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メフィストの杖~願叶師・鈴野夜雄弥

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第三話
  Ⅳ


 その日、角谷は一人家にいた。
 何の遣る気も出ない。食事さえ億劫だった。
 そんな中、ふと喫茶店でのことを思い出し、店員の言っていた“メフィストの杖"が気になった。
「いや…あれは私を馬鹿にして揶揄っただけだ…。」
 そう否定してはみたものの、角谷はパソコンを立ち上げてネット検索してみると、そこにはそれらしい情報が数多くあった。
 その中の一つを彼がクリックすると、どうやらオカルトを科学的知見から解明しようとしているサイトらしく、様々な噂の出所やその真実などが詳しく書かれている。
「なんだ…やっぱり…」
 そう呟いた時、彼は“メフィストの杖"を見付けた。
「…え?」
 それを読むや、角谷は眉を顰めた。そこにはこう書かれていたのだ。

- これは飽くまで都市伝説の類いなのだが、その出所も、いつ頃から語られ始めたのかも分かってはいない。明治から大正にかけて同種の言い伝えはあるが、それとも符合しない。昭和初期には、場所や時間などは決まっていなかったと考えられ、大戦後に現在の形になったと思われる。しかし、とある喫茶店のある席で、深夜零時まで待つと言うのは、私にはどうも腑に落ちない。今後も調査する予定だ。 -

「まさか…。」
 その記事を読み、彼は静かに呟いた。そして…こう思った。

- あの店員は…何かを知っているのでは…? -

 そう思うや、彼は上着を羽織って直ぐ様家を出たのだった。

 時は夕刻。角谷は雑踏の中を歩いてあの喫茶店へと向かった。
 紅に染まりゆく街並みには、会社帰りのサラリーマンやOL、これから夜を過ごそうと語り合うカップル、それに買い物をする親子連れなど、実に様々な人々がランダムに通り過ぎて行く。
 角谷はふと、自分はその中でどう見えているのかと考え…そして止めた。それは無意味なことだと思い、そんな自分を嘲笑したのだった。
 暫くあるいてとある角を曲がると、その路地は静かだった。本通りより店が少なく、基本は小さな古本屋に花屋など、この時間にはあまり客層がない店が幾つかあるだけなのだ。
 そしてまた暫くあるいて角を曲がると、そこに見知った店が見えた。
 喫茶バロックだ。
 近くまで来てみると、店内から何やら音が洩れており、角谷は今日が金曜であったことを思い出した。
 定期演奏会の日だったのだ。
「あぁ…そうだったな…。」
 そう呟き、彼は何の感慨もなく扉を開いて中へ入った。
「いらっしゃい…ませ…。」
 言葉が尻窄みになったのはメフィストだ。彼は角谷が…と言うよりも、その風貌の変化に驚いた。
 角谷は暫く店には来なかったが、さして長くはない。そんな少しの間にかなり痩せていたのだ。今の角谷を六十歳だと紹介しても、恐らく誰も疑わないだろう。
「あ…と、お席へご案内致します…。」
 メフィストはどうにか気を持ち直し、角谷を空いている席へと入れようと思ったのだが、彼はメフィストの案内を無視して“あの席"へと座ってしまったのだった。

- こりゃ…。 -

 メフィストは眉を顰め、浅く溜め息を洩らした。それは大崎も気付いてはいたが、それを構っていられるほど暇ではない。無論、小野田も天手古舞な情況である。この日、安原兄弟は来てないのだ。前回、注文ミスとレジミスを連発したため、釘宮が丁重に断りを入れたのだ…。
 さて、店内の光景はステージ上からも良く見えていた。
「まぁ君…。」
「分かってる…。」
 二人はそう言うや、やはり浅く溜め息を洩らした。

