機動戦士ガンダムMSV-エクリチュールの囁き-
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34話
「こちら『アカデメイア』、報告了解した。爾後別命なく待機せよ。オーバー」
どこか緊張気味な女性の通信士の声が耳朶を打つ。
計器の光と、微かに灯されたLEDライトだけが侘しく光を放ち、宵闇が重く沈殿していた。
淡い光を受けた男が身動ぎする。
「もう少しですね、」
それに合わせるように、無線通信に従事していた、もう一人の通信士が鈍色の声色で言った。
言われた男は、くぐもった声で通信士の声に頷いた。腕組みはそのまま、男の顔は多少なりとも変化はしなかった―――が、大柄な男の顔には確かに期待の色があった。それを通信士も了解している。頷き一つで、再び自身の仕事に戻った。
と、軽くドアをノックする微かな音が部屋に不気味に響く。不規則に、一定のリズムで耳朶を打った軽い音に、男は視線を横に流す。部屋にいたもう1人の男がアイコンタクトで了解すると、音も無くドアの方へと向かう。そうしてドアの前に立つと、今度は内側から、ドアへと向かった男が軽くノックした。それに応えるように、再び向こうから木製のドアを叩く小気味良い音が鳴る。
男がドアノブに手を伸ばす。仄暗い光を受けて陰鬱に光を放ったアルミニウムのドアノブを音も無く半回転させると、静かにドアを引いた。
「やぁ、調子はどうだい」
ドアの向こうから顔を出した男は、その重たい空気とは不釣りあいに柔和な笑みだった。元々、そういう人物であることは大柄な男も承知していた。そうして、そんなことよりも重要なのは、この男が自身の眼前に居るということだった。
素早く敬礼すると、男は満足げな顔をした。
「いつ、こちらへ?」
敬礼を下げ、自身より年下の男の顔を伺った。薄暗い部屋では、はっきりとは見えなかったが、笑みは変わらず湛えているようだ。
「ついさっきさ」
「よろしいのですか。わざわざ貴方が来るまでもないでしょう―――『エウテュプロン』?」
「責任者は責任を取るためにいるんだよ、『ラケス』。僕はこの目で見届ける責任と義務がある。それに、大臣さまは知らぬぞんぜさ。味方だよ、『ジオン』は」
衒いも無く、気品高く『エウテュプロン』が嘯く。『ラケス』と呼ばれた男は、頷き1つを返した。
最もだ、と思った。上に立つ人間とは、ただ黙して背負うのみ―――。
「そうだ。君たちにこれを届けようと思ってね」
ごそごそと身動ぎした『エウテュプロン』が紙袋から細長い箱を取り出すと、蓋を開けた。カラメル色の液体が、クリスタルのボトルの中で妖艶に光を放っていた。
「油断は禁物とは古来より伝わる格言ですが」しげしげと高級ブランデーを眺めた『ラケス』が声に出した。
「至言だな」底抜けの微笑を浮かべる。紙袋からワイングラスを5つ取り出した。「だが気つけも必要だろう? 日本(ル・ジャポン)でもかつては鏑矢なるものを使っていたそうだからね」
ワイングラスに滔々と琥珀液が注がれる。クリスタルボトルの中に傲岸な素振りで居座る高級ブランデーも、眼前の男にしてみればちょっとしたファッションでしかなかった。
さぁ、とグラスを差し出す。しばしグラスの底に薄く微睡んだコニャックを眺めた『ラケス』は、礼と共に受け取った。
手のひらをグラスの底にあてる。甘さを増した香りが鼻の奥を擽った。
「我らに勝利の栄光を―――」
※
重い―――。
弛んだロープのようにばらけた思考のまま、重たい瞼を開けた。
火に擽られた樹木が笑いを押し殺したようにぱちぱち爆ぜる音が外耳に吸い込まれる。丸い光に照らされた空間の隅では、無思慮な光に照らされた闇夜が憤然とした顔で腕組していた。それでも黙然としているあたり、闇夜は寛容な心の持ち主だった。
