銀河英雄伝説~新たなる潮流(エーリッヒ・ヴァレンシュタイン伝)
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第二百七十三話 収斂
帝国暦 490年 3月 25日 帝国軍総旗艦ロキ ヴァレリー・リン・フィッツシモンズ
「ようやくダゴン星域を抜けましたな」
シューマッハ副参謀長の声には何処となく安堵の響きが有った。副参謀長だけじゃない、艦橋に居る多くの士官、下士官がホッとした様な表情をして頷いている。ここ最近総旗艦ロキの艦橋は異様な空気と緊張に包まれていたけどようやくそれが消えた。
理由は簡単、ダゴン星域。この星域で百六十年前、正確には百五十九年前にダゴンの殲滅戦が起きたから。そしてそれを助長しているのがダゴン星域の宙域特性だ。迷宮も同然の小惑星帯に太陽嵐が吹き荒れる難所で決して航行は楽では無い。百五十九年前の帝国軍は索敵どころか自軍の位置測定さえ困難な状況になった程だった。
この時の経験は帝国軍にとって二度と思い出したくない悪夢、トラウマになった。この後帝国軍がダゴン星域を通過したのはコルネリアス一世の大親征だけ。その大親征も帝都オーディンで宮廷クーデターが起きたため失敗に終わっている。ダゴン星域は帝国軍にとって極めて縁起の悪い星域になってしまった。
イゼルローン方面軍は現在六個艦隊が航行中だ。先頭からケンプ、レンネンカンプ、アイゼナッハ、ヴァレンシュタイン司令長官、ビッテンフェルト、ミュラー艦隊の順で並んでいる。その内司令長官の直率艦隊までがダゴン星域を何の妨害も受ける事無く通過した。艦橋の空気が明るくなるのも無理は無いと思う。もっともそんな皆の想いとは無関係な人も居る。我らが司令長官閣下だ。ダゴン星域の航行中、周囲の不安には全く無関心。指揮官席に座って星系図を見ながら作戦計画書を作成していた。
一度気にならないのかと訊ねたら指揮官が動揺したら部下の動揺はさらに酷くなる、指揮官は感情を表に出してはいけないと答えてくれたけど本当は何も感じていないのだと思う。でも私やリューネブルク大将には司令長官の平然とした態度は結構有難い。私もリューネブルク大将もダゴン星域と聞いても縁起が悪いなどとは思えないから変に周囲に気を遣わずに済む。
「ケンプ提督から通信が入っています」
オペレーターが声を上げるとワルトハイム参謀長が司令長官に視線を向けた。それを受けて司令長官が頷く。参謀長がオペレーターにスクリーンに映すように命じるとスクリーンに壮年の大柄な男性が現れた。カール・グスタフ・ケンプ提督、元々は撃墜王として活躍したパイロットだった。既婚で二人の男の子が居る。宇宙艦隊司令部の女性下士官達から理想の夫として評価が高い。
「ケンプ提督、何か有りましたか?」
『反乱軍の偵察部隊がまた接触してきました』
司令長官が頷いた。
『無理に追い払う必要は無いとの御指示ですが宜しいのでしょうか?』
追い払いたい、そういう事かな。ケンプ提督の艦隊は軍の先頭だから敵の索敵部隊を鬱陶しいっていう思いも有るのかもしれない。元々攻勢に強い指揮官だから無為に過ごすのが苦手というのも十分あるだろう。
「偵察部隊はどの方向から来たのです」
司令長官は反乱軍との接触が有れば必ず報告するようにと命じてはいるけど同時に無理に追い払う必要は無いとも命じている。そして報告の時は必ず偵察部隊がどの方向から来たかを確認している。
『前方からです、これまでと変わりは有りません』
「なるほど」
『閣下?』
司令長官が視線を伏せ気味にして何かを考えている。ケンプ提督にとっては気になるところだろう。もしかすると余計な提言をしたかと思っているのかも。幾分不安そうに司令長官を見ている。
「ダゴン星域を抜けたからそろそろかな……」
『閣下?』
ケンプ提督の声が幾分弾んでいる、何かを期待するかのような表情だ。
「ケンプ提督、反乱軍の偵察部隊を追い払って下さい。但し目的は逃げる偵察部隊を追って敵艦隊の位置を確認する事です」
『はっ』
大きく頷くとケンプ提督が敬礼をする。司令長官がそれに答礼をして通信は終わった。
「ワルトハイム参謀長」
「はっ」
「民間人を警護した艦隊、おそらくはヤン提督の艦隊でしょうがそろそろ民間人を分離してこちらに向かって来る筈です。不意打ちは受けたくありません。イゼルローン方面軍全軍に哨戒を密に行うようにと指示を出してください。少し艦隊を引き締めましょう」
「はっ!」
参謀長が緊張した声を出した。強敵が迫っている、緩んでいた艦橋の空気がまた緊張を帯びた。
宇宙暦 799年 3月 25日 エルゴン星域 第十五艦隊旗艦デュオメデス ラルフ・カールセン
タンクベッド睡眠を取って艦橋に戻ると皆が厳しい表情で俺を迎えた。空気も硬い、良くない兆候だ。何が有った?
