黒魔術師松本沙耶香 毒婦篇
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8部分:第八章
第八章
「例えそれが御命を頂戴する方であっても」
「わかっているけれど聞いておくわ」
沙耶香は自分の命を狙っていると告げてきた男に対して問うた。
「それは李妖鈴の命令なのかしら」
「さて、それはどうでしょうか」
しかし男はその問いには答えようとはしない。
「私では。わかりかねますので」
「生きては答えないということね」
それならば方法はある、沙耶香は言葉の外でそう男に言っていた。
「わかったわ。それじゃあ」
「どうやら。観念されたそうね」
「また随分と面白い解釈ね」
男の言葉にあえて丁寧に笑ってみせる。
「生憎私は諦めの悪い女なのよ」
「というと。私と闘われるのですね」
「ええ、そのつもりよ」
言いながら構えを取る。その両手に紅い薔薇の花を持っている。
「薔薇の花ですか」
「そうよ、私はこの花が大好きなのよ。女の子と同じ位ね」
「ほほう、女性がお好きですか」
男は沙耶香のその言葉に笑ってみせる。
「それはまた。随分と楽しいご趣味で」
「女の肌の悦びは女だけが知っているもの」
沙耶香の言い分はこうである。彼女は女の肌を心より楽しんできている。そのことを話しながらも薔薇を掲げる。掲げられたその紅い薔薇は沙耶香の手を離れ花びらに散った。散った花びら達が一枚また一枚と散り沙耶香の足元も池も全て紅く染め上げたのであった。
「紅い薔薇を。また何に使われるのですか?」
「さて、何かしら」
うっすらと笑ってそれには答えない。答えずに笑っているだけである。
「ただの薔薇と思うのかしら」
「そうですねえ」
男はくくくとくぐもった笑いを浮かべながら沙耶香に応える。
「まあ普通のものではないでしょうね」
「あら、用心深いのね」
「何、私は臆病な男でして」
笑いながらも身構える。その時。
「むっ!?」
「用心深いといってもこれは予想していなかったようね」
沙耶香の声が笑っていた。何と薔薇の花びら達が舞い上がり男に向けて襲い掛かって来たのである。
「むっ、これは」
「これが私の薔薇なのよ」
沙耶香はあえて薔薇の陣の中から動こうとはしない。彼女が動かずとも紅い薔薇の花びら達が男に対して襲い掛かっていた。彼女はそれを見て笑うだけであった。
「この薔薇は動くものに反応する」
「動くものに。それじゃあ」
「ええ、それがこの紅い薔薇」
こう男に対して告げた。
「動く相手に襲い掛かり。そして」
「そして?」
「毒で眠らせるものよ」
「成程、そうした薔薇ですか」
「そうよ。紅い毒の薔薇」
笑いながらまた薔薇を出す。今度は黒い薔薇であった。
「そして。この薔薇は」
「黒薔薇ですか」
「そう、これはこう使うもの」
言いながら男に対して投げる。数本の薔薇が弓矢の様に男に対して投げられた。
「紅い薔薇は包み込むのに対してこれは突き刺すもの」
「つまりは。手裏剣ですか」
「そう考えてもらうといいわ。ただ」
「ただ?」
「ただの手裏剣とは思わないことね」
男に対する言葉はこうであった。黒い薔薇はそのまま一直線に男に向かいその胸を突き刺そうとする。
「その薔薇にも毒があると」
「だとしたらどうかしら」
またしてもあえて答えはしない。
「逃れるというの?」
「はい、その通りです」
そこまで言うと姿を消す。そうして二色の薔薇だけ残して男はその場から姿を消したのであった。
「消えたのね。けれど」
沙耶香は周囲の気配を探る。男がそのまま消えたとは思ってはいない。
「まだここにいるわね」
「おやおや、用心深い方で」
また男の声が聞こえてきた。
「私がまだここにおられると」
「わかるわ。気配でね」
沙耶香は男の声に対してこう言葉を返す。言葉を返しながらも黒薔薇を手に持ったままである。その先は鋭く尖りまるで剣の様である。
「殺気、いえ妖気に満ちているから」
「それが貴女に対して向けられているというわけですか」
「そうよ、ドス黒いまでのものがね」
言いながらも動かない。あくまで紅薔薇の陣の中にいる。さながら巨大な薔薇の大輪の中に立っているようである。
「感じるわ。私を殺したくて仕方がないと。いえこれは」
「これは?」
「そうね、貴方のものではないわ」
その妖気を感じ取りながらの言葉であった。
「これは。むしろ」
「それ以上のお言葉は不要ですよ」
その言葉と共に何かが来た。それは白い数条の糸であった。
「糸、ね」
「そうです。私の愛する糸達です」
「愛する?」
「はい、こうして」
糸が迫る。するとそれだけで沙耶香の持っていた黒薔薇を切り裂くのであった。
「薔薇を!?」
「薔薇だけではありませんよ」
男のくぐもった、それでいて楽しそうな声がまた聞こえてきた。
「この糸は何でも切り裂きます。そう、あらゆるものを」
「成程ね、それが貴方の武器なのね」
「武器などではありません」
武器ということは否定してきた。
「あくまで私の身体の一部なのですよ」
「身体のね」
「それは誤解なきよう」
あえてそこを強調してきた。
「わかったわ。それでその身体で私を切り裂くというのね」
「貴女はお美しい」
「お世辞はいいわ」
それを拒んだのは謙遜ではなかった。
「本当のことを言われても嬉しくはないわ」
「その自信ですらも美しい。しかしだからこそ」
「切り裂きがいがあるというのね」
「そうです。だからこそ」
男の声に残忍な笑みが宿った。そうして風と共に糸が迫る。そのまま沙耶香を切り裂くかと思われた。だがそれはならなかった。
「今度は?」
「黄色よ」
沙耶香の周りに黄色い薔薇の花びらが舞っていた。それで糸を止めていたのだ。
「この薔薇はまた特別で。私を守るものなのよ」
「護りの薔薇ですか」
「ええ、黄色は幸福の色」
それを言う。
「私を守ってね」
「おやおや、それなら青の方が相応しいのでは?」
男の声は姿を消したままである。それでもはっきりと聞こえてきていた。
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