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支え

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4部分:第四章


第四章

 それから数日が過ぎた。相変わらず暑いままであった。朝だというのにもう蝉が鳴いている。病に苦しむ身体を苛むような暑さと声であった。
「おい潤子」
 いつもは来ない、いや来られない筈の父がやって来た。厳しい顔をさらに厳しくさせていた。
「どうしたのですか、御父様」
 彼女はその時布団の中で上体を起こしていた。そして女中と話をしていた。
「今日の昼、居間に来られるか」
「居間に」
 病気になってから行ったことはない。それを聞いて自分の屋敷だというのに妙に懐かしい気分になった。思えば妙なことではあった。
「そうだ。母さんも一緒だ。来られるか」
「御母様も」
「そうだ。今身体は大丈夫か」
「ええ。居間へ行く位なら」
「そうか。では来なさい。正午だぞ」
「何かあったのですか?」
「陛下がわし等に対して何か仰るらしい」
「陛下が」
 それを聞いて潤子も女中も驚きの声をあげた。言うまでもなく日本の主にして軍の最高司令官であった。そして同時に現人神であるとされていた。これもまた時代であった。
「そうだ。来られるようなら来い。そうでなければこっちにラジオを持って来てやろう」
「わかりました」
 そこまで言うのならば相当なことであった。潤子は頷くしかなかった。
 父はそこまで言うと部屋を後にした。そして潤子と女中だけが残った。
「陛下が私達に一体何でしょうか」
「さあ」
 それは潤子にもわからなかった。
「いよいよ最後の決戦を挑まれるのでしょうか、敵に」
「ソ連に対して」
 ロシアの頃からその恐怖は拭われていなかった。特にこの舞鶴はロシアに向けられた港である。住んでいる者達もあの国の恐ろしさはよくわかっていた。それはまさに恐怖であった。
「だとしたら私は」
 潤子はここで暗い顔になった。
「女子の身、そしてこの様な身体では陛下のお役には立てないわね。その時は」
「なりません」
 女中はその言葉に首を横に振った。
「お嬢様があちらに行かれるのにはまだ早うございます」
「けれど」
「まだ昼までには時間があります。それまで落ち着かれて下さい」
「ええ」
 女中に静かにさせられた。そして二人はそのまま部屋で昼を迎えた。昼になると潤子によく似た外見の女性が部屋にやって来た。彼女の母である。
「行きましょう」
「はい」
 親だというのに久し振りに会った気持ちである。病は親と子の縁まで遠いものにしてしまう。彼女はこの時それを心の中でふと感じた。しかしそれは口には出さなかった。出すと悲しくなるのは自分だけではなかったからだ。
 居間には既に父がいた。そして使用人達も。皆居間に集まって正座していた。
「来たな」
「はい」
 潤子と母、そして女中は頷いた。潤子は女中に付き添われて部屋の端に正座して座った。居間の壁にある時計を見ればもうすぐ正午であった。
 正午になった。時計の音がそれを告げる。するとラジオから声が聞こえてきた。
「朕深く」
「これは」
「陛下のお声だ」
 父が使用人の一人にそう答えた。
「謹んで御聞きするようにな」
「はい」
 皆それを受けて完全に沈黙した。ラジオから聞こえる陛下の御声と部屋の外から聞こえる蝉の声以外は聞こえなくなった。いつもなら五月蝿く思える蝉の声も不思議な程静かに聞こえた。
「億兆の赤子を保し」
 それを聞いて自分達のことだ、と思った。次第に何を仰っているのかわかった。
「諸盟邦に対し遺憾の意を表せさるを得す」
「うう・・・・・・」
 それを聞いて誰かが泣く音が聞こえてきた。
「よせ」
 父がそれを止めようとする。だがその父も泣いていた。あの厳しい父が泣いていた。
「泣くな」
「しかし」
 それを止める者まで泣いていてはどうしようもなかった。
「難きを堪へ忍ひ難きを忍ひ」
「負けたんだ」
 また誰かが言った。
「日本は戦争に負けたんだ」
「負けた」
 潤子はそれを聞いてまずは自分の耳を疑った。日本が戦争に敗れるとは。
「連合軍に負けたんだ」
「言うな」
 そう言う父の声にはもう涙が滲んでいた。
「そんなことは言うな」
「しかし」
「言うなと言っているんだ」
 もう涙が止まらなかった。
「終わったんだ、何もかも」
「戦争も。そして」
「日本も・・・・・・」
「臣民其れ克く朕か意を體せよ」
 それが最後の御言葉であった。こうして玉音放送は終わった。終わった時には何もかもが終わってしまっていた。
 潤子はそれが終わった時には完全に放心状態になっていた。負けたということはわかったがそれが一体どういうことなのか理解できなかった。不意に隣にいる女中に問うた。
「ねえ」
「何でしょうか」
 見れば女中も同じであった。放心していた。
「これからどうなるのかしら」
「わかりません」
 彼女もそう答えるしかなかった。
「どうなるのでしょう、一体」
「わからないのね」
「申し訳ありません」
 謝るその声にも心はなかった。
「じゃあいいわ。帰りましょう」
「けれど」
「いいのよ。もう何もかも終わったのだから」
 目の前では男達も女達も泣いていた。涙が止まらない。それは潤子も女中も同じだった。
「そうでしょ」
「わかりました」
 二人は流れる涙をそのままにして部屋に戻った。潤子は床に入ってからあらためて女中に声をかけた。
「忠行様はどうされるのかしら」
「わかりません」
 本当に何もわからなかった。
「戻ってこられたらいいですが」
「戻ってこらrたらいいわね」
 潤子はそれにそう答えた。
「そうでなければ。もう私は生きている意味がないもの」
「お嬢様」
 普段ならここで強い声で諫める。しかしそれもできはしなかった。それができる状況ではなかったからだ。
「いえ、いいです」
「待ちましょう、今は」
「はい」
 潤子の言葉に頷いた。
「待っていれば忠行様はきっと来られます」
「わかりました
 今度は潤子に従うことにした。何はともあれ問題はこれからだと思った。
 どうなるか本当にわからない。不安が心を支配する。それと戦うことがまずはじまりであるように思われた。
 数日経った。まだ連絡はない。夏の暑さだけが増していくように思われた。
 その中で潤子は一言も言わずただ床に伏していた。女中はそれを見守っていた。
 時間だけが過ぎていく。忠行は帰ってはこない。潤子の身体は血を吐くこともなく穏やかな様子であったが病というものはその間にも進行していくものである。女中は気が気ではなかった。

