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Absolute Survival!! あぶさばっ!!

作者:罪さん12
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第二話 平和な平凡の終わり




 昼休憩も終わり、また三時間の退屈な授業を受ける。

 それも終わると、いよいよ下校の時刻。

 一日の学業が終わりを告げ、部活に赴く者、教室に居残って取り留めもない話に花を咲かせる者、さっさと家路を急ぐもの。

 琉は後者のさっさと下校してしまう者の部類だ。颯はフェンシングの練習があるのだとかで、別れだけ告げて体育館へと行ってしまった。

 琉は部活に入っていないのかと聞かれれば、否、一応だが部活には入っている。琉が所属する『文芸部』は主に小説の執筆やイラストを描いたりするだけの部活で、基本的には自由参加なのだ。

 そのため幽霊部員も多く存在し、琉もその一員となりつつある。一か月に一度は部室に顔を出す程度だが、別にお咎めもない。まぁそれは、琉にあまり下級生も上級生も近づきたがらないという哀しい理由があるわけだが。

 琉は学校の隅に設置されている自転車置き場から自分のママチャリを出し、一人で帰途に着く。

 帰っている途中に、下校途中の小学生に指を差されたり、女子高生がコソコソと耳打ちをし始めたり、散歩中であろうコーギーに物凄く吠えられたりしたが、これらはいつものことなので割愛。

 約四十分間の長い道程を自転車で走りきり、琉はようやく自宅へと到着する。

 朝のようにママチャリを家の自転車置き場に停め、カゴの中の学生鞄を持って玄関へと向かう。

 玄関まで行く途中、石垣から隣に住んでいる泉谷さんが「お帰りなさい琉くん」と挨拶をしてきたので、軽くこれに返す。隣の泉谷さんはご近所付き合いが長いせいか、琉のことをあまり怖がらない。むしろ息子のように可愛がってくれていて、よくお菓子などをくれるのだ。

「ただいまー」

 玄関を開けながら言うと、家の奥から「お帰り~。今日も早いわねー」と母の声が聞こえてきた。

 母の皮肉ともつかない言葉を無視して、琉はさっさと階段を上がり、自分の部屋へと向かう。

 琉の部屋は階段を上がってすぐ左だ。琉は自室の扉を開け、後ろ手に扉を閉めながら学生鞄を机の上に放り投げる。

 琉の部屋はなんというか、とてもシンプルだ。六畳あまりの室内にはベッド、その横にあるサイドテーブル、勉強机、本棚とクローゼットくらいしかない。しかも本棚にはあまり本は置かれておらず、とても寂しい風景だった。

 琉は学生服のブレザーだけを脱いで雑に床へ放り投げると、カッターシャツを着たままベッドに寝転がる。

 そしてネクタイを緩め、一息ついたかのように深くため息を吐き出した。

 琉の今の格好は、白いカッターシャツに緩んだ千鳥柄のネクタイ、灰色の学生ズボン。

 わざわざ部屋着に着替えるのもおっくうなのか、カッターシャツが皺になるのも気にしない様子で、ベッドの上をゴロゴロと転がり始める。

 数分間も転がった後、琉はパタと転がるのを止めた。

 頭の上で開け放たれた窓から、五月の爽やかな風が流れ込んでくる。

 陽が沈むにはまだ早い時間だが、太陽の光は影を潜め、部屋には涼しい空気が満ち足りているよう。


 うつらうつらとしていた琉は、いつの間にか深い眠りへと落ちていった。


     









―――――――ドンッ ドンドンッ、ドン…………。




 鈍く、重い音。


 それは何かが扉にぶつかり続けているような、まるでノックでもしているかのようなくぐもった、音。

「な、んだ……。今何時だと…………思って」

 寝言のように呟いた琉は、そこでハッと目が覚める。

 ガバッとベッドから身を起こした琉は、窓の外が真っ暗になっていることに気が付いた。

 急いで時計を見ると、時刻は夜の八時。

「(……気付かないうちに寝ていたのか……。……母さんは起こさなかったのか?)」

 琉の家は晩ご飯が六時と比較的早いので、そのくらいの時間には母が起こしにくるものだと思っていた。

 それがこんな時間まで放っておくとは、あの母の性格からしてあまり考えにくいのだが……






――――――ドンドンッ ドンッ――――――



「?!」

 突然響いた音にビクリと肩を震わせて驚いた琉は、音の原因である部屋の扉に視線を向ける。

「……誰だ?母さん?」

 琉が訝しげに尋ねるも、扉の外から返事は、無い。相変わらず『ドンッ、ドンッ』と扉を叩く音だけが部屋の中にこだまする。

「…………?」

――――夏帆のイタズラだろうか?それとも母が悪ノリしているだけ?

