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すれ違い

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8部分:第八章


第八章

「彼女をつけていく」
「そうか。それではな」
「君もやはり来るのか?」
「ただいるだけさ」
 声を笑わせての言葉だった。
「それでもいいな」
「いい」
 幸次郎もまたそれを受け入れる。一言だけで受け入れそうして物陰から出た。そうして明るい道を後ろから彼女をつけるのだった。彼女は二人に気付くことなく道を進んでいく。一つの影の後ろに二つの影がついてきている。太陽がそれを照らし出して道に映し出していた。
 道を歩きながら。また達哉が幸次郎に言ってきた。道を進む彼女を見ながら。
「結構歩くな」
「そうだな」
 幸次郎は達哉のその言葉に頷いた。
「これだけ長いとはな」
「しかし。何処に行くのだ」
 幸次郎はこのことも考えた。
「果たして。何処だ」
「ここは確か」
 達哉は今度は周囲を見回した。周囲には立派な和風の屋敷が並んでいる。どれも門構えからして実に立派で見事な家ばかりである。
「資産家や華族の住む場所だぞ」
「そうだな」
 幸次郎もそれはわかっているようだ。しかし見ているのはあくまで彼女だけだった。
「ここはな」
「ここに住んでいるのか?」
 達哉はこう考えた。
「ひょっとして」
「そうかも知れない」
 幸次郎も彼と同じことを考えだしていた。
「道もよく知っているようだしな」
「では良家の縁者か」
 達哉は今度はこう考えた。
「あの人は」
「だが歩き方は」
「歩き方は?」
「踊りに似ているな」
 不意にこう呟いた幸次郎だった。
「どうもな」
「踊りにか」
「そうは思わないか」
 前にいる彼女を見たまま言う幸次郎だった。
「歩き方が。そんな感じに見える」
「日舞か」
 つまり日本舞踊だ。この時代では良家の子女の嗜みの一つでもあった。
「言われてみればそんな動きだな」
「そうだ。良家の縁者というよりは」
「それに教えている先生か」
「そうではないのか?」
 こう推理する幸次郎だった。
「よくはわからないが」
「否定はできないな」
 達哉もその可能性を認めた。
「ここを進むことといい。つまり」
「行く先にいる家の娘に教えている」
「それか」
「それではないか」
 彼女を見たまま意見を交えさせる。
「まだ確証はないが」
「ここは特別な場所だ」
 達哉はまた周囲を見回した。やはり見事な門構えの屋敷が立ち並んでいる。華族や資産家のいる場所というのは間違いなかった。
「少なくともここを進んでいるということはだ」
「縁者なのは間違いないな」
「ああ」
 達哉は幸次郎の言葉に対して頷いた。顔は正面に戻していた。
「それはな」
「交わりはあるな」
「しかし問題は」
「問題は?」
「その交わり方だな」8
 ここで彼は少し怪訝な言葉になっていた。
「それだが。林君」
「何だ、今度は」
 幸次郎はここで達哉が急に畏まった言葉になったのを聞いた。
「随分と言葉が鋭くなっているぞ」
「どんな形でもいいか」
「どんな形でもとは」
「僕がこう思っているだけだが」
 今度はこう前置きしてきた達哉だった。
「下手をすればな。あの人は」
「あの人は?」
「いや」
 だがここで言葉を泊めた達哉だった。
「何でもない。気にしないでくれ」
「ここまで来て止めるのはどうかと思うが」
「気のせいだな」
 こう言って言葉を止めてしまった達哉だった。
「やはり。気にしないでくれ」
「そうか」
「済まない。それでだ」
「うむ」
「そろそろ大物の場所だぞ」
 達哉の言葉は今度はくぐもったものになっていた。
「そろそろな」
「大物?そういえば」
 今の達哉の言葉から幸次郎は脳裏にあるものを思い出したのだった。
「ここはあれだったな」
「君も知っているか」
「ああ。山本公爵」
 首相を何度か経験したこともあり天皇陛下の側にもいる政界の実力者だ。陸軍や内務省にその権力基盤があり時には政界の黒幕とも言われる男だ。
「あの人か」
「まあ屋敷の前を通っても何ともないと思うがな」
「流石にそれはないだろう」
 幸次郎もそれは察していた。
「幾ら何でもな」
「色々と噂のある人物だがな」
 この山本という人物はとかく評判の悪い人物なのだ。政界の黒幕としてだけでなく何かといえば汚職の疑惑が起こる。そのうえ陰謀家であり数々の政敵を陥れたとも噂されている。あくまで噂に過ぎないがその色の度合いは限りなく黒に近い灰色なのが実情である。
「それでもそれでは何もないか」
「そうだな。そろそろだが」
「緊張するか?」
「少しだが」
 また答える達哉だった。
「緊張はしている」
「そうか」
「とにかく不審な動きは避けよう」
 やはり緊張を感じてこのことを言う達哉だった。
「疑われたりすれば元も子もない」
「その通りだ。むっ!?」
 幸次郎はあの人がここで右に曲がったのを見た。
「右に!?」
「公爵の屋敷に入ったぞ」
 達哉も言った。
「ここで。ということはだ」
「娘なのか?」
 幸次郎は言った。
「公爵の」
「いや、それはない」
 だがそれは達哉によって否定された。
「公爵に娘はおられない」
「おられないか」
「それにあの年頃だと」
「孫か?」
「よく考えればだ」
 ここで達哉はまた言った。顔を俯き気味にさせ目を伏せ顎に右手を当て考える顔になっている。そのうえでの言葉であった。
「この道は確か」
「確か。どうした?」
「それだけではないな」
 こうも言う達哉だった。
「それにだ」
「どうした?」
「公爵の縁者ならば」
「うむ」
「ここまで一人で来るか?」
「そういえば」
 言われてこのことに気付く幸次郎だった。
 
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