「ようやく王子のお目覚め?」
誰かの声が耳朶を打った。のろのろと声の方―――正面の方に顔を向けた。
栗色の髪の下で、サファイアの光がクレイを眺めていた。
「おはよう、クレイ」
片足を抱えた少女が向かい側の壁に寄りかかったまま、ころんと首を傾げた。
ぼんやりと思考がまとまり始める。
ここはどこだろう―――密閉空間をきょろきょろと見回す。固い岩壁に覆われた空間の一方のずっと奥では突然押しかけて来た来訪者に顔を顰める暗がりがたむろしており、その向こうには同じように岩の壁がある。もう一方の向こう側からはごうごうと耳障りな音が吹き抜け、底抜けの夜に刳り貫かれていた。
洞窟。
そんな言葉が前頭葉ブローカ野から滲み出て来た。
そう、洞窟。クレイは洞窟を目指していた。そうしてその途中蛇に噛まれて―――。
一気に意識が鮮やかに輪郭を描く。ざわと肌を粟立たせ、起き上ろうとしたクレイは、自分の身体に圧し掛かる仄かな重さを今更に判断した。
長く垂れた液体プルトニウムの髪が地面まで流れていた。艶めかしい高麗白磁のような白い肌は、しかし勃起してしまいそうなほどに柔らかかったし、人間の熱を孕んでいた。彼女のうなじから漂う甘ったるい匂いは、暴力的にテストテロンとアンドロゲンを蒸留させた。
クレイの胸板を枕にし、エレアはすやすやと寝息を立てていた。胸に添えられた彼女の指先が、その奥の核を擽った。
「エレアはあんたのこと本当に好きなんだね」
抱いていた足を伸ばし、もう片方の足を折り曲げて身体に寄せたエルシーが柔和な笑みを浮かべる。
「クレイが蛇に噛まれたときとんでもなくパニクッてね、尋常じゃなかった。ずっとあんたの名前を呼んでたよ」
エレアの顔を間近に見る。穏やかに澄んだ少女の顔をよく見れば、目元が微かに赤らんでいた。
心臓がぎゅっと縮む。心配をかけてしまったことの申し訳なさと、彼女の心の内に対する喜び。内側から鼓膜を叩く拍動音を感じながら、クレイは彼女の腰に手を回した。
「じゃあ応急処置はエルが?」
クレイが左内腿の患部を見やれば、エレアが腰に巻いていたシースルーのパレオを加工した布が血流を止めるためにしっかりと巻かれていた。
「あーまぁ、そうなんだけどさ」
ばつが悪そうに人差し指で頬を掻く。すっくと立ち上がったエルシーが焚火の近くに行くと、地面にへばっていたロープのようなものを持ち上げた。
1mほどの長さの鮮やかな青銅色のロープ―――凝視して見ればそのロープは末端部分が小さく萎んでおり、そうして鱗があり。エルシーが握っていた部分には頭があり、淀んだ1対の眼が当ても無く虚空を眺めていた。
「ヘビ?」
再び肌がぞわぞわと粟立つ。
「アルバーティスパイソン。ニューギニア島原産のヘビだね。ちなみに無毒」
ぷらぷらとヘビの遺骸を揺らした。
無毒―――無毒?
まじまじとエルシーを見やると、うん、と頭を縦に振った。
「噛まれたときから気づくべきだったよ。ヘビ毒はそもそも神経毒と出血毒だろ? 急に意識を失うなんておかしいんだ。アナフィラキシーショックの可能性も呼吸も心拍数も正常、傷口以外痛がってるようでもないから無し。エレアがわんわん泣いてたからあたしもビビっちゃっただけで、ヘビを捕まえてみたら無毒だったってこと」
「じゃあ、俺はなんで?」
「さぁ? あたしは別に医者じゃないし」エルシーはヘビの気だるげな身体をじろじろ眺めていた。「ただ、ちょっと疲れてたんじゃない?」
どれほどの時間か、放心したままエルシーの顔を眺めていた。物理的時間は左程経っていないハズだ。クレイの感覚にしても、多分長くは無かった。とにかく、胡乱気な顔をしたエルシーの咎める声を聞くことで我に返った。
疲れた?