 そんなことを考えながら扉まで歩き、ドアノブに手を掛ける。

 念の為「ねぇ、開けるよ」とだけ断り、慎重にドアノブを回して少しだけ手前に引く。

 と、



「―――――――――――ッ?!」



 扉の外に居たのは、妹の夏帆。

 琉が少しだけ開けた扉の隙間から、顔の半分だけがこちらを見上げている。

 しかし、それは本当に夏帆なのか?

 そう疑ってしまう程に、今の夏帆は、様子とその姿が異様だった。

 こちらを見上げている瞳は真っ黒に染まって、瞳孔だけが不気味な朱色に輝いている。

 いつも明るく笑っていた口元は、今や歯をむき出しにして涎と赤黒い液体をぼたぼたと滴らせているのだ。

 そして何よりも目を引くのが、その立居姿だった。

 脱力でもしているかのように両腕をだらんとぶら下げ、かくんかくんと揺れ動く頭部は、まるで傀儡師に操られている人形のよう。

 不気味を通り越し、その姿はもはや恐怖しか浮かばない。

「っあ、ひっ、」

 琉は叫び声を上げそうになるが、舌がうまく動かず、声にならない声だけが喉の奥から絞り出される。

 そして夏帆が「あァ」と呻き声のような音を発したかと思うと、僅かに開いていた扉を『ドガッ』と両腕で殴りつけた。

 その瞬間、琉は風景がぐるんと一回転して、その直後に想像を絶する痛みが全身を駆け抜け、同時に頭上で「ガシャァァ」と窓が威勢よく割れる音を聞く。

「?!……ッ!」

 いつの間にか琉は自室の出入り口から反対方向に位置する窓の下に尻餅をつき、苦痛に顔を歪めていた。木製の扉があったはずの出入り口には、無残にも壊れた金具だけがキィキィと音を立ててぶら下がり、先程同様に妹の夏帆がふらふらと揺れながら立っているだけだ。

「な、に……が……?」


 琉は茫然と今起こったことを理解しようとする。
まず、夏帆が扉を殴った瞬間、扉の金具が嫌な音を立てて壊れ、琉もろとも後方に吹っ飛んだ。

 次に琉と扉はゆうに五メートル以上も吹っ飛び、琉は窓の下の腰壁へとしたたかに背中を打ち付け、扉は窓ガラスごと下に落ちて行った。



―――――――意味が分からない。



 鈍痛が走る背中を押さえながら、最初に抱いた感想がそれだった。

 ただ殴っただけで、しかも妹みたいな非力な人間が扉を殴ったごときで、ここまで非現実的なことが出来るのか。

 否、出来ない。


「あ、はは……夢、か……。」

 夢。

 その一文字で片付けられれば、どれほど良かったか。

 恐怖でカタカタと鳴る歯をどうにか食い縛りながら、琉は床に手をついてなんとか立ち上がる。

 立った瞬間、生温かくドロッとしたものが鼻から出てきたことに気が付いた。

 扉で打ち付けたのか、それとも混乱のあまり脳がどうにかなってしまったのか、どくどくと鼻血が流れ出ている。

 琉は慌ててカッターシャツの袖で鼻血を拭い、背中の痛みに顔を顰めた。

 骨折や打撲はしていないようだが、少し身体を動かすだけで背中に痛みが走る。

 これが夢などとは、到底思えなかった。

 ならば、何か?よくテレビ番組で観るドッキリだとでもいうのか?

 しかし、先程は一歩間違えば窓から落ちていたかもしれない。運が悪ければ本当に死んでいたかも。そんなことをテレビでやるとは思えないし、妹の過ぎたイタズラとも思えない。

