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1部分:第一章
第一章
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ネロはこの時だ。非常に嘆き悲しんでいた。
己の席でだ。まだ若い皇帝はこう周囲に言った。
「私は残念に思う」
「今回のことですか」
「死刑のことですか」
「この者の罪状は聞いた」
彼の机の上には今一枚のサインすべき事柄があった。それはだ。
死刑執行の了承を求めるものだった。それが机の上にあったのだ。
皇帝としてそれにサインをしなければならなかった。既に判決は出ているからだ。
これも皇帝の務めだ。しかしそのことに対してだ。
ネロはだ。深い嘆きと共に言ったのである。
「しかし私がサインをすればだ」
「はい、この死刑囚は死刑に処されます」
「そうなります」
「つまり私はこの者の命を奪いだ」
そしてだというのだ。
「この者は死ぬ。だからだ」
「サインはですか」
「それたくない」
「だから残念だというのですか」
「その通りだ。私は恨めしい」
こうも言うのだった。
「文字を覚えたことがだ」
こう言って己の巻き毛の豊かな金髪を掻きむしる。そのうえで頭を掻きむしった両手で頭を抱え込んだ。そしてそのうえでまた言うのだった。
「文字の何と恨めしいことか」
「ですが皇帝」
「このことはもう決まりましたし」
「死刑の執行は既にです」
「ですから」
「サインをしなければならないのだな」
ネロは顔を上げて周囲に問うた。その苦い顔で。
「必ず」
「さもないと政務が滞ります」
「政務はこれだけではありません」
「ですからここはです」
「どうか」
「わかっているのだ」
サインをしなければならない、そのことはだ。ネロも愚かではなかった。
確かに母の力によるものだがそれでもネロは決して愚かではない。むしろ聡明な部分も持っている。政務もこれまで滞りなく行っている。それ故にだ。
サインをしなければならないことは承知していた。だがそれでもだったのだ。
「しかしだ。この者が死ぬとなるとだ」
「文字を覚えたこともですか」
「恨めしいですか」
「実にな。文字とは呪われたものだ」
遂には文字そのものへの呪詛すら口にした。
「こうしたものがこの世にあるとは」
しかしこうは言ってもネロは皇帝だ。皇帝ならば政務を怠ってはならない。それでだった。
彼はサインをした。こうして一人の死刑囚が処刑された。その報告はネロの耳にも届いた。
それから数日だ。ネロは塞ぎ込んでいた。政務は怠ってはいなかった。
だがそれでもだ。その日常生活はだ。
暗く沈みだ。食も細くなっていた。好きな薔薇を見る目も暗い。そのネロを見てだ。
傍に仕える者達も元老院議員の者達もだ。眉を顰めさせて囁き合った。
「やはりな。あの処刑がな」
「皇帝にとっては衝撃だったのだろう」
「文字は人を殺すもの」
「そのことをお知りになられたのだから」
こうだ。あのサインのことを話すのだった。
「仕方のないことだがな」
「だが。皇帝は感受性の強い方だ」
ネロの性格の特徴だ。彼は繊細で感受性が強い。それは芸術を好む趣味にもなっていたがそれと共にだ。彼をやや躁鬱のきらいにも導いていたのだ。
彼等もそのことを知っているからだ。ネロを心から心配して囁くのだった。
「このままではな」
「今は大丈夫でも政務に滞りが出るぞ」
「危ういな、このままでは」
「皇帝だけでなくローマ自体が」
「ローマとて安泰ではないのだ」
確かに栄えている。しかしだった。
「ユダヤの者達の反乱はくすぶり続けている」
「ゲルマニアの地の野蛮人達もいる」
「パルティアも厄介だぞ」
ローマにも外敵はいた。特にパルティアだった。東の彼等の存在はローマを常に悩ましていた。
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