どこで?
何故?
思い当たる節はとんと無かった。
「よくあることだよ」そこらへんに落ちていた木の棒でヘビの首元(?)付近を弄った少女は、肩を落とした。そうして顔を上げ、お道化たように身を竦ませて見せた。
「疲れというのは気が付かない内に蓄積されていくんだよ。そして、いつの間にか―――ってな具合なわけ。毎年過労死で何人死んでると思う?」
そういうもの―――なのだろうか。自分の左手を握っては広げる動作を繰り返してみる。
人間の身体は頑丈だが脆いもので、ちょっとした環境の変化で体調を崩す―――ということは、確かによくある経験だ。自分では気づかぬ間に―――なるほどエルシーの言うことも最もだ。
クレイがそれとなく理由づけして納得している一方で、とうとうヘビに興味をなくしたエルシーが顔を上げた。
「これ皮剥ける?」
座ったまま、首を掴んだヘビを持ち上げた。尻尾を振り子のように揺らした青銅色の亡骸も、途方に暮れたように口をぽかんと丸く開けていた。呆気にとられながらも、クレイは頬を緩ませた。
「刃物がないとキツイですけど……やってみますよ」
おう、と首を縦に振った栗色の髪の少女が立ち上がると、途中焚火の側に刺してあった何かを手に取る。少し所在ない足取りでクレイの側までてくてく歩いてきて、すぐ隣に腰を下ろした。クレイはエレアを起こさないように彼女の小さな身体を抱え、そっと壁に寄りかからせる。エレアは軽く身を揺すったものの、起きることもなく耳触りの良い密やかな寝息を立てた。ぐっすり安眠しているようだ。
エルシーの手からヘビを受け取る―――エルシーが左手に持つものがふと目に入り、クレイは顔を顰めた。
すっかり乾いた枝に突き刺された丸々太った白い物体は筋張っていた。要するに、何かの幼虫だった。ふーふーと冷ますように息を吹きかけたエルシーは、何度か冷却動作を繰り返した後に、白い肉体の中にぽつんと存在する黒い頭部からかじりついたが、すぐに口から離した。どうやら熱かったらしい。舌を出して眉を寄せたエルシーがクレイの視線に気づくと、照れたように笑みを浮かべた。
「よく食べますね……」
「だって食べ物無いし。クレイも士官学校時代はそういう経験くらいあるでしょ?」
「そりゃ俺は平気ですけど……一般企業の整備士の割には結構図太い神経してますね」
微かにエルシーが狼狽したことを、クレイは露ほども気が付かなかった。というのも、クレイは自分に牙を向いた勇敢な爬虫類を如何に食事用の肉塊にするか、睨めっこしていたのである。結局エルシーもすぐに平静を装って、まぁねと酷く素っ気なく言ったために、とうとう気が付かなかった。
とりあえずクレイは手近に落ちていた手ごろな枝を手に取ると、ヘビの首元めがけて切っ先をぐいと突き刺した。鱗で覆われたヘビの皮はそう平然とは貫かなかったが、力任せに木の棒を突き刺しては薄くなり始めた皮を無理やり引っ張ること数回。ぐいと引っ張った拍子に、嫌に生々しいぶちんといった音を軋ませ、ヘビの皮がべりべりと破けていった。内臓をぶちまけながら綺麗に皮を剥ぎ取ると、長い木の棒にその間抜けなほど白い蛇の肉を突き刺し、焚火の側の土にきつく刺した。
「そこにあるの、食いなよ」
エルシーが顎をしゃくる。焚火の側には、何かの幼虫が苦悶の姿のままに火あぶりにされていた。先端に蛋白質を掲げた短い木の棒を土から抜き、エレアとエルシーの間に重たい動作で腰を下ろした。
「あれ、エルがやったんですか?」
手に握った木の棒の先の芋虫を視界の中で揺らしながら、くいと顎で焚火を指し示す。肯定の意を示すようにうーと唸ったエルシーの口からは、くちゃくちゃと水っぽい音がしていた。
