猟師と虎の仙人
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猟師と虎の仙人
猟師と虎の仙人
中国には虎の話が多い。古来よりこの国では虎にまつわる話が多いがこれは虎が特別な存在だからである。中国においては虎は獣の中で最も位が高い。四霊獣の中に白虎がいるのもその一つの例である。
そうした高貴な存在であるが人を襲い、食らうのも事実だ。だからこそ人々は虎をより特別な存在とみなす。小説等において虎を退治する豪傑の話が多いのもその為である。
虎は霊力を持つことが多いともされる。中には仙人になる者もいる。仙人になるのは人間だけではないのである。これはそうした仙人となった虎の話である。
唐代のことである。唐といっても三〇〇年程続いているのだがこの時は所謂中唐と呼ばれる時代である。最盛期を過ぎ、やや落ち着いたというか翳りもある、そうした時代であった。
各地には節度使というそれぞれの地域の軍事と政治を統括する存在がおり、彼等の勢力が強かった。唐の歴史を変えた安の乱を起こした安録山も節度使であった。唐は事実上彼等の分割統治状態にあった。
そうした中の今で言う山東省、斉の国の話である。猟師の稽という男がいた。
弓の腕前が立ち、そこでは名のある男であった。とりわけ鹿を捕らえるのが上手く『鹿狩の稽』とまで呼ばれていた。
その稽がある時一匹の毛並みのよい大きな鹿を見つけた。彼はそれを見て思わず声をあげた。
「これはいい鹿だ」
鹿狩の名にかけても捕らえたかった。早速弓を手に鹿を追った。
だが鹿の脚というのは速い。しかも森や山に強い。彼はそれでも慣れた動きで鹿を追った。
逃しはしない、そう考えていた。冷静に鹿を追い、山の中を進んだ。
鹿は追われているのに気付いている。だからこそ必死に逃げる。だが稽も生活がかかっている。双方共必死であった。
森の中は深かった。緑の草木の他は何も見えない。だが稽はそれでも鹿を見据えて深い緑の中を進んで行った。やがてかなり前に古い小さな堂が見えてきた。
「堂か」
稽はそれを見てふと呟いた。この山には何度か入ったことがある。だがこんな堂は見たことがなかった。
「ここにあんなものがあったのか」
心当たりはない。今はじめて見る。もう一度見てもやはりはじめて見る堂であった。
鹿がその中に入った。稽はそれを見て堂の中に進む気になった。そして中に進んだ。
中は真っ暗闇であった。何も見えない。鹿は何処かへ行ったのかと思った。中は狭いがやはり鹿は何処にもいなかった。
「誰じゃ」
ここでその奥から声がしてきた。老人の声であった。
「わしの家に来たのは」
「家!?」
稽はそれを聞いて声をあげた。
「そう、家じゃ」
次第に目が慣れてきた。そしてそこに一人の老人が見えてきた。質素な服を着ている。
「貴方は」
「わしか?」
老人は問われてふと声をあげた。
「わしは仙人じゃ。昔からこの山に住んでおる」
「仙人様ですか」
「左様」
彼はそう答えて頷いた。
「ここはわしの家なのじゃ。夜露を凌ぐの。さて」
ここで仙人は口調を少し変えた。
「今度はわしが問う番じゃ。お主は一体どうしてここに来たのじゃ?」
「はい」
稽は問われて答えはじめた。
「鹿を追ってここに来ました」
「鹿を」
「はい。ここに逃げ込んだのですが」
「ふむ。先程の鹿じゃな」
「はい。御存知なのですか?」
「如何にも」
仙人は答えた。
「何故ならわしが今食したからのう」
「鹿をですか!?」
稽はそれを聞いて驚きの声をあげた。仙人が殺生を禁じられているのは彼でも知っていることである。
「そうじゃ。何かおかしいか?」
だが仙人はそれには全く動じてはいなかった。
「あの、しかし」
「お主の言いたいことはわかっておる」
彼はここで落ち着いてそう答えた。
「確かに仙人は殺生は禁じられておる」
「はい」
「しかしそれは人間の仙人であった場合じゃ」
「と言いますと」
「仙人にも色々あってのう。人からなるものと獣や草木等からなるものがおるのじゃ」
「そうだったのですか」
稽はこれについては知らなかった。仙人は人がなるものとばかり思っていたのだ。
「では貴方様は」
「うむ、わしは元々人ではない」
彼は答えた。
