白梅
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4部分:第四章
第四章
「私を討たれるのか」
「一つ聞きたい」
だが趙は豫譲のその問いには答えなかった。そのかわり彼もまた問うのだった。
「何をでしょうか」
「敵討ちなのはわかる」
彼もそれはわかる。
「貴殿はそれだけ智伯に恩を受けていたのか」
「その通りです」
豫譲はこくりと頷いて趙のその問いに答えるのだった。
「貴殿も御存知の筈。士は己を認めた者の為に死ぬと」
「確かに」
侠の心だ。趙もそれをよく知っている。彼も士たらんとしているからこそ。
「だからです。智伯様は私を士として認めてくれました。だから私も士として報いるのです」
ここまで平然として答えた。怯えも震えもない。ただその心を伝えたのだ。
「それだけです。それで討たれるのならば」
「よし、よく言った」
それに応えたのは趙の周りの者達だった。
「ならばここで始末してくれる」
「覚悟するがいい」
「待て」
だがその彼等を。趙は声で制したのだった。
「この者を討つことはわしが許さん」
「えっ、我が君」
「それはどうして」
「豫譲は義士だ」
彼を認める言葉を出すのだった。
「殺してしまうには惜しい。助けよ」
「ですがこの男助ければ」
「また我が君を」
「それもまたわかっておる」
全てがわかったうえでの言葉なのだ。承知のうえでの。
「それならばわしが用心して彼を避ければよいだけだ。違うか」
「それでよいのですね」
「そうだ。智伯には跡取りもおらず完全に滅んだ」
そうなのだった。最早彼は杯としているだけだったのだ。
「その彼の敵を討とうとするその心。潰えさせてしまうにはあまりにも惜しい」
「左様ですか」
「縄を解いてやれ」
そのうえでこう命じた。
「よいな」
「わかりました」
周りの者も趙のその言葉に頷いた。彼がこう言うのなら仕方がなかった。こうして豫譲は命を助けられ解き放たれたのだった。しかし彼はそれで諦めたわけではなかった。
今度は己の身体に漆を塗った。顔にもだ。それで顔を変え身体を醜く変えてまるでハンセン氏病の者のようになりそのうえで炭を飲んで声を潰した。どちらも激しい苦痛を伴ったがそれでも彼はした。しかも薄汚れた粗末な服を着て家を出て物乞いに化けて機会を狙った。その姿は彼の妻が見ても気付かず誰もが彼が国を出たと思った。しかし彼は趙の側に潜んでいたのだ。だがそれを誰も知らなかったのだ。
今度こそ誰にも見破られないと思われた。しかしだった。彼を古くから知る友人である徐という男が擦れ違った物乞いを見てふと気付いた。そしてその彼の方を振り向いてその物乞いに声をかけたのだ。
「待つのだ」
「何でしょうか」
「・・・・・・やはりな」
一見しては爛れただけに見えるその顔を見て徐は確信したのだった。彼だと。
「間違いない。君は」
「誰だと仰るのですか?」
「誤魔化すというのか?」
その物乞いに対して顔を顰めさせて問うた。
「互いに知った中だというのに」
「何のことだか」
「知らぬというのか。まあよい」
それはよいとした。だがそれでも彼は言うのだった。
「これは独り言だが」
「独り言ですか」
「別に聞かなくてもよい」
一応はこう言う。
「しかし言おう。優れた剣の腕と志を持った者がいる」
やはりあえて誰かとは言わない。だが今前にいる物乞いをじっと見据えての言葉だった。
「彼は何故目指す者に仕えないのか。若し仕えていれば」
「仕えていれば」
「その者をより容易に討ち果たすことができるというのにな。何故だ」
「それは異心を抱いて仕えるということ」
物乞いは答えた。その潰れてしまった声で。
「その者はそれをしようとは思っていないのでしょう」
「思っていないのか」
「おそらくは」
こう語るのだった。
「彼は己のしようとしていることがどれだけ困難なことか承知しているものかと」
「では何故」
「それでも志を果たしたいものであるのかと」
続いての言葉だった。
「そして」
「そして」
「後の世の人に二心を抱かぬことはどの様なものか見せたいのかと考えます」
「それでもするのか」
「おそらくは」
目を伏せて徐に答えた。
「わからぬ。そこまでして」
「士は己を知る者の為に死ぬ」
そっと述べる。その時粗末な泥や汗や埃で汚れた服の下から白い花がちらりと見えた。
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