裂かれた札
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1部分:第一章
第一章
裂かれた札
江戸時代のはじめの頃のことだ。丁度将軍が三代の徳川家光になった頃だ。京の都から江戸に下ってきた仁八という優男がいた。
肌は白く目は切れ長で唇は小さく赤く至って優しい顔をしている。身体つきも細く一見すれば女にも見える。髷がなければまことに女にも見える顔立ちである。
その彼が江戸に来てまず入ったのは蕎麦屋だった。腹が減ってそれを頼んだのだ。
「江戸は蕎麦屋が多いみたいだね」
屋台のその店に入って親父にそれを問う。
「ここに入るまでにもう何軒も見ているよ」
「まあ最近多くなっていやすね」
屋台の親父も笑ってそれを認めてきた。
「確かに」
「しかしそれにしても」
「何でしょうか」
「いや、蕎麦はいいとしてね」
ここで話を変えた仁八であった。
「女の子も可愛いのが多いね」
「最近やっとですよ」
親父は蕎麦を出しながら仁八に答えた。
「この前まで町にいるっていったら野郎ばかりで」
「そうだったのかい」
「いやいや、むさ苦しいの何のって」
これは本当のことだ。江戸は急激に拡大し人手をあちこちから集めた。その人手というのは人夫であり言うまでもなく男だ。それで江戸は男ばかり多かったのだ。
「最近になってやっとですねえ。本当に」
「ふうん。そうだったのか」
「で、蕎麦ですけれど」
「あっ、うん」
親父に合わせて蕎麦を見る。見事なざるそばである。
「つゆを少しだけつけて噛まずに一気にやるんですよ」
「一気にかい」
「そう、飲み込む」
実際に蕎麦を操る動きを手で作りながら仁八に教える。
「飲み込むんですよ。いいですね」
「わかったよ。それじゃあね」
「はい。じゃあそういう食べ方で」
「頂くよ」
箸を取って親父に言われるままの食べ方で蕎麦を食べた。それは京の蕎麦とは全く違い何処か不思議な感じがした。しかし美味いことは確かであった。
その蕎麦の美味さを味わった後で町を歩いて用事を済ませた。その帰りにふと道の占い師に声をかけられたのだ。小さな机を出してその前に座っている行者の格好をした中年の男であった。京にもよくいるようなそんな占い師であった。
「待たれよ」
彼は仁八が自分の横を通ると彼に声をかけてきた。
「そこの御仁」
「それは私のことでしょうか」
「左様、御主だ」
行者は何か武士の様な物言いで彼に声をかけてきた。かなり大袈裟な調子である。
「そこの御主、話を聞くのだ」
「聞けと言われれば聞きますが何用で?」
「率直に言う」
行者はまた言葉を出してきた。有無を言わせぬ様子だ。
「御主、災いに遭うぞ」
「災いに?」
「御主の連れている者が化け物に殺される」
不意に訳のわからないことを言ってきた。少なくとも仁八にはそう思えるものだった。
「化け物に!?連れが!?」
「その通りだ。このままではな」
「それはまたおかしいことで。私は一人ですよ」
笑ってそれを否定した。
「それでどうして連れが殺されるなどと」
「わしには見えるのだ。これはまことだ」
しかし彼は言う。
「御主の連れがな。それでだ」
「それで?」
「金は要らん。これを持っていけ」
こう言って仁八に何かを出して来た。それは人型の白い小さな紙であった。腹のところに何やら黒い墨で書かれているがあまりにも独特な文字なので仁八には読めなかった。
「これをな。そうすれば難を逃れられる」
「左様ですか。お金は要らないと」
「こんなものの一枚どうということはない。それに」
「それに?」
「金を払えと言えば要らぬというであろう」
行者はそう読んでいたのだ。
「違うか?それは」
「いえ、その通りです」
彼自身それを認める。上方はそうしたところは江戸よりせちがらいのである。
「それに関しては嘘は申しません」
「だからだ。そのまま持って行くのだ」
こう言って渡すのだった。
「よいな。これで助かる」
「助かりますか」
「安心せよ。それではな」
「はあ」
何が何なのかわからないままその人型の札を受け取った。そのうえでその日は宿に泊まり翌日京に帰ろうというところで一人の旅の女と道が同じになったのだった。
「今日にですか」
「はい、帰ります」
その女の名前をお淀という。背が高く眉がすらりとしており目元が実に涼しげだ。器量よしと言ってもいい。旅姿でありそれで京まで戻るというのである。何でも江戸にいる親戚の店に手伝いに出ておりそれが終わったというのだ。
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