「帝国軍の様子は?」
問い掛けるとビューフォート参謀長が憂鬱そうな表情で首を横に振った。
「残念ですがはっきりとした事は分かりません。閣下が休息を取られてから様子が変わりました。こちらの索敵部隊は敵艦隊に接触する前に追い払われてしまいます。帝国軍はかなり濃密な哨戒線を布いているようです」
「そうか」
帝国軍の動きに変化が生じた。これまではこちらの存在を重視していなかったが今は明らかに敵と認識して動いている。艦橋の空気が変わったのはそれが原因か。
「それとこちらに対しても執拗に索敵行動を仕掛けてきます」
「知られたか?」
ビューフォート参謀長が頷いた。
「……残念ながら。それ以降帝国軍は進攻速度を上げつつあります」
「そうか……」
帝国軍が執拗に索敵行動を仕掛けてくる。難所であるダゴン星域を抜けて余裕が出たという事だな。索敵部隊を出す事に不安を感じなくなったのだろう。艦隊の速度を上げている、こちらを捕捉しようとしている……。
「距離は?」
「未だ詰められたとは思えません。こちらも速度を上げています」
「ハイネセンには伝えたか?」
「はい」
「指示は?」
「特にありません」
指示は無い、つまり作戦は順調と判断して良いのだろうか。ヤン・ウェンリー、ビュコック司令長官はこちらを目指して動いている?
分からんな。ヤン提督が近付いているなら、帝国軍と接触したのなら帝国軍は速度を緩める筈だ。それが無いという事はヤン提督は近付いてはいるのだろうが未だ帝国軍に接触はしていないという事だろう。分かっていた事だがやはりエルゴン星域での合流は無理だったか。
帝国軍が進攻速度を上げている。良くない兆候だ。何処かで帝国軍を足止めする必要が有るな。このまま後退し続けてはビュコック司令長官との挟撃が不可能になりかねない。帝国軍を足止めするためにはヤン提督の艦隊が必要なのだが今どのあたりの居るのか……。
どうにも不安だ、だが不安そうな表情は出来ない。艦橋はビューフォート参謀長を始め多くの人間が不安そうな表情をしているのだ。俺まで不安を表に出せば将兵の不安は際限なく広まり深化するだろう。皆の視線を感じた。俺が不安を押さえなくては……。
「では予定通り我々はシヴァ星域方面に撤退をする」
ビューフォート参謀長を始め皆が頷いた。そうだ、予定通りなのだ、慌てることは無い。溜息が出そうになって慌てて堪えた。
帝国暦 490年 3月 30日 エルゴン星域 帝国軍総旗艦ロキ エーリッヒ・ヴァレンシュタイン
帝国軍イゼルローン方面軍は順調にハイネセンを目指している。前方に同盟軍の一個艦隊が居るが彼らにとっては六個艦隊が押し寄せてくるのだ、相当なプレッシャーだろう。神経性の胃炎で胃薬を必要としている人間も多い筈だ。医務室は大繁盛に違いない。
指揮官は誰かな? カールセン? オスマンかな? それともホーウッド? アップルトン? 或いはウランフ? まあ誰であろうと御気の毒な事だ。カールセンは猛将だがオスマンは如何かな? 宇宙艦隊総参謀長を務めたのだから参謀タイプ、知将タイプだと思うんだが実戦経験は如何だろう。少なければ苦労しているかもしれない。疲労が重なればミスを犯す可能性が高くなる。絶えず圧力をかける事だ。
俺が作った作戦計画書は統帥本部の参謀達に修正された。惑星ウルヴァシーを占領して補給基地化するらしい。まあ当初の予定に入っていたから捨てるのは惜しいって事なんだろう。俺としては同盟軍に決定的な打撃を与える事が出来なかったから兵力を分散させる事なく集中して使った方が戦争を早期に終わらせる事が出来ると思ったんだが統帥本部は長期戦のリスクを重視したようだ。
統帥本部が慎重になるのも無理は無い。優位ではあるが勝ったとは言えない状況だ。イゼルローン要塞は攻略したが考えてみれば取り戻したに過ぎない。今のところ目立った戦果はフェザーンを攻略した事ぐらいだ。同盟軍の主力部隊は殆ど無傷で撤退している事を考えれば統帥本部の判断を臆病と笑う事は出来ない。
何より不安なのはヤンの居場所が分からない事だ。一個艦隊だがヤンが率いているとなれば油断は出来ない。思いがけない所から一撃を加えてくる可能性はある。そろそろ現れると思うんだが……、まさかフェザーン方面軍に向かった? 有り得んな、それでは俺がハイネセンを攻略してしまう。必ずこちらを足止めにかかるはずだ。
イゼルローン方面軍には警戒態勢を取らせているがどうにも不安だ。周りには気付かれないようにしているがその分だけストレスが溜まる。敵に回すと本当に厄介な相手だよ。ヤンをイゼルローン要塞で捕殺出来なかった事は痛い、あれで全ての予定が狂った。苦労させられるわ。ん、ワルトハイムが足早に近づいてきたな。
「閣下」
「何です、参謀長」
ワルトハイムの表情が硬い。来たのかな?