 九月になると連合軍が日本にやって来るという話になった。それを聞いて心はさらに不安なものになった。
「まさか日本を潰すつもりじゃ」
 女中は次第に夜も寝られなくなってきた。どうなるのか怖くなってきた。不安で不安で眠れないのだ。
 しかし潤子は落ち着いていた。女中にはそれが不思議なものに思えてきた。ふと言葉をかけられた。
「ねえ」
「何でしょうか」
 見れば病を患っている潤子よりも顔色は悪くなっていた。潤子はその顔を見ながら声をかけてきた。
「気にかけてもどうにもならないわよ」
「そうでしょうか」
 女中にはそうは思えなかった。
「このままでは私達は」
「私はね、待っているだけだから。だから落ち着いていられるのよ」
「忠行様をですか」
「ええ」
 彼女は頷いた。
「貴女もね。待っているといいわよ」
「お嬢様には待てる方がおられますね」
「勿論よ」
「けれど私には」
 彼女はそう言って顔を背けた。
「そうした人はいないです」
「好きな人はいないの?」
「はい」
 そして答えた。
「そうした人は。今までおりませんでした」
「じゃあ作ればいいわ」
「作ればですか」
「そうよ」
 潤子は言った。
「作ればいいのよ、これから」
「けれど今は」
「あのね」
 引っ込もうとする女中に対してさらに言った。
「どんな状況でも好きな人は作ることはできるわ。私だってそうだし」
「お嬢様が」
「そうよ。今私は胸を患ってるわね」
「はい」
「患ってからかなり経つわね。本当ならもう死んでいてもおかしくはないわ」
 潤子が胸を患ってからもう何年も経っていた。普通なら病状はより進行している筈だった。死んでいてもおかしくはない頃であった。だが彼女はそれ程病は進行してはおらず血を吐かないことも多い。医者もそれが不思議だと言っていたものである。
「けれどね。今も何とか生きているわね、ここで」
「はい」
「それはどうしてだと思う?」
「忠行様がおられるからですか」
「そうよ」
 そしてこう言った。
「だから私は今まで生きてこられたの。そして」
 言葉を続けた。
「これからも。だからね」
 再び女中に顔を向けた。
「貴女も。誰かを好きになればいいわ」
「はあ」
 そうは言われてもすぐにはできない。頷くしかなかった。
 部屋を後にした。しかしまだよくわからなかった。今の彼女にとってはこれからどうなるかだけで不安であった。誰かを好きになることなぞできそうにもなかった。潤子は無理を言っているとさえ思えた。
(お嬢様はどうしてあのようなことを)
 そう思っていた。思いながら歩いていた。歩きながら考えてはいたが答えなぞ出る筈もない。不安な心に今度は戸惑いの色が混ざっただけであった。それが複雑に絡みあったまま時間がまた過ぎた。
 やがて日本は正式に降伏し、そして連合軍が日本にやって来た。俗に言う進駐軍である。
 街には甘いものに餓えていた子供達がアメリカ軍に甘いものをねだる光景がよく見られるようになった。その隣には日本人の女達がいた。かって兵士だった男達はそれを見て悪態をついた。
「強い者が結局いいのかよ」
「それでも日本の女か。大和撫子か」
 しかし女中はそれを批判する気にはなれなかった。彼女は女であるせいかそのアメリカ軍の側にいる女達の気持ちが少しだがわかる気がしたのである。
 彼女達の多くはこの戦争で父や夫、そして兄弟を亡くしている。全てを失ったのである。そしてそんな女が生きていくにはどうすれば。答えは一つしかなかった。彼女も生きなくてはならないのだ。その為にどれだけ罵られようと。何もなければそうして生きていくしかないのもまた現実であった。
「好きな人がいなくなったからさ」
 ある日道の端で酔ってそう喚いているそうした女を見た。
「聞いてる?あたしはねえ、戦争で亭主をなくしたんだよ」
