毒婦
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4部分:第四章
第四章
「この屋敷に一晩泊まりたいのじゃな」
「はい」
源介は静かに答えた。
「御許しさえあれば」
「よいぞ」
女は笑いながら述べた。
「この管姫困っている者の願いを邪険にはせぬ」
「左様ですか」
「そうじゃ。だから入るがいい。遠慮はいらんぞ」
「有り難うございます」
源介はとりあえずは礼を述べた。まずは屋敷の中に入ることができた。だがその中は。異形の匂いに満ちていたのであった。妖かしとは剣を交えたことのない彼にもそれはわかった。
「よくぞおいで下さいました」
先を案内する男が広い廊下を進みながら彼に声をかけてきた。
「ここに来られるとは運がいい」
「それがしもまさかこの様な場所にこれ程の屋敷があるとは」
「意外でござるか」
「はい」
その言葉に頷いた。見ればその案内役からも妖しい気配が立ち込めている。
「管姫様でございましたな」
「ええ」
「武田の姫様であられますか?」
「武田ですか」
その名を聞いたところで男の口調が微妙に変わった。
「御冗談を」
「といいますと」
その口調の変化が嘲笑によるものであることを彼は見抜いていた。主の家を嘲られ不快なものを感じずにはいられなかったがそれは隠していた。
「我が姫様はあの様な馬の骨ではありませぬ」
「武田をしてですか」
「はい。姫様は古い家の方」
「ほお」
この言葉から源介は管姫もまた尋常ならざる世界の者であるとわかった。甲斐源氏以来長き渡って甲斐を治めてきた武田家は室町幕府が力を持っていた頃から、いやそれより前の鎌倉幕府の頃から一目置かれる存在であった。名門と呼ばれるに相応しい家であった。その格式は駿河と遠江を領有し将軍の継承権まで持つ今川をしても侮れないものがあった。それ程までに格式が高いとされていたのだ。その武田をそこまで言えること、それに加えて屋敷の中に満ちる妖気もあった。そうしたことから彼は管姫もまた人ならざる者だと看破したのであった。
「武田ではまだまだです」
「そうなのですか」
「我等は長い間国を求めていました」
彼はこうも述べた。
「その国こそがここです。今は力を蓄えているだけです」
「そうなのですか」
ここで源介は自分はすぐにでも命を狙われるということもわかった。この様な会話を平気で話すからには。口封じは必ず行われると読んでいたのだ。そしてその読みは当たることになる。
「まあ今日はゆうるりとお休み下さい」
男はここで源介を一室に案内した。
「こちらで。後で食事を持って参りますので」
「かたじけない。それでは」
「はい」
こうして彼は部屋に案内され一人となった。部屋の中は畳が敷かれ襖で囲まれた何の変哲もない部屋であった。むしろ品がある程である。だがそこもまた妖気に満ちていた。源介はその中に座るとこれからのことについて思案を巡らしはじめたのであった。
「まずは中に入ることができた」
最初の関門は潜り抜けた。
「だが」
それで終わりというわけにはいかない。むしろ大事なのはこれからであった。
「次は食事か」
おおよそどんな食事が出て来るのか予想はついていた。どういった料理が出るのかは問題ではなかった。ここで彼が予想していたのはその中にあるものである。それがあるのは間違いないとさえ思っていた。
「これに関しては」
もう考えがあった。それを実行に移そうとしたところで襖の向こうから声がしてきた。
「もし」
「はい」
中年の女の声であった。何処か嫌らしい響きがあった。
「食事を持って参りました」
「左様ですか」
「はい、どうぞ」
そして女中が食卓を持って入って来た。見れば声から思ったように嫌らしい雰囲気の中年の女であった。まるで何かを企んでいるような。そうした物腰であった。
「こちらです」
「ふむ」
見れば白い米に漬物、そして魚と野菜であった。中々いい食事であった。
「どうぞ召し上がれ」
「それでは」
橋を取り数口入れる。だがそれだけで食事を終えた。
「あら、もうですか」
「どうも腹が減っておりませんので」
苦笑いを作ってこう述べた。
「もう結構です」
「そうですか。ではこれで」
「済みませぬな」
「いえいえ、それならば仕方ありませんから」
片付ける女中の目が一瞬だが鋭く光った。彼はそれを見逃さなかった。
「では後で酒でも」
「すみませんな。ところで」
「はい」
ここで女中に声をかけた。
「厠は何処ですかな」
「それでしいたら廊下を出まして」
女中から厠の場所を聞く。それを聞くとすぐにそこへ向かった。
そしてその中で今しがた食べた僅かなものも吐き出した。念の為である。
「これで食事は抜けた」
食事には間違いなく毒が入っていた。女中の目の光がそれを教えていた。
だが。それで終わりではないのも女中の目は教えていたのだ。
「酒だな、次は」
酒を持って来ると言っていた。それに毒があるか何があるか。それが問題であった。
部屋に戻って暫くすると酒と肴が運ばれてきた。用意がいいことだと思った。
「なくなりましたら持って来ますので」
「なくなったらですか」
「はい。何でしたら一度に持って来ましょうか?」
「いや、それには及びませぬ」
この言葉から酒には毒はないことを読み取った。これを飲んで死ぬというのならかわりを持って来ることはないからだ。そして源介は。酒にはすこぶる強かった。彼はここでこの屋敷の異形の者達を試してやろうとさえ思った。
「ではなくなりましたら呼びますので」
「はい」
そして一人で濁った酒を飲みはじめた。それは案外美味いものであった。
「ふむ」
いい酒だと思った。肴はなくとも酒だけを飲める程である。瞬く間に飲んでしまった。
「成程な」
一つ飲み終えたところで彼等が何を狙っているのかわかった。
「飲ませるつもりか」
そして酔い潰れたところを。それで納得がいった。
「だが相手が悪いな」
源介は杯を持ったまま不敵に笑った。
「私を酒で潰すことは出来ぬ」
そう呟くと酒のかわりを頼んだ。
「もう一つお願いします」
「はいな」
すぐに徳利が運ばれてきた。それもすぐに飲み干す。三つ目の徳利も飲み干したところで酒を持って来る女が変わった。来たのはあの女であった。
「姫様」
「うむ」
管姫は表面上はにこやかな笑みを浮かべて部屋に入って来た。その手には徳利がある。
「酒をな。持って参った」
「姫様がですか」
「何か不都合でもあるかな」
「いえ」
表面ではそう答えてはいたが内面では違っていた。遂に元締めが来たと心の中で身構えていたのである。
「まさかと思いましたので」
「わらわも酒は嗜むぞ」
姫は妖しく笑ってこう述べた。誘う笑みであった。
「じゃがらそちも」
「既にかなり飲んでおりますが」
「もっとじゃ」
源介の杯にすかさず注いできた。
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