「その場で行動できる人間が行動する。当然のことだよ。クレイはダウンしてたし、エレアはクレイのことずっと看病してたんだから。礼ならエレアにしてあげてよ」
それでもクレイはエルシーに礼を言って、そうしてエルシーはまたうーとくぐもった唸り声を上げてyou’re welcomeの意を表象した。
火の燃えるパチパチという密やかな音が鳴っていた。エルシーの芋虫を食べる水っぽい音が響いていた。エレアの寝息が蠱惑的に鼓膜を愛撫した。外では、未だに吹き荒れる風と雨のごうごうとした音が入口から侵入していた。クレイは、ただ無言で木の棒の切っ先で絶命した蛋白塊を眺めていた。
なにか喋った方がいいのだろうか―――。クレイ・ハイデガーは、いかにもフィロソフィカルな気難しい顔をしながら、なんとも凡庸な思案をしていた。なんとなく、気まずかったのである。クレイは未だに交流の少ない人間と愉快に喋ることができない癖に、誰かと居る時に沈黙が訪れると奇妙な不安を感じるのである。クレイは別に人と喋るのが嫌いなのではない。好きだが、苦手なのだ。
エルシーが立ち上がる。やはり覚束ない足取りで焚火の側に行って蛇の焼かれ具合を見ると、もう一本木の棒を取り、セミの幼虫の串焼きを手に取った。彼女が踵を返してまた座るまで何か話題がないかを思案した。そして、彼女が座ってもう一匹虫を食べたところで彼女に声をかけた。また、うーとだけ唸って、エルシーは応じた。
「最近面白い本を読みまして……」クレイは考えあぐねた結果、そんな話題しか選択できなかった。「ニュータイプについて面白いことを言っている人がいたんですよ」伺うようにエルシーに視線をやった。
微かに身動ぎした。エルシーの反応はそれだけだった。やっぱりそうだよな、とクレイは俯いた。今時ニュータイプなど古臭い世迷言でしかないのが通俗の見識である。16歳の少女が興味を持つような話題じゃないよな、と自分の物わかりの悪さに絶望しながら、クレイはやっぱなんでもないですと芋虫を食べた。じゃがいもとかぼちゃの出来損ないのようなベジタブルな味だった。
「なんでやめるんだ?」
音も無くこちらを見たエルシーの目は、何故か非難の色に満ちていた。
「つまらないかもしれませんよ」目を丸くした。予想外に、エルシーは興味を示したのだ。
「いいから。ニュータイプについては色々興味があったんだ」
そうですか、と言ったクレイは、奇妙なほどの満悦を感じていた。ただ、自分の勘違いな話題のチョイスが彼女の琴線に触れるかもしれないという事実に朴訥に喜んでいるだけだった。クレイは単純で、子どもっぽかった。クレイ自身は露ほども自覚がなかったが。
「この虫が居るでしょう?」
「お?」
エルシーがクレイの手先に磔にされた虫を見やる。
「あの蛇でもいいんですが……とにかく、人は食物を食べるでしょう? 牛でもいいし豚でもいい。ヴィーガンの人は野菜ですか? まぁなんでもいいんですが、とにかく人は何かを食べたり飲んだりするわけでしょう。その摂取したものってどこに行くんでしょうか?」
予想していた話題と異なっていたのだろう、きょとんとしながらも少し考えた後、
「そのまんまだけど……自分の身体になる、でいいのかな?」
「ええ、もちろんそうですね。そのまま排出されるものもありますけど。そして取り込まれた食べ物は形を変えて血肉となるんですよ、既存の自分の身体の部分と置き換わる形で!これはとても興味深いことだと思いませんか?」
知らず声が大きくなったことを詫びながらも、クレイは自分が楽しい気分であることをありありと味わっていることを理解した。
