超人
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
4部分:第四章
第四章
彼は何も喋らず目も開かない。ただ時だけが過ぎていく。
それで二日が過ぎた。そして三日目の朝にだ。
不意にだった。
「・・・・・・ワ」
「!?」
「今口が」
二人の医師が最初に気付いた。
「口が動いた」
「まさか」
「はい、確かに動きました」
妹もだ。それがわかった。
「今。兄の口が」
「そして言葉を」
「言いましたね」
「ええ、間違いなく」
「ワーグナー」
そしてだった。彼は言ったのだった。
「ワーグナー、やはり私は」
「ワーグナー」
「あの音楽家か」
二人の医師もそれが誰かわかった。この時代のドイツを代表する音楽家である。その音楽はまさに圧倒的であり巨人と言っていい存在だ。
その彼の名を聞いてだ。妹も言った。
「兄は当初ワーグナーに心酔していました」
「そうですね」
壮年の医師が応えた。
「ですがそれは」
「そうです。やがて憎しみに変わりました」
そうだったというのだ。彼とワーグナーの関係は。
「最後にはペストとまで言いました」
「ペストですか」
若い医師はそれを聞いて顔を顰めさせた。そのうえでの言葉だった。
「それはまた」
「きついというのだな」
「はい、幾ら何でもペストとは」
若い医師はこう壮年の医師にも返した。
「あんまりなのでは」
「そうだな。それはな」
壮年の医師もそれは否定しなかった。
「だが。裏を返せばだ」
「それだけ、ということですか」
「そう、愛していたのだ」
愛が憎悪になった。そういうことなのだ。
「ワーグナーを。その音楽を」
「そこまでだったのですか」
「そう、愛していたのだ」
そうだったというのだ。そしてだ。
妹もだ。兄のその言葉を聞いてだった。
「兄さん、あの人とは別れたのじゃ」
「私は。やはり」
だが、だった。兄は言うのだった。目を閉じたまま言葉だけを出していく。
「貴方が」
「あの人が」
「貴方の音楽も全てを愛したい」
そうだというのである。
「だから。これからは」
「これからは」
「貴方を。貴方の全てをもう一度・・・・・・」
ここまで言ってだった。言葉を止めた。そして息もだ。
それを見てだ。二人の医師は顔を見合わせあった。そしてだ。
頷き合いそしてだ。若い医師が彼の脈を見た。それからこう彼女に話した。
「ご臨終です」
「そうですか」
「しかし。今のは」
「はい、聞きました」
彼女はこう医師達に答えた。
「兄は確かに」
「最後に取り戻しましたね」
「その心を」
「それは。幸せなことです」
妹は兄を見ながら微笑んでいた。
「長い間の苦しみから解き放たれ。最後に」
「そうですね。本当に」
「この方にとっては」
「今まで有り難うございました」
彼女は今度は医師達に対して礼を述べた。
「兄を。どうも」
「いえ、それは」
「お気遣いなく」
二人はそれはいいとしたのだった。そうしてこの最後に己を取り戻した彼を葬るのだった。それで全てが終わったのであった。
フリードリヒ=ニーチェは死んだ。しかしその最後に彼がどうなったのか、何を話したのかは誰も知らない。その見ていたものもだ。だが彼はそこに何かを見ていたのだろう。それを知る術はないが知っている者はいた。それは確かなことでありこの世を去った彼への最後の幸せだった。
超人 完
2010・10・31
ページ上へ戻る