 それまでは普通の家庭の人だったのだろう。そして優しい妻だったのだろう。だが今はそんな時があったようにはとても思えない程であった。派手な格好を作って安い酒を飲んでいる。酔えるだけが取り得の安い酒だ。運が悪ければ少し飲んだだけで死んでしまう。とんでもない酒であった。だがそれでも飲まずにはいられない時もあるのだろう。
「それでね、今こうやっているのさ。それのどこが悪いんだよ」
「あんた飲み過ぎだよ」
 仲間の女達がそれを窘める。その仲間達も彼女と同じような格好をしている。彼女達もまた同じ様な境遇であろう。失ってしまったのだ。女中はそれを黙って見ていた。
「いいんだよ、どれだけ飲んでも」 
 彼女は地面に倒れこんでそう言った。
「あたしなんていなくなっても誰も悲しまないから」
「悲しまない」
 女中はその言葉がやけに耳に残った。
「だからね、どうなってもいいんだよ」
 それを聞いていてふと潤子が言った言葉が思い出した。好きな人がいればやっていけるといった意味のあの言葉を。その時ようやく理解したような気分になった。 
 その足で屋敷に向かった。まだ暑い道をである。その年は例年になく暑く感じられた。まだ朝だというのに昼のように暑かった。服の上からジリジリときた。
 屋敷に着き奥に向かう。ふと話し声がしているのがわかった。
「誰かしら」
 男の声であった。しかも若い。
「あの声は」
 聞き覚えのある声だった。彼女もよく知っている。潤子の声も聞こえる明るいものであった。その明るい声を聞いて確信を持った。
「いらっしゃい」
 潤子は部屋に来た彼女に笑顔を向けた。その隣に彼がいた。
「戻って来られたのよ」
「左様ですか」
 それを聞いて彼女も笑みを作った。
「よくぞお帰り下さいました」
「はい」
 忠行はそれに頷いて応えた。
「色々ありましたが」
「はい」
 女中はそれに頷いた。
「それでも。よくぞ戻られました」
「有り難うございます」
 忠行はうっすらと笑っていた。だが何処か力のない笑みであった。
「御国はこうなってしまいましたが。それでも帰って参りました」
「忠行様」
 そう言う忠行に対して潤子が声をかけてきた。
「何でしょうか」
「確かに負けてしまいましたが。それで終わりではないと思いますよ」
「どうしてでしょうか。この戦いで皇国は多くの者を失いました」
 女中はそれを聞いて先程の女のことを思い出した。彼女は全てを失ってしまっていたのだ。
「はい」
 潤子はそれに頷いた。
「それでこれからどうすればいいのか。貴女がおられますが」
「だから忠行様はこちらに戻られたのですね」
「ええ」
「ではそれでいいと思います。そして私のところに帰られたことに対して心から御礼を申し上げます」
「御礼を」
 忠行はそう言われてかえって戸惑いを覚えた。
「はい。以前御国と私が大事だと仰っていましたので」
「ええ、それは覚えていますよ」
「だからこそ戻って来られたのだと思います。それが心より嬉しいのです」
「そうだったのですか」
 それを聞いて心が救われる気がした。
「これからも私の側にいて下さいますか」
「残念ですがそうもばかりはいられません」
「どうして」
「私は医者ですから。貴女の他にも救わなければならない方々がいます。それに」
「それに?」
「貴女の胸を治す薬を。今それを集めているのですね」
「私の胸をですか」
 それを聞いて大いに驚いた。
「けれど私の胸は」
「治ります」
 忠行は優しい声でそう言った。
「必ず。そうした薬ができたのです」
「本当ですか?」
「はい。ですから」
 彼は言った。
「御安心下さい」
「わかりました」
 二人は抱き合った。病の床にあるが彼等の心は今繋がっていた。
 女中はそれを見て優しい笑みを浮かべた。そして彼女も決めた。誰かを好きになろう、と。

