機動戦士ガンダムMSV-エクリチュールの囁き-
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60話
セキュリティ、とは何のために存在するのか。
情報の秘匿である。そんなことは、小学生でもわかることだ。そして往々にして、「秘匿された」という句は、どこか秘められた静謐、どこか淀んだ停滞を思わせるものである。
がしゃんがしゃんというけたましい音と、怒鳴り散らすまではいかずとも叱り飛ばす声が耳朶を打つ。これで軍事機密でも最高レベルの秘匿情報をかくまう場所というのだから、イメージなど所詮は偏屈なステレオタイプにすぎないのだろう。マーサ・ビスト・カーバインは、腕組みしながらその機体を正面から見上げていた。
全高20mを優に超す巨体。身体だけ見れば案外すらりとしているが、そのムキムキのフットボーラーを思い出させる巨大な両肩は、なるほど眼前の機体が連邦軍でも数少ない第4世代機であることを直感させる。
アナハイム・エレクトロニクス社の長となって何年になるか。『Ζ計画』の音頭を取ったのは自分ではないが、やはり自分の会社の最高のプロジェクトが生み出した傑作を眺めるのは気分が良い。MS、という兵器に拘りがあるタイプではないとマーサは自己分析しているが、その機体は美しかった。荘厳だった。まるで1個の巨大な大理石から切り出された様な、存在の威圧を流出させながらも、凛然と鋭い視線を虚空に投げる大丈夫。古代ギリシャの男たちは己の肉体の牢乎たる様に美しさを見出していたというが、その気持ちも少しはわかるというものだ。否、そんな「男たち」と比較しては、この『ガンダム』に対する侮蔑でしかない。
がしゃん、と音が鳴る。苦笑いを顔に浮かべたマーサは、「あれは?」と隣に佇み作業を俯瞰する少女を見もせずに尋ねた。
ちょうどその『ガンダム』が腕に装備しているものである。右腕にそれが固定されると、固定していた作業員がぱらぱらと散っていく。
2枚の板が屹立するような、鰐の咢が『ガンダム』の右腕から生えている―――そんな珍無類なイメージを思い浮かべた。
「あれ、カーバインさんの指示じゃありませんでしたか?」
隣の少女、モニカがきょとんとマーサを見上げる。はて、とまじまじとその武装を見れば、確かに自分の指示した装備に違いは無かった。
「―――確かに」
わざと顔を顰めて見せる。
「まぁカーバインさんはそこまで現場に出ているわけではないのですから…」
モニカが愛想笑いを浮かべる。年下に気遣われているというのがなんとも微妙な感覚だが、それに不愉快を覚えるほど彼女は若くも無かった。
「アームドアーマーBS……だったかしら。あれが完成したのも、思えばサナリィのお蔭ね。感謝しているわ」
腕を組んだまま、マーサはもう一度、『ガンダム』の左腕に装備された武装―――アームドアーマーBSを眺めた。
理論はサナリィで試験をしているN-B.R.Dの延長上に存在する。Iフィールドによりビームを圧縮し、ビームとしての貫通力を上げる。そしてビーム自体の照射時間を長引かせることで、さながらビーム砲でありながら刃としても振る舞う武装と化す。
対Iフィールド発生装置を考慮した武装の1つである。ただビームを超圧縮させるだけなら、技術的な難しさはない。N-B.R.Dの抱える困難は、ビーム自体の圧縮に加えビームの加速、そしてそれらの複合要素をMSが運用する火器のサイズまで小型化する点にあるのだ。あと10年か20年―――N-B.R.Dが結実するには、そのくらいの期間が必要になるだろう。
「サナリィもアナハイムからの援助が無ければ本格的に最新鋭のMSを使っての運用試験なんてできませんでしたから。持ちつ持たれつ、ですよ」
「何事もWIN-WINが一番、ね」
ふん、と鼻息を鳴らす。
アナハイム・エレクトロニクス社は巨大になりすぎた。そして、強大な組織において、腐敗は絶対的に生じる物でもある。乱立した派閥は己の防衛のための策を練るものなのである―――そこにあるのは、会社やら社会全体を俯瞰する視点ではなく、利己心の過剰な昂進だ。もちろん、市場において利己心はインセンティヴの源泉なのだから絶対悪では、ないのだが。
