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月に咲く桔梗

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第1話

『この衣着つる人は、物思ひなくなりにければ、車に乗りて、百人ばかり天人具して、昇りぬ』
                     ――――――「竹取物語」より




 
 高山浩徳は毎年訪れるこの梅雨の季節が嫌いだ。小雨の意地悪く降り続くのがどうも好かないらしい。どうせ降るならざっと降ってくれりゃいいのにと考えながら、いつもならマウンテンバイクで力強く上っていく『もぎとり坂』を、今日は根気よく歩いている。水たまりにうっかり足を入れてしまえば最悪だ。浩徳の視線は常に自分の足元を向いていた。
 
 雨とは天の恵みである。地上で繁栄する生物の大半は真水無しでは生きられないし、海水を我々が生きるための水に変えてくれる雨は誰にとってもありがたいものだ。けれどもこの月姫町は山奥にあるわけでもないので、降った雨はすべて歩道脇の排水溝かコンクリートで舗装された用水路に流れ出てしまう。降ってもたいして恩恵は受けない。せいぜい月姫神社がある『わかれの森』の木々が青くつややかになる程度であろう。
 
 足元を見続けるのもいよいよ辛くなってブロック塀に目をやると、五百円玉くらいの大きさのかたつむりがよじ登っているのを発見した。まあ、こいつにとっちゃ大事だよなあと思いながら、浩徳はなめらかに壁面を進むかたつむりの殻をやさしく触れてみる。
 

「おーい、ヒロ」


 自分を呼ぶ声に誘われて後ろを見ると、松本優大が駆け上がってきているのが見えた。腰のあたりで踊っているスポーツバッグは傘からはみ出て、濡れてしまっている。
 
 歩道にできた小さな小川を軽く飛び越えて、優大は
 

「梅雨の時期は心が躍るな」
 

 と浩徳の肩をたたいた。


「踊るわけないだろ、馬鹿か」
 

 浩徳はうんざりだといった顔でそう答えると、差していたビニール傘で優大の黒い無地の傘をたたいた。水滴がはじけ落ちる。

 
「俺はお前みたいにじとーっとしてないだけー」
 

「うるせえ」
 

 優大の満足そうな顔を見て、浩徳は無愛想に返事をして隣に人が一人入れるスペースを作ってやった。
 
 家が近いこともあって小学生から親しい仲の二人は、「お前はあーだこーだ」と言い合いながら坂を上り続ける。放課後はたいてい一緒に下校しているが、前述の通り浩徳が自転車を使っているせいで朝は別々に登校している。だから、二人が並んで坂を上る光景は珍しかったし、普段とは違うからなのかは分からぬが浩徳の気分も多少良くなった。実際、歩道脇に群生するアジサイの葉は、雨粒を重そうに背負いつつも主役に負けず劣らず、鮮やかに見えた。

 彼らが上っているこの『もぎとり坂』は、坂の下から見るとただのゆるい坂のように見えるが、上り始めればとにかく長く、頂上に近づくにつれて傾斜もきつくなる非常にたちの悪い坂である。まさにやる気と体力を「もぎとる」坂であり、日本三大拷問坂に入るんじゃないかと鼻を高くして話す者もいる。
 
 それでも、負けじと頑張って歩みを進めれば、ゾンビ映画にも出てきそうな荘厳さを持った門の奥に、白い肌が美しい五階建ての校舎が二つ構えているのが見える。彼らはこの月姫町最大の私立学園、月姫学園の高等部に通っている。熱心な教育ママが有難がって我が子を受験させるような学校である。菜園施設まで備えた広大な敷地(東京ドーム数個分あると言われている)の次に目立つ特徴と言えば、中高一貫校ではあるが高校からも生徒を募集していて、かつ学び舎とカリキュラムが区別されていることだろう。というのも、高等部からこの学園に通う生徒は中等部から入学した生徒と比べて未習範囲が広すぎるので、差を埋めるために倍近い勉強をこなさなくてはならない。したがって、それぞれのカリキュラムも異なるし、中学校から入った優大と高校から入った浩徳が同じ教室で机を並べることはないのだ。
 
 ただし、豊かな人間性を育むためとして、部活動、運動会や文化祭などの学校行事は共通である。生徒たちは『懲役六年』だとか『禁固三年』などといった言葉を使って自らの所属を明らかにしているようである。
 

「じゃあ、ヒロ、放課後部活で」
 

 バッグが肩からずり落ちそうになるのを直しながら、優大は浩徳に掌を見せて西館の方へ歩みを早める。


「じゃあな」
 
 
 優大のバッグを横目で見て、浩徳は東館へ歩いていった。


 
* *



 雨の日は廊下がよく賑わう。

 屋外で活動する部活の朝練は軒並み中止となり、行き場を無くした生徒たちが安住の地を求めて学校中をさまよっているのだ。自らの教室で騒ぎ合うことに飽きれば、他の教室へ移動してまた騒ぎ、朝礼の時間が来るまでそれを繰り返す。上流から流れてくる流浪の民たちを上手にかわしながら、浩徳は東館の階段を上っていた。
 
 浩徳のクラス、高二―Cの教室は東館の三階にある。東館は『禁固三年』の生徒たちが通っていて、百八十人前後の生徒が六クラスに割り振られ、それぞれアルファベットで区別がなされている。他の進学校にありがちな『特進クラス』は『学園の意向』から設定されていない。
 

