幻影想夜
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第十八夜「向日葵」
なぜ僕は、こんなところにいるんだろう?
何も憶えてない…。
こんな場所に、なぜ一人で立ってるのか誰かに問いたい。
― あぁ、僕は何でこんなところに…? ―
ここは目も眩むような向日葵に埋め尽くされている。
空には真夏の太陽が照りつけて、とても蒸し暑く濃厚な空気が辺りを覆い尽くしていた。
「誰か!誰かいませんかっ!?」
大声で助けを呼んでみた。しかし、その声は迫り来るような向日葵によって阻まれているようで、遠くへ届いている様子はなかった。
僕は困ってしまった。どうしてこんな場所にいるのかも分からない状態で、いったいどうすれば良いのか…。
「ねぇ、こんなとこで何してんの?」
呆然としている僕の背後から、突然、少年らしき声が聞こえてきた。
僕は驚いて振り返ると、そこには5、6歳くらいの少年が立っていたのだった。
仕方なく、僕はその少年に話しをした。
「お兄さん、何にも憶えてないの?」
その少年は僕の話を聞くと、不思議そうに顔を覗き込んだ。
「ふ~ん…名前も忘れちゃったの?」
その少年は、僕の周囲をグルグルと回り、急に目の前で止まった。
何か…そう、何か話したそうな顔。それも、話して良いのか、それとも悪いのか決め兼ねるような、妙に大人っぽい顔をしていた。
「何なんだ?何が言いたいんだよ!僕が可笑しいと思ってるのか!?わざと記憶の無いフリをしてると思ってるんだろ?…何か言ってくれよ!!」
僕は本当に何だったんだろう?
― …ん?“何だった”? ―
自分の思考が、いまひとつ理解出来なかった。
“何だった”とは、どういうことだ?大切な何かを忘れている気がした。
僕は目の前の少年に向き合った。
― この少年は“何か”を知っている…? ―
なぜかそう思い、重くなっていた口を開いた。
「ねぇ、僕のこと…知ってるの…?」
恐る恐る尋ねると、少年は少し表情を歪めて答えた。
「うん、知ってるよ…。」
なぜか鼓動が早くなってゆく…。これは聞かない方が良いかも知れないと、まるで警告するように躰が強張った。
暫らくの間、重苦しい無言が続いた。
背中から嫌な汗が流れ落ちてくる…。
そうして後、少年が静かに口を開いた…。
「ねぇ、お兄さん。猫、助けたことあるよね?」
僕は最初、この少年が揶揄ってるのかと思った。しかし、少年の言葉は…まるでパズルのピースの如く、僕の記憶の欠片を一つ…また一つと浮かび上がらせたのだった。
「あ…あぁ、助けた気がする…。あれは…そう、車に跳ねとばされたようで、歩道近くに血塗れになってたんだ…。僕は…、自分の上着で包んで病院へ…。」
「その猫ね、すっごく嬉しかったんだ。お兄さんが最期の人だったけど、温かな人の腕の中で、安らいで逝くことが出来たんだ。ありがとうって言ってたんだよ?」
僕はこの少年の言葉の意味を理解出来ないでいた。
この少年は…いったい何なんだ…?
「ねぇ、お兄さん。お婆さんを助けたことあるよね?」
僕は目を見開いた。
「ある。大きな荷物を持って歩道橋の階段を上ろうとしたら、足を踏み外してしまった人だ…。僕は、そのお婆さんをおぶって歩道橋を…。」
「そのお婆さんね、半年後に亡くなったんだ。ずっとお兄さんに感謝してたよ。」
なぜそんなこと知ってるんだ?僕は誰にも話してない筈なのに…。
― …え? ―
“誰にも話してない”なんてなぜ言い切れる?どうしてこんな風に…。
「お兄さん…困ってるお姉さんに、自分の貯金全部あげちゃったことあったよね?その人は今も元気だけど…お兄さんのことは今も忘れずにいるよ。そしてね、ずっと探し続けてるんだ。」
「何なんだ!?君は何でそんなことまで!…探してる…?」
何なんだろう?このひどい胸騒ぎは…?
この色鮮やかな向日葵の中にあって、僕は僕でない気がする。
では、僕はいったい何者なんだ?
いや、この少年の言葉に記憶が反応してるのだから、きっとどこかで頭を打ったか何かして、一時的に記憶を喪失しているのかも知れない…。
― でも…。 ―
それでも“僕”という人間は、本当ににここへ存在しているんだろうか?