「アームドアーマーの試験はいつだったかしら?」
「もうすぐできますけど―――何か?」
「くだらない意地っ張りが玩具を作り始めていてね。黙らせたいから早めにお願いできるかしら」
苦笑いしながら、モニカは肯く―――と、『ガンダム』の足元でモニカを呼ぶ野太い声が格納庫に響いた。すみません、と頭を下げ、無重力の中を泳いでいくモニカの背を見送った。
マーサは再び『ガンダム』を見上げた。
くだらない夢想家が仲間内で妄想を語るのは勝手だが、その黴の生えたような苔生した理論を振りかざす稚拙は少々目に余るものがある。ホトケがどれほど懐の深い存在かは知らないが、月の女帝は己に仇成す存在に対して三度も見逃すほどの寛容を持ち合わせてはいない。刃向かうものは、己の有する最大戦力でもって完膚なきまでに叩き潰すまでだ。
ジョーカーは3枚―――。
『ガンダム』を見上げるマーサの眼差しは、恐ろしいまでに無感動だった。
※
蒼い宇宙―――。
その中を、彼女は走っていた。宇宙のどこに足場があるのかは知ったことではないが、彼女はとにかく蒼い宇宙を走っていた。
全身の筋肉が断裂したかのように痛い。額には脂汗が滲み、息を吐くたびに咽喉が焼き切れそうになる。
彼女は逃げていた。何から、という言葉を欠きながら、とにかく彼女は全力で逃げていた。足を止めれば追いつかれるという直観。そして追いつかれれば、自分は憑り殺されるという、直観。
だが、そんな行為になんの意味があろう。たとえプルート・シュティルナーがどれほど努力を重ねようとも、あの存在からは逃れられぬ宿業である。
何かが耳朶を打つ。それは物理的な空気の振動を伴った音だったようにも、あるいは頭の聴覚野にダイレクトに突き刺さった音だったようにも、感じた。だがその区別はどうでもいいことだ。問題はその声が聞こえたというだけの事実で、そうしてその声の主はもう―――。
あなたはだれ?
また声が耳朶を打つ。それも今度は至近、耳元で囁くよう。悲鳴をあげて声の方に目をやれば、彼女の網膜はその幻影を確かに捉えてしまった。
腐敗した死体。純白やら白無垢などという形容が黒い色の対象にした言葉であったと思うほど、白でしかないその存在は、されど腐敗した水死体に比べて、綺麗すぎた。
髪の毛からつま先まで白一色。何者でもあって何者でもないその存在が音も無く蒼い宇宙の中でゆらゆらと浮いていた。
全てを一色に染め上げていくように見透かすその薄く開かれた瞳。蒼い色にも赤い色にも緑色にも、全ての色が渦を巻いているようなその瞳を向け、その存在が冷たく柔らかな微笑を浮かべる。
彼女は慄いた。その何者でもあって何者でもない顔が歪み、己の形相になったからだ。
死蝋の口が蠢き、その残虐なほど美しい声を出して―――。
※
プルート・シュティルナーは絶叫しながら身を起こした。
汗でぐしゃぐしゃになったシャツとごわごわになった髪の毛の感覚が最悪だった。
周囲は真っ暗だった。そして程よく涼しい―――。
「夢?」
暗闇の中、ぽつりと声が耳朶を打った。びくりと身体を震わせながらも、プルートはその声が効きなれた声であることを理解し、まぁなと言いながら再び身体を横にした。
頭を枕に降ろそうとすると、酷くぷにっとした感覚だ。エイリィの腕、だった。
「また例の夢?」
肯く。そっかぁ、と所在なく応えたエイリィのどこか間の抜けたような声が、今はありがたいと思った。
あの戦闘以降、奇妙な幻影に付きまとわれる夢をよく見るようになった。あの戦闘中に見た幻影は何なのか―――恐らく、あれが上の人間が欲しがっている物が引き起こしたものであろう、という直感しかないが、とにかくあれがプルートに相当なトラウマを刻み込んだのは事実だった。流石に思い出しただけで震えが止まらなくなることはなくなったが、深い眠りについた折は必ず夢に現れている。
目を瞑れば、すぐに瞼の裏に立ち現われてくるそれ―――。
