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彼岸花

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1部分:第一話


第一話

                   彼岸花
 その時中国は大きなうねりの中にあった。
 長い戦いの時が終わり時代は統一へと向かっていた。当時中国において最も隆盛を誇っていたのは秦であった。
 この時の秦王は政、後の始皇帝である。
 彼は出生の時から色々と噂があった。彼の父親については二つの説がある。
 まずは荘襄王であるという説。そして彼の妻を以前遊女として側に置いていた彼の後見人呂不韋、司馬遷は史記において二つの説を併記している。一説によると彼は目が青く、髭が赤かったという。鼻は高く目は切れ長、そして胸は大きく突き出ていた。漢民族のものではない容姿も窺えるところから彼は秦の血を引いていたのではないか、という説もある。だが呂にしろ彼の母にしろその可能性もないわけではない。やはり真相は謎のままである。
 これの真相はわからない。だが彼が幼い頃趙の人質として辛い少年時代を送ったことは事実であった。そしてそれが彼の人間性を形成する一旦となった。
 彼は秦に戻り十三歳で王となった。頭はいいが醒めており、そして人を決して信用しなかった。そんな彼が性悪説に基づく法家の思想に魅せられるのも当然であっただろうか。
 彼は法家、とりわけ韓非を重用した。彼は敵国韓の王族であったがそれに構わず彼を使った。だが決して信用はせず彼を牢に置いた。彼は後にかっての友人であった同じく法家の李斯により暗殺される。韓非の才を知る彼は自らの地位を守る暗殺したのだ。彼は恨みを飲んで死んだ。
 だがそれでも秦王の考えは変わらなかった。彼は法家の信念のもと国を治め各国を次々と併呑していった。そんな彼の前に各国は為す術もなかった。
「今は秦か」
 中原に衛という国があった。そこに一人の男がいた。その男は今草原で一人寝そべっていた。
 旅の服装をしている。身なりは質素だがその物腰は決して卑しいものではない。
 腰に一振りの剣がある。その質素で旅に汚れた身なりからは不釣合いな程立派で大きな剣であった。
 その剣だけで彼が普通の者ではないことがわかった。彼の名は荊軻という。この国の士太夫の身分にある者であった。
 彼は今しがた祖国における官を辞したばかりであった。主君に進言したが受け入れられなかったからだ。
「どうするかな、これから」
 彼は今後の身の振り方について考えていた。だが中々結論は出なかった。
 寝転がりながらふと辺りを見回す。すると側に花が咲いていた。
「おや」
 見ると赤い。茎は細いが花は見事に咲き誇っている。
「彼岸花か」
 彼はその花を見て微笑んだ。花は風に煽られ北に向いている。
「御前は俺に北に行って欲しいのか」
 花に問いかけた。だが花は当然のことながら答えない。それは彼もわかっていた。
「よし」 
 彼はそれを受けて微笑んだ。
「では北に行くとしよう」
 そう言うとゆっくりと立ち上がった。
 そしてそのまま北に向かって歩いて言った。道中色々とあり、時には喧嘩を売られることもあったが彼はそれを相手にはしなかった。笑われようとも気にしなかった。
 やがて燕に辿り着いた。当時最も北にある国であった。凍てつく様な寒さが支配していた。
 彼はここに身を落ち着けた。だがこれといって何をするわけでもなく書や剣、そして酒を楽しみ遊侠の徒達と交わった。そして無為に日々を過ごしていた。
 だが世の中は無為には動いてはいなかった。秦の侵攻は止まるところを知らず各国は次々に滅ぼされその軍門に下っていった。
 燕もまた例外ではなかった。北の果てにあるこの国にも秦の軍が迫っていた。
 これに危機を覚えぬ者はいなかった。そして秦王を恐れぬ者もいなかった。彼はまさに餓えた虎の如く燕を狙っていたからだ。
 その彼を憎む者がこの国にいた。太子である丹だ。
 彼はかって趙で人質となっていた。そしてそこで幼い時の秦王と会っていたのだ。
 彼等は人質同士ということもあり親しい関係にあった。そしてよく遊んだ。幼馴染みであったのだ。
 丹は後に秦に人質として向かった。この時彼は古い友人と再会することに喜びを感じていた。
 だがそれは見事に裏切られた。再会した秦王は冷酷な専制君主となっており彼を冷たく扱ったのだ。
 その仕打ちに丹は驚き、そして怒った。彼は胸に激しい憤りを覚え秦から去った。そして彼に復讐する機会を狙っていたのである。
 その彼のもとに一人の男がやって来た。秦の将軍である樊於期が来たのだ。彼は秦王を諫めたところ聞き入れられずその一族を皆殺しにされたのだ。
