夜なき蕎麦
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3部分:第三章
第三章
しかし闇夜の中に見えるものはない。そのことに首を傾げているとだった。
「火がないと蕎麦は打てぬ」
「茹でることもできぬ」
今度はこんな声が聞こえてきたのであった。
「火を消した奴は誰だ」
「誰だ、誰だ」
声は次第に正芳に近付いてきた。それはわかった。
しかし姿は見えない。そのことを奇怪に思っているとだった。何時しか彼の周りに蓑か何かを来たような小さい者達が現れたのである。
「懲らしめよ懲らしめよ」
「よくも火を消してくれたな」
「何だこの者共は」
それを見てすぐに化け物と察した。化け物ならば容赦する必要はないと左にある刀にその手をかけようとしたその時であった。
不意に目の前に白無垢の女が出て来た。顔は角隠しが前にもかかってあり見えはしない。実に奇怪な女が出て来たのであった。
「一番怖い奴を連れて来た」
「怖がれ怖がれ」
周りの小人達がここでまた言う。彼等は相変わらず正芳の周囲を跳ねて回っている手足が曲がり頭の毛がないことも見えていた。しかし彼は今はそれよりも目の前にいるその白無垢の女を見据えていた。
「名乗れるか?」
「怖いもの」
女はこう返してきた。声は何処かで聞いたものだった。
「この世で最も怖いもの」
「この世でと申すのか」
「そう」
「怖い怖い」
「この上なく怖いぞ」
またしても小人達が騒いできた。
「怖すぎて小便をちびるでないぞ」
「どれだけ怖くてもな」
「馬鹿を言え」
正芳はそんな彼等の言葉をまずは一蹴した。
「わしに怖いものなぞあるものか」
「では見るのだ」
「その怖いものを」
だが小人達はまた彼に言う。
「どれだけ怖いのか」
「さあ、見るのだ」
その言葉に続くように女は角隠しに手をやってきた。そうしてそれをゆっくりと上にあげるのであった。
するとそこから出て来た女は。彼はそれを見て思わず叫んでしまった。
「う、うわああああああああああっ!」
まるで断末魔の様な悲鳴をあげて思わず逃げ去ってしまった。何処をどう走り回ったのか全く覚えていないが気付いた時には家の門の前までいたのであった。
「あら、お帰りですか」
「う、うむ」
彼は青くなった顔でおこわの出迎えを受けた。
「結構お早いお帰りでしたね」
「少しな」
その顔でおこわの問いに答える。
「それで何がありましたか?」
「いや、何も」
何があったのかは言うことができずなかったことにしたのだった。
「何もなかった」
「そうですか。何もですか」
「平和なものだった」
そのうえでこういうことにしてしまったのであった。自分がそう言えばそれで話が済むと判断したからである。そして実際にその通りであった。
「いつもの江戸だ」
「左様ですか。何も変わりなくですか」
「そうだ。ところでだ」
ここで彼はふとおこわに言うのであった。家の中に入りながら。灯りは目が慣れてきていたので全く必要がなかった。おこわも灯りは持って来ていない。節約しているのだろう。
「今度墓参りに行くか」
「お墓参りにですか」
「そうだ。父上が亡くなられて十年、母上が亡くなられて八年になる」
彼の両親のことである。
「少し行ってみたくなったのでな」
「ですがお墓参りなら毎年しているではありませんか」
おこわは怪訝な顔になって夫に返した。
「それでまた急にどうして」
「まあその気になったのだ」
ここでも真相を隠す正芳だった。この時自分だけがあの白無垢の女の顔を見ていたことに心から感謝さえしていた。何に感謝しているのかは自分でもよくわからないが。
「だからだ。いいな」
「あなたがそう仰るのならいいですけれど」
おこわもそれに特に反対はしなかった。静かに頷くだけであった。
「それでは今度にでも」
「うむ。そうするか」
(しかしだ)
おこわと共に家にあがりながら思うのであった。
(あれには驚いた。いや、怖かった)
あの屋台でのことを一人思い出して考えていた。
(母上の顔があったとはな。もう母上がおられなくなって随分と経つというのに)
彼のその母のことを思うのであった。極めて厳しく彼にとっては何時までも怖い人物であった。今でも怒られることを夢に見る程である。
(まだ怖いというのか。わしもまだまだ母上から離れられぬな)
こんなことを考えながら家の中に入っていく。江戸きっての武芸者と言っていい彼にしても怖いものはあるというのであった。
この夜なき蕎麦の屋台は本所七不思議の一つとされている。実際に灯りを消したなら怪異があるだの消した者に災厄が降りかかるだの言われている。しかしその怪異や災厄が何なのかは誰も知らない。しかしこの彼はこうした目に遭った。これを怪異、災厄の類と言うのならそうなるだろう。今もこの屋台は東京にあるのかどうかはわからない。しかし若し中に入ったならば用心すべきであろう。冬の寒い夜には温かい蕎麦やうどんは何よりの馳走であるからだ。馳走に誘われてそれで怖い思いをするというのも馬鹿らしい話であるからだ。
夜なき蕎麦 完
2009・9・12
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