彼女は身体を震わせた。一過性の単なる震えではなく、恐怖への根源的な震え―――。
ぐいと自分の身体を柔らかな感触が包む。温かい感触。自分という存在の境界線がとろとろになってしまうような、良い匂い。震えはそれで止まった。
エイリィの柔らかな手が頭を撫でる。安心して、怖がらないで、とその手が言う。プルート・シュティルナーは一度とて母親の存在を感じたことは無かった。彼女たちにとって、母親とは遺伝的な意味でしか存在の実感がないものだった。
それでも、もし母親というものが彼女たちとって肉体を伴った実感として存在したのなら、きっとこんな風なのだろう―――。
大丈夫? うん、ありがとう。どうたしまして。それだけ言葉を交わした。
「そういえばさぁ」温かな闇の中で響いたエイリィの声は、いつも通りの声色だった。「あの人とはどうなったのさ?」
「ほら、なんか死亡フラグ立ててたっていう彼。順調なの?」
「あぁ、あれ―――」
ぎゅっとエイリィの身体を抱きしめながら、プルートは言葉を飲んだ。
あの《ザクⅢ》のパイロットとは、微妙な関係になっていた。実戦後にプルート自身が1週間ほど昏睡していて碌に合ってもいなかったし、それに今は変に知らない人と懇意になるのが疎ましかった。別に悪い人では、ないのだ。昏睡している間ずっと見舞いに来ていたらしいし、気さくに話しかけてもくれる。プルートも嫌いだとは思わなかったし、好意を向けられるのは嬉しいことではあるけれど。
だが、それだけのことである。好意が嬉しいからといって、自分も好意を抱く必然性はどこにもない。
沈黙だけで、エイリィはおおよそ理解したのだろう。ははぁ、と慮るような溜息を吐いていた。
「プルートは誰か好きになった人とか、いないの?」エイリィがそう言ったのは、なんだかまた眠気が頭の中に霞がかってきたときだった。
「む―――隊長は好きだよ」
「いやそういうんじゃなくて―――ってプルートはおぢさんが好きなの?」
闇夜の中でエイリィが目を丸くする。冗談だよ、と言いながら、プルートは拍動が少しだけ早くなっているのを知覚した。
所謂恋愛感情など、と思う。そもそも戦闘用にデザインされている彼女たちにとって、そのような感情は生じ得ない筈だったのだ―――つい、この間までは。
エイリィと一緒に居ると、ドキドキする。あの同僚のことを思っても、今はうんともすんとも感じない。あの男のことは―――。
エイリィの胸に顔を押し付けた。脂肪だとか乳腺だとか、あるいは夢や希望が詰まっているであろうその2つの塊はとても柔らかかった。
胸がデカいだけでアドバンテージなんて、機会の平等に反していると思う。リベラルの人たちには、胸囲の格差社会を是正する方法を考えて欲しい。ロールズは乳房論とか書いていないのだろうか。書いているわけが無いか。
あの子だってデカかったし。150cmあるかないかであのメロンは反則だ、と思う。
「さぁな」むすっとした声で言った。
「そうか」プルートの髪の毛を指で絡めとる。「それは良いことだよ」
プルートは、そのエイリィの声色にちょっと驚いた。こういう時はからかう調子で言うものとばかり思っていただけに、そのエイリィの穏やかな丸い声は意外だった。
そんなプルートの持続を直観したのだろう、エイリィは無邪気そうな笑みを浮かべると、ぐりぐりとプルートの頭を撫でまわした。
「あぁ―――安心した」
「む、なんでさ」
「プルートはプルートなんだってわかったから」
頭を撫でまわしながら、そう言うエイリィの声はいつも通りになっていた。「なにそれ」と頬を膨らませる。
と、プルートは不意に脳髄から染み出してきた眠気を吐き出した。欠伸をした。ふわぁ、と温い空気とともに、弛緩した涙腺から涙がにじむ。
「ほら、良い子は眠らなきゃ」
からかうように笑いを含ませた声だ。子ども扱いするな、と抗議しつつも、眠くて死にそうなのは事実だった。不満を臓腑に感じつつも、プルート・シュティルナーはすぐに温かな闇の中へと微睡んでいった。
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