僕は恐ろしくなり、胸に手をあてて心臓の鼓動を確かめた。
― 動いてる… ―
ような気がするだけなのかも知れない。
ふと、頭の片隅に記憶が浮かんできた。
「お前が悪いんだ…!俺のいない間に男なんか作りやがって!」
「違うわ!あの人はただの友達よ!奥さんだって一緒だったわ!」
「ふざけるな!俺の目は誤魔化されないぞ?え?ヤツと何回寝たんだ?このあばずれが!」
「あっ!やめてぇっ!!」
「母さんっ!」
記憶は断片のまま、唐突に途切れた…。
何なんだ?この記憶は…?まるで昼の連ドラみたいな筋書きだな。
きっと…テレビでも見ていたんだろう。
そう思い込むしか…出来なかった…。
「お兄さん…思い出した?」
少年の口調は、まるで誰かを憐れむような、そして…思い出すことを強制するような…何とも言えない声だった。
「…何も分からない…何も…知らな…」
「知ってる筈さ。」
僕の魂(ココロ)を見透かすように、少年はそう言い放った。
「でも…いや、違う!」
僕は両手を頭にあて、首を横に振った。
心に浮かぶものはもはや…。
「じゃあ、教えてあげようか?」
「やめてくれっ!お前は誰なんだ!?なぜこんなとこにいるんだよっ!」
少年は僕の問いに答える風でなく、無表情な顔になって語り始めた。
「彼は…殺されたんだよ。本当は、直ぐに病院へ連れて行ってたら助かったのにさ。恐かったんだ、彼の両親は。だってさ、お互い疑心暗鬼になってて、子供のことなんてさっぱり忘れていたんだから…。彼の父親は母親…妻に対して、激しい怒りと憎悪をぶつけていた。そして、何回目か…殴り付けようとした時、彼が止めに入ったんだ。彼は顔面を思い切り殴り付けられ、その勢いでテーブルの角に後頭部をぶつけた。彼は倒れたまま動かず、後頭部からは大量の血が流れ出ていた…。」
な、何なんだ…何なんだ!僕なのか?そうやって僕が死んだって言うのか!?
そんなはずはない。こうやって生きてるじゃないか!
「そんな彼を見た両親は、さっきまでとは掌を返すように、彼をどうしようかと話し合った。そして、彼を車のトランクに放り込み、車を発進させたんだ。実の息子だよ?可笑しな話しだよね?でも、そうしたんだ。自分達を守るために…。そして、この畑へやってきた。以前は大きな畑だったんだけど、ここの所有者が亡くなって以降、荒れて行くに任せてあったんだ。それを彼の両親は知ってた。だから、この荒れ果てた畑に、まだ息のあった彼を…埋めたんだ。」
何を言ってるんだ?どこの世界にそんな親がいるんだ?
僕は笑った。あまりにも可笑しすぎるじゃないか!?
有り得ない!バカげてる!
じゃあ、ここにいる僕は誰なんだよ…。
― 誰…? ―
僕は笑うのを止めた…。急に恐怖が込み上げて来たからだ…。
分からない…。この少年は“彼”と言っている。そう、少年は“お兄さん”でなく“彼”としか言ってないのは何故だ?
「あ…れ…?」
「やっと思い出したようだね…。」
…あぁ、そうだったんだ…。
「そう、お兄さんはその姿の“彼”じゃないよね?」
なんだ…そういうことだったのか…。
「“彼”を探してる人は、もうすぐ“彼”を見つけるだろうね。」
人ですら…なかったんだな…
「“彼”が見つかる前に、僕はどうしても君を連れて行かなくちゃならなかった…。」
“彼”は…僕の下に居たんだ…
「そうしないと、君は“彼”の全てを奪ってしまうから…。」
そう…僕は“彼”を食べていたんだ…そして…
「“彼”を解放してあげなくちゃね?」
“彼”の記憶さえ奪おうとしていたなんて…!
「さぁ、向日葵よ…!」
少年がそう言った刹那、景色が一変した。
あれだけあった黄色い花々が消え、空の青も消え失せた。
代わりに現れたのは、暮れゆく晩秋の紅い空と、荒れ果てた土地の残骸。そして、そこには不釣り合いな…大輪の花をつけた一本の向日葵だった。
― これが…僕だ…。 ―
そう、これが僕だったんだ。
僕は僕の創った幻の向日葵畑に惑わされていたんだ。何ということだ…。
「ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ…!」
可笑しい!実に滑稽だ!自分が自分の創ったものに驚いて、その上、何もかも忘れてしまってたなんて!
「さぁ、もう終わりにしよう。」
僕はそう言った声の主を見た瞬間、笑いが止まった。
もう…そこには少年の姿はなく、そこにあったのは…。
「天使…!」
白い衣を纏い、長き銀の髪を垂らした男とも女ともとれない、それは美しい人…いや、天使だった。
「これで…君も安らげる…。」
そう呟くと、天使は一本の向日葵の前に行き、その美しい手で茎を掴んだ。
「や、止めて…止めてくれ!」
しかし、天使は何の躊躇いもなく、その太い茎を折ったのだった…。
そして“彼”と“僕”は…永遠に別れた。
「おやすみ…。」
― 僕は誰なんだろう?僕はどうしてこんなとこに…!? ―
幻影は…死んだんだ…。
もう…何も…
無い…
end...
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