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左慈

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3部分:第三章


第三章

「そなたが左慈か」
 曹操はややかん高い声で左慈に対して問うた。鋭い目の光が彼を見据えている。
「はい」
 左慈はその光にも怖れることなく応えた。そして言った。
「私が左慈でございます」
「そうか」
 曹操はそれを受けて頷いた。そして彼に対してまた問うた。
「そなたは術を使えるそうだな」
「はい」
 彼はそれに頷いて答えた。
「その通りでございます」
「わかった。それでは早速それを見せてもらおう」
「何をしましょうか」
「いや、何もしなくてよい」
 だが曹操はここでそう言った。
「何もしなくていいとは」
「すぐにわかる。これ」
 彼は左右の衛兵に対して声をかけた。
「この者を石室に入れよ。よいな」
「わかりました」
 衛兵達はそれを受けて左慈を捕らえた。曹操はそれを確かめてからまた左慈に対して言った。
「これから一年の間そなたを石室に案内する」
「一年ですか」
「そうだ。その間水も食い物もやらぬ。そなたは仙人なのだろう」
「はい」
「ならば何も食べなくとも飲まずともよい筈だ。そうだな」
 彼はニヤリと笑ってそう尋ねた。左慈はそれに対して全く顔を変えることなくそれに答えた。
「その通りでございます」
「ならばよい」
 曹操はそれを聞いて頷いた。そして左慈をその言葉通り石室に入れた。そして一年もの間水も食べ物も何もやらず閉じ込めた。だが左慈は弱ることもなく平然としていた。一年が経ち彼が平然と生きていることを知った曹操はかえってそれを無気味に思った。
「これは一体どういうことだ」
 彼は首を傾げて考え込んだ。鋭利なその整った顔立ちを疑念の色が覆う。
 彼はここである決意をした。彼は左慈に対してえも言われぬ無気味さを感じていたのだ。そして躊躇わなかった。彼は実に決断の早い男であったのだ。
「殺す、か」
 そう決めると後は人をやるだけである。彼はここで人を呼んだ。すぐに誰かがやって来た。
「御呼びでしょうか」
「うむ。・・・・・・む!?」
 曹操は部屋に入って来た者を見て思わず声をあげた。何とそこにいたのは左慈であったのだ。
「貴様、どうしてここに!?」
「ははは、私は仙人ですから」
 彼は笑ってそれに答えた。
「石位何ともなく通り抜けられるのです」
「貴様、あやかしであったか」
「まさか。仙人だと今申し上げたでしょう」
「むう。まあよい。それでだ」
「はい」
「何故ここに来たのだ。申してみよ」
「お暇を申し出に来ました」
「暇を!?」
「はい。明公が私を殺そうと考えておられるからです。申し訳ありませんがこれでお暇させて頂きます」
「何を馬鹿なことを言っておる」
 曹操はあえて笑顔を作ってそう言った。
「何故私がそなたを殺さなくてはならんのだ」
「私に怖れを抱いておられるからです」
「また馬鹿なことを」
 曹操はそれを聞いて笑ってみせた。
「何故幾多の戦場を駆け巡ってきた私がそなたの様な老人を怖れなくてはならぬのだ。冗談にしては度が過ぎるぞ」
「それではお暇して宜しいですな」
「うむ」
 こうなっては引くことは出来なかった。彼は渋々ながらそれを認めた。
「それでは行くがいい」
「わかりました」
 こうして左慈は曹操の元を去ることになった。曹操はここで度量に広いところを見せ彼の為に宴会を設けることにした。宴は豪華なものであった。曹操はここで文武の百官を集め宴を催した。並ぶ酒も料理も豪勢なものであった。
「どうかな、この宴は」
 曹操は得意な顔で左慈を見た。
「豪勢なものであろう」
「そうですな」
 左慈はいつものあのにこやかな笑みでそれに応えた。
「この魚も美味しいですし」
 彼はここで鯉を口にしていた。曹操はそれを見てふと気付いた。
「そういえば松江のスズキがないのう」
「そういえばそうですな」
 他の者もそれを言われて気付いた。
「ただあれは季節ではないですし。それ程御気にかけることもないかと」
「そうだな」
 曹操は腹心の部下である夏侯惇の言葉を聞いて頷いた。曹操は元々夏侯氏の血を引いている。彼の家は漢王朝の功臣の一人である曹参の家であるが祖父が宦官であり父は夏侯氏から養子に入ったのである。その為彼は曹、夏侯二つの家とつながりがあるのである。なお夏侯氏もまた漢王朝の功臣の家である。この夏侯惇は曹操の腹心中の腹心であり曹操の家臣の中ではかなり高位に位置していた。隻眼の名将である。