 この時彼は友人の家にいて難を逃れた。そして彼への復讐を誓い燕に流れてきたのだ。
 彼を受け入れるかどうか、燕は議論を重ねた。そして遂に丹が彼を匿うことんいなったのだ。
 秦の襲来を恐れる声が多かった。だが彼はあくまで樊を匿うことにしたのである。
 しかし秦の怒りを買うことは必定であった。秦王は恨みを忘れない。かって彼に反逆を企てた母の愛人は車裂きにされ一族郎党その首を晒されていた。彼は非常に酷薄な人物でもあったのだ。
 その彼が燕に兵を向けたらどうなるか、答えは明白であった。燕の者は皆それを心から恐れていた。
 だが丹には考えがあった。それは何か。
「要は秦王さえいなければそれでよいのだ」
 彼はそう考えていた。そしてそこから結論を導き出した。
 それは暗殺であった。秦王に刺客を送る、彼の結論はそれであった。
 しかしそれは容易ではない。人を信じぬ彼は常に身の周りの警護を怠らなかった。宮殿には武装した兵士達が詰め、彼の側には剣を持って入ることはできなかった。彼は用心に用心を重ねていたのだ。
 その彼を討つことは到底不可能に思えた。だが彼はそれをあくまでやろうと考えていた。
「問題は誰を刺客に送るかだ」
 丹は常にそのことばかり考えていた。だがそれが可能な者なぞ天下広しと言えど見つからなかった。
 幾ら探しても見つかりはしない、困った彼は燕において賢人と評判をとる田光という老人に相談することにした。
 彼は田光を自宅に招いた。そして彼をその中の奥へ案内した。
(これは只事ではないな)
 田光は案内されるうちにそれに気付いた。見れば進む道は次第に暗くなり案内する者も丹一人となっていた。そして前を進む彼の足取りが妙に速かったのだ。
 やがて二人は暗い部屋に入った。昼だというのにその部屋は暗く僅かな蝋燭の光だけが部屋を照らしていた。
「こちらです」
 丹はようやく振り向いて田光に声をかけた。その顔は暗く、そして何らや無気味な雰囲気を漂わせていた。
 田光はその顔を見て覚悟を決めた。だがそれは顔には出さなかった。
「はい」
 何事も知らない素振りで頷いた。そして部屋の中央に置かれている席に向かった。
 二人は席に着いた。互いに顔を見合わせる。
「本日先生に来て頂いたのは他でもありません」
 まず丹が口を開いた。その顔が暗闇の中の蝋燭の火に照らし出される。
「国事について御教え頂きたいのです」
「国事ですか」
 彼はそれを聞き密かに唾を飲み込んだ。おそらく太子は何やら恐ろしい計画を立てている、そう感じていた。
(まさか謀反か)
 まずはそれについて考えた。だが今彼の政敵はこれといっていない。このままいけば彼が次の燕王になるのは確実であった。
(では何だ)
 彼は考えた。重臣の粛清か。しかしこれもない。彼といがみ合っている燕の臣もいないわけではなかったがそれ程までに敵対してはいなかった。
(これも違うな)
 どうやら国内のことではないらしい。すると外か。
「秦のことですが」
 丹は言った。
(やはりな)
 彼の予想は当たった。だがそれはおおまかなことであり細かなことまではこの時点では考えてはいなかった。それについて考えようとしているところであった。
 だが丹はそれよりも前に彼に対して言った。
「今秦は我が国に迫っております。これについてどうお考えですか」
「秦ですか」
 彼はそれまでの思考を一旦打ち切った。そして秦について考えを巡らせた。
(秦・・・・・・)
 その強大さは知らぬ筈がなかった。そしてその野心も。今秦は中国統一に向けて大きく動いていたのだ。
 秦を止めるのはおそらく不可能であろう。田光はそう見ていた。
「殿下、御言葉ながら今の秦は」
「それはわかっております」
 丹はそれに対して反論した。
「ですが何としても防がなければなりません。あの秦王を除かなければならないのです」
「秦王をですか」
「はい」
 丹は答えた。その目には炎が宿っていた。
「む」
 田光はその炎に気付いた。それは憎悪に燃える炎であった。
(これはまずいかも知れぬ)
 その憎悪の炎を見て思った。それは極めて危険な光であった。
 今彼はあきらかに私怨で語っていた。その炎が何よりの証拠である。 
 そうとなれば彼は決して諦めまい。ましてや今その私怨に気付いていない。彼はあくまで自分が国の為に動いていると確信しているのだ。
(これも運命か)
 彼は内心大きく息を吐いた。
(それでは仕方ない)
 諦めた。諦観を胸に抱きそれから丹に語った。



 
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