珈琲
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1部分:第一章
第一章
珈琲
ざんぎり頭を叩いてみれば 文明開化の音がする
こんな言葉が流行っていた時代のことだ。とにかく世の中には様々な新しいものが急激に出回っていた。世の中がこれまでにない程に変わっていた時代である。
「今度はそれか」
「ああ、これだよ」
二人の若者がまだ日本の家が立ち並ぶ中で語り合っている。見れば一方は和服とは違うこれまでにまず見たことのないような服を着ていた。
「これを買ったんだ。高かったよ」
「それが洋服か」
「そう、これがだよ」
そのズボンとネクタイの服を誇らしげに相手に見せての言葉である。
「これが洋服なんだよ」
「動き易いかい?」
「それがちょっとね」
しかしその問いには難しい顔になるのだった。
「窮屈っていうかね。どうにも」
「そういえばまた変わった袴だな」
下を見ての言葉である。
「これはまたおかしなものだよ」
「これはズボンというらしいんだ」
「ズボン!?」
「そう、ズボン」
こう相手に答える。
「これをそういうらしいんだ」
「ズボンねえ」
「そしてこれはネクタイ」
首に巻いているものをわざわざ出して見せての言葉だ。
「ネクタイというものだよ」
「ネクタイか」
「これを巻くのが実に難しくてね」
「巻くっていうと首にかい」
「そうなんだよ」
今度は苦笑いと共の言葉である。
「欧米の連中はこれを誰もが首に巻いているんだよ」
「へえ、またおかしな風習だな」
「そう思うだろう。ところで今は暇かい?」
「ああ、まあね」
こう答える彼であった。
「今のところはね」
「そうか。じゃあ牛でも食べに行くかい?」
「牛!?というとあれかい」
「そう、あれだよ」
ここで二人は笑顔になるのであった。そのうえで言い合う。
「あれを食べに行こう。牛鍋をね」
「すき焼きだったか」
彼はふとその鍋の名前を口にした。
「確か。そういう名前だったね」
「そう、すき焼きだ」
洋服の青年も言った。
「すき焼きを食べよう。それでいいね」
「よしっ、じゃあ行こう」
「うん」
これで話は決まりであった。
「あれはかなり美味いらしいしな」
「僕ははじめてだ」
「何を隠そう僕もだ」
これは洋服の青年も同じであった。
「美味いというがね。果たして」
「どういった味なのか」
そんな話をしながらそのすき焼きを食べに行くのだった。とかくこんな話に満ちていたのが当時である。そしてその中でまた一つ。こんな話があった。
「コゥヒイ!?」
「そう、珈琲っていうんだよ」
茶屋で茶と饅頭を食べながら中年の男達が話をしていた。浅草の大工の留吉と魚屋の磯八である。二人はその饅頭を頬張りながら話をしているのである。
「その飲み物はな」
「またえらく変わった名前だねえ」
「またあれだよ」
「西洋からのか」
「そうらしいねえ。何でも亜米利加で随分飲まれてるみたいだよ」
磯八は自分の着物の中に手を入れて腕を組んでそのうえで留吉に対して述べるのだった。首が傾げられて少し右になってしまっている。
「わし等が茶を飲むみたいにね」
「またそりゃ随分と飲むんだね」
「その珈琲の店がこの江戸にもできたそうだ」
「へえ、そりゃまた」
二人共流石にもうまげではないがそれでも江戸という意識が残っていた。これが東京に完全になってしまうのにはもう少し時間が必要であった。
「面白いもんができたねえ」
「それでだよ、留さん」
ここで磯八は言うのだった。
「ちょいと考えたんだがね」
「何だい?」
「その店行ってみねえか?」
こう提案するのである。
「その珈琲の店にな」
「あっしとあんたでか」
「どうだい?」
また留吉に対して言う。
「そういうことで。ちょっと冒険にな」
「冒険っていってもまた随分とご大層なことだよ」
提案された留吉は難しい顔で腕を組みだした。もう饅頭は食べてしまい後は茶を飲むだけだ。だがその前で考え込んでしまったのであった。
「それが一体どんなものかもわからねえっていうのに」
「わからねえからいいんだよ」
だが磯八はここでこう言うのであった。
「わからねえからよ。江戸っ子は何が看板だい?」
「そりゃ決まってるだろ」
大工らしい威勢のいい声で言うのだった。その頭にある捻り鉢巻がここぞとばかりに目立つ。その鉢巻を誇示するようにしてまた言うのであった。
「度胸だよ、度胸」
胸を張って言う。所謂からっ風である。江戸っ子は喧嘩は弱いが喧嘩っぱやくそのうえ度胸だけはある。とにかく度胸が江戸っ子の看板だったのである。
「それだよ、やっぱり」
「それに今飲んだら初物だよ」
さらに言う磯八だった。
「今飲んだらな。どうだい?」
「初物かよ」
それを聞いて留吉はさらに乗り気になるのだった。ゴクリ、とその細い喉を鳴らしさえする。それと一緒に短く刈っているその白髪頭も動く。
「だったら」
「江戸っ子は初物だよ」
「ああ」
江戸っ子はこれも好きなのである。とにかく当時はこういった江戸っ子意識がとにかく強かったのである。こういった意識はわりかし後の時代まであったようである。
「わかるよな?それだったら」
「乗れってことかよ」
「留さんなら乗ると思ってるさ」
こうまで言うのだった。
「絶対にな」
「言うねえ」
言われてにやりと笑ってみせる。まんざらではないということだった。
「はっさんよお。だったらおいらも」
「乗るかい」
「乗るさ」
そのにやりとした笑みのまま答えたのだった。
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