「それではそれは置いておくか」
「はい」
「お待ち下さい」
 だがここで左慈が出て来た。曹操はそれを見て内心嫌な顔をした。だがそれを表に出すわけにはいかなかった。今は宴の場なのである。
「何だ」
 彼は表向きは表情を変えず彼に尋ねた。
「明公は松江のスズキをご所望ですな」
「いや、別に」
 彼はそう言って断った。
「季節ではないしな。それにこの許都では手には入らぬ」
「季節であって手に入ればいいのですな」
「まあな」
 彼はここでいぶかしがりながらもそれを認めた。
「手に入れば、だぞ」
「わかりました」
 彼はそれを聞いて頷いた。そして懐から銅盤を取り出した。
「何処からあんなものを」
「よく出してきたな」
 宴にいた者はそれを見て首を傾げた。だが曹操はそれでも表情を変えず左慈を見ていた。
「それをどうするのだ」
「まあ御覧下さい」
 今度は釣り糸を出してきた。そしてそれを銅盤に垂らした。するとそこから見事なスズキが釣られた。
「これでどうですかな」
 左慈はその釣ったスズキを曹操に見せて問うた。得意な顔であった。
「ふむ」
 曹操はそれを見て頷いた。表向きはやはり何事もなかったように取り澄ましていたが内心は左慈に対する殺意がより高まっていた。
「もう一つ思い出した」
「何でしょうか」
「益州の生姜じゃ。これはあるかな」
「生姜ですか」
「そうじゃ。わしはあれが好きでのう」
 曹操はニヤリと笑いながら言った。
「じゃが手には入りはせぬだろうな。今あの地は賊の手に落ちておるからな」
「はい」
 夏侯惇はそれを聞いて頷いた。今益州は曹操の宿敵の一人劉備の勢力圏となっていたのである。彼は皇族ではあるが曹操と敵対していたのだ。
「流石にこれは無理じゃろう」
「お安い御用です」
 左慈はそれを聞いてしれっとした様子でそう言った。
「まさか」
「幾ら何でもそれは」
「いやいや」
 周りの者の言葉にも左慈は動じていなかった。彼はここでまた懐に手を入れた。そして生姜を出したのであった。
「これで宜しいでしょうか」
「うむ」
 曹操は憮然とした顔で頷いた。
「御苦労。それでは早速そのスズキと生姜を料理するとしよう。左慈よ、感謝する」
「有り難うございます」
 左慈はそう答えて頭を垂れた。スズキと生姜は奥に運ばれていく。そして曹操は彼に対してまた声をかけた。
「ところでだ」
「はい」
「このスズキと生姜の礼をしたい」
「何でしょうか」
「褒美をとらす。何でも好きなものを申してみよ」
「褒美ですか」
「うむ」
 曹操は頷いた。
「それでは酒を一杯頂きたいのですが」
「酒をか」
「はい」
 左慈は微笑んでそれに答えた。
「そんなものでよいのか」
「はい」
「言っておくがもっといい褒美が他に幾らでもあるのだぞ」
「私は元々欲のない男でして」
 彼はそう答えた。
「それで充分でございます」
「そうか」
 曹操はそれを聞いて頷いた。
「それでは酒ととらそう。熱いのでよいか」
「はい」
「それでは」
 曹操は酒に燗をするように命じた。程なくして酒が運ばれてきた。
「さあ、飲むがよい」
「有り難うございます。それでは」
 彼はここで冠の簪を抜き取った。そしてそれを杯の中に入れた。
「ん!?」
 皆それを見て不思議に思った。
「何をしておるのか」
 曹操もそれは同じであった。彼は眉を顰めさせて左慈に問うた。
「少し趣向を」
 彼は笑ってそう言葉を返す。見れば簪はまるで墨を磨る様に消えていく。そして遂には消えてなくなってしまった。
「これでよし」
 彼はそう言うと杯から手を引いた。するとそこにはあの簪があった。
「何と」
「これはまた」
 皆それを見て驚いた。だがそれで終わりではなかった。
 左慈は今度はその簪で杯の中の酒を切った。すると杯の中の酒が二つに分かれたのであった。
「酒が二つに」
「一体どういうことだ」
 それを見てさらに驚かされた。左慈は悠々と笑ったまま動きを続ける。まずは曹操に申し出た。
「この杯で飲みませんか」
「その酒をか」
「はい。これから長い間御会いすることはないでしょうから。折角の別れの杯に」
「わかった」