「わしは虎から仙人になったのじゃ。全ての虎の食いものを指定する仕事をしている。この世の虎の食べるものも量もあらかじめ決められておる」
「そうだったのですか」
「そしてわしはそれを決める仕事をしておる。それはここに記されておる」
そう言って一冊の書を取り出した。
「ここに全ての虎の食べるものが記されておるのじゃ。無論わしのものもな」
「はあ、それははじめて知りました」
稽はそれを聞いて感嘆したように言葉を漏らした。
「では我々のものもそうなのですね」
「その通り」
彼はまた答えた。
「人間のものはまた別に指定されておる。詳しい内容は管轄が違うのでわしは知らぬがな」
「はい」
「少なくともあの鹿はわしが食べるものでありお主が食べるものではなかったということじゃ。これでわかったかのう」
「わかりました、有り難うございます」
彼はそう答えた。
「わかってくれればよい。ところで」
「はい」
虎の仙人は質問を変えた。
「お主の名は何というのか」
「私の名ですか」
「そうじゃ。わしも自分のことを教えた。今度はお主の番じゃ」
「それでしたら」
彼はそれを受けて話はいzめた。
「私の名は稽胡。ここで猟師をしておるます」
「稽胡とな」
「はい」
「ふうむ」
彼はそれを聞いて何やら思うところがあったのか書を開いた。そしてその中を見た。
「すまんのう」
そして急に彼に謝った。
「どうしたのですか!?」
「いや、実はな」
「はい」
「お主はわしの食べる中に入っておるのじゃ」
「えっ!?」
稽はそれを聞いて思わず声をあげた。
「今何と」
突然のことなので流石に言葉を失っていた。
「いや、本当じゃ。ここに名がある」
そう言って指で指し示しながら見せる。だが稽は字が読めない。
「おっと、すまん」
彼はそれを見て謝った。
「だが本当なのじゃ。虎は人間を食べるからな。その逆もあるが」
「何と・・・・・・」
最早呆然とするしかなかった。何も言えなかった。
「ではそこに大人しくするがよい」
仙人は彼に対してそう言った。
「噛んだりはせぬ。丸呑みじゃ。仙人じゃからそれで済むからのう」
「しかし・・・・・・」
「悪く思うな。これも運命じゃ」
「私はまだ死ぬわけにはいかないのですが」
「どうしてじゃ?」
仙人は動きを止めて問うた。
「家にはまだ家族がいるのです」
「家族が」
「はい。年老いた両親が。二人共私がいないとどうなるか」
「それは困るのう。じゃが運命は運命じゃ」
「そこを何とか」
稽は頼み込んだ。
「して欲しいか」
「はい」
彼は仙人にそう答えた。
「わかった。では何とかしよう」
「方法があるのですか」
「うむ。ないことはない。じゃが」
仙人はここで難しい顔をした。
「ちと値が張るぞ。よいか」
「値がですか」
「ぞうじゃ。まずは絹を一匹」
「あります」
たまたま獲物と交換でもらってきたものであった。
「豚の血を三斗」
「あります。隣が豚を養殖しておりますので」
「おお、そうか。それはいい」
仙人はそれを聞いて満足そうに笑った。
「この二つが揃えば後は一つだけじゃ。それはこの二つより揃えるのがずっと楽じゃ」
「何でしょうか」
「藁人形じゃ。お主の背丈程のな。それは簡単じゃろ」
「はい」
稽は答えた。
「家の裏に行けば幾らでも」
「よしよし」
仙人はまた満足そうに頷いた。
「お主は運がよい。そうそう揃えられるものではないぞ」
「はい」
「あとは藁人形にお主の服を着せるだけじゃ」
「わかりました」
「明日お主の家に行く。よいな」
「私の家にですか」
「そうじゃ」
仙人は答えた。
「血を三斗に絹を一匹、そしてお主程の大きさの藁人形。とても一人でここまで持っては来れまい」
「はあ」
その通りであった。ここに来るまでも結構辛かったのだ。そんなものを持ってここまで来られる筈もなかった。
「じゃからわしが行こう。よいな」
「わかりました。しかし」
「場所がわからぬかと聞きたいのじゃな」
「はい」
流石は仙人であった。稽が何を話すのか事前にわかっていた。
「それは心配無用、わしは仙人じゃ」
彼は答えた。
「お主の家が何処にあるのか容易にわかる。それにそこまでもすぐ行ける」
「そうなのですか」
「うむ。だから心配無用、お主は家で今わしが言ったものを揃えるだけでよい」
「わかりました」
稽は頷いた。
「では行け。よいな、明日じゃぞ」