「オッス、高山」
 

 開きっ放しの教室のドアを軽く撫でて自分の席へとまっすぐ進む浩徳に、クラスメートの一人が声をかけた。

 
「おはよう」
 

 浩徳はそっけなく返答する。さびしい会話か。いや、高校生の朝一番の会話などこんなものだろう。当の本人たちも「なんだこいつ、つれないやつだな」などと互いに憎み合ってはいない。浩徳は傘をきゅっきゅと丁寧に巻いて傘立てに差した。
 
 クラスでは二、三人が固まって思い思いの話をしている。部活や授業、食べ物、趣味、テレビ番組のあれやこれやが教室中を飛び交う中、窓際の席で浩徳は一人静かに音楽を聴いている。もちろん、クラスの中に話し相手がいないわけではない。クラスメートの皆が彼の朝の日課を分かっているから、誰も話しかけないだけなのだ。名誉のために、補足しておこう。
 
 朝の八時半を知らせるチャイムが鳴り、朝礼の時間になった。生徒たちは皆自らの教室へと入っていく。ざわついていた廊下の人影もなくなり、こだまするのは教室から聞こえる話し声だけとなる。この教室にも担任の中森が入ってきた。
 

「日直は号令を宜しくお願いします」
 

 浩徳はイヤホンの片方を外して、けだるそうに立ち上がった。
 
 今日はありふれた一日でありますように。窓の外の低くて黒い雲をじっと見つめた。



* *
 
 

 朝礼の前、ざわついている教室の戸がガラッと大きな音を立てて開いた。
 

「ういー。みんなおはよう」
 

 西館は三階、高二―四の教室に入ってきたのは優大だった。真ん中よりも少し右の列の一番前の席に、雨に濡れたスポーツバッグを置く。彼が教室に入ってきたことをクラスの皆がすぐに気づいた。
 

「セーフ。ぎりぎり朝礼に間に合った」
 

 机のフックにバッグをかけながら、優大は大きく息をはいて椅子に座った。
 

「松本はいつもギリギリだな」
 

 クラスメートの男子が声をかける。


「毎日がスリル満点さ」
 
 
 キザな俳優の真似をして優大はこれに応えた。
 
 中身のない会話でも、優大は男女問わず同級生と話すのが好きだ。いつも遅刻しそうになるのも、自分の教室にも行かずに他のクラスで話し込むからである。顔の広さは学年一と言っても過言ではなく、「あの子と仲良くしたい」などといったスケベ心満載な男子にとっては『神様、仏様、松本様』などと言われる始末である。
 
 そんな彼の特技と言えば、「なんでも話のネタにできる」ことだ。
 
 例えば
 

「そういえば、杉山お前音楽取ってたよな。どんな感じ」
 
 
 と、優大がたまたま前を通りかかったクラスメートに釣り糸を垂らせば
 

「ああ、立野ちゃんの話がマジで面白い」
 
 
 としっかり食いついてくれる。会話の急発進にもかかわらずそれほどの躍度を感じさせない彼の話題選びは、話し相手の経歴や近況、性格などの要素を踏まえた、綿密な計算がなされたものだ。天賦の才とはこのことか、と人々が彼に純粋な尊敬のまなざしを向けるのもごくあたりまえなことである。なにより、目立つ者を排除しようとするちっぽけな民族意識がこの学園にはないことも事実であろう。
 
 さて、見事な一本釣りを見せてくれた神様は
 

 「そうかあ。やっぱり取っとけばよかったなあ」
 
 
 といって悔しそうに頬を両手で延ばしていた。というのも、彼は昨年度の担任だった立野と仲が良かったのだが音楽の才能はこれっぽっちもなかったため、どちらかと言えば得意の美術を選択せざるを得なかったのだ。学生の本分と言えば勉学なのだから、仕方があるまい。
 
 浮ついた教室の空気を切り裂くように戸が勢いよく開くと、ジャージ姿に健康サンダルを履いた、ガタイの良い教師が入ってきた。
 

「先生、おはようございます」
 

 優大が顔をピシッとさせて、友人に話すのとは違った大人びた声であいさつをしているのは担任の矢代だ。
 

「おう、松本か。ちょうどいいからお前号令かけろ」


「ういっす。おい男ども寝てないで立てー」
 
 
 彼を信頼するのが生徒だけではないという事実は、こうして『体育科の玉鋼』とも言われた頑固おやじによって裏付けられたのだ。
  


* *
 


 退屈な朝礼が始まったが、まだあたりはざわついている。浩徳はというと、担任の中森が彼の名前を呼んだ時だけプログラム通りに手を上げるだけである。この単純な作業もいつかは機械が全部やってくれるだろう。もう少しの辛抱だと考えたが、その頃には俺もおっさんだな、とつぶやいて、片耳だけ外していたイヤホンをまた耳に押し込んだ。
 

「――あと、中間試験の結果が悪かった人は課題を渡すので、前に来てください」
 

 無慈悲な中森の言葉に、クラスの中の一人が不満そうに声を上げた。
 

「はあ? 公開処刑かよ」
 

 自分が勉強しなかったのが悪いのだから、仕方あるまい。
 

「はい、石田君前来てください。課題あげます」
 

「いらないよお……」
 

 悲痛の叫びに教室には笑いが満ち溢れる。だが、次に中森の口から出た言葉は、そんなほのぼのとした朝の風景の流れを断ち切るものだった。
 

「さて皆さんも気づいているでしょうが、始業式の時から席が一つだけ余っていますね。そこに今日から、ある人が座ることになります」
 

 おお、と教室のざわめきがどよめきへと変わる。
 

「一学期の途中ですが、今回このクラスに編入してくる青山美月さんです」
 

 戸を開ける乾いた音の後に、その生徒は入ってきた。

 「ありふれた一日を」という誰かさんの願いは、こうして打ち砕かれたのであった。

 
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