「ミュラー提督より通信が入っています。哨戒部隊が反乱軍と接触したそうです」
「スクリーンに映してください」
「はっ」
やはり来たか……。ヤンは艦隊の後ろにいる。挟撃を狙う事でこちらを足止めしようというのだろう、フェザーンからの同盟軍を待っているわけだ。故意に発見させたかもしれないな。予想が当たった事にホッとした。
スクリーンにミュラーが映った。何時見ても思うんだが誠実そうな好青年だ。なんで彼女がいないんだろう、女の方が男より多いんだが……。
『閣下、既に御聞きかと思いますが哨戒部隊が反乱軍と接触しました』
えらいぞ、ミュラー。友人なのに馴れたところを見せない。馬鹿な奴なら馴れたところを周囲に見せる事で優越感に浸るだろう。俺も一応言葉遣いに気を付けないと。
『反乱軍は我々の後方にいるようです。ヤン・ウェンリーでしょうか?』
「おそらく。民間人と別れて大急ぎでこちらを追ってきたのでしょう」
『……反乱軍は少数ではありますが我々は前後から挟まれた形になります』
「ヤン・ウェンリーが相手となれば少数でも油断は出来ません。全軍をこの場に集結させます。ミュラー提督も急いで下さい、但し焦らずに」
『はっ』
通信が終ると艦隊の進撃を止め、全軍に集結するようにと命じた。辛いところだな、原作ならラインハルト一人を殺せば良かった。だがこの世界は違う、俺を殺しても帝国軍が退く事は無い。だから帝国軍に決戦を挑み勝たなければならない。同盟軍はフェザーン方面軍の来援を待って決戦を挑んで来るはずだ。乾坤一擲、決死の戦い……。誘いに乗ってやろうか。
宇宙暦 799年 3月 30日 シヴァ星域 第十五艦隊旗艦デュオメデス ラルフ・カールセン
「閣下、如何なさいますか?」
ビューフォート参謀長が幾分不安げに訊ねて来た。
「さて、如何したものかな?」
「ヤン提督が単独で帝国軍と戦闘に入ったという事は無いでしょうか?」
なるほど、それを心配したか。
「可能性は有るが低いだろうな。後退する帝国軍に慌てた様子は無い。ヤン提督が後方に居る事が分かって態勢を整えようとしている、そんなところだろう」
帝国軍が後退している。おそらくはヤン提督の艦隊が帝国軍の哨戒部隊に接触したのだろう。帝国軍は前後からの挟撃を恐れている。艦隊の列が前後に長くなっている事にも不安を感じた様だ。艦隊を集結させている。
用心深いな。こちらは合流しても二個艦隊、帝国軍は六個艦隊。戦力差は圧倒的だが帝国軍は驚くほど慎重だ。俺が帝国軍の指揮官ヴァレンシュタインなら後方の二個艦隊にヤン提督を警戒させ前方の四個艦隊で俺の艦隊を叩く。当然だが俺の艦隊は劣勢になる筈だ。そしてヤン提督は俺を救援しようとするだろう。そのヤン提督の艦隊を後方の二個艦隊で叩く。二個艦隊を各個撃破出来る筈だ。
ヤン提督を警戒しているのか、或いは二正面作戦を嫌ったか。だが悪くない、好都合だ。こちらとしてはフェザーンからビュコック司令長官が戻るまで多少の時間稼ぎが必要だからな。ヴァレンシュタインはこちらの狙いに気付いていないのかな? そうは思えん、となるとフェザーン方面のメルカッツを信頼しているという事か……。
「艦隊を前進させますか?」
「そうだな、前進させよう。但し、ゆっくりとだ」
「はっ」
ビューフォート参謀長が嬉しそうに応えオペレーター達に指示を出す。艦橋に活気が戻った。やはり攻勢を採らねば士気は上がらんな。
問題はこの後だ。戦場は出来ればジャムシード星域がベストだ。上手く行けば前後から俺とヤン提督、側面からビュコック司令長官、三方向から帝国軍を囲める。そうなれば撃破にも時間はかからんだろう。そして態勢を整えフェザーン方面から来る帝国軍の別動隊に対処する。条件は厳しいが不可能ではない。問題はどうやってジャムシードに誘導するかだな。
或いはヤン提督との合流を優先し帝国軍を少しづつジャムシード星域へ誘導するか。こちらの方が現実的では有る。但し、合流すれば帝国軍はこちらに攻撃をかけて来る筈だ。それを凌ぎながらジャムシード星域へ誘導する事になる。果たして自軍の三倍の兵力を有する帝国軍を相手に何処まで耐えられるか……。一つ間違うとこちらが撃破された後ビュコック司令長官が撃破されるという状況になりかねない。
ビュコック司令長官は何処まで戻ったかな。ランテマリオ星域にまで戻っただろうか? そこまで戻れば後はジャムシードまで一直線だ。急げば十日程でジャムシードに到着する。そしてシヴァとジャムシードの間は短い、移動には三日も有れば十分だろう。となるとヤン提督の合流はもう少し後の方が良い。決戦は四月の上旬か……。
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