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惨女

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5部分:第五章


第五章

「あれが見えますね」
「いえ、まだよくは」
 暗い場所なので目が慣れないうちはよく見えない。しかし后が指差す先を見ているとそこに見えたのは。想像を絶するものであった。
 両手両足がない。付け根から切り取られた跡がある。その傷口も身体中も糞尿に汚れている。目は無惨にくりぬかれ顔も糞尿にまみれている。長く黒い髪も泥がついたように汚れている。
 そうして何も聞こえないのかそこにじっとしている。だが豚達に踏まれ身体のあちこちを時折噛まれそれで何か呻いているだけだった。その呻き声でそれがかろうじて生きているのがわかる。
 あまりにも惨たらしい有様だった。皇帝はそれを見て唖然とするばかりだった。その唖然とする中で呂后に対して尋ねるのだった。それを見ながら。
「あれは一体」
「人豚です」
 呂后は楽しそうに彼に答えた。
「あれは人豚というものです」
「人豚・・・・・・」
「まず両手と両足を切り取り」 
 その楽しそうな言葉で述べていく。
「目をくり抜き耳を潰し舌を抜いたものです。それを人豚といいます」
「一体誰がその人豚に」
「その顔をよく見るのです」
 后の声はさらに楽しそうなものになった。
「人の顔を。見なさい」
「んっ!?」
「誰かわかりますか?」
「あれは・・・・・・」
 ここで彼はわかった。それは彼の知っている顔であった。それは。
「戚夫人・・・・・・ですか」
「その通りです、あの女です」
 呂后の笑いがさらに高らかになった。このうえない喜びを見たかのように。
「あの女です。あの女をこうしてやったのです」
「何故ですか!?」
 皇帝は蒼白になって母に顔を向けて問うた。
「どうして。このようなことを」
「当然です。この女が私達に何をし何をしようとしてきたか」
「ですがそれでも」
 戚夫人が野心を持っていたことは彼も知っていた。そして彼女が皇后となり趙王が太子、皇帝となれば自分がどうなっていたかも。彼は知っていた。
 しかしそれでもだった。これは彼にとっては到底理解できないものであった。何故ここまでするのか。する必要があるのか。彼にはわからなかったのだ。
「何故ここまで」
「私は自分がされるものをこの女にしただけです」
 呂后の声はここで平然としたものになった。
「ただそれだけです」
「それだけ・・・・・・まさか」
「案ずることはありません。私は自分にされるものをこの女にしたことです」
 今度は冷徹な言葉になっていた。
「ただそれだけです」
「それだけ・・・・・・」
 また出されたこの言葉に唖然となる彼だった。
「まさか。そんな」
「宮廷は殺すか殺されるか」
 呂后の冷徹な言葉が続いていた。
「その世界です。だからです」
「・・・・・・・・・」
 皇帝は何も言えなかった。だがこの人豚を見て以降彼は全てに絶望したのか酒色に溺れ程なくして死去した。呂后はこの後漢の実質的な主となり呂家は専横を極めることになる。そのうえで彼女により多くの血が流れるのだった。
 これは司馬遷の史記呂后本紀にある話である。これだけ読めばこの呂后という人物は途方もなく残虐な人物に見える。
 しかしこの時代だけでなく何時の時代も宮廷、後宮という場所は陰謀が渦巻く場所であり陰惨な話には枚挙に暇がない。仮に戚夫人が権勢の座についたなら呂后の方が殺されていたであろうことも充分に考えられることである。
 この史記呂后本紀の最後に司馬遷は呂后の時代は平穏であり民衆は泰平を謳歌していたとある。またきとしているところから彼女を帝王とみなしていることがある。この辺りは同じく帝王として紀としてその生き様が書き残されている項羽と同じである。
 司馬遷が呂后に対して本当のところどう思っていたのかは今だに諸説があり完全にははっきりとわからない。しかし最後の一文が彼女を擁護しているように見えることも事実だ。確かに彼女は残虐であったがそれは当時の彼女のいた世界では普通でありそして政治家としては穏健で太平をもたらしていた。これもまた事実である。


惨女   完


                  2009・5・3
 
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