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バリトン

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第五章

「そのバリトンを歌うか」
「これからもどんどん」
「それがあんたの望みか」
「そうだったのね」
「そうなんだ、ヴェルディも歌って」
 そしてというのだ。
「ドイツ語もいけるから」
「ああ、モーツァルトも歌ったし」
「それでドイツオペラの方も」
「歌劇じゃないけれどリートも歌うよ」
 ドイツリート、シューベルト等で有名なそれもというのだ。
「あれもね、そして」
「そして?」
「そしてっていうと」
「ワーグナーだよ」
 ここで一層だった、ゴンドールノの目が光った。
 そしてだ、周囲にその目で言った。
「ワーグナーも歌うよ」
「ヴェルディだけじゃなくてワーグナーも」
「そちらもか」
「歌うか」
「そう言うのね」
「確かにワーグナーはテノールだよ」
 ヘルデン=テノール、ワーグナーの作品の代名詞と言っていい。タイトルロールになっている役も多い位だ。
「けれどバリトンもいいからね」
「それでか」
「ワーグナーも歌うのか」
「ドイツ語も知っているから」
「だからか」
「ああ、歌うよ」
 ワーグナーもというのだ、そして実際にだった。
 彼はヴェルディもワーグナーも歌った、そうして。
 あらゆる役を歌っていった、そうしていった。
 彼は百を優に越える役を歌った、その彼の評価は一時代を築いた最高の歌手といったものだった。だが。
 彼は周囲にだ、こう言うのだった。
「今度はロシアだよ」
「ロシアオペラにもか」
「進出するのか」
「最初から考えていたんだ」
 歌手になった時からというのだ。
「こうね」
「まさかロシアオペラにもなんて」
「イタリア、フランス、ドイツだけじゃなくてか」
「そっちも歌うのか」
「また凄いな」
「ロシアオペラはバリトンにいい役が多いんだ」
 ロシアオペラの伝統として、というのだ。
「バスもそうだけれどね」
「ああ、ボリス=ゴドゥノフとかな」
「イーゴリ公もだな」
「確かにロシアオペラ低音強いな」
「メゾ=ソプラノでも」
「僕はバスじゃないけれどね」
 バリトンはバリトンだ、確かに低音ではあるがだ。
「バリトンにもいい役が多いから」
「ロシアオペラにも進出して」
「歌うのか」
「そっちも」
「そうするんだな」
「そうするよ、僕は歌いたい役は全部歌うんだ」
 ゴンドールノは目をきらきらさせてこうも言った。
「どんな国のオペラのものでもね、そしてその役が」
「全部か」
「バリトンにある」
「だからか」
「バリトンで嬉しい」
「最初にもそう言ったのね」
「そうだよ、僕は感謝しているよ」
 こうまで言うのだった。
「味のある素晴らしい役が一杯あるからね」
「あらゆるl国の歌劇で」
「歌はテノールだけじゃないのね」
「バリトンにはバリトンのよさがある」
「素晴らしさが」
「僕はその素晴らしさを心ゆくまで堪能出来ているんだよ」
 ゴンドールノは明るい笑顔のままで言うのだった、周囲に。
「これ以上はない幸せ者だよ」
「バリトンだからこそか」
「味わえているんだな」
 周囲もようやく彼がバリトンと言われて喜んだのかわかった、バリトンにはバリトンの素晴らしさがあることを知っているからだとだ。
 そして彼はだ、ロシアオペラにも進出してだった。
 そちらでも名唱で喝采を浴びた、オペラ史に名を残すバリトン歌手エーリオット=チェザーレ=ゴンドールノはその歌唱と演技、そのレパートリーの広さで知られているがその彼にはこうした舞台裏が存在していたのだ。


バリトン   完


                             2015・3・24 
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