口では言っても
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2部分:第二章
第二章
「それが最大の害毒であります。そもそもです」
ルターの教養がここで出された。
「あの忌まわしき異教徒達」
「異教徒達というと」
「あの」
「サラセンの者達です」
彼等が忌み嫌うイスラム教徒達だ。彼等はキリスト教徒の中ではまさに悪魔そのものだった。悪魔とは一つではないのであった。
「あの者達は酒は飲みません」
「そうなのか」
「そうらしいぞ」
こう言い合うのだった。話を聞く者達はイスラムについて知っている者は案外少なかったのである。知らずして彼等を批判しているのであった。
「どうやらな」
「ううむ。それはまた生意気な」
「背徳の異教徒達の分際で」
そしてこうも言うのであった。実はイスラムの方が文明は進んでいたり血を流れるのを好まなかったりしたのだがそれも知られていないのだった。
「そうしたことは守っているのですか」
「何か釈然としないものがありますな」
「だからです」
ルターの言葉は続く。
「彼等ですらしていることなのです」
「酒に溺れないことですか」
「そう、ビールに」
あえてビールという名前を出した。
「ビールをです。飲まないのです」
「飲まないのですか、そもそも」
「忌まわしいと思われますか?」
話を聞く者達に対して問うルターだった。
「このことは」
「言われてみれば」
「口惜しいことです」
この流れはルターの読み通りだった。彼等にしてみれば蔑んでいるイスラム教徒達がそうしたことを律儀なまでに守っているのは。実に忌まわしいことであった。
「では。おわかりですね」
「はい、それは」
「わかりました」
「そうです。流石に一滴も飲むなとは言いませんが」
ルターは何故かここで舌鋒を緩ませた。何故かであるが、
「ですが。それでもです」
「慎むべきだと仰るのですね」
「そうです」
彼が言うのはこのことだった。
「ビールの害毒を知ってるからこそ」
「だからなのですね」
「知られることです」
きっと顔をあげて一同に告げるルターだった。
「ビールの害毒について。だからこそ私はここで申し上げるのです」
「ビールの害毒を」
「その通りです。何度も申し上げましょう」
言葉がさらに厳しいものになる。ルターに対しては後世ではとかく厳格極まりないというイメージがあるがこれはこの時代でも同じだったのだ。
「ビールは悪魔です」
またこのことを言うのであった。
「悪魔に溺れてはなりません」
「全くです」
「嘆かわしい」
彼の信奉者達は心からその言葉に頷くのであった。こうして彼の何時間にも及んだビールの害毒への講義は終わった。そしてそれが終わると彼は自宅に帰った。
「あなた、おかえりなさい」
「うん」
講義の時のあの厳しい顔が一瞬で消えていた。自分をあなたと呼ぶその女性の出迎えを受けて質素な家に満面の笑顔で入るのであった。
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