「あれか、子どもの頃に自分の身体を構成していたものが全て置き換わっているのに自分という意識が何故成立するのか―――とかと関わる話?」
「そうですそうです。自意識の維持についても重要なんですが、今はそれは置いておきましょう―――人間は自然と言う大きなシステムの中で発現したある様態、「淀み」なんです。特権的な絶対自我などではない」
エルシーは口の端から白い液体を垂れ流してもごもごと口を動かしていた。懐疑的に結ばれた眉から、エルシーは肯定的じゃないのかなと思った。もちろん、構わない話である。同意を求めて話を始めたわけではないからだ―――もしかしたら、眠さを我慢しているのかもしれない。
退屈な話は最高のララバイである。それならそれでもいい、とクレイは話を続けることにした。
「人間の個性を考えるなら個人だけで考えてはいけないのです。なぜなら人間は決して単独で生きているのではなく、自然と言うシステムとの相互交換の流れの中に存在しているから。あるいはフーコーの権力の話を持ち出してもいいですが、まぁ僕は専門ではありませんからいいでしょう。とにかく、ニュータイプという特性もまた、単に『普通の人』とは異なる特性を持っているからと言って超人でもなく、亜人でもなく―――それこそ我々が生きる世界の同じ隣人という視点を失ってはいけない、という話です。ニュータイプは例えば怒りっぽいとか運動が好きとかそういう個性とあまり違いないんだという話もありましたかね。ニュータイプは我々とさほど乖離した人間でないぞ、という視点は興味深いと思ったんです」
どう思います、とエルシーの方を見たクレイは、複雑な感情が浸透した溜息を吐いた。
エレアの寝息とは異なる寝息が蝸牛のリンパ液を揺り籠のように揺らした。口の端から白濁液をたらしながら、エルシーはすっかり眠りに柔らかく抱かれていた。
結局ララバイになったわけだ。少しだけ悲しさを覚えながら、その悲しさなど意味のない感傷だと切り捨てた。人の興味はそれこそ多種多様だ。その人との違いこそ人の存在者としての素晴らしさに違いないのだから。むしろ、彼女はクレイの惨めさを汲んでわざわざくだらない話に付き合ってくれたのかもしれない―――。
「おやすみなさい、エル」
くーくーと寝息を立てるエルの頭が縦に揺れた。微笑を浮かべながらも、クレイは彼女の顔に手を伸ばし、口から垂れている液体を指で拭った。
予想以上に生暖かくぬるっとした感触にたじろぐ。
指先で白く濁った温い液が焚火の光を受けて異様に照り返った。焚火の側に刺した蛇の肉は、もう、焼けていた。焚火の火が熱いな、と今更に気が付いた。
※
熱いなぁ、と思った。
エルシーは―――プルート・シュティルナーは、頭の先から爪の先まで、身体中の隙間に原油ででも満ちているのではないかと思うほどの倦怠感を覚えながら、自分の身体の熱の心地よさに身を任せていた。
自分の身体が熱いわけではない。熱源は近いが、炎が間近で燃えているような、肌を焼けつくような熱は感じない。もっとふわふわしていて、それでいてじっとりと重さを感じさせる熱の感触。プルート・シュティルナーという個人を包み込むような柔らかさと、少女の身をしっかりと捉える幾許かの束縛感。時々身体のどこかを擽るように触れる何か。
髪の毛を愛しむように触れる感触。長く伸ばしたもみあげを手櫛するように梳いて、そうして毛先まで触れたら髪の束を持ち上げるように。そうしたら、少女の顔の輪郭を、まるで壊れ物を恐れるように、それでもその耽美さに陶酔するように。指の腹に静謐を孕ませて、皮膚の幽かな間歇からじわじわと浸透していくように、触れていく。薬指の先が、プルートの健やかなピンク色の下唇を触る。