 琉が困惑して立ち尽くしていると、今までフラフラと立っていた夏帆が急に動いた。

「か、夏帆……冗談は止めてくれ……な?」

 一歩、また一歩と琉に近付いてくる夏帆に向けて、琉が裏返った声を出す。

 しかし夏帆は「アぁ、ンァあ」と奇妙な奇声を上げながら止まる様子は無い。



―――――――殺される。



 琉が本能的にそう思った時には、もう遅かった。

 突然夏帆が琉に飛び掛かり、歯を剥きだしにして琉に噛みつこうと掴みかかってくる。

 琉は咄嗟に夏帆の両腕を掴むと、片足で腹部を蹴って押さえながら、なんとか噛みつかれることだけは阻止した。

「グぁあァあァァッ、あアぁぁ!」

 夏帆は気持ちの悪い叫び声をあげて身をよじり、琉の手を振りほどこうとする。

 夏帆の力は想像を絶するほどに強く、少しでも気を緩めればすぐに振りほどかれてもおかしくはなかった。

「やめろっ、寄るなぁぁあ!」

 琉は渾身の力で夏帆を蹴り飛ばす。

 その衝撃で夏帆は床に投げ出され、受け身も取らずに背中から倒れた。

「(なにか武器―――なにか武器はっ!)」

 夏帆がバタバタと床でもがいている間に、琉は武器になるものを探して部屋の中を見回す。

 と、ちょうど琉のすぐ近くの床に、黒い木刀が落ちているのが見えた。

「(この木刀は……)」

 刀身に龍の文様が描かれ、墨かなにかでぬったかのように黒い木刀。

 これは四年前の中学三年生の修学旅行にて、見た目がかっこいいからとノリで購入したものだった。しかしいざ持って帰ってみると使い道のない邪魔なだけの置物と化し、今まで部屋の隅っこに立てかけてあったのだ。

 それがまさか、こんな事態で役に立つとは。

 琉は急いで黒い木刀を拾い上げ、夏帆に向けて構える。

 夏帆はようやく立ち上がり、またもや両腕を振り上げて琉に襲い掛かってきた。

 夏帆が振り下ろした両手を、琉が木刀の刀身で受け止める。木刀が「ミシッ」と嫌な音を立てたが、なんとか折れずに受け止めてくれたようだった。

 その隙に琉は腰をかがめて、夏帆に足払いを掛けようと思いっきり夏帆の片足を蹴った。

「?!」

 しかし、夏帆の片足はビクともしない。先程後ろ向きに倒れたのが嘘のように、全く効いていなかった。

 琉がしまったと思うよりも早く、急激に夏帆の力が強まっていく。

 木刀を支えている両手はすでに限界に近いが、それを遙かに上回る力で、夏帆が琉を窓枠に押し付けていった。

「(もう……駄目か……)」

 琉は首元にまで木刀を押し付けられ、上半身はすでに窓から落ちそうなほどに反り返っている。いくら二階だからといっても、ここから落ちたら洒落にならないだろう。

 夏帆は今にも噛みつこうと琉に向かって首を伸ばし、歯をガチガチと打ち鳴らしている。

 両腕もだが、夏帆の胸部を押さえている足も限界だった。

 夏帆が琉の胸元に噛みつこうと、首を伸ばした、その瞬間。


 不意にどこか遠くの方角から、大爆発が起こったかのような物凄い轟音と熱波が押し寄せてきた。

 琉が居る二階部分にもその振動が伝わり、家自体が軋みを上げながら揺れる。

 その瞬間、轟音と震動に気を取られたのか、夏帆の琉を押さえつけてくる力が無くなった。

「(今だ!)」

 琉は夏帆が爆音に気を取られているその隙に、ありったけの力を片足に込める。

「うおおおおおおおおおおおおおおお!!」

 琉は腹の底からの叫び声とともに、夏帆の胸部を押さえていた足を蹴りあげ、木刀をブンッと窓の外へ放る。

 そして一回転でもするように窓の外へ放り出された夏帆は、握っていた木刀から手を離して三メートルも下のアスファルトへと落ちて行った。

 数瞬の後、窓の下で「グチャッ」という何かが潰れる音が琉の耳にこだまする。

「っはぁ、はぁっ、はぁっ……」

 琉が呼吸を整えるのも束の間、ハッと我に返って急いで窓から身を乗り出す。

 そして―――窓の下のアスファルトの上で、首が変な方向に曲がって辺り一面に鮮やかな華を咲かせて倒れている妹の姿を見、絶句する。


「……か、ほ…………」

 その変わり果てて死んでいる妹は、もうピクリとも動かない。

 琉は身体から一気に力が抜けていくのを感じ、へなへなと窓際の壁に寄り掛かる。

 猛烈な吐き気と押し潰されそうな罪悪感に打ちひしがれていると、突然窓の外から「い、いや、やめてっ!こないでっ!いや、いやぁぁぁあああ!」という女性の叫び声が聞こえてきて、琉は恐る恐る窓から下を覗き見た。

