした。
90mm機関砲に装備されるヤシマ重工社製アンダーバレル式200mm多目的回転弾倉グレネードランチャー、その弾種の中にある散弾は、明らかに対歩兵を意識したものだ。
MSが歩兵に対する恐怖の象徴だったのは一年戦争の中ほどまでの話だ。長足に進化した歩兵携行用対MS用火器は、然るべき状況で用いれば歩兵であっても容易に18mの巨人を殺戮せしめる。市街地で歩兵を伴わないMS運用の想定が根本的に愚行以上のものではない理由は、まさにそれなのだ。
少なからぬ可能性の元に、クレイはこの散弾を生身の人間の集団目掛けて撃ち放つのだ。無数に四散した金属断片は人間の皮膚など濡れた紙に指を刺すがごとく抵抗など感じぬままに切り裂き、その内側にある筋繊維をずたずたにする。個の人間たちを、一個のミンチ肉のようにすることなど容易いことだろう。
覚えておけ、とクレイの内なる誰かが言う。キャニスターのトリガーを引けば、かつて尊厳だったもの、肉塊と成り果てたものが目に入るだろう―――。
今更だ、とクレイは己の検閲官に言い返した。人殺しなど、もうしてしまった。それがより、生々しいリアリティを伴うか否かだけの違いだ。その違いで自覚的になるなど、無神経にもほどがある。ただクレイにとって、それは任務であり義務である。言い訳と詰問されれば完全には否定しないだろう。事実、その言葉をクレイは口の中で呟き続けていた。だが、それと同じくらいに、クレイ・ハイデガーという場が為さねばならぬ義務であることも確かで、その意識を確かに持っていた。
そう、――も、言っていた。
身命を賭して、その義務、任務という言葉を示した――。
―――何だろう、さっきも、そうだった。何かを思い出せない。そんなに昔のことじゃないのに、何か重要なことを忘れている気がする。それなのにそれが何だか思い出せなくてもどかしい―――。
(トムキャット01、聞こえているか)
「こちらトムキャット01、SF702聞こえている」
(出撃タイミングはこちらでカウントする。いいな?)
「了解」
一瞬までの思惟を消して、クレイは操縦桿を握りなおした。
(こちらSF702、カウント開始。30、29、28、27……)
始まる。あと30秒もしない内に始まる。
戦慄不安苦悶期待悦楽快楽―――ぐちゃぐちゃに浸透し合った持続が混淆し、クレイは歯が砕けるほどに噛みしめた。
(5、4、3、2、1、カウント0!)
瞬間、クレイの全感覚神経が励起した。サイドコンソールに素早く規定のコードを違わず入力する。入力を受け付けたのか、その広いスペース全体が赤く染まり、警告音が木霊していた。
重たい音と共に頭上の隔壁が展開していく。何十mかほどの最後の隔壁が開き、昏い空が目に飛び込んだ。
言葉をしゃべる暇は無かった。ガントリーもろとも隔壁解放と共に上部にスライドを始め、一気に圧し掛かった負荷Gによって舌を噛み切らないようにするので精一杯だった。
がこん、という拉げるような音と衝撃がクレイを打ち付ける。
その苦悶は刹那。クレイは、一瞬で己の為すべきを理解した。
前方数十m先、空目掛けてロングバレルの支援砲を構える、黒々しい巨体が網膜に約着いた。
コロニー守備隊で運用される《リックディアス》。
見知った女の顔が幻影となって硝子体に浮かんだ。鮮やかな輪郭を描いた敵意がクレイの持続を占めるのと、身体がスロットルを開くのは全く同時だった。
バックパックと腰部、脚部のスラスターが厖大な閃光を爆発させ、一瞬でトップスピードに乗ったミッドナイトブルーの熊鷹がコンクリートの密林を矢のように飛翔する。
狙うは頭部コクピット。《リックディアス》が気づき、反転しようとした時には既にケリがついていた。
掬い上げるようにして突き出された左腕のシールド先端に装備されたヒートクローは、《リックディアス》のカメラユニットを、機関砲を、生体ユニットを一撃の元に屠った。
じわりと浸食する奇妙なパシオー。その霊魂の種類を判断している暇は、無かった。
頭蓋に閃く鮮烈な悪寒。それが敵意というカテゴライズのされる志向性と理解したのは、計器が敵MSの接近警報のビープ音を鳴らすよりワンテンポ早い。
左方向、ビルから半身だけを覗かせて、支援機関砲の砲口を向ける《リックディアス》。
相対距離確認。
機関砲では貫けない―――武器選択、回転弾倉型リボルビングランチャー対MS用榴弾を選択。
敵からの砲撃回避―――可能。
判断は玉響。
《リックディアス》の火砲がマズルフラッシュを迸らせる寸前、《リックディアス》に驚愕が灯る。
瞬間、爆炎が膨らんだ。その劫火は《リックディアス》の腕を吹き飛ばし、たたらを踏んだ巨体がビルの陰から身体を晒す。
迷いは無かった。狙うは一撃、頭部に照準レティクルを重ねるのとほぼ同時にグレネードランチャーのトリガーを引いた。
機関砲のバレルの下の武装ユニットから吐き出された弾頭は《リックディアス》の頭に過たずに吸い込まれた。超高圧縮された金属はさながら液体的に演舞し噴射され、ガンダリウムγ合金の装甲に風孔を穿つ。次いでコクピットに侵入した爆風で、間違いなくパイロットは無残な挽肉と化した。
(トムキャット01、聞こえているか)
「この声は―――」
遺骸となった《リックディアス》の影から何かの機影が飛び出す。
《ドラケンE》。機械化装甲歩兵用の装備としては既にメジャーになりつつある戦闘用のプチモビだった。左腕部に対MS用榴弾を装備した《ドラケンE》のキャノピーの向こうに、オーウェン・ノースロップの姿があった。
(スカウターの処理は任せろ。お前はMS掃討に専念しろ)
「了解!」
《ゲルググ》の足元を《ドラケンE》が駆け抜けていく。
戦域マップを一瞥。敵機の光点を認めたクレイは、戦域マップ上に存在する護衛目標の光点に立ちふさがるように、その方向へとスラスターを焚いた。
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