白犬と黒猫
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6部分:第六章
第六章
沖田はその刀、菊一文字を手にしてだ。何とか起き上がりだ。
黒猫に向かいだ。斬ろうとした。
だが構えたところでだ。彼は。
血を吐いてしまった。激しい咳と共に血を幾度も吐き出す。口も着物も血に汚れだ。庭で片膝をつきそのうえでだ。悔しい声で言うのだった。
「駄目だ」
「あの、一体」
女が沖田の横に来た。それで彼を気遣い問うた。
「どうされたのですか?」
「斬れないんだ」
「斬れないとは」
「この猫が斬れないんだ」
黒猫を見てだ。それで言う沖田だった。
「俺にはもう」
「あの、御身体に」
「この身体のせいで」
苦い涙が出た。どうしても。
片膝をつき血を吐きながらも手には刀がある。それでもだった。
最早今の沖田にはだ。それはできなかった。そのことが今よくわかったのだ。
それでだ。こう女に言うのだった。
「もうこれで」
「これで?」
「終わりだから」
それでだというのだ。
「休むよ」
「はい、そうされるといいかと」
女は事情を察しないまま沖田に話した。
「御身体に無理が祟ります」
「因果なことだ」
沖田は泣きながら。斬れる時は決してそうはならなかったが今はそうしながら。言うのだった。
「病にかかり。そうして黒猫を見るなんて」
「黒猫。そういえば」
もうその猫は何処かに行ってしまっていた。姿は見えない。
それを見てだ。女は言うのだった。
「何処かに行ってしまいましたね」
「ああいう猫だ」
「あの黒猫を御存知なのですか」
「少しな」
何故知っているかは言わない彼だった。だがそれでもだった。
彼もまた黒猫を見たのだった。そしてそれがもたらすものもだ。受け入れるしかないこともわかったのである。
だが彼はだ。その数日後、死の間際に風呂に入り身奇麗にしてからだ。布団の中で庭に出て来たそれを見たのである。
今度出て来たのは。犬だった。
その犬を見てだ。彼は言った。
「よかった」
「よかったとは?」
また彼の横にいる女が彼に問うた。
「何かあったのですか?」
「ほら、あそこに」
最早手も動かせない。首を動かすだけで一杯だった。
その顔で庭を見てだ。女に話すのだった。
「犬がいるね」
「あっ、確かに」
そこには実際に犬がいた。白い犬がだ。
「何処から来たのでしょうか」
「そうか。最期は」
沖田はこのうえなく優しい微笑みで言うのだった。
「安らかに死ねるのだな」
「安らかにですか」
「それがよかった」
また言う彼だった。
「わしは幸せ者だ」
「幸せでしたか」
「新撰組にいて」
彼の全てだったと言える。その組のことも言い。
「近藤さんや土方さんとずっと一緒だった」
「あの方々ともですね」
「近藤さんは今どうしておられるかな」
沖田はずっとここにいて彼がどうなったのか知らない。近藤勇は既に捕らえられ首を斬られている。心から慕う彼が武士としては屈辱的な最期を遂げたことを知らないのもまた幸いだった。
「戦っておられるかな」
「そうだと思います」
「そうだね。ならいいね」
沖田は微笑みそれをいいとした。
「あの人も土方さんも」
「戦っておられます」
「最期まで一緒にいられなかったのは残念だけれど」
それでもだというのだ。
「わしは幸せだった」
「では。その幸せのまま」
「少し寝るよ」
顔を天井にやって。穏やか顔で言った。
「それじゃあね」
「はい、それでは」
こうしてだった。彼は。
静かに目を閉じてそのうえでだ。眠ったのだった。庭には白犬がいてだ。それで彼を見取ったのだった。
沖田総司が黒猫を恐れており死の間際に斬ろうとした話は知られている。だが白犬の話は知られていない。しかし彼はその白犬を見て安らかに死んだ。この知られていない事実をここに書き残しておくことにする。沖田総司の安らかな死に顔と共に。
白犬と黒猫 完
2011・7・5
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