 もしかしたら夏帆の死体に通行人が気付いたのかもしれない。自分は現行犯として捕まり告訴でもされるのか―――そんな琉の考えを裏切る、絶望的な光景が目の前には広がっていた。



――――地獄絵図。



 そんな言葉しか浮かんでこない程、窓の外の風景は凄惨極まりないものになっていた。

 先程の叫び声の主であろう若い女性が、道路の真ん中で数人の男女に囲まれている。しかしそれは『襲われている』というよりも『捕食されている』という表現の方が近い気がした。

 「あっ……がっ……」と呻き声を漏らして両目をカッと見開きながら、女性が自分の『身体』が『喰べられていく』姿を茫然と見ている。

 群がっている男女は一心不乱に女性を貪り続け、その女性の手を、足を、内臓を引きちぎっては口へと運んでいく。

 その場所から数メートル離れた場所では、制服を着た少女が「助けて……」と慄きながら壁際まで追い詰められ、次の瞬間には一瞬の絶叫だけを残して人の群れの中に消えて行った。

 茫然と窓の下に広がる風景を眺めながら、街のあちこちに火の手が上がっていることに気が付く。

 先程の大爆発はタンカーか、あるいはガソリンスタンドで起こったのだろう。遠くに見える一部だけが、この広い街の中で一際激しく燃え上がっていた。



 こんなに大火災が起きているのに、消防車のサイレンが聞こえない。

 こんなに人が襲われて死んでいるのに、警察の一つも駆けつけてこない。



 何が起こっている?

 今日、学校から帰ってくるまでは平和そのものだったこの街に、数時間で何が起こった?

 人が人を襲って、あまつさえその肉を食べている。

 まさに狂気の極み。秩序も何もない世界。

 ああ、だけどこんな光景は、前にも見たことがある。

 自分はこの光景を知っている。ただ、そんなことが現実に起こるわけがないと、あり得るはずがないと。そんなのは画面の中の世界だけだと。

 あまつさえ、そんな世界になったら面白いんだろうな、などと楽観視していた自分に、唾を吐きかけたくなるような、嫌悪感。


 無性にこみ上げてくる吐き気を抑えながら琉が窓の外を見回すと、ちょうどここの窓の下で、一人女の子が泣いている姿を見つける。

 歳は五、六歳と言ったところだろう。一人でここまで来たのか、格好はパジャマに裸足だ。片手にウサギのぬいぐるみを抱きかかえ、「怖い、怖い!」と叫んで泣いている。
 その少女の声に反応したのか、わらわらと『奴ら』が集まってくる。このままいけば、数秒後には襲われてしまうだろう。



