アンジュラスの鐘
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5部分:第五章
第五章
「英霊達に祈りを捧げて下さるのも」
「そう言って頂けると有り難いのですが」
「いえ、本当に。だからこそ我々は安心して戦うことが出来るのです」
「はあ」
「確かに多くの者が旅立ちました」
それは大尉も否定しなかった。
「私をしごいてくれた先輩も、共に励まし合った同期も、可愛がった後輩も」
ふと遠くを見やっていた。
「靖国に行きました。私も何時行くか」
海軍兵学校出身者の戦死もかなりのものになっていた。戦争に参加した兵学校出身者の犠牲者は七割程にも達したとさえ言われている。多くの者が戦場に向かい、そして散華していたのだ。空で海で、そして陸で。数多の星達が散っていたのである。
「しかし悔いはありません。悔いがあるならば」
「それは」
「武人として恥ずべきことをしているかしていないか、それだけです」
「それだけですか」
「はい。申し訳ありませんが」
大尉はそのうえで神父に述べた。
「私は確かに神を信じています。しかしそれ以上に海軍に、日本にいます」
「それでは」
「私は海軍軍人として、日本人として恥ずべきことだけはしたくありません」
まるで血を吐く様な言葉であった。
「それを至上にしていきたいです」
「恥ずべき行いですか」
「神父様に一つ御聞きしたいのですが」
彼はそのうえで神父に尋ねてきた。
「何でしょうか」
「海軍は、日本は、恥ずべき行いをしてきたでしょうか。どうなのでしょうか」
「戦争です」
神父はそれに応えた。まずはこう述べた。
「確かに人と殺し合い、罪を犯します」
「はい」
「ですがこれは戦争です。一人の人間としては仕方のないことです」
「左様ですか」
「これは仕方のないことなので。ましてや軍人の方ともなれば」
「よいと仰るのですね」
「貴方達は御国の為に全てを捧げておられます。これを悪いと断罪することは私には出来ません。海軍であろうと陸軍であろうともです」
「陸軍もですか」
陸軍という言葉を聞いた大尉はその眉を微かに動かした。陸軍と海軍の仲の悪さはあまりにも有名であった。上層部はおろか一般兵士た技術者にまでその対立は及んでいた。多分に感情的なものであった。これが解消されるのは結局陸軍も海軍も解体されるまでであり、最後まで残った。
「そうです。軍人の方には。大義があります。そして日本にも」
「御国にもですね」
「ええ。他の国の人間や後の世で何を言われるかはわかりませんが」
それでも神父は述べた。
「この戦争にも確かに大義があります。日清戦争や日露戦争と同じく」
日清戦争では朝鮮半島の独立をかけて、日露戦争では強大なロシアとの命を賭けた戦いとして、日本に大義があった。どちらも日本にとって防衛上不可欠である朝鮮半島の安全をかけての戦いという大義であったのだ。この二つの戦争に勝ち日本は生き延びることが出来たのだ。若し負ければ日本はなかった。ましてやロシアとの戦争は。最後の最後まで誰もが勝てるとさえ思わなかった戦争であった。それでもしなくてはならなかったのだ。アメリカとの戦争もそれと同じであった。しなければ生きられない戦争であったのだ。
八紘一宇が題目に過ぎないと言われようとも。誰にでも生きる資格はあるだろう。それを否定するならばまずその否定した者が生きる資格を失う。日本にも生きる資格があったのだ。生きる為の大義もそこにあった。だからこそそこにいた殆どの者がこの戦争を支持したのだ。東亜の大義だけでなく生きる大義も。彼等はその為に戦争に加わったのだ。
「アメリカにもそれがあるように私達にもあるのです」
「そう言って頂けると有り難いです」
大尉はそこまで聞いて顔を綻ばせた。
「日本にも大義がある、それがわかれば」
そしたまた述べた。
「私も喜んでそれに殉じることが出来ます」
「大尉・・・・・・」
「それでは私は最後まで海軍軍人として戦いましょう」
意を決した声であった。
「そして生きます。最後の最後まで」
「御武運を御祈りします」
「何、襟は正します。恥は見せません」
「はい」
「海軍として、日本人として。生きてみせます」
「その御姿、最後まで拝見させて頂きます」
「見ておいて下さい、私の生き様を」
「最後の最後まで」
大尉だけでなく多くの者が意を決しようとしていた。己が最後に向けて。やがて沖縄の戦いが終わった。多くの犠牲を払いながらも結局沖縄は陥落した。そして。夏がやって来た。暑く長い夏が。
この夏にはおかしな話が舞い込んできた。それも二つも。
「広島がなくなったらしいぞ」
神主はまた自分の社に僧侶と神父を集めていた。そして語った。
「なくなったじゃと!?」
「うむ、何でも一発の爆弾でな」
「馬鹿を言え」
僧侶は最初その話を一笑に伏した。
「幾ら何でもたった一発の爆弾で街がなくなるか」
「爆撃じゃないんですか?北九州や福岡みたいに」
神父もそれを信じようとはしなかった。どう考えても有り得る話ではなかったからだ。
「いや」
だが神主はそれを否定した。その細い首をゆっくりと左右に振った。
「間違いないそうじゃ」
「馬鹿な」
「街が」
「それにの、長崎もおかしいのじゃ」
「どうしたのじゃ!?」
「さっきラジオを聴いていたのじゃ」
「うむ」
「長崎とな、急に連絡が取れんようになったらしい」
「まさか」
「まさかとは思うがのう」
「アメリカは何か新しい兵器を作ったのでしょうか」
「そこまではわからんが。広島が大変なことになって長崎がどうなったのかわからんようになったのは事実じゃ」
「長崎が」
神父の顔が段々暗くなってきていた。
「まさか」
「鐘、危ういかも知れんのう」
「いえ、それは」
「とりあえず。今はまだ話が多く入ってきておらん」
「詳しいことはそれからか」
「長崎が・・・・・・」
「気を落とすでないぞ」
「よいな」
神主と僧侶は狼狽さえ見せる神父に対して声をかけた。
「え、ええ」
神父もそれに応えるが顔色はどうしても悪かった。
「わかってます」
「だが若しかしたら」
「広島みたいにか」
「うむ、その新型爆弾でな」
「なくなったかも知れんな」
「一発の爆弾で街が消し飛ぶなんて有り得るのでしょうか」
「わからん。だがもしそれが本当だとしたら」
神主は溜息を吐き出しながら言った。
「世の中、恐ろしいことになるのかもな」
「はあ」
この日もそれから暫くも彼等は暗くなったままであった。それが晴れることはなかった。ソ連が参戦し、満州が蹂躙されているという話も、空襲の話も。全て彼等を暗くさせるのであった。
そして遂にこの日が来た。八月一五日。その日の正午、日本の時間は止まってしまった。
「負けたのか・・・・・・」
それを聞いて多くの者が泣いた。
「日本が・・・・・・」
「遂に・・・・・・」
天皇陛下の玉音放送が聴こえてくる。それを聞いて皆泣いた。心から泣いた。
「もう何も言いたくはないわ」
三人は寺の境内にいた。そして肩を落として本尊の前で座り込んでいた。
僧侶の寺は不動明王を本尊とする。それを前にして座り込んでいる。もう立ち上がる気力もないようであった。そこまで失意していたのであった。
「負けたな」
「はい」
神父は僧侶の言葉に頷いた。
「何もかも。終わったわ」
「大東亜の大義もな」
「全て終わりじゃ。何もかものうなってしもうたわ」
「そうでしょうか」
「長崎のことはもう聞いておるじゃろ」
神主が神父に対して言った。
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