 それから数年経った。舞鶴は今度は警察予備隊という組織の街になろうとしていた。
「あなた」
 夫を呼ぶ妻の声がした。
「お仕事に行かれるのね」
「ああ」
 若い男が日に焼けた顔を妻に見せた。爽やかな顔をした逞しい男であった。
「今日も稼いでくるからな。楽しみに待っていてくれ」
「ええ、わかったわ」
 妻はそれに頷いた。そして夫を送り出したのであった。
 見ればあの女中であった。彼女はあれから街で知り合った復員兵と知り合い恋に落ちたのであった。そして今はこうして家庭を持っている。小さい一軒家に家族と一緒に住んでいる。つつましやかだが幸福な生活を送っていた。
「お母さん」
 家の奥から彼女を呼ぶ幼い声がした。
「何?」
 声のした方に振り向く。見れば小さな女の子がいた。
「今日お屋敷の方に行くの?」
「ええ」
 彼女は優しい頬笑みを娘に向けて答えた。
「そうよ。楽しみにしててね」
「奥様お元気かしら」
「とても元気よ」
 娘にそう言った。
「とてもね。だから楽しみにしてて」
「うん」
「昔はね、奥様も大変だったのよ」
「そうだったんだ」
「胸のご病気でね。けれど今は治ったのよ」
「胸が苦しかったの?」
「そうよ。とてもね。けれど治ったの」
「お薬で?」
「いいえ」
 しかし彼女はそれには首を横に振った。
「好きな人のおかげで」
「旦那様のかげなの?」
「そうなのよ」
 娘に対して答えた。
「貴女もね、大きくなればわかるわ」
「何が?」
「好きな人がいることの大切さよ。それを知りなさい」
「よくわからないけれど」
 娘は首を傾げながら言う。女中はその仕草がまたたまらなくいとおしかった。今では娘も彼女にとって大切なものであったからだ。
「わかった。わたし大きくなったら誰かを好きになる」
「そう、それがいいわ。じゃあ行きましょう」
「うん」
 娘を連れて屋敷に向かった。懐かしい屋敷に。
 舞鶴の夏はその日も暑かった。だが二人はその中をうきうきとした気持ちで歩いていくのであった。


支え  完


                                                            2005・8・5

 
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