唇が耳に触れる。温度を持った吐息が外耳から鼓膜を通り、何かしらの神経を痙攣させた。
知っている。この暖かさ、この存在の境界面を溶かしていき、1つにしようとしながらプルートという少女の熱を際立たせようとする奇妙な闘争の感覚。
そうだ。エイリィの抱かれている時の、感覚だ。未開の地を慎重に探索する探究者のように、じっくりと手を這わせていくあの女の快楽の活用の仕草に、似ている―――。
その安らいの性愛の中、プルートは不意に身体を打った身体快感にぎょっと目を見開いた。
お尻の部分―――競泳用の水着が少し食い込み、スリッドになった部分をまるで蛇がのたうったかのような感触が背骨を擽った、微睡みの中の朧な意識が一気に覚醒し、はっとしたプルートは、先ほどまで自分を包んでいた柔和の感覚の正体をすぐに理解した。
冷たくなった尻を蠱惑的に触れては、プルートの臀部を握るように掴んで、そうしてそろそろと大腿へと向かい、水で冷たくなった柔肌を爪先で擽る。
耳元にかかる温い息。外耳に触れる唇の柔らかな感触。人体で最も硬いエナメル質が耳たぶを愛撫し、首筋を温く濡れた生き物が這っていく―――。
堪えようとして、それでも肉体の緊張をすり抜けた快楽の吐息が漏れる。
触りが繊細すぎる。ゆっくりと身体の内側に浸透していくような指の躍動、唇の誘惑、舌先の淫猥。その1つ1つが少女の神経を解きほぐしていく。
何かから逃れるように身体を身もだえさせる。内腿を指先で擽る右手を退けるように掴んでも、思うように力が入らずただ手を重ねるだけしかできず、そのごつごつした大きな手の存在を知覚するだけだった。
どうしてこんなに自分は快の情に身を浸しているのかわからなかった。だって私はこの男と知り合ってまだ―――。
「―――ひゃ!?」
筋肉が決壊する。今までゆっくりと皮膚を溶かすようにして、じっくりとプルートという少女の肉体に触れていたのに、その触り方はあまりに強引だった。
今まで左肩を掴んでいただけの左手がそのまま彼女の未発達な部位を包む。無骨な手が彼女の敏感な部位を掠り、プルートが悲鳴にも似た悦の声を上げる。男の手は少女のふくらみ始めたばかりの乳房をすっぽりと覆い、指が不規則にうねる度に背筋が痙攣する―――。
太股に触れていた手が不意に離れた、と思ったときには、男の右手が腋の下から競泳水着の内側へと潜り込んでいった。ぴったりと肌に張り付く競泳水着の裏側に素早く滑り込んだ手がもう片方の薄い丘を捉え、無思慮な掌が未成熟な女の器官を愛撫する。
少女の薄く張った肉に指の腹が食い込む。
指がまるで爬虫類のように肌の上を蠢き、その度に頭蓋の奥が麻痺するような電撃が閃く。
指の動きが止まる。ほっと息を吐くのも束の間、人差し指と親指だけが、酷く緩慢な動作で肌の上を、少しだけ盛り上がった肉の丘の上へと昇っていく。
ゆっくりと。ゆっくりと。ゆっくり、と―――。
下唇を噛む。ぎゅっと目を瞑る。
「なぁ、もう、やめ―――」
なんとか身動ぎしながら、首だけで振り返ったプルートは、自分の目に入った光景の意味を理解できなかった。
クレイは、寝ていた。クレイ・ハイデガーは、寝相だけでプルートを抱いていたのだ。それだけでも変な話だが、彼は、寝ながら、目尻から雫を流していた。焚火の色を受け、赤く火照ったクレイの顔を伝っていく液体が微かに光を孕む。
まるで子どもだな、と思った。それは悲哀に暮れる青年の黄昏ではなく、揺籃の幼子が無力なままに涙を流しているようだった。
クレイの唇が微かに蠢動する。入り組んだ内蔵の奥から、脳髄の奥深くから染み出してきたような稺い声が鼓膜に触れた。
お、か、あ、さ、ん―――?
