白梅
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1部分:第一章
第一章
白梅
春秋時代末期、晋の国でのことだ。この時晋はあまりにも貴族達の力が強くなり今まさに分裂せんとしていた。その貴族達も互いに争い血生臭い抗争が繰り広げられていた。
その抗争を続ける貴族達の中に智伯という者がいた。彼はこの時代の力を持つ者の常として多くの客をその下に置いていた。その中に豫譲という者がいた。
鋭利な引き締まった顔をしておりその身体は細く長い。まるで蟷螂の様だ。浅黒い肌と黒い髪が彼を端整で精悍なものに見せていた。剣を得意としておりその腕は晋でも随一と謳われていた。智伯はその彼を高く評価していた。
ある日のことだ。智伯の屋敷の庭で豫譲が剣の稽古をしていた。智伯がそれを見たのである。
「うむ、見事だ」
彼はひらひらと舞う花びらを切っていた。どれも的確に中央で切っている。それを見て思わず唸ったのである。
「全て真ん中で切るとは。そうそうできるものではない」
「お褒めに預かり何よりです」
「豫譲殿」
ここで智伯は彼の名を呼んだ。
「何でしょうか」
「貴殿は確か」
話しながら庭に入る。そうして親しげに彼に声をかけてきた。周りには緑の木々とそれに咲く花々がある。白い花が多くそれが目立っている。
「以前もこの国の卿のところにいたそうだな」
「はい」
豫譲は彼の問いにこくりと頷いた。この時代の大きな貴族、しかも大臣に値する者を卿と呼んだのである。この智伯もまた卿の一人である。
「その通りです」
「そこを離れたのは何故か」
「二人おりました」
彼はまずこう述べた。
「二人か」
「私はある卿のところに入りました。それも二人」
「そうだったのか」
「はい。ですが」
ここで目を伏せる。頭も伏せて述べるのだった。
「どちらの方も私を士として扱うことはありませんでした」
頭も目も伏せたうえでの言葉であった。まるで感情を隠すかのように。
「まるで犬か猫の様に扱っておりました。それで私は」
「出たのだな」
それを豫譲に対して問うのであった。
「その為に」
「その通りです。私は屈辱に耐えることができませんでした」
やはり頭を伏せている。心の中を見せまいとするかのように。
「その為に出たのです。二度も」
「ふむ、わかった」
智伯はそこまで聞いたうえで頷いた。そうして彼に対して言うのだった。
「豫譲殿」
まずは彼の名を呼んだ。
「何でしょうか」
「顔をあげられよ」
「顔を」
「士は常に誇りを忘れぬもの」
それをその理由とした。
「顔を伏せていては駄目だ。だからこそ」
「私を士と呼んで下さるのですか」
豫譲が彼に問うたのはそこであった。
「この私を」
「私とて人を見る目はあるつもりだ」
智伯はその豫譲に対して笑顔で告げた。それは人を知る者の笑顔であった。
「だからだ。さあ」
「顔を上げよと」
「さっきも申し上げた筈。士は常に誇りを忘れぬもの」
それをまた豫譲に対して告げた。
「だからこそ。宜しいな」
「わかりました」
豫譲は遂に顔を上げた。顔が晴れやかなものになっていた。その晴れやかな顔でまた彼に対して言うのだった。
「智伯様」
「何か」
「士は己を知る者の為に働くといいます」
それが士であった。そう広く信じられていたのだ。これは侠の心である。中国で古来より最も尊ばれてきた心である。
「そう言われているな」
「はい。ですから」
目が熱くなっていた。それは今の彼の心をそのまま表わしていた。その心を隠すことなく智伯に伝えるのだった。そこには嘘偽りは何処にもなかった。
「私もまた。智伯様の為にそうさせて頂きます」
「そう言ってもらえて何よりだ」
やはりそう言われて悪い気はしない。智伯にしろ。それが顔にも出ていた。嬉しいような笑顔だった。
「ではその時は宜しく頼むぞ」
「はい、それでは」
あらためて誓う豫譲だった。彼はこの時その為に生きてその為に死ぬことを誓った。それから暫くしてのことだった。
智伯には敵があった。その敵の名を趙襄子といい彼と同じ卿だった。智伯と彼は武力での争いにまで至り遂には趙が智伯のもとに攻め込んできた。
戦いは智伯にとって芳しいものではなく追い詰められた。最後には城を陥落させられ智伯のいる屋敷も敵に囲まれてしまった。
智伯はその中で残っている者達を屋敷の庭に集めて告げた。皆逃げるようにと。
「趙襄子が狙っているのは私だけだ」
あちこちが破損してしまった鎧を着た彼がこう言った。
「だから。死ぬのは私だけでいい。皆逃げてくれ」
「いえ、それは」
彼のその言葉に異議を呈した者がいた。見ればそれは豫譲であった。彼もまたあちこちが破損した鎧を着ておりその剣も血に塗れあちこちが刃毀れしていた。しかしそれでも彼は士気衰えぬ様子で主に対して言うのだった。
「私は。聞けません」
「聞けぬというのか」
「以前申し上げた筈です」
そしてここで言うのだった。
「士は己を知る者の為に死ぬ」
その言葉をまた言った。
「ですから。私はここで」
「死ぬのだな」
「そうです」
誓うのだった。その誓いにも偽りはない。心からの言葉であった。
「ですから。私も共に」
「豫譲殿」
智伯はここで。一旦落ち着いた笑みを彼に向けてその名を呼んでみせた。
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