黒魔術師松本沙耶香 毒婦篇
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10部分:第十章
第十章
「貴方が何処に隠れても同じですよ」
周囲に糸を巡らせながら姿を見せない沙耶香に対して言うのだった。
「この糸の前にはね」
「そうなの」
「そうです。今度はあの黄色い薔薇もありませんし」
「ええ、それはね」
沙耶香もこれについては認める。
「ないわ。確かに」
「だとすれば。私にとっては何の問題もありません」
声が明らかに笑っていた。
「私にとっては。何も」
「言うわね。果たしてそう上手くいくかしら」
だが沙耶香はその笑い声に対する。臆してもいなかった。
「世の中は面白いもので。予想外のことになっていくものよ」
「時としては、ですね」
「ええ」
また男の言葉に応える。
「そしてそれは今もそうよ」
「どうしてもそう仰るのですね。強情な方です」
「あら、私が強情だというの?」
沙耶香の声はその言葉を聞いて面白そうに笑うのだった。
「またそれは面白い解釈ね」
「そうでしょうか。私はそう思うのですが」
「残念だけれど違うわ。こう見えても頭は柔らかいから」
そう言ってそれを否定する。否定しながら何かを構えたようである。それは気配からわかる。しかしその気配が何処からなのかは探らせないのだった。
「確かなこと意外はそうは言わないのよ」
「それが強情なのでは?」
「違うわ。今その証拠を見せるわ」
そう言うと何かの気配がした。それは薔薇の気配であった。沙耶香は己の気配を薔薇にたくしていたのであった。
その気配が放たれた。見ればそれは紅薔薇であった。紅の陣をまた動かしたのであった。
「おやおや、何を為さるかと思えば」
男は紅薔薇の花びら達を感じてくぐもった笑いを見せるのであった。
「またそれですか。それでしたら」
また気配を消そうとする。しかしその時だった。
「むっ!?」
思うように身動きが取れない。最初に気付いたのはそれであった。
「これは一体」
「それが蒼い薔薇の毒よ」
沙耶香の声が言う。
「紅薔薇も黒薔薇も死へと誘うものだけれど蒼薔薇は」
「死には至らせないが身体の動きを痺れさせる」
「そうよ。麻痺させる毒」
男に対して述べる。
「それが蒼薔薇の毒よ。ただの目晦ましではないのよ」
「そうでしたか。中々手が込んでおられる」
「そして」
沙耶香の言葉はそれで終わりではなかった。
「それだけではないのよ。薔薇は」
「そうですか。あの薔薇ですか」
「そうよ。これがその薔薇」
黒薔薇がここで放たれる。それが動きを鈍らせている男に対して放たれた。
黒薔薇は一直線に向かう。男は動きを鈍らせていたがそれでもその薔薇を見ても何とも思わなかった。楽に防げると判断していたのだ。
「この程度なら」
「問題ないというのね」
「その通りです」
先程までとは速さが違うがそれでも手を動かす。そうしてその先にある糸で黒薔薇を切り裂いた。黒い花びらが散る。しかし。
「!?」
「そう、これが私の五つめの薔薇」
沙耶香の言葉が笑った。
「白薔薇はこれまでの薔薇とはまた違うわ。それは」
「それは」
「心臓を貫き一瞬のうちに毒を身体に回らせる」
その言葉の間にも薔薇は飛び男の胸に迫る。そうして彼の心臓を静かに貫くのであった。
「白薔薇の毒は黒薔薇の毒よりも鋭く残忍なもの」
男に対するはなむけの言葉のようであった。
「一瞬のうちに心臓から全ての血を抜き取りそうしてその血を己がものとするのよ。どうかしら」
「ふふふ、お見事です」
男は白薔薇を胸に受けながらもまだ笑っていた。しかしその顔はもう死相となっていた。
「まさか。そういうふうな薔薇だったとは」
「意外だったみたいね」
「そうですね。流石にこれは」
男は前によろめきながら述べる。もう終わりなのは明らかであった。
「想像しませんでした。私の負けです」
「では戻るのね」
沙耶香の声が薔薇に覆われた池の中に崩れ落ちようとする男に対して告げた。
「戻る?何処に」
「何処にではないわ。この場合は何にね」
沙耶香はそう言葉を訂正させた。
「生憎だけれど」
「そうですか。仰る意味がわかりませんが」
「貴方は人間ではないのよ」
沙耶香の言葉が彼に告げる。
「貴方は気付いてはいないけれどね」
「人間ではない。それでは私は一体」
「そこまで考える必要はないわ」
崩れ落ち今池の中に落ちようとする男にまた言った。
「貴方はね」
「それは。思いやりでしょうか、私の」
「そう考えるのならそう考えていいわ」
「そうですか。それではそう考えさせてもらいます」
「ええ、どうぞ」
これが最後のやり取りであった。男はそのまま崩れ落ちた。その後には人型の紙人形が落ちていた。その周りを糸でくるまれていた。
「紙の傀儡だったのね。やっぱりね」
ここでようやく沙耶香の姿が出た。すうっと姿を現わしてその紙人形の側まで来る。そうして水面の上に立ちながら見下ろしていたのである。
「となると。操っているのは」
考えを巡らせる。その間に左手の親指と人差し指をパチンと鳴らす。するとそれまで辺りを覆っていた紅薔薇達が消えていく。そうするとそれまで誰もいなかった辺りが急に人がごったがえしていた。どうやら何時の間にか鏡の世界での戦いになっていたらしい。
「世界まで変えられるのね。どうやら思ったより手強い相手ね」
それを確認してからは姿を消した。そうして沙耶香は何事もなかったかのように豫園の観光を再開する。それまでの闘いが嘘であったかのように優雅に楽しむのであった。
豫園での闘いを終えた沙耶香は上海の市街地を歩いていた。そこで一人の美女と擦れ違った。
その美女は二十代前半の黒髪の美女であった。背が高く長いその黒髪を後ろに伸ばしている。青く整ったスーツに包まれた肢体はそのスーツの上からもはっきりとわかる程に整っている。とりわけタイトから見える脚が艶かしい。
顔は中国系の顔だった。やはり切れ長の目と細い顔が印象的だ。化粧もその中国風の美貌を際立たせるかのようにアイラインを強調し小さな唇を紅に塗っていた。
沙耶香は彼女に顔を向ける。そうしてすぐに声をかけた。
「待って」
「はい?」
振り向いた時の声も硬質の高さを持つものであった。何処か氷を思わせる声でそれもまた沙耶香にとっては好ましいものであった。この声を聞いて決めたのであった。
「貴女。これから何処に行くのかしら」
「何処にですか」
「ええ。仕事かしら」
そう彼女に問うたのだった。
「今から」
「いえ、違います」
ここで彼女が述べた答えは彼女にとっては望ましくない結果を導くものであった。もっとも沙耶香は彼女がどう答えようが望むものを手に入れるつもりであったが。
「もうそれは終わりましたので」
「じゃあ後は帰るだけなのね」
「はい、そうですけれど」
「わかったわ。なら何の問題もないわ」
そこまで聞いて悠然と笑うのであった。
「それなら。ゆっくりと楽しめるわ」
「ゆっくりと、ですか」
「時間はあるわね」
また美女に対して問う。
「これから夜まで」
「そうですけれど。それが一体」
「時間を聞くのが悪いのかしら」
またあえてとぼけてみせたかのような声を彼女にかける。
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