小松原源五郎教授の書斎
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3部分:第三章
第三章
「なあ」
教授は自宅で一杯やりながらちずるに声をかけてきた。
「何でしょうか」
ちずるは酒の肴を出しながらそれに応えてきた。肴は豆腐である。ここ京都ではとかく豆腐が知られている。湯豆腐はとりわけ有名であり南禅寺の湯豆腐は名物にさえなっている。
「誰も御前のことはわからないみたいだな」
「それは当然ですよ」
ちずるは笑ってこう返してきた。
「だって外見は他の人と変わらないでしょう?」
「うん」
その通りである。どっからどう見ても普通の人間だ。
「本当のことは。私と教授しかわかりませんよ」
「そうだな」
「けれど。一つだけ気をつけて下さい」
「一つだけ?」
「そうです。本のことです」
ちずるは真顔になって豆腐を差し出した。そこに醤油をうっすらとかけて食べる。あっさりとした食べ方だ。
「本か」
「教授が本を開くと私は消えてしまいます」
「うん」
「そして閉じると出て来ます。これは教授が何処にいても変わりません」
「では昼はまずいな」
「そうです。買い物の時なんかに本を開かれたら」
「買った物だけ置いてどろんか」
「そうです。料理を作っている時なんかはもっとまずいですよ」
「それは困ったなあ」
「ですから。気をつけて欲しいんです」
「つまり昼は用心してくれということだな」
「そういうことです」
ちずるは言った。
「夕方なら大丈夫でしょうか」
「まあ夕方はな」
教授は少し考えた後で述べた。
「講義も殆どないしな」
「それじゃあその時に買い物をして」
「いや、待てよ」
だが教授はここで気付いた。
「それじゃあ私はろくすっぽ本を読めなくなるぞ」
「どういうことですか?」
「いや、御前と会った時を思い出してくれ」
教授は言った。
「あの時は夕方だったな」
「はい」
「私は本を読んでいた」
「はっきりと覚えていますよ」
「だからだ。私はいつも夕方も何時でも本を読んでいたんだよ」
それが今までの教授の生活だった。寝ても覚めても本ばかりだったのだ。
「何時だってね」
「それで何と」
「だから。夕方とかは読めなくなるんだよな」
「そうなりますね」
ちずるはあっけらかんとした声で返してきた。
「それが何か?」
「それは困ったことだ。私が本を読む時間がなくなるんだ」
教授は心から困ったといった顔になってしまっていた。酒を飲みながら苦り果てた顔になっていた。
「どうしようか。弱ったなあ」
「教授」
だがちずるはそんな彼に対してここで言った。
「何だい?」
「本が一番大事なんですか?」
「本が」
「そうです。私はその本の世界から出て来たから言いますけれど」
彼女は本当に真剣な顔になっていた。ここまで真面目な顔のちずるは教授もはじめて見た程であった。そこまで真剣な顔であったのだ。
「本が一番大事なんですか?教授にとっては」
「そう言われると」
困った顔になった。
「確かに今まではそうだったよ」
まずはこう答えた。
「けれど」
「けれど?」
「今はね」
彼は述べた。
「それだけじゃない」
「それじゃあ」
「うん。何て言うかな」
ちずるに目をやって静かな声で述べる。
「僕はね、今まで女性と付き合ったことがないんだ」
まずは自分の身の上を語った。
「ずっとね。この歳になるまで本当になかったんだ」
「左様ですか」
「本ばかり読んでいたよ、本当に」
元々そうした学者の家に生まれた。そしてその言葉通り本当に本ばかり読んでいたのだ。物心ついた頃から来る日も来る日も。本を開かない日はなかった。
目が覚めれば本を読み、それから目を閉じて眠るまで本を読んできた。ずっとそうやって暮らしてきた。この三十年もの間ずっとそうやって暮らしてきた。それで三十で教授にまでなった。本が全てなのは本当だった。
「いつもね」
「それは知っておりますよ」
ちずるは教授の言葉の後でそう言った。
「だから私も教授の側へ来られたんですから」
「私が本ばかり読んでいたからかい?」
「はい」
彼女は言った。
「教授は。もう私と同じでしたから」
「本の世界の住人とか」
「そうです。けれどその本の世界の女が尋ねますよ」
「うん」
「教授は。今も本が一番大事なんですか?」
真顔で問う。
「他には大事なものは。ないのですか?」
「じゃあ言うよ」
教授も意を決した。まずはぐいと一杯飲む。
ちずるはそこに注ぐ。それを受けてからまた口を開く。
「今は違うよ」
「違う」
「うん。確かに今だって本は大事さ」
彼はまた言った。酒は飲んではいるが酔ってはいない。
「けれど。一番大事じゃない」
「すると一番大事なのは」
「わかってると思うけれど」
そう言ってちずるを見やる。
「その本が巡り合わせてくれた女だよ」
「それでは」
「本当にこれも何かの縁なんだろう」
教授はここでまた一杯飲んだ。
「御前と会ったのも。まずは巡り合わせてくれた本に一杯」
「おっと」
また酒を注ぐ。それを一杯飲むとまた酒が注がれる。
「そして今度は」
「私に一杯」
「一番大事なね」
今度の一杯は飲まない。そこにちずるの顔を映してきた。
「有り難うございます」
「けれどそう言わないと怒ったところなんだろう?」
「実家に帰らせてもらおうと思ってました」
「それは困るな」
「ですよね。それじゃあ」
「一杯やるかい?」
「いえ、私は」
断った。どうやら酒は好きではないらしい。
「それじゃあ」
教授はちずるを飲みながら一杯やった。それは今までの酒と比べて比較にならない程美味く感じた。そしてその訳も自分でわかっていた。
教授の家庭は実に円満なものだったという。それまで本しか知らなかった教授は家庭人としては実に穏やかでよき夫、優しき父であった。そうなった理由は当然あった。ちずるは何時までもそんな彼の側にいて優しく、美しい笑みをたたえていたという。大正の時代の慎ましやかな話であった。
小松原源五郎教授の書斎 完
2006・5・15
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