心臓が不定に痙攣した。逆流した血液が頭に回り、一気に思考を奪っていく。
胸が痛い。でも不快じゃない。こんな感情、知らない―――。
男の名前を口にする。自分の舌の上で踊った言葉は、声に出してみれば驚くほど滑らかな口当たりだった。
舌が麻痺する。眩暈がする。
もっと、先まで、し―――。
「―――ハッ!?」
焚火の側、ぽかんとした顔でプルートを眺める銀髪の少女の姿があった。
「いやいやいやいやこれは違うぞ! 何が違うかはよくわからないがとにかく違うんだ! あーそう、事故! 事故なんだ! これは悲しい―――」
てくてくとこちらに向かってくるエレア。
そうだ、クレイはエレアとそういう仲なのだ。にも拘らず目の前でこんな痴態を繰り広げるなど―――。いやいやでも悪いのは自分なのだろうか? 元々行為をし始めたのはクレイであって―――でもクレイはクレイで寝ているし―――。
エレアが地面に膝をつける。そうして両手を伸ばしてクレイの首に腕を回すと、クレイらかく胸に抱き寄せて、愛しむように栗色の頭に頬擦りした。
「大丈夫だよ。大丈夫だから」
―――母親の、ようだった。むずがる赤子をあやす母親のように慈悲深く、けれどどこか初々しさを、自分自身にも不安さを伴った瑞々しい母性の発露。対象、a。
するするとプルートを抱いていた手が脱力していく。意思を持ったかのように蠢いていた手が死んだようにだらけていく様に、プルートは幾許かの切なさを覚えて、そしてすぐにその考えを頭の隅に追いやった。
気を抜けば膝が砕けてしまいそうになりながら、壁に身体を預けて立ち上がる。
自分の手で自分を抱きしめる。
身体が熱い。身体の芯のほうではまだ何かが燃えている。火をくべられる機会も失われてしまった熱源は、行き場を無くして身体の奥でのたうっているようだ。
いつも、彼女を愛しているのはエイリィだった。男に身体を触れられたのは―――男に身体を許していい、と思ったのは、さっきが初めてだった。
唇を結ぶ。未だに身体の中に残った性愛の残余がどうしようもなく鬱陶しくて愛しかった。
横目だけでクレイとエレアを一瞥する。
エレア・フランドール。プルート・シュティルナーの、ネオ・ジオンの―――獲物。
可愛いな、と思う。腰まで届く重金属の銀髪にあどけない顔立ちと背格好。その割に肉付き自体は良い。顔つきもただ可愛らしい、というのでもなく将来的にはきっととんでもない美人になるのだろうな、と思わせる耽美の萌芽を感じさせる。
客観的に見て、プルートは自分の顔が整っていることを知っている。彼女にはよくわからないが、プルート・シュティルナーはそういう風にデザインされていると言うだけの話だ。
自分の身体に目を落とす。デザイン調整のミスのせいで、プルートの身体は他の個体に比べて成長が緩慢だった。本当ならもっと背が高くてバインバインのおねーちゃんになっているらしいが、プルートの身体は小さかったし、女というより少女だった。
「もう、女の子にあんなことしちゃだめでしょ」
脇ではエレアがぷー、と頬を膨らませながら、クレイの口に指を突っ込んでぐいぐい横に引っ張っているところだった。
「ごめんね、エルも」
「いや、あたしは別に、いい」
なんだか気まり悪い。素っ気なく言って、プルートは壁に身体を預けたまま、地面に腰を下ろした。
「いつも、じゃないんだけどね。時々凄い魘されることがあるんだよ。そういう時はいっつも寝ながら抱き付いてくるんだけど―――クレイは全然知らないみたい」
「そう、なんだ」
胸が痛い。クレイに普通に触れているエレアが、クレイのことを語るエレアが、何故か酷く疎ましく感じる。何故、という理由は、プルート・シュティルナーにはよくわからなかったが。
エレアが欠伸をする。弛緩した拍子に目端から雫が零れた。
「エレアは寝てていいよ。次はあたしの番だから」
「うん―――おやすみ」
もう一度、欠伸を一つ。万歳するように両手を上げて伸びをして、なんだか間抜けな奇声を上げると、そのままクレイの胸に寄りかかった。まるで、子どものようだな、と思いながら、プルートはクレイの胸板を枕にするエレアから視線を逸らした。
ぱちぱちと火が爆ぜる。赤と橙の炎が委縮するようにして身動ぎした。
頭の中を空っぽにする。何も考えない方が、気が、楽だな、とプルートは思った。そうしてプルートは炎がまた踊り始める光景を眺めた。
自分の右手の甲に触れる、誰かの手の感触、その感触がプルートの全神経を飲み込んでいく錯覚を覚えながら、プルートは、熱いな、と思った。
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