 彼は頷いた。この時彼はまず自分が先に飲むものだと思っていた。だがそれは外れた。まずは左慈が飲んだ。それから彼はその杯を曹操に手渡した。見ればその中の酒は二つに分かれていた。
「さあ、どうぞ」
「うむ」
 頷いてみたもののどうも飲む気にはなれなかった。無気味な感じがしてならなかたからだ。
 暫く持ったままにしていると左慈が声をかけてきた。
「明公」
「何じゃ」
「また面白い余興をお見せ致しましょうか」
「余興を」
「はい。それではその杯を」
「うむ」
 曹操はそれに従い杯を左慈に戻した。すると彼はそれを受け取るや否やすぐに棟に投げ付けた。
「!?」
 今度は何をするのか、と誰もが思った。すると杯は宙に浮かんでいた。ゆらゆらと揺れながら浮かんでいる。
「杯が宙に」
「これも術なのか」
「如何にも」
 左慈は答えた。見れば杯はそのまま宙に浮かんだままであった。
「さて、この杯を御覧下さいませ」
「むむむ」
 曹操だけでなくその場にいた全ての者が見ていた。杯はそのまま宙をゆっくりと飛びはじめた。それはまるで雲の様であった。
「これからどうなるのだ」
「飛んだままか!?」
 皆考えはじめた。何時しか左慈のことは完全に忘れてしまっていた。
 やがて杯はことりと床に落ちた。そしてその頃には左慈は何処かへと消えてしまっていた。捜してみたがやはり何処にもいなかった。曹操はそれを聞いてさらに左慈を殺そうと決意した。
「こうなっては許してはおけぬ」
 曹操は家臣達を集め怒りに満ちた顔と声でそう言った。赤い服がまるで炎の様に見えた。
「お待ち下さい」
 だがそんな彼を制止する者がいた。彼の参謀の一人である程?であった。
「程?か。どうしたのじゃ」
「あの左慈という者ですがさしあたっては放っておいてもいいと思うのですが」
「何故じゃ」
「確かに明公のお怒りはわかります」
「当然じゃ。何を今更」
 誇りを傷つけられて黙っているような曹操ではない。彼の怒りは止まるところを知らないものであった。彼は激情家でもあるのだ。彼は政治家、軍人であると共に優れた詩人でもあった。詩は豊かな感情なくしては書くことは出来ない。今はそれが裏目に出てしまっていた。
「ですがあの者は明公に何か害を為したわけではありませぬ」
「私を侮辱してもか」
「はい。ここはどうか堪えて頂きたいのです」
「ふむ」
 感情的ではあるが家臣の言葉を聞き入れないというわけではなかった。曹操は柔軟な考えも出来る人物であった。だからこそ天下の大半を手中に収めることができたのである。
「放っておきましょう。どうせあの男は悪戯をするだけですから」
「そうだな」
 曹操はそれに頷いた。それでこの話を終わらせるつもりであった。ところがそうはいかなかったのだ。何とこの場にあの男が姿を現わしたのだ。
「そういうわけではありませぬぞ」
「貴様か」
 曹操は部屋に突如として入って来た左慈を睨みつけて言った。怒りを忘れようとしていたその顔に再び怒りの色が満ちてきた。
「一体何をしに来たのだ」
「明公にお話したいことがありまして」
「話とな」
「はい」
 左慈はいつもの微笑みを浮かべてそれに頷いた。
「明公は仙人になれる素養がおありです」
「ほう」
 曹操はそれを聞いて怒りに満ちた顔を微かにほころばせた。
「そうなのか」
「はい。その御顔を見ますと。それで今日は提案したことがありましてこちらに参りました」
「提案とな」
「そうです。宜しいでしょうか」
「うむ」
 曹操はそれを認めた。
「何でもよい。申してみよ」
「わかりました。それでは私と一緒に山へ登りましょう」
「山に!?」
「はい」
 左慈は答えた。
「山にです。そして仙人になりましょうぞ」
「その気持ちは有り難いがな」
 曹操は苦笑いをしてそれに応えた。
「生憎私にはまだその考えはない。悪いがな」
「左様ですか」
「うむ。気持ちだけ取っておこう」
「残念なことです。それでは私は無理にでも明公に山に来て頂かなくてはなりません」
「どういうことじゃ」
「はい。これで以ってです」
 彼はここで懐から剣を取り出した。皆それを見て身構える。曹操の前を夏侯惇と曹操の従兄弟である曹洪が護る。二人共曹操の腹心中の腹心であり曹操軍に重鎮でもある。言うならば曹操の懐刀だ。
「益州の劉皇叔に天下を譲られてはどうですかな」
「馬鹿なことを」
 曹操はまた怒りを爆発させた。彼は柄に手をあてて席から立った。
「何故私があのような男に天下を譲らなければならないのだ」
「それが天の理であるからでございます」