- 始まる -

 それが分かったのだ。
 その日、外部から二人の演奏者が招かれていた。一人はガンバ奏者の小林和巳、もう一人はトラヴェルソ奏者の鈴木雄一郎だ。
 この二人は、以前に招いた縁田の紹介であり、やはり藤崎京之介の関係者だった。
「では始めに、バッハの名作“ゴルトベルク変奏曲"のアリアを、フルートとヴァイオリン、ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロによるアレンジでお聴き下さい。」
 釘宮がそう言うと、店内は急に静かになった。そして客たちは耳を澄まし、音楽が奏でられるのを待っている。
 “ゴルトベルク変奏曲"はアリアと、その低音部を主題とした30の変奏から成っている大作だ。その主題たるアリアを演奏するのだから、これから始まる事柄を暗示させずにはいられない。
 このアリアだが、元は「アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳」に“サラバンド"として記入されていたが、その美しさは正に“アリア"と呼ぶに相応しい。ト長調の素朴な響きの中に、どこかしら夕の終わりを感じさせる。
 本来なら甘く薫る響きだが、角谷にとっては物悲しく響いていた。それは、このアリアが終曲としてリピートされる楽曲だからかも知れない。
 プログラムは恙無く進行し、アンコールを三曲演奏する位には好評だった。
「鈴木さん、小林さん。今日は本当に有難う御座いました。」
 演奏終了後、釘宮は事務所で二人を持て成していた。そこには普段はないテーブルが置かれ、その上に料理やデザートが乗せられている。飲み物は無論、アルコールではあるが。
「いやぁ、釘宮君は京の演奏に似ているねぇ。それでか、今日はとても楽しかったよ。旧友と演奏しているようだったから。」
「全く、雄一郎の言う通りだ。私も大いに楽しませてもらったよ。」
 二人は上機嫌だ。どうやら釘宮のことを気に入った様子だ。
「そう言って頂けて、私も嬉しい限りです。」
 釘宮は畏まってそう答えつつ、二人へとワインを勧めた。勧められるまま二人はグラスを傾けたが、ふと小林が釘宮へと不思議そうに問い掛けた。
「そう言えば…一人、ずっと深刻そうな顔をしていた客人が居たねぇ。」
「えっ…?」
 釘宮はもう少しで表情に出そうになったが、どうにかそれを隠して返す。
「そうでしたか。ですがここは喫茶店ですので、やはり様々なお客様がいらっしゃいます。私達は、そうしたお客様に一時でも安らげる店にしたい…そう思っております。」
 釘宮の言葉に、二人は成る程と言った風に頷き合ったのだった。
 夜も更け、釘宮が小林と鈴木の二人をホテルへと送って戻ると、既に時は十一時を疾うに回っていた。
「あ、オーナー。お帰りなさい。」
「大崎君、帰ってなかったのかい?」
「まぁ…片付け終んなくて。」
 大崎が苦笑しつつそう答えると、釘宮も苦笑で返す他なかった。未だホールには洗い物が残っている様で、鈴野夜が一人で片付けている。
「小野田さんは?」
「上がらせました。一応メフィストに送らせましたから。」
「そうか。ま、雄君に任せると大変だろうからな…。」
 そう半眼で釘宮が言うと、大崎は再び苦笑した。小野田の鈴野夜への想いは、未だに健在なのだ。
「あ、帰ってたんだ。」
 そこへ鈴野夜が入ってきた。
「…何?」
 釘宮と大崎に何だか睨まれているような気がしたため、鈴野夜は眉をピクつかせて言った。
「いや…何でもない。それで、片付けは終りそうか?」
「ああ、このカート分で終りだよ。大して無いから、夕飯食べてからやっておくから。まぁ君はもう休んで良いよ。どうせ精算も終わってるんでしょ?」
 鈴野夜が珍しく自分から仕事をすると言う。
 だが、釘宮も大崎も驚かなかった。
 彼はこう言ったのだ。

- この後は私の仕事。だから君達は休みたまえ。 -

 そのため、釘宮も大崎もそのまま厨房から出ていったのだった。
 二人がいないことを確かめると、鈴野夜は店内を回って施錠を確認てから夕食を取り、そしてホールの明かりを消した。
 尤も、彼にしてみれば明かりなぞ無くとも充分見える。そうして後、彼は徐にチェンバロに手を掛けて物悲しい曲を奏した。
「ラモーの“エンハーモニック"ですか…。」
「よくご存知ですね。」
 そう言って演奏を止めると、鈴野夜は声の主へと問い掛けた。
「貴方は、誰に会いに来たのですか?」
 そう問われた人物は、間を置かずに答えた。
「“メフィストの杖"に会いに来ました。」
 すると、周囲に蒼白い焔が広がり、それまであった闇を切り裂いた。
 その人物…角谷はそれに驚愕したが、それよりもチェンバロを演奏していた人物を見て驚いてしまった。
「貴方は…!?」
 角谷はてっきり鈴野夜…先程までいた背の高い店員が演奏していると思っていたのだ。
 いや…強ち間違いではない。そうではないが、そこにいた人物の風貌が違っていたのだ。
「私はロレ。貴殿方は私を“メフィストの杖"と呼んでいますね。」
 そう言うや、彼はチェンバロの前から角谷へと歩み寄った。角谷に近付く彼は、金色の髪をした紳士だった。顔は鈴野夜そっくりの外人…何がどうなっているのか角谷には理解出来なかった。
「さて、貴方の願いは何ですか?」
 角谷の目の前まで来ると、ロレは静かにそう問った。その問いにフッと我に返ると、角谷は懇願するようにロレへと言った。
「妻と息子が、どうして死ななくてはならなかったのかが知りたい。」
「知ってどうする?死せる者はもう戻らない。」
「分かってる…分かっているんだ。ただ、金や権力に殺されたのなら…」
「そうだとしたら?」
 ロレは目を細めてそう返すと、角谷はロレを見上げて怒りを露にこう言った。
「彼らに報いを…!」
 その言葉には狂気が混じっていた。ただ憎いと言うだけでなく、ある種の呪いに近しいものだった。
 そんな角谷が、ロレは憐れでならなかった。
「承知した。お前の願い、叶えよう。これは契約だ。」
 ロレがそう言うと、角谷は顔を伏せて返した。
「だが、私には貴方に支払える財はない…。一体何を代価にすれば…。」
「では、これを頂こう。」
 ロレがそう言って角谷に見せたものは、一本の古ぼけたブロックフレーテ…リコーダーだった。それはメープル材で作られたもので美しく装飾が施してあるが、さして値打ちのあるものではない。
「それは…妻のリコーダー…。しかし…それで良いのか?それは妻が練習用に使っていたものだ。代価であれば、もっと高価なものも…。」
 角谷は不思議そうに問う。
 確かに、彼女のコレクションには黄楊やローズウッドなど、高価なものや歴史的価値の高いものもあった。
 だがそんな角谷に、ロレはこう答えた。
「これは君と彼女が出会った時に使用していたものだ。これには金銭の価値は無くとも、記憶という価値がある。」
 そう言われた角谷は、淋しそうな笑みを見せて返した。
「…分かった。」
「契約は成立だ。」
 ロレがそう言い放つと、途端に角谷の意識は遠退き、深い闇の安らぎへとその意識を落としていったのだった。



 
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