聖愚者
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1部分:第一章
第一章
聖愚者
フランス貴族モーリス=ド=ルブラン卿がペテルブルグに来たのはエカテリーナ二世が皇帝に即位して暫く経った頃だった。彼はまずロシアに向かう馬車の中でお付の従者に対して問うた。
「確かあの方は神聖ローマの方だったな」
「はい、そうです」
傍らに座っている従者はすぐに彼の今の問いに対して答えた。見れば茶色の髪を後ろに長く伸ばしリボンで纏めその顔は化粧をして髭は剃られ端整なフロックコートを着ているルブランに対して従者は至って質素な服である。だが軍服に似た服であり格好はついていた。
「そちらから嫁いで来られた方です」
「あの奇怪な皇太子殿下にな」
ここでルブランはふと嘲笑するような言葉を出したのだった。
「確か前の皇帝であったあの方は」
「ピョートル三世陛下です」
「そうだった。全く」
ルブランの言葉に忌々しげなものが宿った。
「あの方がプロイセンと講和しなければな」
「今頃我が国はプロイセンに大きな顔をさせてはいませんでした」
「サンスーシーで城下の盟を誓わせてやることができた」
ルブランはこうも言うのだった。サンスーシーはプロイセン王であるフリードリヒの宮殿だ。ポツダムにありまさに彼の、そしてプロイセンの象徴だったのである。
「オーストリアも忌々しいが今はプロイセンがより忌々しい」
「全くです」
従者は彼の今の言葉に対して頷いて答えた。
「あの国を破っていれば」
「神聖ローマはより楽になった」
「そうですね。ですが今度の女帝陛下は随分と我が国がお好きなようで」
従者は今のその女帝の話をするのであった。
「フランス語を話されフランスの本を読まれるとは」
「あの国は元々我が国が好きだしな」
ルブランはここでやっと笑顔になるのだった。とはいって口元に優越感を漂わせる、そうした笑みを浮かべただけであったが。
「我が国の文化がな」
「そうですね。確かに」
「オーストリアとも仲がいいのは少し癪だが」
どうやら彼はプロイセンだけでなくオーストリアも好きではないらしい。それが今の言葉にも出ていた。
「とはいっても今やそのオーストリアも」
「はい。王太子殿下の御妃様です」
「変われば変わるものだ」
今度は達観したような言葉になっていた。
「あれだけいがみ合ってきた我等が今では同盟国だ」
「ロシアとは元々仲がよかったですが」
「全てはプロイセン、そしてイギリスに対する為だ」
今度はイギリスの名前も出されたのであった。
「どちらがより忌々しいかというとやはり」
「イギリスですね」
「あの国は何時か必ず全てを奪ってやる」
実にフランス人らしい言葉である。
「騎士気取りの海賊共が」
「向こうは向こうで我々をやたら言ってくれますし」
「我が国がオーストリアと戦争をすればオーストリアの味方になり」
スペイン継承戦争及びオーストリア継承戦争である。この時フランスはオーストリアと仇敵の関係にあった。この仇敵関係も実に長いものでありそれこそ神聖ローマ皇帝にオーストリアを治めるハプスブルク家が入ってからのものである。数百年に渡るものであったのだ。
「プロイセンと戦争すればプロイセンに味方する」
「全くです」
先程話していた七年戦争のことである。
「尊厳王やシャルル七世陛下に敗れたのを忘れたのか」
「次に戦う時はその時こそ」
「そうだな。これまでの借りを全て返してやる」
そのことを強く誓うルブランであった。黒い深い知性を讃えた目が強く光る。
「次こそはな」
「はい。それでは」
「しかし」
話が一段落したところで馬車の窓を見る。だがそこにあるのは見渡す限りの平野である。人家の一軒も畑もなく本当に何もない場所であった。
「ロシアに入ってからこうした風景ばかりだな」
「ええ。そうですね」
「話には聞いていたが広い」
まずはこのことを実感したルブランだった。
「しかも何もないな。恐ろしい国だ」
「もうポーランドからロシアに入って三日目ですが」
「それでも何もないとはな」
「これがロシアですか」
「しかもだ」
ルブランはここでさらに言うのであった。
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