「はい」
こうして稽は仙人に言われた三つのものを家に帰るとすぐに揃えた。そして次の日を待った。
次の日の朝家の扉を叩く音がした。
「まさか」
彼はすぐに扉を開けた。するとそこに昨日の仙人が立っていた。
「あ、お早うございます」
「うん、、お早う」
彼は挨拶を返した。
「ところで準備はできておるか」
「あ、はい」
稽はその問いに答えた。
「もう出来ております」
そう言って彼を家の裏に案内した。丁度大きな木の下であった。
見れば血がたたえられた樽と絹、そして服を着せられた藁人形がある。彼はそれを見て満足そうに頷いた。
「よいぞ、よいぞ」
そして稽に顔を向けた。
「お主は素直な男じゃのう」
「そうでしょうか」
「うむ。絹も血も人形も本物じゃ。もしこれが一つでも偽りであったならばわしはお主をこの場で一呑みに平らげておった頃じゃ」
「一呑みですか」
「うむ。一口でな」
彼は笑いながらそう語った。
「じゃがどれも本物、ならば問題はない」
「はあ」
仙人は遠目で全てを見抜いていた。それから稽に語った。
「それでははじめるか」
「何をですか」
「お主の身代わりの儀式じゃ。まずは絹を持ってあの木の上に登れ」
「わかりました」
彼は言われるがまま上に登った。そして下を見下ろして仙人に問うた。
「これからどうするのでしょうか」
「次はその絹で身体を縛れ」
彼はそう命じた。
「強くな、木から落ちぬように」
「わかりました」
彼は頷いて言われるまま自身の身体を木にしっかりと縛りつけた。
「これでよろしいでしょうか」
「うむ、それでよい」
仙人は上を見上げてそう答えた。
「では次はわしじゃな」
彼はそう言うと右手を上げた。すると樽と人形が動き木の下に飛んだ。そして樽と人形がそこに置かれた。
「これでよし」
「はい」
「ではな」
仙人はここで一旦姿を隠した。そして暫くして一匹の大きな白虎が姿を現わした。それが誰であるか言うまでもない。
虎は木の下まで来ると稽を見上げた。そして吠え掛かる。
「ひっ」
稽はそれを見て思わず声をあげた。やはり怖かった。
だが虎はここまでは来れない。ただ吠えているだけである。
跳び上がり襲い掛かろうとするがやはり届くものではない。それがわかると虎は稽を諦めたのか顔を下に向けた。そして藁人形に目を向ける。
その人形を前足で跳ね飛ばすと樽に近付いた。そして豚の血を飲みはじめた。
ゴクッ、ゴクッ、と音を立てて飲む。血はすぐになくなった。
虎は血を飲み干すと満足した顔でそこから去った。暫くして仙人が戻って来た。
「おい」
彼は木の上を見上げて稽に声をかけた。
「はい」
「もう済んだぞ、降りて来るがよい」
「わかりました」
彼は頷いて絹を解き下に降りて来た。そして仙人の前に来た。
「これで終わりじゃ。お主の命は助かった」
「有り難うございます」
彼は頭を垂れて礼を言った。だが仙人はそれを見て思わず苦笑した。
「礼はよい」
「何故ですか」
「わしはお主を食べようとしたのじゃぞ。礼を言われる義理はない」
「そうでしょうか」
「うむ。ただわしはお主の身代わりを頂いただけじゃ。そしてそれで満足した」
腹をさすりながらそう答えた。
「実は人間はあまり好きではないしの。知り合いの仙人にも多いし骨が多くて固い。お世辞にも食べて美味いものではないのじゃ」
「そうなのですか」
「うむ、少なくともわしはそう思っておる」
そう答えた。
「むしろ豚の方がよい。わしも満足しておる」
「はあ」
「豚の血は美味い。堪能させてもらったぞ」
彼は満足していた。
「ところでお主のことじゃ」
「はい」
稽はここで思わず顔を引き締めさせた。
「これでお主は助かったのじゃ。ほれ」
帳簿を見せる。だがやはり彼はは字が読めないのだ。
「読めずともここにはもうお主の名はない。よいか」
「はあ」
「だから安心せい。もうお主は食われることはなくなった。これから末永く暮らし、親を大切にするがよいぞ」
「わかりました」
彼は明るい顔でそう答えた。それから彼はさらに猟師として名をあげた。そして末永く親、そして家族と共に幸せに暮らしたという。
虎の食べ物 完
2005・1・17
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