 しかし、琉は動けない。
 茫然と、事の成り行きを二階の窓から見守っているだけ。


 少女が『奴ら』に掴みかかられる直前、少女は頭上の琉の存在に気が付いたようだった。

 そして微かな希望にすがりつくように、その小さく細い腕を頭上の琉へと伸ばし、小さく「助けて―――!」と、言葉を紡ごうとした時にはすでにその姿は消えていた。

 肉の裂かれる音や骨の折れる不気味な音がし、少女は跡形もなくなる。

 リュウは今度こそ耐え切れなくなり、窓の外に向かって嘔吐してしまった。
 全身は恐怖のあまりガタガタと痙攣し、目からはとめどなく涙が溢れてくる。

 先程の少女は、こちらに助けを求めていた。一心に、死にたくない、と。
 しかし、琉の身体は恐怖で動かなかった。情けないことに、ただ傍観する者でしかなかったのだ。

 琉は口から零れ出る胃液を服の袖で拭くと、「動け……」と言葉を漏らす。

「動けッ!動いてくれッ!早く、ここから逃げないとッ!動け俺の脚ッ!」

 恐怖に打ち震える脚に活を入れるようにして、何度も拳で殴りつける。

 早くここから逃げないと、まずい。

 何人かの『奴ら』が、家の玄関を破壊して入ってくるのが見えたのだ。

 すぐにでも見つかってしまう。
 そうなれば、確実に殺される。

 嫌だ、死にたくない。

 助かりたい。なとしてでも、絶対に。

 だから。


「動け俺の脚ッ!頼むから逃げてくれッ!動けぇぇぇぇッ!」

 琉は決心したようにグッと両足に力を込めると、木刀を握ったまま自室を飛び出す。

 そして滑り落ちるように階段を駆け下りると、まずはリビングに向かった。

 リビングの中へと足を踏み入れた琉は、愕然と目を見開く。

 半ば予想して、もしやと思って覚悟はしていた。

 だが、現実にそれを見せつけられると、途方もない絶望が胸の内に広がっていくのが分かった。

 リビングの床の上には、エプロンを着けた『母だったもの』が、しゃがみこんで何かを貪っている。

 そして『母だったもの』のちょうど真下には、身体の肉をところどころ引きちぎられて、恐怖と痛みに顔を歪めて死んでいる父の姿があった。

 琉はまたこみ上げてきた吐き気をどうにか抑え込み、二人の姿から慌てて目をそらす。

 今は。

 今だけは、現実から目を逸らさなければならない。なるべく考えないようにしなければならない。

 そうしないと、泣いて、吐いて、叫んでしまう。

 膝を折って、絶望に酔いしれてしまう。

 そうなれば、音を聞きつけた『奴ら』は喜んで仲間に迎え入れてくれるだろう。

 しかし、それだけは嫌だ。

 絶対に、仲間になんてなってやらない。

 琉は二人をなるべく見ないようにして、台所へと慎重に足を運ぶ。

 どうやら、『母だったもの』はこちらに気が付いていないようだ。一心不乱に父を貪っている。

 琉はなるべく音をたてないようにキッチンの棚からありったけの包丁を取り出すと、刃にカバーが掛けられていることを確認して、学生ズボンの裾にねじ込む。

「(あとは……何が必要か……)」

 キッチンを見回すと、冷蔵庫が目に留まる。

 琉は静かに冷蔵庫の扉を開けて、中身をざっと確認した。

「(野菜、調味料、生鮮食品、冷凍食品は持っていけない……。………あ、これは……)」

 琉が手に取ったのは、数本のチョコバー。

 これは妹の夏帆が大好きだったもので、琉もよく分けてもらっていたものだ。

 唐突に夏帆のことを思い出し、琉の目からは大粒の涙が零れてくる。

 いくら夏帆がおかしくなってしまったとは言え、自分のこの手で殺してしまったのだ。

 今更ながらに人を殺したという実感が湧いてくる。しかも、血のつながった家族を、だ。

 あまりそのことについては考えないようにしていたが、一度思い返すとその恐怖と罪悪感は凄まじい。心を押しつぶすような罪悪感が、とめどなく湧き出てくる。

「夏帆…………」

 懺悔のように、唇を震わせながらポツリと呟く。

 その時、不意に背後から「ガタっ」という音が聞こえた。

 急いで涙を拭って振り向くと、さきほどの呟きが聞こえてしまったのか、それとも気配で分かったのか、父親を貪っていた『母だったもの』がこちらに歩み寄っているところだった。

 母も夏帆と同じように眼球が真っ黒で、だらんと両腕をぶら提げた不自然な格好でこちらに歩いてくる。

 琉が木刀を構えたその瞬間、リビングの扉が蹴破られるようにして六人あまりの男女が、リビングに雪崩れ込んできた。

「――――くそッ!」

 琉は吐き捨てるように言うと、何か脱出路がないかと視線を巡らせる。

 リビングの扉は塞がれてしまい、キッチンは行き止まり。

 そうなると、後は―――――

 琉はキッチンに併設されている『大窓』の錠を開けると、窓枠を乗り越えて素早く外に飛び出す。

 裏庭の地面に着地して辺りを見回すが、運良く窓の外に『奴ら』は居なかった。

 そして、裏庭から裏路地へと続く門へ、一直線に駆け出す。

 鉄製の門の扉を開け、裏路地へと出る。そして飛び出してきたキッチンの大窓を振り返ると、そこには狂ったように窓枠に手を打ち付ける、『母だったもの』の姿が。

 もう、ここに帰ってくることはないだろう。

 これが夢幻ではない限り、もう戻ることはできない。

 自分は決めたのだ。生きてやると。絶対にあんな風には死なないと。


 だから、戻れない。


「父さん……。母さん……。夏帆……」

 琉の呟いた言葉は、涙のせいか、怒りのせいか、震えている。

 もう振り返らない。前だけを見て、進まなければならない。

 琉は後ろ手に門を閉めると、真っ直ぐ前だけに視線を向けて、暗い夜道へと駆け出した。










 
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