 左慈はそれっとしてそう答えた。
「明公が仙人になられて劉備様が天下を治められるのは。そうは思いませぬか」
「思わぬ」
 曹操は即答した。
「悪ふざけも大概にするがよい」
「おやおや」
「夏候淳、曹洪」
 曹操は脇を固める二人に声をかけた。
「この者を切り捨てよ、よいな」
「はっ」
「畏まりました」
 二人はそれを受けて切り掛かる。だが左慈はそれより前に部屋から姿を消した。まるで煙の様に姿を消してしまったのである。
「ぬうう、またしても消えたか」
 曹操はそれを見てさらに怒りを爆発させた。
「今度ばかりは許してはおけぬ。追ってすぐに殺してしまえ、よいな」
 夏侯惇と曹洪にそう命じる。二人はそれを受けてすぐに動いた。彼等は兵を連れて左慈の捜索を開始した。やがて許都のすぐ外の草原で彼が見つかった。
「いたぞ、あそこだ」
 兵士の一人がそう叫ぶ。それを受けて曹洪が馬に乗り兵士達を連れてそこに急行した。するとそこにあの男がいた。曹洪は彼を見て叫んだ。
「殺せ!」
「ハッ!」
 それを受けて兵士達が動く。曹洪も剣を手に向かう。だがここで左慈は羊の群れの中に入り込んだ。
「ムッ!?」
 見ればそこで左慈は消えた。曹洪はそれを見て左慈が羊に化けたものだと考えた。そこでその羊達の主である若い羊飼いに対して言った。
「済まないが羊の数を数えてくれないか」
「わかりました」
 その羊飼いは頷いてそれに応えた。そして数えてみると彼は不思議そうな顔をした。
「おかしですね」
「どうしたのだ」
「いえね、羊が一頭多いのですよ。おかしいなあ」
「そうか、多いのか」
「はい。何故なんでしょう」
「理由はわかっている」
 曹洪は彼に対してそう答えた。
「わかっておられるのですか?」
「うむ。こちらの事情でな。さて」
 彼はここで羊達を見据えた。
「巧く化けたつもりだろうがそうはいかぬ。さあ覚悟しろ」
「ほっほっほ」
 だがここで笑い声がした。見れば羊の中から聞こえてきた。
「覚悟しろとは私に対してですかな」
 そしてその中から一頭の羊が出て来た。異様に大きく白い羊であった。
「羊がしゃべった」
 羊飼いはそれを見て驚きの声をあげた。曹洪はそんな彼に対して言った。
「案ずるな、あれは妖術使いだ」
「妖術使い」
「そうだ。だから下がっておれ。よいな」
「わかりました」
 羊飼いはそれを受けて下がった。曹洪はそれを確かめるとあらためて左慈が化けたと思われる羊を見据えた。
「覚悟はよいな」
「ほっほっほ」
「何がおかしい」
「まさか私が左慈だと思われているのですかな」
「何!?」
「私は左慈ではありませんぞ」
「馬鹿を申せ」
「いえ、それが証拠に」
 ここで別の羊が声をあげた。
「私が左慈なのですから」
「何!?」
 それを聞いてさしもの曹洪も思わず声をあげた。
「私もです」
 別の羊もそう言った。それを見た兵士の一人が羊飼いに対してこう問うた。
「御前の羊は人の言葉を話せるのか!?」
「まさか」
 羊飼いはその問いに首を横に振って応えた。
「そんな筈がありません」
「そうであろうな」
 兵士も馬鹿な質問をしたと思った。曹洪はそれを見てまた言った。
「それではだ」
 彼は今度は羊飼いに対して言う。
「はい」
「一体どれが御前の羊なのだ?生憎わしにはわからん」
「それでしたら」
 彼はここで頷いた。そして笛を吹いた。すると羊達が動いた。
「これで動いた羊がそうでございます」
「そうか。ならば」
 だがどの羊も動く。これを見てさらにおかしく思った曹洪はまた数を数えさせた。すると元に戻っていた。
「逃げられたというのか」
「どうやらそのようですな」
 兵士がそれを見て顔を顰めて応えた。
「また何かに化けて去ったのでしょう」
「何という奴だ。だが遠くへは行ってはおるまい」
「はい」
「捜索を続けるぞ。よいな」
「はっ」
 それを受けて兵士達は馬に乗った。曹洪もそれに続く。そして羊飼いに対して顔を向けた。
「手間をとらせたな」
「いえいえ」
「このことは明公にお伝えしておく。手間をとらせたぶんは払っておく」
「といいますと」
「何、すぐにわかることだ」
 曹洪はそう言うとその場を後にした。後程この羊飼いには一袋の金が贈られたという。曹操は決して吝嗇でも民を忘れたりもしなかったのである。

 
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